2019年をふりかえる

最近追っているアメコミの連載について感想でも書こうかと思ったけど、面倒臭いのでやめた。
 
代わりにこの1年を振り返ることにした。
 
 
●できるようになったこと、とか
 
・結婚した 
 孤独がいかに健康に悪いのかは、科学的な研究でも多くの証拠が出ており、経験からも明らかである。また、二人で暮らすことで固定費が下がるし、種々の選択肢も増える。これは功利的に正しい選択だと思うが、具体的な結婚はそういう打算とはあまり関係なく進んだ。
 
・仕事が大変になってきた
    この一年で業務範囲が明らかに拡大し、それに伴って若干の政治力もついてきたけど、実力も年齢も役職もあるべき理想像からすれば足りなくて、ストレスと残業時間が目下のところ加速している。実務でキャッチアップしている人間が自分しかいないという切迫感は、何よりも勉強のモチベーションになる(ぐるぐる目)。
 
・アメコミを読むことを楽しみにできた
   アメコミにはじめて触れたのは大学時代だけど、まずそのスタイルに慣れるまで、翻訳だろうとアメコミを読むこと自体に少し「お勉強」の感があった。今年はそれを払拭し、純粋に楽しみとしてアメコミを読み、未訳のアメコミもあくまで楽しみとして読めるようになった。社会人になったことで好みが狭く、固定化されて、日本語であるか英語であるかより、好みかどうかの方が重要視されるようになった。DCだけとはいえ、連載をリアルタイムで追うようになったのも今年からだ。来年はもっとアメコミ関連の記事を書ければいいなと思っている。
 
iPad Proを買った
 早く買えばよかったと思っている。漫画を読むのに最適で、これがなかったらアメコミを読む習慣は作れなかったと思う。また、場所をとっていた書籍を大幅に電子化することができて、特に勉強や仕事に使う書籍をいちいち持ち運ぶ必要がなくなってよかった。OCR万歳。小説を書くデバイスとしても悪くない。とはいえ、もちろんPCの完全な代替にはならないことを実感する場面も多い。
 
 
●できなかったこと
 
・長編小説の締め切りがやばい
 1年に1作長編を書こうとして、今年もちんたら書いていたら結婚に関わる諸々のイベントもあって進捗率がヤバいことになっている。仕事が忙しくなってきたことで、趣味として小説を書くのもかなり辛い感じになってきた。職業人生をある程度犠牲にして小説を楽しみとして書いてきたけど、それもそろそろ難しいのかもしれない。
 
・ジムに行っていない
 せっかく契約したジムにあまり行けていない。羞恥心とか、会員カードをしばしば失くす迂闊さが足かせになっている。運動不足解消は来年の目標だ。
 
・勉強が中途半端
 結婚に関わる諸々のイベントもあって、専門の勉強があまりできていない。継ぎ接ぎでなんとかしている。胃によくない。
 
 
●来年やりたいこと
 
・プログラミング
 仕事に使えないかなと思っている。MacBookか何か、買わなきゃな。
 
神経生物学
 SFを読む人間として『スタンフォード神経生物学』を楽しく読みたい。
 
・専門
 資格の勉強したいですね。
 
・英語
 転職用に、資格の勉強したいですね。あと趣味でアメコミと小説を、もっと楽しみとして読めるようになりたい。
 
・小説
 長編小説をなんとしても完成させる。させます。

読書日記:フリッツ・ライバー『妻という名の魔女たち』

フリッツ・ライバーを読みたい気分なので、『妻という名の魔女たち』を読んでいる。
 
まだ半分ほどだが、内容としては保守的な土地柄にあるヘンプネル大学で教えているノーマンという教員が、妻の魔術道具を見つけてしまったことをきっかけに、実は教員たちの妻がそれぞれ魔術を使って夫を守っている(そして競争相手を蹴落とすために相手の夫を呪っている)のではないかという疑心に囚われるというもの。
 
いわば内助の功を、オカルティックに解釈した小説なんだけど、最初の章のシーン作りがほとんど完璧なホラー映画になっていて驚いた。
 
もっともライバーの視覚的シークエンスの描写力、演出力はすでに故殊能将之氏の記事などで広く知られているところだが、今回はまるまる一章分が見事なシークエンスになっていてすごく感じ入った。非常にさりげないが、本当に上手い。
 
全体としては、ノーマンが妻の魔術道具を発見してしまうまでのシークエンスなのだが、まず冒頭で妻の秘密を発見することについて無気味なイメージをちらつかせる。ホラー映画の冒頭で、不安な夢を見てしまうような場面に当たるのだと思う。
 
もちろんノーマンとて、青髭の好奇心旺盛な妻たちに何が起こったのかは知っていた。事実、いつだったか、女たちが吊られるこの不思議な話の潜在要素を、精神分析の手法によって、かなりつっこんで調べてみたことがある。しかし同じような驚きが、夫を、それも現代の夫を待ちうけているとは、考えたこともなかった。もしかしてクリーム色に輝くあのドアの背後で、ハンサムな男が六人もフックにかけられているのか。そんなふうに思っただけでも笑いがこみあげたことだろう
 
このあと、自らの家を視覚的に描写しつつ、そこにあるインテリアや家具から想起して、自分と妻の関係や、職業生活、過去にあったできごとを説明していく導入のパートがつづく。
 
この間ずっと室内にいるわけだが、時折、外の風景がザッピング的に挿入される。
 
寝室の窓の外では、近所の子供が新聞を積みあげたコースター・ワゴンをひっぱっていた。通りの向こうでは、老人が新しい芝生の上を用心深く歩きながら、踏鋤をつかって灌木のまわりを掘っている。クリーニング屋のトラックが大学のほうに向かって走っていった。ノーマンはつかのま眉間に皺を寄せた。そして反対側に目を向け、ズボンをはいた二人の女子学生が、シャツの裾を出したままという、教室では禁じられている恰好で、のんびり歩いてくるのを見た。
 
同時間に、同じ場所にあるが、ひとつひとつは関連しない異なる視覚的イメージを描写することで、単線的な小説の描写が、映像に近づいていく。もっとも映画でいえば、これは周囲の状況を説明するために一定のリズムで編集される、風景や雑踏を捉えたショットの連なりだろう。
 
このザッピング的な外の風景の挿入は、室内でみずからの内面に入り込んでいるノーマンからカメラが外れることで、彼が部屋でただ一人ぽつんといる状況を読者に意識させている。
 
これに加えて、飼い猫の視点をくりかえし登場させ、シークエンスを中断させることで、カメラがノーマンから引くような効果を出しており、また「誰かに見られている」という不安を読者に意識させている。
 
(猫の視点とホラー映画といえば、ジャック・ターナーキャット・ピープル』の一番有名なプールサイドのシーンを思い出す。あのシーンはただ猫がいるだけではなく、かなり珍しい「猫の主観ショット」さえ登場するのだが、かなり自然に挿入されているので、多分意識しないとわからない)
 
ノーマンは部屋を見ていくなかで、ためらいながらもゆっくりと妻の秘密に手を伸ばしていき、そのヴェールを段階的に剥がしていく。
 
ここのためらいと前進のくりかえしがまた上手い。じわじわと対象に迫るような間の取り方が不安を煽るのだ。とはいえ、引用するには長すぎるのでこのあたりは実際に読んでもらったほうがいいだろう。
 

妻という名の魔女たち (創元SF文庫)

妻という名の魔女たち (創元SF文庫)

 

 

伴名練『なめらかな世界と、その敵』読書会用リンク集

 やるので、リンク集でも作っておこうと思った

 

 

 

 基本系

伴名練 - Wikipedia

石黒達昌ファンブログ

なめらかな世界と、その敵

なめらかな世界と、その敵

 

 

公式

いま最も読まれているSFラブストーリー。『なめらかな世界と、その敵』|Hayakawa Books & Magazines(β)

 

「2010年代、世界で最もSFを愛した作家」伴名練1万字メッセージ|Hayakawa Books & Magazines(β)

 

『なめらかな世界と、その敵』印税の寄付について|Hayakawa Books & Magazines(β)

 

「ひかりよりも速く、ゆるやかに」試し読み

https://www.hayakawabooks.com/n/n0cfa8c1132ce

 

話題になった書評とか

この世界の中で、この世界を超えて――伴名練とSF的想像力の帰趨 - “文学少女”と名前のない著者

 

伴名練『なめらかな世界と、その敵』 最高の読み手による最強のSF短編集 - ねとらぼ

 

伴名練『なめらかな世界と、その敵』(早川書房)を読んで|橋本輝幸/@biotit|note

 

SFの中心で愛を叫んだ覆面作家 伴名練さんの新刊好調:朝日新聞デジタル

 

なめらかな世界と、その敵 感想 伴名 練 - 読書メーター

 

関連書籍

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少女禁区 (角川ホラー文庫)

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  ・伴名練特集

SFマガジン 2019年 10 月号

SFマガジン 2019年 10 月号

 

 

 

何かあればまた追記していきます。

 

クエンティン・タランティーノ『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』/俳優とスタントマン

 

タランティーノの9作目となる新作映画を見てきた。

 

なんというかシンプルかつ渋い映画で、タランティーノの名前にだけ惹かれて映画館に来た観客の中には、置いてけぼりを食った人もいるんじゃないだろうか(特にシャロン・テート殺害事件のことを知らなかった人)。

 

過去の監督作にあるアクの強さみたいなのも劇中劇にすこし出てくる程度で(黒人のキャストがほとんど?全く?登場しないのも理由の一端にありそう)、あとは本当に人々の日々の営みを映していくだけ……という感触だった。

 

また、隣人という以上には特に接点のない登場人物同士をカメラの移動撮影でつないでいく趣向せいか、カメラの距離感が非人間中心的で寒々しかった。こういうのって巨匠の遺作っぽい雰囲気で、アルトマンとか思い出したな~。

 

時代は1969年、場所はハリウッド。登場するのは、テレビ俳優として人気のピークを過ぎ、映画スターへの転身を目指すリック・ダルトンと、その運転手兼スタントマンのクリフ・ブース。

 

俳優とスタントマン。

 

このパートナーにはあからさまな寓意がこめられている。映画における嘘の暴力と、本当の暴力である。あるいは、演技とアクションとでもいうべきか。

 

序盤、ベトナム戦争の戦況を伝えるラジオ放送がインサートされる。共産主義者が何人死んだ、とかなんとかいうニュース。路上にはヒッピーが歩いている。

 

そして、リック・ダルトンのもとにやってくるプロデューサーは、ダルトンの出た映画の感想を口にし、マシンガンで撃つ真似をする。それっぽく加工された劇中劇がインサートされ、マシンガンを乱射したり、火炎放射器でナチを焼き殺したりするダルトンが映る。

 

「貸家はダメだ、持ち家を買え」とクリフに忠告するリック・ダルトンの家。その隣には新婚のロマン・ポランスキーシャロン・テートが仲睦まじく暮らしている。

 

映画に流れる時間はゆっくりとしていて、リック・ダルトン、クリフ・ブース、シャロン・テートの三人が、入れ替わるようにしてカメラの前に姿を表し、いくつかの挿話が語られる。

 

それは例えば、リック・ダルトンが飲みすぎてセリフを飛ばしてしまうという挿話。そしてパルプ小説の主人公に自分を重ねて泣いてしまい、八歳の子役に慰められるという挿話。

 

あるいは、トレーラー暮らしをして、犬に餌を与えるクリフ・ブースの孤独な夜の生活。整然と並べられた缶のドッグフードを取り出し、逆さまになった缶から中身が垂直落下する。広告的に撮影されるジャンクな食べ物。それを鍋のまま食べるクリフ。おともにはテレビジョン。

 

あるいは、自分が出た映画『サイレンサー第4弾/破壊部隊』を見てニコニコとするシャロン・テート。映画館の受付や支配人に、自分が出た映画なんだと言ってみても、彼らはシャロンのことをよく知らない。映画女優になったというウキウキを隠せないシャロン・テートと、世間には知られていないというギャップ。

 

クリフが運転をしていると幾度となく出会う、黒髪のヒッピー女。プッシーキャット。三度目の正直で彼女の住んでいるところまで車で案内すると、そこは寂れた廃墟同前の、かつて西部劇を撮影されていた場所。スパーン映画牧場だった。

 

そして史実のとおり、マンソンファミリーがそこを根城にしており、クリフの訪問はホラー映画のように演出される(あの長すぎる階段!)。撮影所の元管理人である盲目の老人がヒッピーに騙され、寄生されており、知り合いであるはずのクリフのことさえ覚えていないのだ。

 

半年後、マンソンファミリーは史実のとおりシャロン・テート宅近辺にやってくるが、その結果はいささか違うものになった。

 

イングロリアス・バスターズ』がそうであったように、この映画を、フィクションをもって現実の悲劇を救う映画だと指摘する声は多い。

 

しかしそれは不十分な指摘であるように思う。

 

確かに、クリフ・ブースとリック・ダルトンは事件の実行犯を撃退し、この映画にあって、シャロン・テートは生存する。

 

しかしながら、犯行前に実行犯のひとりが口にするのはこうだ。正確な引用はできないが、趣旨としてこうだった。「わたしたちはテレビで、映画で、嘘の暴力を見てきて育った。映画を通じて暴力を学んだのだから、それをやつら(=ハリウッド)に向けてやろう」と。

 

かくして映画の廃墟にすみついたマンソンファミリーは嘘の暴力を見て育ち、やがてハリウッドに本当の暴力を向けるのだが、それを本当の暴力の体現者であるクリフ・ブースが撃退する。容赦のない暴力をもって。

 

言ってしまえばクリフがやったのは、身から出た錆を払うことだ。

 

もちろん実際の話としては、シャロン・テートが標的になったのは偶然であり、ハリウッドがその責任を負わされるいわれはない。

 

しかしこの映画では、フィクションがただ現実の悲劇を救うだけではなく、映画と現実の暴力の関係が、作中で寓意的に描かれているのである。その意味でタランティーノは、映画が被害者だったというつもりはないのだろう。

 

これからも映画は嘘の暴力を描きつづけるだろうし、スパーン映画牧場のような廃墟も築かれるだろう。なにより、クリフとリックは別れてしまったのだし。

 

ただこの映画は、タランティーノの意図もあってか、ラストを除いて、暴力的なアクションシーンのほとんどない映画として作られている。

 

 *

 

わたしはタランティーノの映画を痛快だと感じたことがない。嘘だ。どのタランティーノの映画にも痛快さを感じたが、それ以上にずっと腹の脇のほうが痛くなるような、暗い気分にさせられる。それも嘘だ。近年のタランティーノの映画は政治的だし、リベラル派なのかもしれないが、倫理的に危うい場面で目を輝かせる。演出に弾みがつく。そこが重苦しいし、ねじくれていて楽しい。

 

前作『ヘイトフル・エイト』では、黒人の賞金稼ぎと白人の自称保安官が、嘘吐きの女囚を吊るしながら、仲間意識と遵法精神を獲得する。

 

イングロリアス・バスターズ』と『ジャンゴ』の暴力は、マイノリティの復讐といえど、いささかやり過ぎている。

 

タランティーノの描く暴力や、復讐や、人種差別、そしてクソ野郎の非道ぶりは、娯楽の素材としてポップに扱われているものの、政治的な題材を選択しているがために、単純な素材としては収まらないところがある(ヒトラーなら、あるいは距離を持って眺められるかもしれないが)。わたしはそこが美点だとは思うけど。

 

 

ところで、シャロン・テート殺害事件は50年前のできごとで、もう映画の題材として距離をもって扱えるレベルにあるのかもしれないが、やはり『イングロリアス・バスターズ』のヒトラーとはだいぶ距離感が異なるし、また『ヘイトフル・エイト』ほど問題が一般化されているわけでもないため、これまで以上に生々しいものになっている。

 

こういうことをやってもいいのか、と感じる人は出てくるだろう。自分もすこし引っかかった。

 

 

 

ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド オリジナル・サウンドトラック

ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド オリジナル・サウンドトラック

 

 

 

2018年に読んだ本ベスト

1.『官僚制のユートピア』デヴィッド・グレーバー

2.『DC ニューフロンティア』ダーウィン・クック
3.『金の仔牛』佐藤亜紀
4.『遊星よりの昆虫軍X』ジョン・スラデック
5.『女嫌いのための小品集』パトリシア・ハイスミス
6.『カエアンの聖衣』バリントン・J・ベイリー
7.『広告する小説』ジェニファー・A・ウィキー
8.『都市と都市』チャイナ・ミエヴィル
9.『宗教からよむ「アメリカ」』森孝一
10.『ワイオミングの惨劇』トレヴェニアン
 
年末年始、どうしてもこのベストが面白いと思えなかったのでやらなかったが、今見るとそれなりに昨年の己の精神状況がうかがえたので掲載してみた。
 
1.は『負債論』で有名な著者の最新作。身近なところに目が向いているところが楽しく、日々、書類仕事に憎悪を燃やしている人間として面白く読んだ。
 
2.は故ダーウィン・クックによる素晴らしき名作コミック。もしDCで1作薦めるなら、これを差し出すだろう。というか既に知人に貸しまくっている(とにかく読んで!)
 
3.はあまりにも面白くて久しぶりに徹夜で読んでしまった。
 
4.『ロデリック』が傑作だったので、スラデックはどれも面白いのだろうと踏んで読んだ。思いのほか『ロデリック』と共通するところが多い。人間の知性や言語に対する冷徹な評価が好きだ。
 
5.は女嫌いの自分にぴったりかと思い読んだ。
 
6.昨年読んだ一番面白いSF。この1冊をSFの面白さの指標として考えたい。あと解説でめちゃくちゃ馬鹿な作品みたいに言われているが、「服が人なり」というワンアイデアの展開と発展、そしてメインアイデアを補強するサブプロットの存在など、一見バラバラに見えるエピソード同士の構築性が高く、言われているほどアホではないと思う。
 
7.広告が文学を引用し、文学が広告を引用し、明らかになるのは両者の親和性である。
 
8.は個別記事を立てた。
 
9.アメリカがキリスト教的価値観を国家原理に据えつつも、実質的に多神教的な状況が出来上がっているという、かなり分かりやすい見通しが得られる。また、宗教保守についてもある程度の概略を知ることができた。多分この分野では基本書なんだろうけど、今まであまり知らなかった。
 
10.『グラン・ヴァカンス』の元ネタの一つと聞いて読んだけど、どうやらそれは『バスク、真夏の死』の方だったようだ。内容は陰惨なウエスタン小説で、確かにちょっと変わっているけど、西部劇はいくつもの異色作を抱えている巨大なジャンルなので、これでも十分にジャンルの枠内に収まる作品ではないでしょうか。
 

 

官僚制のユートピア テクノロジー、構造的愚かさ、リベラリズムの鉄則

官僚制のユートピア テクノロジー、構造的愚かさ、リベラリズムの鉄則

 

 

DC:ニューフロンティア 上 (DC COMICS)

DC:ニューフロンティア 上 (DC COMICS)

 
DC:ニューフロンティア 下 (DC COMICS)

DC:ニューフロンティア 下 (DC COMICS)

 

  

金の仔牛

金の仔牛

 

 

遊星よりの昆虫軍X (ハヤカワ文庫SF)

遊星よりの昆虫軍X (ハヤカワ文庫SF)

 

  

女嫌いのための小品集 (河出文庫)

女嫌いのための小品集 (河出文庫)

 

 

カエアンの聖衣〔新訳版〕 (ハヤカワ文庫SF)

カエアンの聖衣〔新訳版〕 (ハヤカワ文庫SF)

 

  

広告する小説(異貌の19世紀)

広告する小説(異貌の19世紀)

 

  

都市と都市 (ハヤカワ文庫SF)

都市と都市 (ハヤカワ文庫SF)

 

  

宗教からよむ「アメリカ」 (講談社選書メチエ)

宗教からよむ「アメリカ」 (講談社選書メチエ)

 

  

ワイオミングの惨劇 (新潮文庫)

ワイオミングの惨劇 (新潮文庫)

 

 

バー・スティアーズ『高慢と偏見とゾンビ』

 

高慢と偏見とゾンビ(字幕版)
 

 

まあタイトルの通りといえば、タイトルの通りなんだけど。
 
人の脳を食えば食うほどよりゾンビらしくなっていき、それを我慢すれば人間性を保持できるという比較的珍しいギミックが採用されている。そうして人間性の残ったゾンビは意思の疎通もできるし、なんなら人間社会にまぎれて生きることもできる、ということが冒頭で示される。この、社会性のあるゾンビというアイデアと、18世紀イギリスという舞台の組み合わせがよくて、思ったよりもずっと楽しめた。
 
思うに、身分制社会においては、ゾンビという題材はそのポテンシャルをさらに発揮できるのではないか。なぜなら、ゾンビは平等だからだ。貴族だろうが、平民だろうが、ゾンビはゾンビ。この身も蓋もない事実が、そもそもはじめから基本的に身も蓋もない現代社会を舞台にするよりも、効いてくるというわけだ。そして、人間社会にまぎれたり、罠を張ったり、宗教でまとまって人を食うことを我慢しているゾンビたちは、途中から民主革命のメタファーのようにも見えてくる。
 
もちろん、ベースになっているのは『高慢と偏見』なので、そういった背景はあるものの終盤はメロドラマとしてまとまっていくのが残念だった。見当違いの期待なのかもしれないけど、この映画を見にくるのは18世紀西欧を舞台にした恋愛ドラマを好む客ではなく、やはりゾンビ映画好きなのだと思う。なので、『高慢と偏見』の大筋を変えずにさりげなくゾンビを挿入していくという滑稽味が主眼に置かれることにはなるものの、原作とのズレや違和感が笑いの源泉なので、結局のところストーリー自体は『高慢と偏見』にならざるをえない……ここに企画の限界があるような気がする。もっとSF的な展開をして欲しかったが。
 
ただ、中国武術と日本武術が導入されていて、淑女がゾンビを殴り蹴り、剣で刺し、銃でぶっ飛ばすというボンクラぶりはいいスパイスになっていた。
 
衣装と美術に手を抜くわけにはいかない題材なので、その点はそれなりに見応えがある。どこまでが事後の加工なのかはわからないし、場面によってムラがあるものの、照明を頑張っているところもあり、モブシーンでは奥にいる人間にも芝居がつけられていて、女性を美しく撮ろうとしている。人工的で嘘っぽい、というかCGっぽい18世紀は、近年の映画だと『シンデレラ』を思い出した。
 
アクションシーンは、状況がまったくわからないものから、アップとロングをつなぐことで一応の把握ができるものまでムラがあり、スローモーションで撮ったり、殺されるゾンビの主観を使ったりして、スタイリッシュさを出そうとしているものの、タイトルから想像されるよりは大人しく、これならもっとはしゃいでもいいんじゃないかと思った。
 
原作は未読だし、繰り返しにはなるけど、有名作のパロディという観点から離れるとむしろ発展性があるのではないだろうか。

M・ナイト・シャマラン『ミスター・ガラス』

 

ミスター・ガラス (字幕版)

ミスター・ガラス (字幕版)

 

 

脚本の流れはかなりよかった。二人の超人の直接対決を出し惜しみせずに序盤からやってくれるのが嬉しい。その後は、ブルース・ウィリスジェームズ・マカヴォイも一旦捕えられてしまうんだけれども、『羊たちの沈黙』でレクター博士を捕らえておく展開のように、一度捕まってしまったからこそ味わえる「脱獄」のスリルが期待されて、申し分ない。この映画の面白さはシャマランの脚本ライティング能力にかなり負っていると思う。


それぞれ『アンブレイカブル』、『スプリット』以降、自分たちの活動を続けているブルース・ウィリスとマカヴォイがいて、二人が早々に巡り合って対決するのだが、決着がつく前に警察に囲まれて確保されてしまう。二人とも、裁判にかけられたり刑務所にぶちこまれたりはせず、妄想を抱えた患者として精神病院に幽閉されるわけだが、そこにはサミュエル・L・ジャクソンもいる。女の精神科医が、ウィリスとマカヴォイに、自分たちの超人性が妄想である可能性を説明し、その分析を聞かされた二人のアイデンティティには動揺が走る。一方のサミュエルは薬漬けで自分を失っているように見えるが、はっきりとしない。何かをたくらんでいるような様子が示唆される、、、という気になる展開になっているのだ。

そういう事情もあり、二人が精神病院前の広場で対決する場面までは、一般受けする商業映画としての出来とシャマランの作家性がある程度両立している、「普通に面白い」映画になっていたと思う。黒沢清だと『クリーピー』みたいな。


『ハプニング』までのシャマラン。そして『ヴィジット』で一度復活した、シャマランらしいシャマランは、前作『スプリット』で変質した。少なくとも自分には、90年代の黒沢清ゼロ年代以降の黒沢清が明確に異なるように、『スプリット』以前のシャマランとそれ以降のシャマランは違う。


でもそれはジム・ジャームッシュが『ストレンジャー・ザン・パラダイス』と『パターソン』で明確に異なるのと同じで、作家である以上、変質は免れないのだと思う。ずっと同じ事をやっていながらも、何かが変わってしまう。


シャマランが、製作のパートでも自分の作家性を保ったまま、これほどジャンル映画的なアクションシーンを撮るのは多分はじめてのことだろう。


これまでのシャマランは明らかにアクション映画向きの映画監督ではなく、どちらかといえばサスペンスや前兆をほのめかしていきながら話を進めていく傾向があったので、「シャマランが真正面からアクションを撮る!」というのは『ミスター・ガラス』を見るにあたって大いに気になっていたことだった。


最初の対決。まずお互いの力を比べあうというところで行われるのが、でかいテーブルの投げ合いである。て、テーブルの投げ合い? マジでそれでいくの? ちょっと地味じゃない?私は目を疑った。しかし力比べには違いない。二人の力が並外れているのも説明できている。しかし、なんというか絵面としてはとても滑稽な気がする。こういう細部の選択はいかにもシャマランだと思う。


『スプリット』の必見シーンである「おしっこかけちゃえ」を髣髴とさせる、近過ぎるカメラ位置もこのアクションシーンにあって顕在である。


マカヴォイとウィリスが精神科医に説き伏せられて、スーパーパワーが実は妄想だったのかもしれないと疑いはじめる場面。ここがシナリオ的にこの映画で一番シャマランらしいところだろう。巷の反応をみると、みな薄っぺらいフィクションを信じるところ、信仰の側面に着目してるし、確かにそこはシャマランが長年追及してきたテーマだが、、、信じていた現実が嘘だったとわかり、崩壊しはじめる感覚。単なるシナリオ上のギミックとも思われがちだが、これもまたテーマと関連して、長らくシャマランの映画に在り続けてきた感覚だ。


サミュエル・L・ジャクソン演じるイライジャもいい。脱獄の計画も見透かされいよいよ追い詰められたという段になって、実はすべて彼の演技だったことが判明する。イライジャは振り向き様にガラスの破片で職員の喉笛をかっ切るのだ。血まみれになったガラスは、同じような破片が散らばっている床に投げ捨てられ、次のセリフがつづく。「ずっとはまるピースを探していたんだ」。


いや〜、かっこいい〜。ここはこの映画で一番かっこいい場面だった。


またマカヴォイの「群れ」はフラッシュに弱く、当てると人格が強制的に入れ替わるという設定は、よかった。特に最初にそれを目の当たりにする男性職員とのシーンがいい。フラッシュを次々と当てながら人格が変わっていくという、マカヴォイの演技に頼った場面だが、出てくる人格はなんでもいいし、多分あの場面にしか出てこなかった人格もいるはずで、俳優の熱演を演出家がまるでオモチャのように使う楽しさがある。カメラをマカヴォイから外しつつフラッシュの頻度を上げていくという演出(ある種のテンプレ)はスリル満点だった。


最後の対決の地味さもすごい。『アヴェンジャーズ』よろしくタワーで対決すると思わせておいて、精神病院のすぐ目の前で最終対決がはじまってしまうのである。一人シネマティックユニバースということも相まって、ある意味では『ヴィジット』よりも微笑ましい手作り感がある。


ただ最後は甘いんじゃないかと思った。YouTubeに上がった動画の内容をみんなが信じるって...


『ヴィジット』ではもはや必要としていなかったパラノイア的トンでも展開が、『スプリット』や『ミスター・ガラス』では復活していたので、『ヴィジット』も本人的には自分の本当にやりたい仕事ではなかったのかなと思ってしまった(『ハプニング』以降のシャマランではもっとも好きな作品だけど)。


商業的には成功したということで、シャマランはここからどう発展していくんでしょうね。


撮影について気になった点は、見た目ショットが非常に多い。ズームも多い。内側からの切り返しも多い。というところでしょうか。

 

 

アンブレイカブル(字幕版)

アンブレイカブル(字幕版)

 

 

 

スプリット (字幕版)

スプリット (字幕版)