伴名練『なめらかな世界と、その敵』読書会用リンク集

 やるので、リンク集でも作っておこうと思った

 

 

 

 基本系

伴名練 - Wikipedia

石黒達昌ファンブログ

なめらかな世界と、その敵

なめらかな世界と、その敵

 

 

公式

いま最も読まれているSFラブストーリー。『なめらかな世界と、その敵』|Hayakawa Books & Magazines(β)

 

「2010年代、世界で最もSFを愛した作家」伴名練1万字メッセージ|Hayakawa Books & Magazines(β)

 

『なめらかな世界と、その敵』印税の寄付について|Hayakawa Books & Magazines(β)

 

「ひかりよりも速く、ゆるやかに」試し読み

https://www.hayakawabooks.com/n/n0cfa8c1132ce

 

話題になった書評とか

この世界の中で、この世界を超えて――伴名練とSF的想像力の帰趨 - “文学少女”と名前のない著者

 

伴名練『なめらかな世界と、その敵』 最高の読み手による最強のSF短編集 - ねとらぼ

 

伴名練『なめらかな世界と、その敵』(早川書房)を読んで|橋本輝幸/@biotit|note

 

SFの中心で愛を叫んだ覆面作家 伴名練さんの新刊好調:朝日新聞デジタル

 

なめらかな世界と、その敵 感想 伴名 練 - 読書メーター

 

関連書籍

なめらかな社会とその敵

なめらかな社会とその敵

 
少女禁区 (角川ホラー文庫)

少女禁区 (角川ホラー文庫)

 

  ・伴名練特集

SFマガジン 2019年 10 月号

SFマガジン 2019年 10 月号

 

 

 

何かあればまた追記していきます。

 

クエンティン・タランティーノ『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』/俳優とスタントマン

 

タランティーノの9作目となる新作映画を見てきた。

 

なんというかシンプルかつ渋い映画で、タランティーノの名前にだけ惹かれて映画館に来た観客の中には、置いてけぼりを食った人もいるんじゃないだろうか(特にシャロン・テート殺害事件のことを知らなかった人)。

 

過去の監督作にあるアクの強さみたいなのも劇中劇にすこし出てくる程度で(黒人のキャストがほとんど?全く?登場しないのも理由の一端にありそう)、あとは本当に人々の日々の営みを映していくだけ……という感触だった。

 

また、隣人という以上には特に接点のない登場人物同士をカメラの移動撮影でつないでいく趣向せいか、カメラの距離感が非人間中心的で寒々しかった。こういうのって巨匠の遺作っぽい雰囲気で、アルトマンとか思い出したな~。

 

時代は1969年、場所はハリウッド。登場するのは、テレビ俳優として人気のピークを過ぎ、映画スターへの転身を目指すリック・ダルトンと、その運転手兼スタントマンのクリフ・ブース。

 

俳優とスタントマン。

 

このパートナーにはあからさまな寓意がこめられている。映画における嘘の暴力と、本当の暴力である。あるいは、演技とアクションとでもいうべきか。

 

序盤、ベトナム戦争の戦況を伝えるラジオ放送がインサートされる。共産主義者が何人死んだ、とかなんとかいうニュース。路上にはヒッピーが歩いている。

 

そして、リック・ダルトンのもとにやってくるプロデューサーは、ダルトンの出た映画の感想を口にし、マシンガンで撃つ真似をする。それっぽく加工された劇中劇がインサートされ、マシンガンを乱射したり、火炎放射器でナチを焼き殺したりするダルトンが映る。

 

「貸家はダメだ、持ち家を買え」とクリフに忠告するリック・ダルトンの家。その隣には新婚のロマン・ポランスキーシャロン・テートが仲睦まじく暮らしている。

 

映画に流れる時間はゆっくりとしていて、リック・ダルトン、クリフ・ブース、シャロン・テートの三人が、入れ替わるようにしてカメラの前に姿を表し、いくつかの挿話が語られる。

 

それは例えば、リック・ダルトンが飲みすぎてセリフを飛ばしてしまうという挿話。そしてパルプ小説の主人公に自分を重ねて泣いてしまい、八歳の子役に慰められるという挿話。

 

あるいは、トレーラー暮らしをして、犬に餌を与えるクリフ・ブースの孤独な夜の生活。整然と並べられた缶のドッグフードを取り出し、逆さまになった缶から中身が垂直落下する。広告的に撮影されるジャンクな食べ物。それを鍋のまま食べるクリフ。おともにはテレビジョン。

 

あるいは、自分が出た映画『サイレンサー第4弾/破壊部隊』を見てニコニコとするシャロン・テート。映画館の受付や支配人に、自分が出た映画なんだと言ってみても、彼らはシャロンのことをよく知らない。映画女優になったというウキウキを隠せないシャロン・テートと、世間には知られていないというギャップ。

 

クリフが運転をしていると幾度となく出会う、黒髪のヒッピー女。プッシーキャット。三度目の正直で彼女の住んでいるところまで車で案内すると、そこは寂れた廃墟同前の、かつて西部劇を撮影されていた場所。スパーン映画牧場だった。

 

そして史実のとおり、マンソンファミリーがそこを根城にしており、クリフの訪問はホラー映画のように演出される(あの長すぎる階段!)。撮影所の元管理人である盲目の老人がヒッピーに騙され、寄生されており、知り合いであるはずのクリフのことさえ覚えていないのだ。

 

半年後、マンソンファミリーは史実のとおりシャロン・テート宅近辺にやってくるが、その結果はいささか違うものになった。

 

イングロリアス・バスターズ』がそうであったように、この映画を、フィクションをもって現実の悲劇を救う映画だと指摘する声は多い。

 

しかしそれは不十分な指摘であるように思う。

 

確かに、クリフ・ブースとリック・ダルトンは事件の実行犯を撃退し、この映画にあって、シャロン・テートは生存する。

 

しかしながら、犯行前に実行犯のひとりが口にするのはこうだ。正確な引用はできないが、趣旨としてこうだった。「わたしたちはテレビで、映画で、嘘の暴力を見てきて育った。映画を通じて暴力を学んだのだから、それをやつら(=ハリウッド)に向けてやろう」と。

 

かくして映画の廃墟にすみついたマンソンファミリーは嘘の暴力を見て育ち、やがてハリウッドに本当の暴力を向けるのだが、それを本当の暴力の体現者であるクリフ・ブースが撃退する。容赦のない暴力をもって。

 

言ってしまえばクリフがやったのは、身から出た錆を払うことだ。

 

もちろん実際の話としては、シャロン・テートが標的になったのは偶然であり、ハリウッドがその責任を負わされるいわれはない。

 

しかしこの映画では、フィクションがただ現実の悲劇を救うだけではなく、映画と現実の暴力の関係が、作中で寓意的に描かれているのである。その意味でタランティーノは、映画が被害者だったというつもりはないのだろう。

 

これからも映画は嘘の暴力を描きつづけるだろうし、スパーン映画牧場のような廃墟も築かれるだろう。なにより、クリフとリックは別れてしまったのだし。

 

ただこの映画は、タランティーノの意図もあってか、ラストを除いて、暴力的なアクションシーンのほとんどない映画として作られている。

 

 *

 

わたしはタランティーノの映画を痛快だと感じたことがない。嘘だ。どのタランティーノの映画にも痛快さを感じたが、それ以上にずっと腹の脇のほうが痛くなるような、暗い気分にさせられる。それも嘘だ。近年のタランティーノの映画は政治的だし、リベラル派なのかもしれないが、倫理的に危うい場面で目を輝かせる。演出に弾みがつく。そこが重苦しいし、ねじくれていて楽しい。

 

前作『ヘイトフル・エイト』では、黒人の賞金稼ぎと白人の自称保安官が、嘘吐きの女囚を吊るしながら、仲間意識と遵法精神を獲得する。

 

イングロリアス・バスターズ』と『ジャンゴ』の暴力は、マイノリティの復讐といえど、いささかやり過ぎている。

 

タランティーノの描く暴力や、復讐や、人種差別、そしてクソ野郎の非道ぶりは、娯楽の素材としてポップに扱われているものの、政治的な題材を選択しているがために、単純な素材としては収まらないところがある(ヒトラーなら、あるいは距離を持って眺められるかもしれないが)。わたしはそこが美点だとは思うけど。

 

 

ところで、シャロン・テート殺害事件は50年前のできごとで、もう映画の題材として距離をもって扱えるレベルにあるのかもしれないが、やはり『イングロリアス・バスターズ』のヒトラーとはだいぶ距離感が異なるし、また『ヘイトフル・エイト』ほど問題が一般化されているわけでもないため、これまで以上に生々しいものになっている。

 

こういうことをやってもいいのか、と感じる人は出てくるだろう。自分もすこし引っかかった。

 

 

 

ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド オリジナル・サウンドトラック

ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド オリジナル・サウンドトラック

 

 

 

2018年に読んだ本ベスト

1.『官僚制のユートピア』デヴィッド・グレーバー

2.『DC ニューフロンティア』ダーウィン・クック
3.『金の仔牛』佐藤亜紀
4.『遊星よりの昆虫軍X』ジョン・スラデック
5.『女嫌いのための小品集』パトリシア・ハイスミス
6.『カエアンの聖衣』バリントン・J・ベイリー
7.『広告する小説』ジェニファー・A・ウィキー
8.『都市と都市』チャイナ・ミエヴィル
9.『宗教からよむ「アメリカ」』森孝一
10.『ワイオミングの惨劇』トレヴェニアン
 
年末年始、どうしてもこのベストが面白いと思えなかったのでやらなかったが、今見るとそれなりに昨年の己の精神状況がうかがえたので掲載してみた。
 
1.は『負債論』で有名な著者の最新作。身近なところに目が向いているところが楽しく、日々、書類仕事に憎悪を燃やしている人間として面白く読んだ。
 
2.は故ダーウィン・クックによる素晴らしき名作コミック。もしDCで1作薦めるなら、これを差し出すだろう。というか既に知人に貸しまくっている(とにかく読んで!)
 
3.はあまりにも面白くて久しぶりに徹夜で読んでしまった。
 
4.『ロデリック』が傑作だったので、スラデックはどれも面白いのだろうと踏んで読んだ。思いのほか『ロデリック』と共通するところが多い。人間の知性や言語に対する冷徹な評価が好きだ。
 
5.は女嫌いの自分にぴったりかと思い読んだ。
 
6.昨年読んだ一番面白いSF。この1冊をSFの面白さの指標として考えたい。あと解説でめちゃくちゃ馬鹿な作品みたいに言われているが、「服が人なり」というワンアイデアの展開と発展、そしてメインアイデアを補強するサブプロットの存在など、一見バラバラに見えるエピソード同士の構築性が高く、言われているほどアホではないと思う。
 
7.広告が文学を引用し、文学が広告を引用し、明らかになるのは両者の親和性である。
 
8.は個別記事を立てた。
 
9.アメリカがキリスト教的価値観を国家原理に据えつつも、実質的に多神教的な状況が出来上がっているという、かなり分かりやすい見通しが得られる。また、宗教保守についてもある程度の概略を知ることができた。多分この分野では基本書なんだろうけど、今まであまり知らなかった。
 
10.『グラン・ヴァカンス』の元ネタの一つと聞いて読んだけど、どうやらそれは『バスク、真夏の死』の方だったようだ。内容は陰惨なウエスタン小説で、確かにちょっと変わっているけど、西部劇はいくつもの異色作を抱えている巨大なジャンルなので、これでも十分にジャンルの枠内に収まる作品ではないでしょうか。
 

 

官僚制のユートピア テクノロジー、構造的愚かさ、リベラリズムの鉄則

官僚制のユートピア テクノロジー、構造的愚かさ、リベラリズムの鉄則

 

 

DC:ニューフロンティア 上 (DC COMICS)

DC:ニューフロンティア 上 (DC COMICS)

 
DC:ニューフロンティア 下 (DC COMICS)

DC:ニューフロンティア 下 (DC COMICS)

 

  

金の仔牛

金の仔牛

 

 

遊星よりの昆虫軍X (ハヤカワ文庫SF)

遊星よりの昆虫軍X (ハヤカワ文庫SF)

 

  

女嫌いのための小品集 (河出文庫)

女嫌いのための小品集 (河出文庫)

 

 

カエアンの聖衣〔新訳版〕 (ハヤカワ文庫SF)

カエアンの聖衣〔新訳版〕 (ハヤカワ文庫SF)

 

  

広告する小説(異貌の19世紀)

広告する小説(異貌の19世紀)

 

  

都市と都市 (ハヤカワ文庫SF)

都市と都市 (ハヤカワ文庫SF)

 

  

宗教からよむ「アメリカ」 (講談社選書メチエ)

宗教からよむ「アメリカ」 (講談社選書メチエ)

 

  

ワイオミングの惨劇 (新潮文庫)

ワイオミングの惨劇 (新潮文庫)

 

 

バー・スティアーズ『高慢と偏見とゾンビ』

 

高慢と偏見とゾンビ(字幕版)
 

 

まあタイトルの通りといえば、タイトルの通りなんだけど。
 
人の脳を食えば食うほどよりゾンビらしくなっていき、それを我慢すれば人間性を保持できるという比較的珍しいギミックが採用されている。そうして人間性の残ったゾンビは意思の疎通もできるし、なんなら人間社会にまぎれて生きることもできる、ということが冒頭で示される。この、社会性のあるゾンビというアイデアと、18世紀イギリスという舞台の組み合わせがよくて、思ったよりもずっと楽しめた。
 
思うに、身分制社会においては、ゾンビという題材はそのポテンシャルをさらに発揮できるのではないか。なぜなら、ゾンビは平等だからだ。貴族だろうが、平民だろうが、ゾンビはゾンビ。この身も蓋もない事実が、そもそもはじめから基本的に身も蓋もない現代社会を舞台にするよりも、効いてくるというわけだ。そして、人間社会にまぎれたり、罠を張ったり、宗教でまとまって人を食うことを我慢しているゾンビたちは、途中から民主革命のメタファーのようにも見えてくる。
 
もちろん、ベースになっているのは『高慢と偏見』なので、そういった背景はあるものの終盤はメロドラマとしてまとまっていくのが残念だった。見当違いの期待なのかもしれないけど、この映画を見にくるのは18世紀西欧を舞台にした恋愛ドラマを好む客ではなく、やはりゾンビ映画好きなのだと思う。なので、『高慢と偏見』の大筋を変えずにさりげなくゾンビを挿入していくという滑稽味が主眼に置かれることにはなるものの、原作とのズレや違和感が笑いの源泉なので、結局のところストーリー自体は『高慢と偏見』にならざるをえない……ここに企画の限界があるような気がする。もっとSF的な展開をして欲しかったが。
 
ただ、中国武術と日本武術が導入されていて、淑女がゾンビを殴り蹴り、剣で刺し、銃でぶっ飛ばすというボンクラぶりはいいスパイスになっていた。
 
衣装と美術に手を抜くわけにはいかない題材なので、その点はそれなりに見応えがある。どこまでが事後の加工なのかはわからないし、場面によってムラがあるものの、照明を頑張っているところもあり、モブシーンでは奥にいる人間にも芝居がつけられていて、女性を美しく撮ろうとしている。人工的で嘘っぽい、というかCGっぽい18世紀は、近年の映画だと『シンデレラ』を思い出した。
 
アクションシーンは、状況がまったくわからないものから、アップとロングをつなぐことで一応の把握ができるものまでムラがあり、スローモーションで撮ったり、殺されるゾンビの主観を使ったりして、スタイリッシュさを出そうとしているものの、タイトルから想像されるよりは大人しく、これならもっとはしゃいでもいいんじゃないかと思った。
 
原作は未読だし、繰り返しにはなるけど、有名作のパロディという観点から離れるとむしろ発展性があるのではないだろうか。

M・ナイト・シャマラン『ミスター・ガラス』

 

ミスター・ガラス (字幕版)

ミスター・ガラス (字幕版)

 

 

脚本の流れはかなりよかった。二人の超人の直接対決を出し惜しみせずに序盤からやってくれるのが嬉しい。その後は、ブルース・ウィリスジェームズ・マカヴォイも一旦捕えられてしまうんだけれども、『羊たちの沈黙』でレクター博士を捕らえておく展開のように、一度捕まってしまったからこそ味わえる「脱獄」のスリルが期待されて、申し分ない。この映画の面白さはシャマランの脚本ライティング能力にかなり負っていると思う。


それぞれ『アンブレイカブル』、『スプリット』以降、自分たちの活動を続けているブルース・ウィリスとマカヴォイがいて、二人が早々に巡り合って対決するのだが、決着がつく前に警察に囲まれて確保されてしまう。二人とも、裁判にかけられたり刑務所にぶちこまれたりはせず、妄想を抱えた患者として精神病院に幽閉されるわけだが、そこにはサミュエル・L・ジャクソンもいる。女の精神科医が、ウィリスとマカヴォイに、自分たちの超人性が妄想である可能性を説明し、その分析を聞かされた二人のアイデンティティには動揺が走る。一方のサミュエルは薬漬けで自分を失っているように見えるが、はっきりとしない。何かをたくらんでいるような様子が示唆される、、、という気になる展開になっているのだ。

そういう事情もあり、二人が精神病院前の広場で対決する場面までは、一般受けする商業映画としての出来とシャマランの作家性がある程度両立している、「普通に面白い」映画になっていたと思う。黒沢清だと『クリーピー』みたいな。


『ハプニング』までのシャマラン。そして『ヴィジット』で一度復活した、シャマランらしいシャマランは、前作『スプリット』で変質した。少なくとも自分には、90年代の黒沢清ゼロ年代以降の黒沢清が明確に異なるように、『スプリット』以前のシャマランとそれ以降のシャマランは違う。


でもそれはジム・ジャームッシュが『ストレンジャー・ザン・パラダイス』と『パターソン』で明確に異なるのと同じで、作家である以上、変質は免れないのだと思う。ずっと同じ事をやっていながらも、何かが変わってしまう。


シャマランが、製作のパートでも自分の作家性を保ったまま、これほどジャンル映画的なアクションシーンを撮るのは多分はじめてのことだろう。


これまでのシャマランは明らかにアクション映画向きの映画監督ではなく、どちらかといえばサスペンスや前兆をほのめかしていきながら話を進めていく傾向があったので、「シャマランが真正面からアクションを撮る!」というのは『ミスター・ガラス』を見るにあたって大いに気になっていたことだった。


最初の対決。まずお互いの力を比べあうというところで行われるのが、でかいテーブルの投げ合いである。て、テーブルの投げ合い? マジでそれでいくの? ちょっと地味じゃない?私は目を疑った。しかし力比べには違いない。二人の力が並外れているのも説明できている。しかし、なんというか絵面としてはとても滑稽な気がする。こういう細部の選択はいかにもシャマランだと思う。


『スプリット』の必見シーンである「おしっこかけちゃえ」を髣髴とさせる、近過ぎるカメラ位置もこのアクションシーンにあって顕在である。


マカヴォイとウィリスが精神科医に説き伏せられて、スーパーパワーが実は妄想だったのかもしれないと疑いはじめる場面。ここがシナリオ的にこの映画で一番シャマランらしいところだろう。巷の反応をみると、みな薄っぺらいフィクションを信じるところ、信仰の側面に着目してるし、確かにそこはシャマランが長年追及してきたテーマだが、、、信じていた現実が嘘だったとわかり、崩壊しはじめる感覚。単なるシナリオ上のギミックとも思われがちだが、これもまたテーマと関連して、長らくシャマランの映画に在り続けてきた感覚だ。


サミュエル・L・ジャクソン演じるイライジャもいい。脱獄の計画も見透かされいよいよ追い詰められたという段になって、実はすべて彼の演技だったことが判明する。イライジャは振り向き様にガラスの破片で職員の喉笛をかっ切るのだ。血まみれになったガラスは、同じような破片が散らばっている床に投げ捨てられ、次のセリフがつづく。「ずっとはまるピースを探していたんだ」。


いや〜、かっこいい〜。ここはこの映画で一番かっこいい場面だった。


またマカヴォイの「群れ」はフラッシュに弱く、当てると人格が強制的に入れ替わるという設定は、よかった。特に最初にそれを目の当たりにする男性職員とのシーンがいい。フラッシュを次々と当てながら人格が変わっていくという、マカヴォイの演技に頼った場面だが、出てくる人格はなんでもいいし、多分あの場面にしか出てこなかった人格もいるはずで、俳優の熱演を演出家がまるでオモチャのように使う楽しさがある。カメラをマカヴォイから外しつつフラッシュの頻度を上げていくという演出(ある種のテンプレ)はスリル満点だった。


最後の対決の地味さもすごい。『アヴェンジャーズ』よろしくタワーで対決すると思わせておいて、精神病院のすぐ目の前で最終対決がはじまってしまうのである。一人シネマティックユニバースということも相まって、ある意味では『ヴィジット』よりも微笑ましい手作り感がある。


ただ最後は甘いんじゃないかと思った。YouTubeに上がった動画の内容をみんなが信じるって...


『ヴィジット』ではもはや必要としていなかったパラノイア的トンでも展開が、『スプリット』や『ミスター・ガラス』では復活していたので、『ヴィジット』も本人的には自分の本当にやりたい仕事ではなかったのかなと思ってしまった(『ハプニング』以降のシャマランではもっとも好きな作品だけど)。


商業的には成功したということで、シャマランはここからどう発展していくんでしょうね。


撮影について気になった点は、見た目ショットが非常に多い。ズームも多い。内側からの切り返しも多い。というところでしょうか。

 

 

アンブレイカブル(字幕版)

アンブレイカブル(字幕版)

 

 

 

スプリット (字幕版)

スプリット (字幕版)

 

 

ショーン・ベイカー『フロリダ・プロジェクト』

 

 

 

演出にロジックがあってなかなか楽しんだ。特に前半はアイデアが豊富で面白い。


まず冒頭。掴みだから気合がはいっている。


激しく体を動かして走ってくる子供が叫び、ピンク色の壁のまえにじっと座っている二人の子供がそれに答える。動と静。対比の大きなショットを交互に3回、まったく同じやりとりを繰り返すということをやったあと、一体なにが起きるんだ!?と思っていたら、「新しいやつが来たぞ!」というセリフでしめくくられて、座っていた二人がとたんに走り出していく。あとにはピンク色の壁が残るだけで、遅れてクレジットが出る。


散々期待させたあとに、何もない壁だけを映すという知的な外しをやるので、掴みとしては十分。「おーっ」と思って映画に入ることができた。


冒頭でも見られた、同じ構図やモチーフを連続3回以上繰り返すという手法は他のシーンにも使われていて、これはお金をかけずに映画に人工性を持ち込む方法としては便利だなと思った。


みんなが指摘するように、停電になったところで建物のロングショットに切り替わり、不満を言うためにぞろぞろと住人が出てくるところをただ映しているシーンは笑える。


回りこむような立体的な移動撮影もいくつか使われている。


火事が起きてから以降は、前半の幸福なムードを破壊するような出来事が、はっきりとではなく背景でほのめかされるように進行していく。これはそういった出来事が視聴者だけではなく、子供たちにも隠されていることを示しているのだとは思うのだが、正直退屈だった。


作劇としては理解できるのだが、それでも分かりきっていることを延々とほのめかされると飽きてくるのだ(明らかな「謎」がそこにある場合は別だが)。


観客に親切でくどくど説明したがる映画とも思えないのに、どうしてこんなにじれったい手法を使うのだろうと思っていたら、最後の最後でこれまで一切禁止していた幸福な魔法が使われて、ようやくカタルシスが訪れる。そうだったのか、と思った。


しかも、ラストではこれまで『フロリダ・プロジェクト』において不可視の背景として存在していた「とある場所」が堂々と出てくるので、色々な意味でカタルシスがある。


映画の全体を通しての映像のスタイルとしても破綻を来たすものだろうし、子供の取る行動としてはやや「大人っぽすぎる」ので、悪童を悪童として扱ってきたこれまでのスタイルからも飛躍がある。そしてあれだけ長い溜めを作り、長時間のストレスを観客に与えておきながら、魔法がかかるシーンはかなり短く取っている。


これらの仕掛けはどれも映画を壊しかねない要素を含んでいるし、観客に見放される危険を伴っているので、非常に勇気のいることだろうと思った。映画そのものにはやや不満点が残るところだけれど、その勇気に自分はすこし感動させられた。

クレール・ドゥニ『ハイ・ライフ』

本当に久しぶりにシネコンではなくミニシアターに行ったけど、これは面白くなくて、途中退場してしまった。


クレール・ドゥニの映画は『ガーゴイル』しか見ていない。そちらは「セックスをすると食人衝動におそわれる病」が存在する社会を舞台にしたドラマで、ヴィンセント・ギャロが出ていた。


セックスのときに食人をするといえば映画史的に『キャット・ピープル』が元ネタなのだろう。『キャット・ピープル』でも人を食うのは女性だし、『ガーゴイル』でも女性だ。そして口の大きなベアトリス・ダルという女優が、まさにその口の大きさによってキャスティングされていたことが明らかな映画だった。


一方、『ハイ・ライフ』のストーリーは、終身刑・死刑を宣告された囚人たちが、ある実験のために宇宙船のクルーとなり、ブラックホールを目指すというものだ。宇宙船には囚人たちだけでなく、その実験を管理する科学者兼医者が乗船していて、これをジュリエット・ビノシュが演じている。囚人の中で目立つのはロバート・パティンソンとミア・ゴスという面々。


ブラックホール、父娘、とくるので、もしかしてこれはクレール・ドゥニ版『インターステラー』なのだろうかと思った。


この映画は、宇宙船で船外活動をする宇宙飛行士(ロバート・パティンソン)が、工具で修理をしながら、船内にいるであろう赤ん坊と通信機器越しに音声のみで会話する場面からはじまる。


そこからしばらく子供をあやしながら日々のルーチンをこなしていく宇宙飛行士の孤独な生活ぶりが描写されていき、かつて死んだと思しきクルーたちを船外に捨てる場面でタイトルバックとなり、以後回想というかたちでまだ全員が生きていた時の話がはじまる。


宇宙空間を落ちていく宇宙飛行士たちにタイトルがかぶさる部分はかっこいいが、回想がはじまるまでの孤独な生活パートが長い。説明だとしたら長過ぎるし、宇宙飛行士の孤独ということなら見飽きている。そこに赤ん坊の世話が加わっていることにオリジナリティがあるのかもしれないけど、それだけでは興味が持続しない。


囚人を使った実験の内容は、宇宙空間での出産・子供の育成ということで、男の囚人は精液を回収され、女の囚人は妊娠させられる。加えて、お約束というべきかジュリエット・ビノシュには子供関係のトラウマが設定されていて、「わたしは魔女」とまで言ってしまう。


こういった性的なアイデアやプロットが展開された結果として出てくるものが、自分には面白いと思えなかった。


妊娠を拒絶する反抗的な女囚や、そんな彼女を強姦しようとするクルー、そして実験を管理する「魔女」がただ一人オナニーマシンを使わないロバート・パティンソンに執着するところとか、父娘の近親相姦的な緊張とか、ありきたりの展開をストーリーテリングを少し複雑にして思わせぶりに語っているだけにしか見えなかった。犬が出てきたところでうんざりして途中退出した。


低予算ということもあり、宇宙空間の表現はセットや照明を上手く使うしかない。そういう意味ですこし演劇的だ(わたしたちが脳内で補わないと語られている通りには見えない)。推進によって擬似的な重力が発生しているという説明も作中でなされるが、だとしても船外活動中にレンチを落とすとそのまま下に落ちていくのはおかしいだろう。


そう、無重力の表現が難しいので基本的にこの映画の宇宙では、物体は下に落ちていくのである。回想と思しき場面で一瞬、ミア・ゴスが宇宙服を着たまま無重力に浮かんでいるカットがあって、あれが数少ない無重力演出だろうか。あれはとてもいいカットだった。回想ともまた違った、断片的な記憶のきらめきだ。


医者が薬を出して囚人を管理しているというところ含め、舞台装置としては精神病院にかなり近いので、仮にジョン・カーペンターが監督したら『ザ・ウォード』のような脱獄ものになるだろう、と思いながら映画館を出た。


ミア・ゴスはよかった。彼女が壁にガラス片で文字を書いているところとか、それをロバート・パティンソンが止めようとしてもみくちゃになり出血するところとか、そういった部分にはアクション映画がはじまるという期待感があった。