ショーン・ベイカー『フロリダ・プロジェクト』

 

 

 

演出にロジックがあってなかなか楽しんだ。特に前半はアイデアが豊富で面白い。


まず冒頭。掴みだから気合がはいっている。


激しく体を動かして走ってくる子供が叫び、ピンク色の壁のまえにじっと座っている二人の子供がそれに答える。動と静。対比の大きなショットを交互に3回、まったく同じやりとりを繰り返すということをやったあと、一体なにが起きるんだ!?と思っていたら、「新しいやつが来たぞ!」というセリフでしめくくられて、座っていた二人がとたんに走り出していく。あとにはピンク色の壁が残るだけで、遅れてクレジットが出る。


散々期待させたあとに、何もない壁だけを映すという知的な外しをやるので、掴みとしては十分。「おーっ」と思って映画に入ることができた。


冒頭でも見られた、同じ構図やモチーフを連続3回以上繰り返すという手法は他のシーンにも使われていて、これはお金をかけずに映画に人工性を持ち込む方法としては便利だなと思った。


みんなが指摘するように、停電になったところで建物のロングショットに切り替わり、不満を言うためにぞろぞろと住人が出てくるところをただ映しているシーンは笑える。


回りこむような立体的な移動撮影もいくつか使われている。


火事が起きてから以降は、前半の幸福なムードを破壊するような出来事が、はっきりとではなく背景でほのめかされるように進行していく。これはそういった出来事が視聴者だけではなく、子供たちにも隠されていることを示しているのだとは思うのだが、正直退屈だった。


作劇としては理解できるのだが、それでも分かりきっていることを延々とほのめかされると飽きてくるのだ(明らかな「謎」がそこにある場合は別だが)。


観客に親切でくどくど説明したがる映画とも思えないのに、どうしてこんなにじれったい手法を使うのだろうと思っていたら、最後の最後でこれまで一切禁止していた幸福な魔法が使われて、ようやくカタルシスが訪れる。そうだったのか、と思った。


しかも、ラストではこれまで『フロリダ・プロジェクト』において不可視の背景として存在していた「とある場所」が堂々と出てくるので、色々な意味でカタルシスがある。


映画の全体を通しての映像のスタイルとしても破綻を来たすものだろうし、子供の取る行動としてはやや「大人っぽすぎる」ので、悪童を悪童として扱ってきたこれまでのスタイルからも飛躍がある。そしてあれだけ長い溜めを作り、長時間のストレスを観客に与えておきながら、魔法がかかるシーンはかなり短く取っている。


これらの仕掛けはどれも映画を壊しかねない要素を含んでいるし、観客に見放される危険を伴っているので、非常に勇気のいることだろうと思った。映画そのものにはやや不満点が残るところだけれど、その勇気に自分はすこし感動させられた。

クレール・ドゥニ『ハイ・ライフ』

本当に久しぶりにシネコンではなくミニシアターに行ったけど、これは面白くなくて、途中退場してしまった。


クレール・ドゥニの映画は『ガーゴイル』しか見ていない。そちらは「セックスをすると食人衝動におそわれる病」が存在する社会を舞台にしたドラマで、ヴィンセント・ギャロが出ていた。


セックスのときに食人をするといえば映画史的に『キャット・ピープル』が元ネタなのだろう。『キャット・ピープル』でも人を食うのは女性だし、『ガーゴイル』でも女性だ。そして口の大きなベアトリス・ダルという女優が、まさにその口の大きさによってキャスティングされていたことが明らかな映画だった。


一方、『ハイ・ライフ』のストーリーは、終身刑・死刑を宣告された囚人たちが、ある実験のために宇宙船のクルーとなり、ブラックホールを目指すというものだ。宇宙船には囚人たちだけでなく、その実験を管理する科学者兼医者が乗船していて、これをジュリエット・ビノシュが演じている。囚人の中で目立つのはロバート・パティンソンとミア・ゴスという面々。


ブラックホール、父娘、とくるので、もしかしてこれはクレール・ドゥニ版『インターステラー』なのだろうかと思った。


この映画は、宇宙船で船外活動をする宇宙飛行士(ロバート・パティンソン)が、工具で修理をしながら、船内にいるであろう赤ん坊と通信機器越しに音声のみで会話する場面からはじまる。


そこからしばらく子供をあやしながら日々のルーチンをこなしていく宇宙飛行士の孤独な生活ぶりが描写されていき、かつて死んだと思しきクルーたちを船外に捨てる場面でタイトルバックとなり、以後回想というかたちでまだ全員が生きていた時の話がはじまる。


宇宙空間を落ちていく宇宙飛行士たちにタイトルがかぶさる部分はかっこいいが、回想がはじまるまでの孤独な生活パートが長い。説明だとしたら長過ぎるし、宇宙飛行士の孤独ということなら見飽きている。そこに赤ん坊の世話が加わっていることにオリジナリティがあるのかもしれないけど、それだけでは興味が持続しない。


囚人を使った実験の内容は、宇宙空間での出産・子供の育成ということで、男の囚人は精液を回収され、女の囚人は妊娠させられる。加えて、お約束というべきかジュリエット・ビノシュには子供関係のトラウマが設定されていて、「わたしは魔女」とまで言ってしまう。


こういった性的なアイデアやプロットが展開された結果として出てくるものが、自分には面白いと思えなかった。


妊娠を拒絶する反抗的な女囚や、そんな彼女を強姦しようとするクルー、そして実験を管理する「魔女」がただ一人オナニーマシンを使わないロバート・パティンソンに執着するところとか、父娘の近親相姦的な緊張とか、ありきたりの展開をストーリーテリングを少し複雑にして思わせぶりに語っているだけにしか見えなかった。犬が出てきたところでうんざりして途中退出した。


低予算ということもあり、宇宙空間の表現はセットや照明を上手く使うしかない。そういう意味ですこし演劇的だ(わたしたちが脳内で補わないと語られている通りには見えない)。推進によって擬似的な重力が発生しているという説明も作中でなされるが、だとしても船外活動中にレンチを落とすとそのまま下に落ちていくのはおかしいだろう。


そう、無重力の表現が難しいので基本的にこの映画の宇宙では、物体は下に落ちていくのである。回想と思しき場面で一瞬、ミア・ゴスが宇宙服を着たまま無重力に浮かんでいるカットがあって、あれが数少ない無重力演出だろうか。あれはとてもいいカットだった。回想ともまた違った、断片的な記憶のきらめきだ。


医者が薬を出して囚人を管理しているというところ含め、舞台装置としては精神病院にかなり近いので、仮にジョン・カーペンターが監督したら『ザ・ウォード』のような脱獄ものになるだろう、と思いながら映画館を出た。


ミア・ゴスはよかった。彼女が壁にガラス片で文字を書いているところとか、それをロバート・パティンソンが止めようとしてもみくちゃになり出血するところとか、そういった部分にはアクション映画がはじまるという期待感があった。

中島哲也『来る』と澤村伊智『ぼぎわんが、来る 』を比較してみた


昨年公開映画ということもあり旬を大きく逃しているけど、そのうち中島哲也については書きたいと思っているので試しに書いてみた。


映画化に際して『ぼぎわんが、来る』から変更された点を列挙するので、当然ながらネタバレしています。


原作から大きく変わった部分は以下のとおり。
 ①原作になかった結婚式・その二次会・実家訪問・ホームパーティの場面の追加
②原作になかった、幼少期に山で親しく遊んでいた少女が消えた経験が挿入される
③子宝温泉の削除
④会社の後輩が病床で恨み節をぶつける
⑤唐草と津田さんの統合
⑥香奈の改心・生存がなくなり、津田と不倫。トイレでぼぎわんに殺害される
⑦後半の真相調査パートの削除(ぼぎわんの由来や、祖父のDV、祖母が呪った事実などが消える)
⑧チサだけでなく真琴も連れていかれる
⑨クライマックスのお祓いの大掛かり化
 ⑩野崎と比嘉姉妹(姉の方)の対立

 


全体的に、秀樹と香奈の両名の俗悪さを強調し、同情の余地をなくしたうえで、野崎・真琴の子供の産めないカップルへ子を受け渡すような構成になっている。子に焦点を当てるためか、あるいは社会規範を裏返すためか、原作にあった男性社会に対する批判的なニュアンスはなくなっており、薄っぺらい人間の俗悪さが薄っぺらく表現されている。ぼぎわんの民俗学的な掘り下げや、秀樹の祖父母の話も削除。育児ブログ大活躍。


①は中島哲也の得意とする、俗悪な世間を誇張した表現を前面に出すための改変であり、原作にはなかった秀樹の実家の田舎特有の嫌な感じがこれでもかと強調される。結婚式も二次会も正視に堪えないほど俗悪でつらい。原作とは違って、秀樹はもうこの時点ですでにクソ野郎としてしか描かれてない。妻夫木聡が演じがちな人の心がわからないサイコパスにしか見えない。育児ブログ描写もやばい。心温まるご家庭のCM的表現が、社会的文脈とは意味をズラされて配置されている。


②子供の頃、祖父宅でぼぎわんと会った記憶に加えて、山で少女と遊び「あんたは嘘つきやから、あんたもお山にさらわれる」などと言われたトラウマ描写が追加されている。秀樹はこの子の名前を思い出せない。


また、会社にぼぎわんがやってくる場面は、原作ではすでに秀樹と香奈に子供が生まれたことがわかっている。しかし映画では、まだ子供が生まれたことが観客にわからないよう情報の順番を前後させているので、「チサさんについて」と言われて、観客に疑問が湧くようにされている。こんな風に、情報の出し方を変えている場面が多くあって、ほとんどがショックやサプライズを増幅させるための効果的な変更になっている。


会社の後輩が大出血するところでは、原作ではそのまま病気⇒退職に追い込んでいたが、映画だと一度何事もなく回復した描写を混ぜたあと、中間の情報をカットして、いきなり病床で廃人のようになっている後輩を映していた。④にあるように、表面上は仲が良かった先輩に対する、内心の憎悪が噴き出る場面も追加される。ここは恐らく、「大出血」⇒「病気」という劇的な情報を2連続させると非現実的な印象が強くなり、恐怖が弱まるので、一度何事もなかったかのように回復させて、ショックのための間を作っているのではないだろうか。怪談系のホラーではよく見られる手法だ。


さらに秀樹が真琴と会って相談を受ける場面では、真琴から「奥さんとお子さんに優しくして下さい」と言われる場面を直接出さず、(1)キレて部屋から飛び出る秀樹⇒(2)津田(唐草)が話を聞いて事情が分かる、という構成に変えている。これも、「秀樹が何故怒っているのか?」と観客にクエスチョンを持たせてから、情報を開示するという手法で、時系列順に情報を出していた原作よりも洗練されている。また、「失礼なことを言われて怒る」という場面は劇的なので真正面に演出するのはなかなか難しい。役者の演技に頼ることにもなる。それを避ける方法としてもいい。


もうひとつ細かく指摘すると、「マンションに帰るといきなり野崎と真琴が部屋にやってきている」という場面も原作からの変更点だ。これも順番を前後させることで観客にサプライズと疑問を与え、それを解消するという手法を使っている。映画版はとにかくシーンの組み方、情報の出し方が上手い。


情報の出し方ではなく取捨選択になるが、秀樹が死ぬ場面にも洗練された改変がなされている。原作だとギリギリでどちらの声が味方で、どちらの声がぼぎわんか分かるようになっているが、映画だと余計なセリフを削り、最後までわからないように演出されている。観客の恐怖は増幅するし、そもそも成否は秀樹の生死でわかるのだから余計だということだろう。原作では不用意に人間らしかったこの場面のぼぎわんから感情を剥ぎ取り、ぼぎわんの非人間性を高めることに成功している。


③子宝温泉どころか民俗学的な部分はほぼカットされている。これは映画だから背景的なものはいらないとの判断だろう。


⑤ご近所の津田さんはいなくなり、原作の唐草の名前が津田に変わる。登場人物の人数を減らしても問題ないところは当然減らすということだろう。


⑥原作だと、香奈は最後に秀樹に対する印象を改め、一度発狂するものの、終盤でけろりと元に戻って改心している様子なのだが、映画では津田と不倫してるし、トイレで普通に死ぬ。タバコ吸うのは同様。ここでの改心がないせいか、野崎が香奈に、秀樹のフォローを入れるという謎シーンが追加されている(野崎ってそんなに秀樹に好印象持ってたっけ?)


⑦映画だからか、尺の都合か、ぼぎわん周りの辻褄合わせは放棄された。祖母の呪いという話もまったく出てこない。水子霊っぽく結論づけられている。これも子供に焦点が移ったからだろうか。


⑧チサだけでなく真琴も連れていかれる。野崎が終盤の主人公なので、彼も当事者にするためかと思われる。なお、この改変のせいで看護師1名死亡。全体的にぼぎわんに殺された人間が原作の10倍くらいになるのでは?


⑨お祓いのスケールが全然違う。政府がガス漏れを装って住民を避難させ、神社を作り、神主や巫女を用意して結界を作っている。沖縄から増援が次々とやってきて、かなり強キャラ感を出していたおばちゃんたち(これは『サスペリア・テルザ 最後の魔女』が元ネタらしい)が一網打尽にされる場面や、それを感知した男性集団が「これは手ごわいな」「一人でも辿り着ければいい」みたいなことを言う。肝が据わりすぎている。損耗率高い仕事だなと思った。終盤にかけて死者数はすごい。ぼぎわんが来たら地震が起き、建物は倒壊し、街灯は砕け、人間は全員血を吐いて死ぬ。そういえば原作では中盤で死んだ中年の霊媒師が終盤まで奮闘している。


⑩チサを犠牲にしてお祓いをしようとする比嘉(姉)と野崎が対立。これもテーマが水子霊に引き寄せられたことと、終盤に葛藤を作りたかったからだろうか。あと原作より姉が妹に厳しく、また真琴は霊能力がなかったのに傷だらけで霊媒師をする姉に憧れて自傷したり修行したりして少しでも近づこうとしている。

 


中島哲也の映画では、よく時系列を入替えた語りが採用されるが本作ではそういった趣向は薄めである。その代わりに、情報を組み替えてより効果的な出し方をするといった基本的な脚本術についても優れた手腕を持っていることがわかりやすくなっている。


ところで、時に「CMのように」と揶揄される中島哲也の映像表現だが、少し触れておきたい。

 

映画からは離れてしまって恐縮なのだが、例えば、小説において広告を作品に取り入れることは少なくとも19世紀にはすでに用いられていた手法である(『広告する小説』などで論じられている)。

 

少なくともいま分かっている事は、同時代のおもだった作家たちのなかでただ一人、ディケンズだけが、社会のシステムとして組織化された広告のうちに、自分の作品との何らかの共通点を見出していたということである。――『広告する小説』


このことは小説が言語でできていることと密接な関係があるだろう。最も安上がりな広告は言葉で作られ、また言語はコミュニケーションの最も基本的なツールである以上、様々な社会的文脈を与えられている。

(「広告」に限定せず、「様々な社会的な場面で使われる言葉」まで広げると、バフチン『小説の言葉』などの射程に入る)


自分も普段意識することがないわけではない。主にその短さのせいで、ツイッターでつぶやかれる小説や映画の感想と、商品の宣伝広告をになうキャッチコピーに大きな形式的差はみられない。


もちろん絵や映像といった視覚的媒体こそがいまや広告の王様だということは言えるが、言語とちがってパロディをするにも非常に大きなお金がかかるわけだし、言語ほどコミュニケーションの隅々にまで浸透しているわけではなさそうだ。

 

したがって、例えば、バフチン『小説の言葉』において論じられている水準で、映像にまとわりつく社会的文脈や特性について論じ、それを使って実作を分析するといったことはなかなか難しいとは思う。

 

ただ、かなりの変形はいるにせよ、同じような着想からスタートして、何かしら言えることがあるんじゃないだろうかという気にさせられる。『小説の言葉』を読んでいると、これこそまさに中島哲也の映画について言いたいことなんだよ、と思うフレーズによく出会うのだ。


たぶんデジタル撮影による後からの加工が容易になったこと、そして映像が比較的誰にでも投稿でき、ある程度通信量を気にせずに見られるようになったことは、小説について論じられていたことを映画についても敷衍できるようになりつつある事態と、大きく関係している。環境が整備されたのだ。

 

ということはつまり、マジック・アワーの自然光を狙った撮影や、すごい長回しといった映画の一回性の価値は下がり、むしろ作り手の意向がよりダイレクトに映画のルックに反映されやすくなったことで、具体的な映像に表れる自意識を厳しくチェックする頭脳と反骨精神が重要になってくるのだろう。

 

中島哲也の映画では、テレビCMをはじめとして映像・視覚文化の色んな紋切り型が素材として収集されており、それらが高い技術で再現されたうえで、社会のなかで通常与えられている意味や文脈とはズラした形で配置するということが多く行われている。ここにきて登場人物が薄っぺらいなどといった批判は無意味だろう。

 

なぜなら、中島哲也の映画ではテレビコマーシャルと人間のあいだに表現上の差を設けておらず、同じものとして扱っており、また扱えるのだということ示すことができているからだ。その映画のキャラクターが薄っぺらいのだとすれば、それは「テレビコマーシャルに出てくる人間像がそもそも薄っぺらいのだ」という事実を反映しているに過ぎない。

 

とはいえ前述したように、このあたりの問題をきちんと論じるには時間もインプットも足りていないので、次の目標としたい。


『来る』について個人的な感想をいえば、後半もっと野崎とかを相対化してしまえばいいのにと少し思ったが、総じてなかなか楽しかった。


小松菜奈が聖なるキャバ嬢霊媒師を演じており、かわいい。妻夫木君はすっかりこういう役が板についてしまったなあ。

 

来る DVD通常版

来る DVD通常版

 

 

 

ぼぎわんが、来る (角川ホラー文庫)

ぼぎわんが、来る (角川ホラー文庫)

 

 

 

広告する小説(異貌の19世紀)

広告する小説(異貌の19世紀)

 

 

 

小説の言葉 (平凡社ライブラリー)

小説の言葉 (平凡社ライブラリー)

 

 

読書

先のことを気にしなくてもいい休日に小説を読んでいると、そもそも小説とはこういう状況で、暇をつぶすために読むものなのだということを強く実感する。

 

2~3時間は拘束されることが確定している新幹線の中以上に読書がはかどる場所があるだろうか?

 

土地もタダではないので、電子書籍への傾倒はこれから個人的にもどんどん強まって来るだろうけど、電子で読んでると理解度や記憶への定着が薄くなることを肌で感じる。全体の構造をアナログに、直感的に把握できないまま読書をすることでそうなるのだという記事をどこかで読んだ。

 

通勤時間や隙間時間に細かく読んでいく電子書籍と、10連休に読む文庫本からもたらされるものは違うだろう。神経学的事実として。

 

前者のような中断・雑音にさらされる芸術の姿は、ギャディスの『JR』で描かれているもののひとつで、とても身につまされる。

チャールズ・ストロス『シンギュラリティ・スカイ』

 

シンギュラリティ・スカイ (ハヤカワ文庫SF)

シンギュラリティ・スカイ (ハヤカワ文庫SF)

 

 チャールズ・ストロス『シンギュラリティ・スカイ』を読んだ。すっごい面白い。そして『アッチェレランド』のときはそういう印象はなかったけど、なんか基盤はルネサンス文学っぽいな…と思ってしまいました。

 
Wikipediaによれば元々のタイトルは"Festival of Fools"だったとか。
 
大きな枠組みでは領域国家による通信遮断と、それに対する情報の自由化というテーマがありつつ、具体的にはわざと文明が発展しないように人民を支配する新共和国という封建制と、そこにやってきたフェスティバル(という人間を超越した文明)との戦争が描かれるんだけど、それを戦争だと思っているのは実は新共和国だけで、フェスティバルはただの電話修理工でしたという『銀河ヒッチハイク・ガイド』並みのバカSFが繰り広げられる。
 
で、そういう背景がありつつ、主人公のマーティンは、謎めいた女性スパイであるレイチェルと仕事に恋愛に大忙しで、スペース・オペラやら、時間SFやら、ミリタリーSFやら、スパイアクションやらが上手くからまったプロットをただ走ることになるわけですが、このあたりはそれほどシンギュラリティというわけでもないので、あまり興味が湧きませんでした。
 
冴えないオタクであるマーティンが、才女であり美女でもあるレイチェルを射止めるのは、ひとえに保守的な新共和国にあって彼がただひとり女性にアプローチできないオタクだったから(≒紳士)ということですが、現実にはただ単に無害であることが女性に対する魅力になるかというと……必ずしもそうではないので(売り気のない営業マンがいい営業マンかといわれればそうでないように)、ここはフェミニズム的な言い訳を用意しておいて、内実としてはオタク向けに都合のいい恋愛シーンを書こうということなんでしょうか。いや、マーティンは知的な話ができるという美点もあるので、別それだけじゃないわけですが。
 
ストロスの手にかかると、時間旅行は致命的な大量破壊兵器で、それは人間なんか遥かに超越した、超ド級に高度な知性体にとっても、同じ宇宙に生きている以上、同様に致命的である。だから、エシャトンはあたまのわるい知性体が下手なことをしないように常に見張っているのだという説明がありました。
 
ストロスの小説の好きなところは、テクノロジーの変化によって、人間だけでなく、法律とか経済とかをぐにゃぐにゃと変形させてしまうところですね。
 
作中ではコルヌトピアマシンと呼ばれる、何でも作り出してしまう機械のせいで、新共和国の貨幣経済は崩壊します。これは『アッチェレランド』の恵与経済と同様のロジックで、つまり資本主義社会における価値はその希少性によって決まるのだから、じゃあ希少性というものをなくしちゃおうよというあれです。まあ、何でも生み出せるマシンが手元にあったら、お金使ってなにかを買おうとは思わないよな。
 
フェスティバルにお話しする代わりに、コルヌトピアマシンを手に入れた革命家たちは、新共和国を打倒せんとしてあれこれ画策するんですが、こちらが自分にとっては面白かった。マーティンやレイチェルが活躍する宇宙の話ではなくて、シンギュラリティによってグロテスクな変形を遂げさせられた保守的な社会のありさま。
 
シンギュラリった革命闘士たちが、自分の個性に惹かれることを個人崇拝ではないかと詰問したり、ルイス・キャロルか?という人間兎と一緒にルイセンコ主義的に進化する森林に分け入ったり、まるで童話のような世界が現実そのものになってしまいます。
 
その裏で修道士がブチ殺されてアップロードされ、空から落ちてきた携帯電話が民話を収集しており、批評家(と名乗るポスト・ヒューマン的知性体)は、フェスティバルによって情報の流れが開通したのに、物質ばかり求めて情報を求めないその国民たちが哲学的ゾンビではないかと怪しんだりします。
 
フェスティバルを歓迎した革命家には確かに階級と国家の解体がもたらされたのですが、同時にそこでは革命家も不要となってしまった様子が滑稽に、グロテスクに描かれます。ストロスはグロテスクなものはちゃんとグロテスクに描くような気がしますね。
 
そういえば『アッチェレランド』を再読していて、実はあの世界の地球も、ピーター・ワッツ『ブラインドサイト』みたいにポスト・ヒューマンによる現生人類の大量虐殺が起きていることがきちんと記述されているのに気づきました(すごくさらっとした描写だけど)。
 
シンギュラリティ後の新共和国の有様はグロテスクですが、ここで説話文学が引用されているのは、フェスティバルによって強制的に情報が自由化されていき、人々が空から落ちてきた携帯電話にむかって身の上話をしたりしているから、ということなのかもしれませんし、あるいはもっと単純に非リアリズムという観点から、童話や民話の世界観が採用されたということなのかもしれません。
 
『シンギュラリティ・スカイ』を読んでルネサンス文学っぽいと思ったのは、社会風刺を備えたコメディ路線(『ガルガンチュアとパンタグリュエル』、『痴愚神礼讃』)と、説話文学(『デカメロン』、『カンタベリー物語』)が両方あるよね、というだけのことなんですが、キリスト教支配からの脱却という最も単純なルネサンス観が、新共和国の情報封鎖からの脱却に重なるというのはこじつけとまでは言えないかなと思っています。
 
あと、レイ・カーツワイルによって語られるシンギュラリティは人間否定的なものではなく、むしろ人間性の増強に貢献するということなので、その小説版ともいえるストロスに人文主義的なところがあっても当然ではあります。
 
これがピーター・ワッツの場合、ヒューマニズムや既知の人間性なるものは徹底的に批判され、切り刻まれます(ワッツ曰く、最初から人間性を貶める目的をもって書くわけではなく、あくまでデータと統計に基づいて書くとあのようになるということですが)。
 
ワッツがしばしば聖書からの引用を行い、作中人物の関係などにもその聖書的な構造を埋め込んでいるのは(例えば、量子AI=神、吸血鬼=キリスト、シリ=パウロ)、比喩によってその非常に情報量の多い世界観をなんとかわかりやすくするという意図があるのかもしれませんが、同時にそれが比喩として機能するのは、そもそもキリスト教ヒューマニズムの否定が相性のいいものとも言えるかもしれません。
(とはいえワッツによる聖書の引用は、皮肉と悪意に満ちています)
  
シンギュラリティの展開方法として、一方に人間否定が、一方に人間肯定があり、各々参照すべき過去の作品が異なる、というなんとなくわかりやすい見取り図ができました。
 
そういうわけでストロスの影響下にあるであろう『トランスヒューマンガンマ線バースト童話集』が童話を引用しているのは、思考の流れとして自然なことであり、現代ネットミームを利用していることも自然なことなのかもしれません。

最近読んだアメコミの話

先日遅ればせながら『DCユニバース:リバース』を読んで、はじめて『ウォッチメン』とDCユニバースがクロスオーバーすることを知った。

 

何かそういう情報を過去に聞いたことはあったんだけど、ビフォアウォッチメンだけだと思いこんでいて、しかもその後は情報をシャットアウトしていたので、本格的なクロスオーバーのことは知らなかったんですよね。(知ってからはすごく興奮して眠れなかった)

 

しかも、ライターはジェフ・ジョンズ。名実共にDCのトップクリエイターが、どうあがいてもアラン・ムーアと比較されることを避けられない仕事に着手するということで、そういう部分にも非常に興奮しつつ、DCコミックスのアプリを利用して『ドゥームズデイ・クロック』を刊行分(~♯9)まで一気に読んだ。

 

ちゃんと画面9分割で進行して、絵柄も見た感じ『ウォッチメン』に寄せており、内容も続きが気になって次々と読んでしまったので、少なくともビフォアウォッチメンダーウィン・クックの担当作は除く)を読んだときのようながっかり感はなかった。さすがジェフ・ジョンズというところだろうか(といいつつ彼の仕事の半分も追えてないんですけど)。

 

でも、最新話でジャスティス・リーグの面々が集合してくると、やっぱりリバース以降の各連載を追っていないと楽しめていないのかな~という思いが強まっており、そもそも『フラッシュポイント』と『DCユニバース:リバース』は読んでるから大まかな流れは知ってるけど、『バットマン/フラッシュ:ザ・ボタン』は読んでないし、NEW52もリバースも、各コミックを真剣に追っているわけではなく、色々欠けながら読んでるのがもったいなく感じられてもきた。

 

さらに、話の展開としては佳境になってきたけど、あと3話しかない(らしい)のに本当にこれ終わるのだろうか? 終わったとしてウォッチメンの決算がこれで終わりっていうのは寂しいなというところなので、また他の大きなプロジェクトに繋がっていくんでしょうか。

 

ドゥームズデイ・クロック』では、ある意味当然というか、クロスオーバーするにあたって各世界の似たキャラクター同士が対置されるんですが、Dr.マンハッタンに対してはスーパーマンロールシャッハに対してはバットマンというところまでは誰にとっても予想の難しくないところで(ロールシャッハ、死んだはずでは?と思った方は本編をお読み下さい)、オジマンディアスは誰と対置されるんだろう?と思っていたらあの人だったんですよね。いざ言われてみると納得。

 

というわけで現状ものすごく佳境に入っている『ドゥームズデイ・クロック』、今後の展開も楽しみです。

 

 

www.dccomics.com

DCユニバース:リバース (ShoPro Books)

DCユニバース:リバース (ShoPro Books)

 

 

アラン・ムーア『Providence』#2 “The Hook”

 

Providence #2 (English Edition)

Providence #2 (English Edition)

 

 今回ベースになっているのは、ラヴクラフトの短編「レッドフックの恐怖」。

 前回の元ネタである「冷気」同様、ニューヨークを舞台にした作品である。

 

引き続き、書籍執筆のための取材を続けるロバート・ブラック。今回の協力者は「レッドフックの恐怖」 の主人公、刑事マウロンである。しかし、この人にもアラン・ムーア流の解釈が施されていて、どうやら同性愛者っぽく描かれている。

もしかして原作にそういう要素がほのめかされていたのか?と思って再読するも、特にそういうことを示唆する記述はない。そういえば前回の“The Yellow Sign”のオチを読んだときも、『「冷気」にそういう関係をにおわせる記述あったっけ?』と思って再読したのに、特に何もそれらしいものは出てこなかった。こういった箇所、かなりアラン・ムーアが自由にオリジナルテキストに要素を追加していると思ったほうがいいのかもしれない。

まあ元々、どぎつい性愛ネタを入れるのは過去のアラン・ムーアの諸作でも頻繁に行われていたことだけど、ラヴクラフトが性愛を嫌っていたせいもあって、ちょっと深読みを誘われてしまうのである。

例えば「ラヴクラフトは性愛を忌み嫌っていたが、実際の作品にはむしろ性愛に強くこだわった痕跡が残っている」といった趣旨の発言を、高橋洋が、確か『ユリイカ』のクトゥルー神話特集で言っていたような気がするんだけど、、、

確かに、自分の血縁に異常な存在が交わっていたという事実が明らかになる話であるとか、人間と非人間的存在が交わっていたことが明らかになる話だとかが、ラヴクラフトには多いように思える(ウエルベックは『H・P・ラヴクラフト:世界と人生に抗って』で、それを移民への恐怖にむすびつけていた)。

そういう意味では、ラヴクラフトを元ネタにして性愛ネタを盛り込んでいくことにはムーアの意図がありそうで、こういった要素が今後の展開で結実するのかもしれない(1話ずつ読みながらこの記事を書いているので、当然まだ最後まで『Providence』を読めていない)。

ちなみに前回の取材相手はムニョス先生だったけど、今回の取材相手は、原作では黒幕的な位置にあったサイダムが配されている。セイレム魔女裁判の話題なども出て、ムーアによる異端や黒魔術の講義といった趣。

#1 “The Yellow Sign”は本当にただロバート・ブラックが取材相手と喋るだけで、元ネタを知らないと何が面白いのかわからない話だったが、今回は後半にアクションシーンがあるので、その分、まったく元ネタを知らない人でも一応読みどころがあるといえますね(いえるのか?

オチは、いわば漫画版叙述トリックみたいなショックシーン。こうやって毎回ショックシーンを最後に持ってくるんですかね。


ベースになっている「レッドフックの恐怖」について触れておくと、クトゥルー神話ネタの出てこない短編のせいかあまり言及されないものの、刑事マロウンが移民で溢れる貧民街レッドフック地区の悪魔崇拝について調査するという筋書きで、その親玉がサイダムではないかというアレです。クトゥルーもののフォーマットとしては使いやすそう。刑事が視点人物ということもあり、街を舞台にしているということもあり、そして不法移民といった社会問題ネタもあり、ラヴクラフトとしてはどこか探偵小説的な短編になっている(とはいえラヴクラフトなので後半は幻惑的な光景が展開されるのだが)

ここで自分がつい連想してしまうのが同時代に活躍したダシール・ハメットの『デイン家の呪い』。ハードボイルドの始祖として記憶されるハメットとしては珍しく、オカルトが題材になっている。特に第二部「神殿」では、コンティネンタル・オプが超自然的なできごとに遭遇するさまが幻惑的に描写されるシーンがあって、すわ怪奇小説か?と思わなくもない。もちろんハメットの書きぶりがいつもリアルなのかと言われればそうでもなく、『血の収穫』でも、講和会議のあと、珍しくオプが内面を吐露したり、夢の場面があったりするし、そもそもスト破りとして雇われた末に街に居座った悪党どもを一掃するというストーリー自体が夢想的なのではないか、ということは言える。そして『デイン家の呪い』も全体としては別に心霊主義的な作品として終わるわけではない。

『デイン家の呪い』でオカルトが出てくるのは、もちろんラヴクラフトとハメットに共通点があるというよりかは、むしろ当時のアメリカ社会でどれほどオカルトが流行っていたを示すものだろう。19世紀の心霊ブームの残滓というべきか、なんというべきか、そういった非主流の思想がいかに西洋で連綿と続いてきたのかは、アラン・ムーアの諸作が一貫して語ってくれていることだった。

パルプマガジンでは当初SF、ホラー、探偵小説、そういったものが今ほど明確なジャンルの形式を持っていたわけではなく、ある程度未分化のまま発達してきた。それと同様に、今では別れたものがある程度互いに影響されあっていたということは思想についても言えるだろう。心霊主義、神智学、神秘主義、心理学、社会改良主義フェミニズム共産主義、文学、などなど。こういったものの影響関係をもう少し調べていけば、もっとアラン・ムーアの漫画がよく読めるんだろうけど、わたしは怠惰なので識者による解説を望みます。

 

 

ラヴクラフト全集〈5〉 (創元推理文庫)

ラヴクラフト全集〈5〉 (創元推理文庫)

 

  

デイン家の呪い(新訳版)

デイン家の呪い(新訳版)