読書日記:フリッツ・ライバー『妻という名の魔女たち』
寝室の窓の外では、近所の子供が新聞を積みあげたコースター・ワゴンをひっぱっていた。通りの向こうでは、老人が新しい芝生の上を用心深く歩きながら、踏鋤をつかって灌木のまわりを掘っている。クリーニング屋のトラックが大学のほうに向かって走っていった。ノーマンはつかのま眉間に皺を寄せた。そして反対側に目を向け、ズボンをはいた二人の女子学生が、シャツの裾を出したままという、教室では禁じられている恰好で、のんびり歩いてくるのを見た。
伴名練『なめらかな世界と、その敵』読書会用リンク集
お知らせ:SF ・海外文学読書会(仮)第13回 9月14日(土)15~17時@大阪府立大学まちライブラリー(大国町駅)発売直後の伴名 練『なめらかな世界と、その敵』が課題本。申し込みは、@やDM下記FBページかメール:hikarakka@gmail.com
— hika (@hika02) August 21, 2019
などからどうぞ。https://t.co/STWorKaBBO
やるので、リンク集でも作っておこうと思った
基本系
公式
いま最も読まれているSFラブストーリー。『なめらかな世界と、その敵』|Hayakawa Books & Magazines(β)
「2010年代、世界で最もSFを愛した作家」伴名練1万字メッセージ|Hayakawa Books & Magazines(β)
『なめらかな世界と、その敵』印税の寄付について|Hayakawa Books & Magazines(β)
「ひかりよりも速く、ゆるやかに」試し読み
https://www.hayakawabooks.com/n/n0cfa8c1132ce
話題になった書評とか
この世界の中で、この世界を超えて――伴名練とSF的想像力の帰趨 - “文学少女”と名前のない著者
伴名練『なめらかな世界と、その敵』 最高の読み手による最強のSF短編集 - ねとらぼ
伴名練『なめらかな世界と、その敵』(早川書房)を読んで|橋本輝幸/@biotit|note
SFの中心で愛を叫んだ覆面作家 伴名練さんの新刊好調:朝日新聞デジタル
関連書籍
- 作者: 伴名練,シライシユウコ
- 出版社/メーカー: 角川書店(角川グループパブリッシング)
- 発売日: 2010/10/23
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・伴名練特集
何かあればまた追記していきます。
クエンティン・タランティーノ『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』/俳優とスタントマン
タランティーノの9作目となる新作映画を見てきた。
なんというかシンプルかつ渋い映画で、タランティーノの名前にだけ惹かれて映画館に来た観客の中には、置いてけぼりを食った人もいるんじゃないだろうか(特にシャロン・テート殺害事件のことを知らなかった人)。
過去の監督作にあるアクの強さみたいなのも劇中劇にすこし出てくる程度で(黒人のキャストがほとんど?全く?登場しないのも理由の一端にありそう)、あとは本当に人々の日々の営みを映していくだけ……という感触だった。
また、隣人という以上には特に接点のない登場人物同士をカメラの移動撮影でつないでいく趣向せいか、カメラの距離感が非人間中心的で寒々しかった。こういうのって巨匠の遺作っぽい雰囲気で、アルトマンとか思い出したな~。
時代は1969年、場所はハリウッド。登場するのは、テレビ俳優として人気のピークを過ぎ、映画スターへの転身を目指すリック・ダルトンと、その運転手兼スタントマンのクリフ・ブース。
俳優とスタントマン。
このパートナーにはあからさまな寓意がこめられている。映画における嘘の暴力と、本当の暴力である。あるいは、演技とアクションとでもいうべきか。
序盤、ベトナム戦争の戦況を伝えるラジオ放送がインサートされる。共産主義者が何人死んだ、とかなんとかいうニュース。路上にはヒッピーが歩いている。
そして、リック・ダルトンのもとにやってくるプロデューサーは、ダルトンの出た映画の感想を口にし、マシンガンで撃つ真似をする。それっぽく加工された劇中劇がインサートされ、マシンガンを乱射したり、火炎放射器でナチを焼き殺したりするダルトンが映る。
「貸家はダメだ、持ち家を買え」とクリフに忠告するリック・ダルトンの家。その隣には新婚のロマン・ポランスキーとシャロン・テートが仲睦まじく暮らしている。
映画に流れる時間はゆっくりとしていて、リック・ダルトン、クリフ・ブース、シャロン・テートの三人が、入れ替わるようにしてカメラの前に姿を表し、いくつかの挿話が語られる。
それは例えば、リック・ダルトンが飲みすぎてセリフを飛ばしてしまうという挿話。そしてパルプ小説の主人公に自分を重ねて泣いてしまい、八歳の子役に慰められるという挿話。
あるいは、トレーラー暮らしをして、犬に餌を与えるクリフ・ブースの孤独な夜の生活。整然と並べられた缶のドッグフードを取り出し、逆さまになった缶から中身が垂直落下する。広告的に撮影されるジャンクな食べ物。それを鍋のまま食べるクリフ。おともにはテレビジョン。
あるいは、自分が出た映画『サイレンサー第4弾/破壊部隊』を見てニコニコとするシャロン・テート。映画館の受付や支配人に、自分が出た映画なんだと言ってみても、彼らはシャロンのことをよく知らない。映画女優になったというウキウキを隠せないシャロン・テートと、世間には知られていないというギャップ。
クリフが運転をしていると幾度となく出会う、黒髪のヒッピー女。プッシーキャット。三度目の正直で彼女の住んでいるところまで車で案内すると、そこは寂れた廃墟同前の、かつて西部劇を撮影されていた場所。スパーン映画牧場だった。
そして史実のとおり、マンソンファミリーがそこを根城にしており、クリフの訪問はホラー映画のように演出される(あの長すぎる階段!)。撮影所の元管理人である盲目の老人がヒッピーに騙され、寄生されており、知り合いであるはずのクリフのことさえ覚えていないのだ。
半年後、マンソンファミリーは史実のとおりシャロン・テート宅近辺にやってくるが、その結果はいささか違うものになった。
『イングロリアス・バスターズ』がそうであったように、この映画を、フィクションをもって現実の悲劇を救う映画だと指摘する声は多い。
しかしそれは不十分な指摘であるように思う。
確かに、クリフ・ブースとリック・ダルトンは事件の実行犯を撃退し、この映画にあって、シャロン・テートは生存する。
しかしながら、犯行前に実行犯のひとりが口にするのはこうだ。正確な引用はできないが、趣旨としてこうだった。「わたしたちはテレビで、映画で、嘘の暴力を見てきて育った。映画を通じて暴力を学んだのだから、それをやつら(=ハリウッド)に向けてやろう」と。
かくして映画の廃墟にすみついたマンソンファミリーは嘘の暴力を見て育ち、やがてハリウッドに本当の暴力を向けるのだが、それを本当の暴力の体現者であるクリフ・ブースが撃退する。容赦のない暴力をもって。
言ってしまえばクリフがやったのは、身から出た錆を払うことだ。
もちろん実際の話としては、シャロン・テートが標的になったのは偶然であり、ハリウッドがその責任を負わされるいわれはない。
しかしこの映画では、フィクションがただ現実の悲劇を救うだけではなく、映画と現実の暴力の関係が、作中で寓意的に描かれているのである。その意味でタランティーノは、映画が被害者だったというつもりはないのだろう。
これからも映画は嘘の暴力を描きつづけるだろうし、スパーン映画牧場のような廃墟も築かれるだろう。なにより、クリフとリックは別れてしまったのだし。
ただこの映画は、タランティーノの意図もあってか、ラストを除いて、暴力的なアクションシーンのほとんどない映画として作られている。
*
わたしはタランティーノの映画を痛快だと感じたことがない。嘘だ。どのタランティーノの映画にも痛快さを感じたが、それ以上にずっと腹の脇のほうが痛くなるような、暗い気分にさせられる。それも嘘だ。近年のタランティーノの映画は政治的だし、リベラル派なのかもしれないが、倫理的に危うい場面で目を輝かせる。演出に弾みがつく。そこが重苦しいし、ねじくれていて楽しい。
前作『ヘイトフル・エイト』では、黒人の賞金稼ぎと白人の自称保安官が、嘘吐きの女囚を吊るしながら、仲間意識と遵法精神を獲得する。
『イングロリアス・バスターズ』と『ジャンゴ』の暴力は、マイノリティの復讐といえど、いささかやり過ぎている。
タランティーノの描く暴力や、復讐や、人種差別、そしてクソ野郎の非道ぶりは、娯楽の素材としてポップに扱われているものの、政治的な題材を選択しているがために、単純な素材としては収まらないところがある(ヒトラーなら、あるいは距離を持って眺められるかもしれないが)。わたしはそこが美点だとは思うけど。
*
ところで、シャロン・テート殺害事件は50年前のできごとで、もう映画の題材として距離をもって扱えるレベルにあるのかもしれないが、やはり『イングロリアス・バスターズ』のヒトラーとはだいぶ距離感が異なるし、また『ヘイトフル・エイト』ほど問題が一般化されているわけでもないため、これまで以上に生々しいものになっている。
こういうことをやってもいいのか、と感じる人は出てくるだろう。自分もすこし引っかかった。
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2018年に読んだ本ベスト
1.『官僚制のユートピア』デヴィッド・グレーバー
官僚制のユートピア テクノロジー、構造的愚かさ、リベラリズムの鉄則
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バー・スティアーズ『高慢と偏見とゾンビ』
M・ナイト・シャマラン『ミスター・ガラス』
脚本の流れはかなりよかった。二人の超人の直接対決を出し惜しみせずに序盤からやってくれるのが嬉しい。その後は、ブルース・ウィリスもジェームズ・マカヴォイも一旦捕えられてしまうんだけれども、『羊たちの沈黙』でレクター博士を捕らえておく展開のように、一度捕まってしまったからこそ味わえる「脱獄」のスリルが期待されて、申し分ない。この映画の面白さはシャマランの脚本ライティング能力にかなり負っていると思う。
それぞれ『アンブレイカブル』、『スプリット』以降、自分たちの活動を続けているブルース・ウィリスとマカヴォイがいて、二人が早々に巡り合って対決するのだが、決着がつく前に警察に囲まれて確保されてしまう。二人とも、裁判にかけられたり刑務所にぶちこまれたりはせず、妄想を抱えた患者として精神病院に幽閉されるわけだが、そこにはサミュエル・L・ジャクソンもいる。女の精神科医が、ウィリスとマカヴォイに、自分たちの超人性が妄想である可能性を説明し、その分析を聞かされた二人のアイデンティティには動揺が走る。一方のサミュエルは薬漬けで自分を失っているように見えるが、はっきりとしない。何かをたくらんでいるような様子が示唆される、、、という気になる展開になっているのだ。
そういう事情もあり、二人が精神病院前の広場で対決する場面までは、一般受けする商業映画としての出来とシャマランの作家性がある程度両立している、「普通に面白い」映画になっていたと思う。黒沢清だと『クリーピー』みたいな。
『ハプニング』までのシャマラン。そして『ヴィジット』で一度復活した、シャマランらしいシャマランは、前作『スプリット』で変質した。少なくとも自分には、90年代の黒沢清とゼロ年代以降の黒沢清が明確に異なるように、『スプリット』以前のシャマランとそれ以降のシャマランは違う。
でもそれはジム・ジャームッシュが『ストレンジャー・ザン・パラダイス』と『パターソン』で明確に異なるのと同じで、作家である以上、変質は免れないのだと思う。ずっと同じ事をやっていながらも、何かが変わってしまう。
シャマランが、製作のパートでも自分の作家性を保ったまま、これほどジャンル映画的なアクションシーンを撮るのは多分はじめてのことだろう。
これまでのシャマランは明らかにアクション映画向きの映画監督ではなく、どちらかといえばサスペンスや前兆をほのめかしていきながら話を進めていく傾向があったので、「シャマランが真正面からアクションを撮る!」というのは『ミスター・ガラス』を見るにあたって大いに気になっていたことだった。
最初の対決。まずお互いの力を比べあうというところで行われるのが、でかいテーブルの投げ合いである。て、テーブルの投げ合い? マジでそれでいくの? ちょっと地味じゃない?私は目を疑った。しかし力比べには違いない。二人の力が並外れているのも説明できている。しかし、なんというか絵面としてはとても滑稽な気がする。こういう細部の選択はいかにもシャマランだと思う。
『スプリット』の必見シーンである「おしっこかけちゃえ」を髣髴とさせる、近過ぎるカメラ位置もこのアクションシーンにあって顕在である。
マカヴォイとウィリスが精神科医に説き伏せられて、スーパーパワーが実は妄想だったのかもしれないと疑いはじめる場面。ここがシナリオ的にこの映画で一番シャマランらしいところだろう。巷の反応をみると、みな薄っぺらいフィクションを信じるところ、信仰の側面に着目してるし、確かにそこはシャマランが長年追及してきたテーマだが、、、信じていた現実が嘘だったとわかり、崩壊しはじめる感覚。単なるシナリオ上のギミックとも思われがちだが、これもまたテーマと関連して、長らくシャマランの映画に在り続けてきた感覚だ。
サミュエル・L・ジャクソン演じるイライジャもいい。脱獄の計画も見透かされいよいよ追い詰められたという段になって、実はすべて彼の演技だったことが判明する。イライジャは振り向き様にガラスの破片で職員の喉笛をかっ切るのだ。血まみれになったガラスは、同じような破片が散らばっている床に投げ捨てられ、次のセリフがつづく。「ずっとはまるピースを探していたんだ」。
いや〜、かっこいい〜。ここはこの映画で一番かっこいい場面だった。
またマカヴォイの「群れ」はフラッシュに弱く、当てると人格が強制的に入れ替わるという設定は、よかった。特に最初にそれを目の当たりにする男性職員とのシーンがいい。フラッシュを次々と当てながら人格が変わっていくという、マカヴォイの演技に頼った場面だが、出てくる人格はなんでもいいし、多分あの場面にしか出てこなかった人格もいるはずで、俳優の熱演を演出家がまるでオモチャのように使う楽しさがある。カメラをマカヴォイから外しつつフラッシュの頻度を上げていくという演出(ある種のテンプレ)はスリル満点だった。
最後の対決の地味さもすごい。『アヴェンジャーズ』よろしくタワーで対決すると思わせておいて、精神病院のすぐ目の前で最終対決がはじまってしまうのである。一人シネマティックユニバースということも相まって、ある意味では『ヴィジット』よりも微笑ましい手作り感がある。
ただ最後は甘いんじゃないかと思った。YouTubeに上がった動画の内容をみんなが信じるって...
『ヴィジット』ではもはや必要としていなかったパラノイア的トンでも展開が、『スプリット』や『ミスター・ガラス』では復活していたので、『ヴィジット』も本人的には自分の本当にやりたい仕事ではなかったのかなと思ってしまった(『ハプニング』以降のシャマランではもっとも好きな作品だけど)。
商業的には成功したということで、シャマランはここからどう発展していくんでしょうね。
撮影について気になった点は、見た目ショットが非常に多い。ズームも多い。内側からの切り返しも多い。というところでしょうか。