アラン・ムーア『Providence』#1 “The Yellow Sign”

 

Providence #1 (English Edition)

Providence #1 (English Edition)

 

 どうせ翻訳されるだろう、とは思っているものの、完結してから結構経って段々と気になってきたので自分で読むことにした。まずは第1話。

 

話としては、ニューヨーク・ヘラルドに勤めているロバート・ブラックという記者が、読んだものが次々と発狂するという“Sous le Monde” という本について調べるため、それについてエッセイを書いたとある人物を訪ねるというもの。

 

現在の出来事とは別に回想もあるけど、シナリオはほぼ上記に尽きるので、元ネタのことを知ってないと何が面白いのかわからないと思う。

 

“Sous le Monde”は仏語で、英語にすると“Under the World”となるが、これは実際に作中で言及されているように、ロバート・W・チェンバースの短編集『黄衣の王』に登場する架空の戯曲「黄衣の王」のことで、ラヴクラフトも影響されたことで有名である。

 

もっとも、作中では『黄衣の王』は“Sous le Monde”に関する実話を元ネタにして書かれた小説だという設定がなされている。

 

他にも、Yellowにかけてか、イエロージャーナリズムの話題があって、ウィリアム・ランドルフ・ハーストにも言及している。あと、小ネタだと、ジャージーの悪魔についても話題があったり。

 

そして、何よりも必須なのがラヴクラフトの短編「冷気」を読んでいること。

 

取材対象の「エッセイを書いたとある人物」というのが、要するに「冷気」のムニョス先生なのである。名前は変えてあるけど、これは間違いない。なので「冷気」を読んでいないと、この話の肝は全然わからない。

 

オチには「あんたら、、、そういう関係だったのか」という、とてもアラン・ムーアっぽい意地の悪い解釈が差し挟まれる

 

作中時間が1919年であるということが示されてるけど(引っ掛けでなければ)、これってラヴクラフトの諸作で設定されている年代から若干過去に当たるよね。つまり、これからラヴクラフトの諸作を読んだ人なら知っている、数々の「事件」が起きる前に遭遇していくことになるってことですよね。

 

あとラヴクラフトはこの時点では未婚なので、どういう状況で出てくるのかな。作中で結婚する時期まで行きつくのかそれとも……。

 

そういえばロバート・ブラックって、ラヴクラフトと親交のあったロバート・ブロックから取っているのか、もしかして。

 

第2話は「レッド・フックの恐怖」が元ネタらしい。ラヴクラフトの中では比較的言及されない短編だけど、NYで苦しんだ御大の人種差別主義が前面に出た作品で、探偵小説の趣も強い、個人的には関心の高い作品なので楽しみ。

ジョン・カーペンター『ザ・フォッグ』

ザ・フォッグ

The Fog

1980年 アメリカ 89分

監督:ジョン・カーペンター

 

 

の誕生100周年記念祭に沸き立つ小さな港町アントニオ・ベイ。だが、突如現れた濃霧が街を覆い、それに呼応するように、殺害直後にもかかわらず遺体が腐敗するという謎の殺人事件が発生する。

 

期の作品で、ショットの強度に拘っている節がある。大体の映画監督は初期ほど照明とかに拘る気はするけど。冒頭、短すぎず長すぎない一定のリズムで刻まれるカッティングで、夜中の街の風景が音楽的に配置される。カタカタ揺れるミラー。落ちる給油機。ライトがつく自動車の群れ。ガソリンスタンド。霧とともに怪奇現象が忍び寄って来る! グッとくる海の撮影多し。二点透視的な、あまり見ないような奥の出し方をするショットがいくつか。画面の半分を潰して狭い奥を見せるショットが多いなー。カーペンターは奥を見せるのがうまいと思ったけど、その半分は手前を作るのがうまいおかげなんだろうね。でも非アクションのカーペンターでそこは不満点。ひとつの街が舞台として出てきて、そこに住む人々の群像劇になっているんだけど、街の個々のスポットの距離感がいまいちわからないし、出した人物も消化不良気味。

 

 

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フリッツ・ラング『スカーレット・ストリート』

スカーレット・ストリート

Scarlet Street

1945年 アメリカ 102分

監督:フリッツ・ラング

 

 

行で真面目に勤め上げてきた冴えない中年サラリーマンのクリス・クロスは、暴漢に襲われている美女キティ・マーチを助ける。女優を自称するキティに魅了されたクリスは、とっさに自分が金持ちの画家だと嘘をついてしまう。実はキティは娼婦で、暴漢に襲われているというのも、ヒモのジョニーと揉めていただけだった。クリスのことを聞いたジョニーはクリスから金を毟ることを考え付く。5年前に未亡人アデルと結婚したクリスだったが、前夫を偶像化するアデルには趣味の絵も認めてもらえず悪夢のような結婚生活を送っている。このような背景があり、キティはまんまとクリスに高級なアトリエを借りさせ、自分を囲わせることに成功する。そのためにアデルの生命保険だけではなく会社の金さえ使いこんでしまうクリスだったが、一方で偶然にもクリスの絵が批評家に見出されたことを好機と捉えたジョニーはキティを新人画家として売り出してしまう。これを見たアデルは夫のことをまったく評価していないので、クリスがキティの絵を盗作しているのだと思い込み彼を激しく非難する。訳の分からないままキティを問い詰めたクリスは、なにぶん根が善良なので、お金に困ったので絵を売ってしまったというキティの嘘を信じ込み、むしろ自分の絵が高く評価されたことを喜び、キティ名義のまま個展まで開催されても幸せそうである。そしてアデルの前夫ヒギンズが実は生きており、彼に強請られたのでアデルが貯め込んでいるヒギンズの生命保険を盗み出すようにそそのかして夜中に家に引き入れ、強引にアデルと引き合わせる。晴れてアデルとの結婚生活から解放され、キティと結婚できると思い込んだクリスだったが、アトリエには愛し合うキティとジョニーの姿があった。ひと悶着あったものの一縷の望みをかけて求婚するクリスだが、そこにはキティの容赦ない罵倒が向けられ、これには善良なクリスもたまらずキティをアイスピックで滅多刺しにする。犯人はジョニーということになり、自分を騙していた悪女も始末できて万々歳かと思いきや、なにぶん根が善良なのでクリスはそのことを気に病むのだった。

響の映画と言ってもいいほど、音を中心にして映画が組み立てられている。ラングといえばドアの作家だが、本作でも実に多くのドアがバタンと閉められ、多くのドアがノックされ、多くのドアが二重に開け放たれている。ドアがバタンと閉められれば、クリスを演じるエドワード・G・ロビンソンが拒絶されたことが分かる。音そのものが拒絶の強さを教えてくれるのだ。そして、ジョニーとキティの関係がクリスにバレてはいけないこの映画において、不意の訪問者を告げるノック音はそれだけで見る者を宙づりにするサスペンスだ。また、悪妻アデルが夫をなじるときのキンキンとした耳障りな声。これこそが家庭の悪夢である。反復の多い映画でもあり、くりかえされる死者の幻聴という中心的なモチーフは序盤から執拗にその尻尾を見せつづける。誰もが指摘するであろうレコードの針飛びは、序盤に何気なく表れたあと、ラジオのノイズという別の小道具で反復され、いよいよクリスが愛する二人を発見する際には「LOVE,LOVE,LOVE,LOVE...」と意味深な歌詞を反復させる。このときクリスは決定的に壊れてしまい、二人が死んだあとも、ネオンの点滅とともにセリフが反復されることになるのだが、このように超常的な演出よりもずっと恐ろしいのがキティ演じるジョーン・ベネットの笑い声とも泣き声ともつかないあの声だ。騙されていたことを知ってもなお求婚してくるクリスを前にしてジョーン・ベネットは枕に突っ伏して、そんな彼を笑うのだが、クリスはそれを泣いているのだと勘違いする。しかし実際にその声は、笑い声のようにも聞こえるし、泣き声のようにも聞こえる。もちろん笑い声のようにしか聞こえない人もいるだろうし、泣き声のようにしか聞こえない人もいるだろう。このような曖昧さのなかに、日常から悪夢へと滑り落ちる瞬間があるのだと思う。エドワード・G・ロビンソンに投げつけられる罵倒の数々はまぎれもない現実だが、あまりに容赦がないので当人にとっては現実のようには見えない。そして、よりにもよってそんな修羅場でアイスピックが床に落ちてしまうことに感動するのは、アデルに拒絶され、ドアをバタンと閉められたとき、手にしたナイフが落ちたことを覚えているからだし、二人の情事を見たそのショックで鞄を落としてしまったことを覚えているからだ。ナイフとは違い、そのアイスピックは拾われ、使われることになるだろう。

 

 

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アントワーン・フークア『イコライザー2』

イコライザー

The Equalizer 2

2018年 アメリカ 121分

監督:アントワーン・フークア

 

シードライバーとして日々を過ごす元CIAの凄腕エージェントのロバート・マッコールは過去と決別し、夜な夜な悪を裁き、人助けをして、第二の生を謳歌していたが、旧友のスーザン・プラマーが担当した事件が不穏な展開を見せる。その事件の裏で関わっていたのは、過去の自分の同僚たちだったのだ。

ームセンターの仕事を辞めて、タクシードライバーになった様子のマッコールさんが、オープンワールドゲームのサブクエストを消化していくかのごとく悪人を裁いていくパートが全体のかなりを占める。フークアの出世作『トレーニングデイ』のように、自動車を自分の事務所として使うデンゼル・ワシントンと、その周囲にいる市井の人々が散文的に描き出されていくのだが、同時に悪や暴力が身近なものとして普遍的に存在していることも描写される。それを「イコライザー」であるデンゼル・ワシントンは圧倒的な暴力によって制裁するのだが、全くもって容赦がなく、しかも生殺与奪を完全に握って、自由な裁量を振るっている。あるときは改心の痛みか、肉体の痛みかのいずれかを選択させ、あるときは選択の余地なく肉体を痛めつける。現代の世相に反して、強い信念をもって行動し、他人の世話を焼きまくるマッコールさんはある意味で悪役よりもよほど観客から距離の遠い人間に見える。後半はハリケーンの接近と共にじりじりと盛り上がり、過去の同僚たちとの凄惨な殺し合いが行われる。無人のゴーストタウンでの決闘という西部劇的なシチュエーションを作るため、ハリケーンを用意するというのは強引でいいなと思った。ラストバトルが『ペイルライダー』ばりの恐怖・スラッシャー映画的な演出になるのは同様なのだが、前作とは異なりギャグ要素が削ぎ落されているため複雑さは減衰しているように思った。その代わり、湿っぽさは強まっている。なにせ「政府に捨てられたキリングマシーン」という共通点を持った人間たちが、かたや殺し屋として活動し、かたや世直しヒーローとして悪を裁いているのだ。「この世に善も悪もない」と語る悪役はとても人間くさく、言ってしまえば小市民的である。仕事は選べない。このことは学校をサボって麻薬売買をして、ギャング団に片足を突っ込んでいる黒人の若者とのエピソードでさらに補強されている。生活のために人は容易に魂を売り渡し、シニズムを口にするが、ロバート・マッコールはそのような落とし穴にははまらないのだ。しかし、何も知らない家族を背景にして「お前ら全員を殺す」と宣言したり、決戦の地であるゴーストタウンに殺された旧友の写真を貼ったりするマッコールさんが本当に病んでいないのか、気にかかるところではある。なお、ラストシーンは非常にマイケル・マン的な一枚画だった。

 


映画『イコライザー2』本編アクションシーン

 

 

 

スティーブ・ベック『ゴーストシップ』

ゴーストシップ

Ghost Ship

2002年 アメリカ オーストラリア 91分

監督:スティーブ・ベック

 

 

西暦1962年5月、アメリカへ向けて出航したイタリアの豪華客船アントニア・グラーザ号が突如消息を絶った。それから40年後、海難救助や船のサルベージ等を請け負っているアークティック・ウォリアー号のクルー達は、謎の飛行機乗りからベーリング海沖を漂流している謎の大型船を回収する話を持ちかけられる。その謎の大型船こそアントニア・グラーザ号だった。現地に急行したクルー達は様々な怪奇現象に襲われ、探索の中止さえ考えたが、大量の金塊を見つけたことでそれを持ち帰る決心を固めた。しかし、金塊を持ち出そうとしたところで不可解な事故に見舞われてしまう。


材はB級だが、予算には余裕があるようで、アントニア・グラーザ号の幽霊船ぶりは美術と照明によって存分に表現されている。特に大ホールは、暗い極彩色におおわれた美術の数々が、どこからか差し込んでくる光や、水面を反射してゆらゆらと揺れる影と交錯し、ゴージャスな光景になっている。弾痕から噴出してくる血でいっぱいになるプール。ガラスの檻に入れられ、浮遊する水死体。侵入者を誘惑するグラマーな黒人歌手の亡霊。まず間違いなく、怪奇映画を見たという実感は得られる映画だ。また、クレジット含めまるでロマコメか音楽映画かのようにはじまった冒頭を、大殺戮によって裏切るゴアシーンは出色の出来栄え。製作はロバート・ゼメキスジョエル・シルバーが共同設立したダークキャッスル・エンタテインメントで、あのジャウム・コレット=セラが『蝋人形の館』、『エスター』、『アンノウン』を撮った出身地でもある。子役時代のエミリー・ブラウニングが女の子の幽霊。他にも、こぎれいな役を貰えるようになる前のカール・アーバンもいる。ものすごい爆発はあるし、ショットガンで吹っ飛んだ人間をスローモーションで捉えるカットもあるし、もちろんクラシックホラーは志向されているが、一方で海難アクション×女主人公映画という同時代的な要素も感じる。メタルもかかる。

 

 

ゴーストシップ (字幕版)

ゴーストシップ (字幕版)

 

 

J・G・バラード『ミレニアム・ピープル』読書会

千年紀の民 (海外文学セレクション)

千年紀の民 (海外文学セレクション)

2018年8月25日大阪某所で行われたSf・海外文学読書会第3回J・G・バラード『ミレニアム・ピープル』の模様を、主にわたしの記憶による再現でまとめてみました。参加者は9名。主な構成員は20〜30代の男性です。

完全に匿名化した状態でテキストに起こしてみましたが、この発言はなかったことにしてほしいという方はtwitterのclementia1960というアカウントまでご一報ください。それはちょっと違う、というものも同様にどうぞ。


※ネタバレあり

  • 『ミレニアム・ピープル』というタイトルの割に、あまり新世紀要素を感じなかった。
    • 2001年の9.11同時多発テロの影響で書かれた長編なので、新しい世紀について書くという意気込みがあったのではないか。
    • 解説でも触れられているように、こことは違う別の場所に理想郷を見出すユートピア思想(文学)と、〈いま、ここ〉に理想郷を築こうとする千年王国の思想の差を意識をしたのではないか。
  • では「ミレニアム・ピープル/千年紀の民」とは誰のことを指しているのか?
    • (下記引用参照)動機のない無差別殺人者。むしろリチャード・グールドはそれに意味づけをしようとした点からも、旧世紀の民なのではないか。

「彼なりの絶望的でサイコパス的な形ではあるが 、リチャード ・グールドの動機は尊敬すべきものだった。もっとも意味のない時代に意味を見出そうとしたのだ。彼は存在の専横と時空の暴虐に頭を下げることを拒絶した最初の新しい絶望者であり、もっとも無意味な行為こそが、その独自のゲ ームで宇宙に異議申立てできると信じていた。グールドはそのゲームに破れ、世界を再聖別する試みとして残虐な犯罪を遂行した、学校の校庭や図書館の建物の無差別殺人者たちという、新たなはみだし者たちと交代しなければならなかった」第三十五章「影のない太陽」

  • ケイとグールドの違い。
    • ケイは中産階級の地位向上という目的意識があったが、グールドはそれを隠れ蓑にして無意味な行為にこそ意味を見出していた。
    • デイヴィットはヒースロー空港の事件からずっとグールド側に惹かれているのだが、どっちつかずではっきりとしない。
    • ケイもデイヴィットも、みんなあっさりと日常に戻って来る。バラードの初期作品では世界の破滅は不可逆的な出来事だったが、『ミレニアム・ピープル』はそうではない。ハレとケのように、日常と非日常を行き来し、またそれが繰り返される予感がある。
    • 序盤、抗議運動一般をデヴィットはレジャー的なものとして批判的に見ていた(下記参照)が、ケイたちはレジャー的なものへの抗議活動をしているつもりだった(実際、レンタルビデオ店やナショナル・フィルム・シアターを襲撃した)。そこにグールドが深みを与えようとしたが、最終的にはレジャー的なものとしての抗議活動が勝ったのでは。
    • 中産階級の地位向上という目的も達している。

「抗議運動は、正気なものも正気でないものも 、賢明なものもばかげたものも 、ロンドンの生活のほとんどあらゆる側面に影響をあたえた。それはもっと意味のある世界を切実に必要とする人々の心のはけ口となるデモンストレーションの広大な網の目だった。人間の活動で、抗議活動家の標的とならないものはほとんどなかった」第五章「オリンピア展示場での対決」

  • 9.11にはイスラムアメリカという理解しやすいお題目があった。そこから、このような小説が生まれたのは不思議に思う。
    • だから動機のない無差別殺人者、といっても犯人にはそれなりの動機があるだろう。むしろ、個別の動機というのはいくらでも交換可能なもので、それが本質的に無意味なものだと。
    • なんだか『虐殺器官』ぽい話だ。
  • 中産階級という割にハイクラスの人間が多く、ケイの主張には正直賛同できるところがあまりなかった。しかし、イギリスには貴族・資産家階級が絶対的なものとしてあって、そのような社会では弁護士や医師のような階級も中産階級という自覚を持つのではないか。
    • 働かないと食べていけない、ローンで家を買う、リストラの危機に怯えている、などという点では中産階級なのだろう。
  • デイヴィットとグールドの関係が謎めいている。単なるカリスマと信者という関係には見えない。
    • デイヴィットはグールドが好き。かなり直接的に「好き」と言っている。
    • カリスマと主人公が異性の組み合わせになる『楽園への疾走』では性的に惹かれ合っている。
    • 伊藤計劃虐殺器官』のジョン・ポールとシェパードの関係に似ている。
      • そう考えると『ミレニアム・ピープル』は上手くいっているのではないか。『虐殺器官』ではガジェットの説明という観点も強く、グールドほどジョン・ポールのキャラや魅力は立っていなかった。
  • なぜグールドは内務大臣を狙おうとしたのか。政府の人間を狙ってしまうと強烈に意味づけされてしまい、無意味なテロと整合性がつかないのでは。
    • デイヴィットを誘い出すためなのでは。
  • デイヴィットがグールドを殺すのかと思ったら、デクスターが殺した。
    • デクスター怖いよね……
  • デイヴィットの周囲の人が優しい
    • 周りからすると精神を病んで変な活動にはまってしまったように見えたのではないか。数か月の出来事だし。
    • テレビにも出ているし茂木健一郎のような立ち位置の人物なのでは。
    • 舞台を日本に、主役を茂木健一郎に変えたやつが読みたい。作者は木下古栗で。
  • 晩年のバラードは、カリスマに主人公がオルグされかかり、ある種の共犯関係を結ぶという展開が非常に多い。また、「安全で清潔に管理された郊外では、暴力を伴う犯罪行為が唯一の出口となる」というテーマが何度も繰り返される。この定型(特に前者)を伊藤計劃は『虐殺器官』や『ハーモニー』で踏襲している。
  • 伊藤計劃『ハーモニー』の元ネタっぽい文章がある。

「大ボスなど存在しない。このシステムは自動制御なのだ。われわれの市民としての責任感に依存している」第十三章「神を見つめる神経科学者」

「興味深いのは、彼らが自分たち自身に異議申し立てをしていることだ。敵は外にはいない。自分が敵であることを知っているんだ」第十四章「ギルフォードから第二ターミナルへ」

「われわれは前の世代の受刑者によって建てられた規則のゆるやかな監獄に住んでいるんだ 。なんとかして脱獄しなければならない」第十七章「絶対震度」


次回はトーベ・ヤンソン『誠実な詐欺師』になります。

北村龍平『ミッドナイト・ミート・トレイン』

ミッドナイト・ミート・トレイン
The Midnight Meat Train
2008年 アメリカ 98分
監督:北村龍平

ブロイド紙に写真を売るレオン。その恋人のマヤは、画商のジャーギスを通してやり手の女性画商スーザン・ホフと会うことになったと言い、2人は警察無線の盗聴や特ダネ写真とおさらばできると喜ぶのだが、レオンの写真はスーザンにお眼鏡には叶わなかった。より決定的瞬間を求めて夜のNYを徘徊するレオンは、ついに悪漢に襲われる女性の写真を撮ることができたのだが、助けたはずの女性が行方不明になったことを新聞記事で知る。写真を現像していたレオンは、その日電車に乗っていた指輪をした男が、別の写真に映っていることに気がつく。
人公が助けた女性が電車に駆け込むと、ドアを掴む手のアップが飛び込むように入ってくる。閉じるスライド式ドアではないが、編集によって、閉じるスライド式ドアのような有無を言わせぬ死のメタファーになっている。スライド式ドアはSF映画における未来の表象だが、同時に『悪魔のいけにえ』で示されたように死のメタファーでもあるのだ。また、ハンマーで叩かれて血が出るだけではなく、首が回転する、ガラスに叩きつけられてひび割れる、といった差をつけることができている。鏡もいたるところで出てくる。吊るした肉の間で追いかけっこをするのは誰もが思いつくだろうが、それを電車の中でもやる、しかも一人身内が吊るされていて事あるごとに付帯的被害を負うというのは笑えた。フラッシュバックの多いMTV的スタイルは同時代から距離を取れていないと感じ、今見ると平凡さに映った。それと、走る電車の内外をグルグルと回る『宇宙戦争』的長回しはカメラの制約が残っていて面白いけど、目玉が飛び出たりするのは作家のイメージしかない(ロマン主義的)のでいまいち。