制作と歩くこと

宇多田ヒカル「仕事柄よく歩くんですけど」

以前、「マツコの知らない世界」というテレビ番組に宇多田ヒカルが出演して話題になったことがあった。


わたしも、宇多田ヒカルのファンだったので(それもかなり年季の入ったファンだ)、ものすごく久しぶりのテレビ出演に喜び、ドキドキしながらリアルタイムで見ていた。


一見してわかるように、宇多田ヒカルはテレビ向きの人間ではない。


なんというか、テレビが求めているようなリアクションやコメントをしないのだ。しないというか、感覚的にそういうものがわかっていないような感じがある。


もちろんファンはそんなこと分かり切っているので、その放送事故スレスレの出演を、そういうものとして楽しむのが常であるのだが(少なくとも自分はそうだ)、その回でも独自の世界観を展開しており、多くのそれほど宇多田ヒカルに興味のない人は、ハラハラしたか退屈したか、そのどちらかだろう。


出演中ずっとそんな感じだったのでさらっと流れたが、宇多田ヒカルがぼそっと「わたしは仕事柄よく歩くんですけど」と口にしていた。


マツコはこれに反応できず、(なんでミュージシャン=よく歩く、なの?)と戸惑っているように見えた。


その後も特に、「なぜ宇多田ヒカルは仕事柄よく歩くのか」、本人の口から説明されることもなく、自明のものとして話は進んでいったのだが(こういうところが多分、テレビ向きではない)、見ているわたしとしては、とてもよくわかることだった。


歩くこと

『デジタル・ミニマリスト 本当に大切なことに集中する』という本がある。


この本は、要約するとつまり、「戦略的にスマホとの接続を絶って、終始こちらの注意力を奪われるような状態から逃れよう」といった感じの思想書であり実践の書だ。


この本は同時に、スマホを断つことで得られる、孤独の豊かさ、一人だけの思索の時間の大切さについても触れている。


そのなかで「歩くこと」の大切さについて言及しているのだが、いわく、


ニーチェは一日最大八時間歩く


アルチュール・ランボーもたびたび徒歩の長い旅に出ていた


ルソーは次のように書いている『ほかに何もせずただ歩くとき、田園は私の書斎となる』


そのほか、様々な”ウォーカー”たちの歩きっぷりと、その効用について書かれているのだが、個人的にこの感覚はとてもよくわかる。


わたしも歩かないとアウトプットや思索ができないタイプで、親からはよく「熊のように室内をうろうろと歩く」と言われていた。


試験勉強をするときは、ひたすら英語の教科書を暗唱しながら部屋をうろつき回ったりするし、小説を書くときに繁華街をうろうろしながらスマホに打ちこむことがある。


これがランニングではうまくいかない。走る行為にはエネルギーを多く使うせいか、頭で物を考えられなくなるのだ。


小説であれ音楽であれ映画であれ、何であれ制作のためには、実際に制作している時間とはべつに、無目的の、ただ無為に時間が流れているだけのようにも思えるような精神的ゆとりが必要で、そのため「制作をする人はよく歩く」のかもしれない。


あるいはただ多動症っぽいだけなのかも。

サフディ兄弟『アンカット・ダイヤモンド』


以下では、内容に触れているけど、この映画の面白さのひとつに、目の前で起きている事態がすぐには把握できないこと、そして段々と事実関係がわかってくるという点があるので、まだ未見で、かつ体験を阻害されたくない人はブラウザバックすることを推奨する。


  • イカれたユダヤの宝石商ハワード・ラトナーは、ギャンブル中毒であちこちに借金をしまくり、敵を作りまくり、商売女と浮気をして、家族関係は冷え切っている。
    • 義兄のアルノにまで借金をしているのでその用心棒から常に監視を受けている始末。
    • どのくらいイカれているかというと、有名バスケプレイヤーのKGに、オパールの原石を預ける担保として手に入れた時計を、そのまま質に入れてスポーツ賭博に全額突っ込むくらいにはイカれている。
    • 借金取りに命を狙われているのに、せっかく手に入れた儲けを、構わずぜんぶハイリスクハイリターンの賭けに突っ込んでしまう。


  • 基本は修羅場の連続で、映画を牽引していく。
  • 「人がめちゃくちゃ訪問してくる」+「主人公が文字通り他人の話を聞かない」の合わせ技がいい。
  • このおかげで、ダイアローグがすごく複雑になっていて面白い。
  • ハワードの仕事と、オフィスの構造に起因するところが大きい。
    • 色んな人間と商売をし、借金をし、賭博をする、個人事業主であるハワードにとって、コミュニケーションを取らなければならない相手はものすごく多い。
    • さらにオフィスの構造が効いてくる。事務所→ドア一枚→宝石売場→ドア二枚→廊下、という多層構造で、複数の訪問者が入り乱れることを可能にしており、さらにここに電話が加わってくるので場は益々カオスになる。
    • 二枚のドアはスイッチによる開閉式で、開く時にブザーが鳴る。
    • また、二枚のドアの間にも空間があることが面白い。
    • ハワードは常に複数現れる会話のうち「どれを無視して、どれに取り合うか」を選択し続ける必要があって、その選択が人柄を表しもするし、またそれによって状況が動いていく。
    • このオフィスの造形が極めて複雑なダイアローグ(場面によっては3つ以上あるからそれどころではない)を可能にしており、まさにこの映画の根幹ではないかと思った。


  • 印象的なラブシーンがある。
    • 宝石売場を借金取りに占拠された状態で、ハワードはその奥にある事務所に引っ込んでいるのだが、手に入れた資金をなんとか賭けの場に持っていきたいという場面。
    • ハワードは宝石売場にいる愛人に電話をかけて、部屋を出るように指示する。
    • その愛人は、口実をつくって売り場を離れると、同じ建物で、ちょうどハワードの事務所の窓の隣にある別の窓にたどりつき、お互いに窓から身体を突き出して、大金の入ったバッグを手渡すというシーン。
    • なんとかバッグは手渡せるけど、触れられはしないという距離が、幸福感のあるラブシーンの演出に活かされる。


  • 説明的な場面やセリフがほとんどなくて、全体的に作り物っぽさがあまりない。ドキュメンタリータッチで、「カメラの前で本当にこういうことが起こっていますよ」という感じ。
    • 被写体とカメラの距離は比較的近い。バストアップが多い。
    • レイアウトや審美性を重視するというよりも、被写体そのものがシェイクすることで映画もシェイクしていく感じ。
    • 移動撮影は多い。人物の後を追って回り込むような撮影が頻出する。

読書記録「MONKEY vol.20 探偵の一ダース」

 

ずっと長編小説を書いていて、ようやく解放された。 というわけで、ブログを停止している間に読んだ短編の感想を書いておく。



  • 柴崎友香「帰れない探偵」
    • タイトルの通り、自宅への帰り方を忘れてしまった探偵。彼が毎日を耐え凌ぐために仕事をする様子が描かれる。「今から十年くらいあとの話。」という奇妙な書き出しから始まって、坂道が多いという街の説明が挟まる。舞台となる街は具体的な地名が出てくるわけではなく、匿名的な街なんだけど、そのロケーションが魅力的なので想像力がかき立てられた。
    • 探偵で都市というと紋切り型の印象はあったけど、ここで語られる都市は再開発や取り壊し、建て直しによって地図が随時書き換えられていく動的なもので、人は過去あった建物のことを覚えていないし、古地図のデジタルデータに語り手は、「加工された痕があるのではないか」という違和感を拭えない。世界に穴が空いている、という感覚は同著者の過去作にもあったなと思う。


  • バリー・ユアグロー「鵞鳥」
    • 名指しはされていないが、ホームズ、ワトソンの出てくるショートショートでパロディ。ホームズに心底うんざりしていることを自覚したワトソンが非常に地味な嫌がらせをしている。不愉快な爽快感とでも表現すべき、不思議な読後感がある。
    • この人の小説を読むのは初めて。


  • 円城塔「男・右靴・石」
    • 円城塔の探偵小説、ということ以上のことは何も言えそうにない。記者と探偵のやりとりが面白い。いつのまにか記者と探偵のすり替えを試みようとする探偵の語りが面白い。  

2019年をふりかえる

最近追っているアメコミの連載について感想でも書こうかと思ったけど、面倒臭いのでやめた。
 
代わりにこの1年を振り返ることにした。
 
 
●できるようになったこと、とか
 
・結婚した 
 孤独がいかに健康に悪いのかは、科学的な研究でも多くの証拠が出ており、経験からも明らかである。また、二人で暮らすことで固定費が下がるし、種々の選択肢も増える。これは功利的に正しい選択だと思うが、具体的な結婚はそういう打算とはあまり関係なく進んだ。
 
・仕事が大変になってきた
    この一年で業務範囲が明らかに拡大し、それに伴って若干の政治力もついてきたけど、実力も年齢も役職もあるべき理想像からすれば足りなくて、ストレスと残業時間が目下のところ加速している。実務でキャッチアップしている人間が自分しかいないという切迫感は、何よりも勉強のモチベーションになる(ぐるぐる目)。
 
・アメコミを読むことを楽しみにできた
   アメコミにはじめて触れたのは大学時代だけど、まずそのスタイルに慣れるまで、翻訳だろうとアメコミを読むこと自体に少し「お勉強」の感があった。今年はそれを払拭し、純粋に楽しみとしてアメコミを読み、未訳のアメコミもあくまで楽しみとして読めるようになった。社会人になったことで好みが狭く、固定化されて、日本語であるか英語であるかより、好みかどうかの方が重要視されるようになった。DCだけとはいえ、連載をリアルタイムで追うようになったのも今年からだ。来年はもっとアメコミ関連の記事を書ければいいなと思っている。
 
iPad Proを買った
 早く買えばよかったと思っている。漫画を読むのに最適で、これがなかったらアメコミを読む習慣は作れなかったと思う。また、場所をとっていた書籍を大幅に電子化することができて、特に勉強や仕事に使う書籍をいちいち持ち運ぶ必要がなくなってよかった。OCR万歳。小説を書くデバイスとしても悪くない。とはいえ、もちろんPCの完全な代替にはならないことを実感する場面も多い。
 
 
●できなかったこと
 
・長編小説の締め切りがやばい
 1年に1作長編を書こうとして、今年もちんたら書いていたら結婚に関わる諸々のイベントもあって進捗率がヤバいことになっている。仕事が忙しくなってきたことで、趣味として小説を書くのもかなり辛い感じになってきた。職業人生をある程度犠牲にして小説を楽しみとして書いてきたけど、それもそろそろ難しいのかもしれない。
 
・ジムに行っていない
 せっかく契約したジムにあまり行けていない。羞恥心とか、会員カードをしばしば失くす迂闊さが足かせになっている。運動不足解消は来年の目標だ。
 
・勉強が中途半端
 結婚に関わる諸々のイベントもあって、専門の勉強があまりできていない。継ぎ接ぎでなんとかしている。胃によくない。
 
 
●来年やりたいこと
 
・プログラミング
 仕事に使えないかなと思っている。MacBookか何か、買わなきゃな。
 
神経生物学
 SFを読む人間として『スタンフォード神経生物学』を楽しく読みたい。
 
・専門
 資格の勉強したいですね。
 
・英語
 転職用に、資格の勉強したいですね。あと趣味でアメコミと小説を、もっと楽しみとして読めるようになりたい。
 
・小説
 長編小説をなんとしても完成させる。させます。

読書日記:フリッツ・ライバー『妻という名の魔女たち』

フリッツ・ライバーを読みたい気分なので、『妻という名の魔女たち』を読んでいる。
 
まだ半分ほどだが、内容としては保守的な土地柄にあるヘンプネル大学で教えているノーマンという教員が、妻の魔術道具を見つけてしまったことをきっかけに、実は教員たちの妻がそれぞれ魔術を使って夫を守っている(そして競争相手を蹴落とすために相手の夫を呪っている)のではないかという疑心に囚われるというもの。
 
いわば内助の功を、オカルティックに解釈した小説なんだけど、最初の章のシーン作りがほとんど完璧なホラー映画になっていて驚いた。
 
もっともライバーの視覚的シークエンスの描写力、演出力はすでに故殊能将之氏の記事などで広く知られているところだが、今回はまるまる一章分が見事なシークエンスになっていてすごく感じ入った。非常にさりげないが、本当に上手い。
 
全体としては、ノーマンが妻の魔術道具を発見してしまうまでのシークエンスなのだが、まず冒頭で妻の秘密を発見することについて無気味なイメージをちらつかせる。ホラー映画の冒頭で、不安な夢を見てしまうような場面に当たるのだと思う。
 
もちろんノーマンとて、青髭の好奇心旺盛な妻たちに何が起こったのかは知っていた。事実、いつだったか、女たちが吊られるこの不思議な話の潜在要素を、精神分析の手法によって、かなりつっこんで調べてみたことがある。しかし同じような驚きが、夫を、それも現代の夫を待ちうけているとは、考えたこともなかった。もしかしてクリーム色に輝くあのドアの背後で、ハンサムな男が六人もフックにかけられているのか。そんなふうに思っただけでも笑いがこみあげたことだろう
 
このあと、自らの家を視覚的に描写しつつ、そこにあるインテリアや家具から想起して、自分と妻の関係や、職業生活、過去にあったできごとを説明していく導入のパートがつづく。
 
この間ずっと室内にいるわけだが、時折、外の風景がザッピング的に挿入される。
 
寝室の窓の外では、近所の子供が新聞を積みあげたコースター・ワゴンをひっぱっていた。通りの向こうでは、老人が新しい芝生の上を用心深く歩きながら、踏鋤をつかって灌木のまわりを掘っている。クリーニング屋のトラックが大学のほうに向かって走っていった。ノーマンはつかのま眉間に皺を寄せた。そして反対側に目を向け、ズボンをはいた二人の女子学生が、シャツの裾を出したままという、教室では禁じられている恰好で、のんびり歩いてくるのを見た。
 
同時間に、同じ場所にあるが、ひとつひとつは関連しない異なる視覚的イメージを描写することで、単線的な小説の描写が、映像に近づいていく。もっとも映画でいえば、これは周囲の状況を説明するために一定のリズムで編集される、風景や雑踏を捉えたショットの連なりだろう。
 
このザッピング的な外の風景の挿入は、室内でみずからの内面に入り込んでいるノーマンからカメラが外れることで、彼が部屋でただ一人ぽつんといる状況を読者に意識させている。
 
これに加えて、飼い猫の視点をくりかえし登場させ、シークエンスを中断させることで、カメラがノーマンから引くような効果を出しており、また「誰かに見られている」という不安を読者に意識させている。
 
(猫の視点とホラー映画といえば、ジャック・ターナーキャット・ピープル』の一番有名なプールサイドのシーンを思い出す。あのシーンはただ猫がいるだけではなく、かなり珍しい「猫の主観ショット」さえ登場するのだが、かなり自然に挿入されているので、多分意識しないとわからない)
 
ノーマンは部屋を見ていくなかで、ためらいながらもゆっくりと妻の秘密に手を伸ばしていき、そのヴェールを段階的に剥がしていく。
 
ここのためらいと前進のくりかえしがまた上手い。じわじわと対象に迫るような間の取り方が不安を煽るのだ。とはいえ、引用するには長すぎるのでこのあたりは実際に読んでもらったほうがいいだろう。
 

妻という名の魔女たち (創元SF文庫)

妻という名の魔女たち (創元SF文庫)

 

 

伴名練『なめらかな世界と、その敵』読書会用リンク集

 やるので、リンク集でも作っておこうと思った

 

 

 

 基本系

伴名練 - Wikipedia

石黒達昌ファンブログ

なめらかな世界と、その敵

なめらかな世界と、その敵

 

 

公式

いま最も読まれているSFラブストーリー。『なめらかな世界と、その敵』|Hayakawa Books & Magazines(β)

 

「2010年代、世界で最もSFを愛した作家」伴名練1万字メッセージ|Hayakawa Books & Magazines(β)

 

『なめらかな世界と、その敵』印税の寄付について|Hayakawa Books & Magazines(β)

 

「ひかりよりも速く、ゆるやかに」試し読み

https://www.hayakawabooks.com/n/n0cfa8c1132ce

 

話題になった書評とか

この世界の中で、この世界を超えて――伴名練とSF的想像力の帰趨 - “文学少女”と名前のない著者

 

伴名練『なめらかな世界と、その敵』 最高の読み手による最強のSF短編集 - ねとらぼ

 

伴名練『なめらかな世界と、その敵』(早川書房)を読んで|橋本輝幸/@biotit|note

 

SFの中心で愛を叫んだ覆面作家 伴名練さんの新刊好調:朝日新聞デジタル

 

なめらかな世界と、その敵 感想 伴名 練 - 読書メーター

 

関連書籍

なめらかな社会とその敵

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少女禁区 (角川ホラー文庫)

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  ・伴名練特集

SFマガジン 2019年 10 月号

SFマガジン 2019年 10 月号

 

 

 

何かあればまた追記していきます。

 

クエンティン・タランティーノ『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』/俳優とスタントマン

 

タランティーノの9作目となる新作映画を見てきた。

 

なんというかシンプルかつ渋い映画で、タランティーノの名前にだけ惹かれて映画館に来た観客の中には、置いてけぼりを食った人もいるんじゃないだろうか(特にシャロン・テート殺害事件のことを知らなかった人)。

 

過去の監督作にあるアクの強さみたいなのも劇中劇にすこし出てくる程度で(黒人のキャストがほとんど?全く?登場しないのも理由の一端にありそう)、あとは本当に人々の日々の営みを映していくだけ……という感触だった。

 

また、隣人という以上には特に接点のない登場人物同士をカメラの移動撮影でつないでいく趣向せいか、カメラの距離感が非人間中心的で寒々しかった。こういうのって巨匠の遺作っぽい雰囲気で、アルトマンとか思い出したな~。

 

時代は1969年、場所はハリウッド。登場するのは、テレビ俳優として人気のピークを過ぎ、映画スターへの転身を目指すリック・ダルトンと、その運転手兼スタントマンのクリフ・ブース。

 

俳優とスタントマン。

 

このパートナーにはあからさまな寓意がこめられている。映画における嘘の暴力と、本当の暴力である。あるいは、演技とアクションとでもいうべきか。

 

序盤、ベトナム戦争の戦況を伝えるラジオ放送がインサートされる。共産主義者が何人死んだ、とかなんとかいうニュース。路上にはヒッピーが歩いている。

 

そして、リック・ダルトンのもとにやってくるプロデューサーは、ダルトンの出た映画の感想を口にし、マシンガンで撃つ真似をする。それっぽく加工された劇中劇がインサートされ、マシンガンを乱射したり、火炎放射器でナチを焼き殺したりするダルトンが映る。

 

「貸家はダメだ、持ち家を買え」とクリフに忠告するリック・ダルトンの家。その隣には新婚のロマン・ポランスキーシャロン・テートが仲睦まじく暮らしている。

 

映画に流れる時間はゆっくりとしていて、リック・ダルトン、クリフ・ブース、シャロン・テートの三人が、入れ替わるようにしてカメラの前に姿を表し、いくつかの挿話が語られる。

 

それは例えば、リック・ダルトンが飲みすぎてセリフを飛ばしてしまうという挿話。そしてパルプ小説の主人公に自分を重ねて泣いてしまい、八歳の子役に慰められるという挿話。

 

あるいは、トレーラー暮らしをして、犬に餌を与えるクリフ・ブースの孤独な夜の生活。整然と並べられた缶のドッグフードを取り出し、逆さまになった缶から中身が垂直落下する。広告的に撮影されるジャンクな食べ物。それを鍋のまま食べるクリフ。おともにはテレビジョン。

 

あるいは、自分が出た映画『サイレンサー第4弾/破壊部隊』を見てニコニコとするシャロン・テート。映画館の受付や支配人に、自分が出た映画なんだと言ってみても、彼らはシャロンのことをよく知らない。映画女優になったというウキウキを隠せないシャロン・テートと、世間には知られていないというギャップ。

 

クリフが運転をしていると幾度となく出会う、黒髪のヒッピー女。プッシーキャット。三度目の正直で彼女の住んでいるところまで車で案内すると、そこは寂れた廃墟同前の、かつて西部劇を撮影されていた場所。スパーン映画牧場だった。

 

そして史実のとおり、マンソンファミリーがそこを根城にしており、クリフの訪問はホラー映画のように演出される(あの長すぎる階段!)。撮影所の元管理人である盲目の老人がヒッピーに騙され、寄生されており、知り合いであるはずのクリフのことさえ覚えていないのだ。

 

半年後、マンソンファミリーは史実のとおりシャロン・テート宅近辺にやってくるが、その結果はいささか違うものになった。

 

イングロリアス・バスターズ』がそうであったように、この映画を、フィクションをもって現実の悲劇を救う映画だと指摘する声は多い。

 

しかしそれは不十分な指摘であるように思う。

 

確かに、クリフ・ブースとリック・ダルトンは事件の実行犯を撃退し、この映画にあって、シャロン・テートは生存する。

 

しかしながら、犯行前に実行犯のひとりが口にするのはこうだ。正確な引用はできないが、趣旨としてこうだった。「わたしたちはテレビで、映画で、嘘の暴力を見てきて育った。映画を通じて暴力を学んだのだから、それをやつら(=ハリウッド)に向けてやろう」と。

 

かくして映画の廃墟にすみついたマンソンファミリーは嘘の暴力を見て育ち、やがてハリウッドに本当の暴力を向けるのだが、それを本当の暴力の体現者であるクリフ・ブースが撃退する。容赦のない暴力をもって。

 

言ってしまえばクリフがやったのは、身から出た錆を払うことだ。

 

もちろん実際の話としては、シャロン・テートが標的になったのは偶然であり、ハリウッドがその責任を負わされるいわれはない。

 

しかしこの映画では、フィクションがただ現実の悲劇を救うだけではなく、映画と現実の暴力の関係が、作中で寓意的に描かれているのである。その意味でタランティーノは、映画が被害者だったというつもりはないのだろう。

 

これからも映画は嘘の暴力を描きつづけるだろうし、スパーン映画牧場のような廃墟も築かれるだろう。なにより、クリフとリックは別れてしまったのだし。

 

ただこの映画は、タランティーノの意図もあってか、ラストを除いて、暴力的なアクションシーンのほとんどない映画として作られている。

 

 *

 

わたしはタランティーノの映画を痛快だと感じたことがない。嘘だ。どのタランティーノの映画にも痛快さを感じたが、それ以上にずっと腹の脇のほうが痛くなるような、暗い気分にさせられる。それも嘘だ。近年のタランティーノの映画は政治的だし、リベラル派なのかもしれないが、倫理的に危うい場面で目を輝かせる。演出に弾みがつく。そこが重苦しいし、ねじくれていて楽しい。

 

前作『ヘイトフル・エイト』では、黒人の賞金稼ぎと白人の自称保安官が、嘘吐きの女囚を吊るしながら、仲間意識と遵法精神を獲得する。

 

イングロリアス・バスターズ』と『ジャンゴ』の暴力は、マイノリティの復讐といえど、いささかやり過ぎている。

 

タランティーノの描く暴力や、復讐や、人種差別、そしてクソ野郎の非道ぶりは、娯楽の素材としてポップに扱われているものの、政治的な題材を選択しているがために、単純な素材としては収まらないところがある(ヒトラーなら、あるいは距離を持って眺められるかもしれないが)。わたしはそこが美点だとは思うけど。

 

 

ところで、シャロン・テート殺害事件は50年前のできごとで、もう映画の題材として距離をもって扱えるレベルにあるのかもしれないが、やはり『イングロリアス・バスターズ』のヒトラーとはだいぶ距離感が異なるし、また『ヘイトフル・エイト』ほど問題が一般化されているわけでもないため、これまで以上に生々しいものになっている。

 

こういうことをやってもいいのか、と感じる人は出てくるだろう。自分もすこし引っかかった。

 

 

 

ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド オリジナル・サウンドトラック

ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド オリジナル・サウンドトラック