トミー・リー・ジョーンズ『ミッション・ワイルド』

 


以下、ネタバレを含みます。

 

 十九世紀のアメリカ。荒野で暮らしている独身女のメアリーは、精神を病んだ三人の女性をアイオワの教会まで連れていく役目に選ばれる。しかし、目的地まで約400マイルもある過酷な旅路で、女一人では困難な道のりであることは想像に難くない。

 

 そこで、都合よく首を吊られかけていた男がいたので、命を助ける代わりに同行を約束させるが、信心深いメアリーにとってその男はどうにも粗野に過ぎるところがある。このジョージ・ブリッグスと名乗る年老いた男はどうやら元軍属で、インディアンと交渉ができ、また野営の知識があり、銃や馬が扱える。能力的にはうってつけの人材だが、どんな社会にも所属していない風来坊で、信心はなく、情に薄い合理主義者である。たまに過去の話はするが、どうにも要領を得ない。

 

 メアリーをヒラリー・スワンクが、老いた風来坊をトミー・リー・ジョーンズが演じている。

 

 女だけで荒野を馬で旅するといえば、『女群西部へ!』(1952年)という映画もあるが、運ばれる女たちが花嫁ではなく、荒野の生活で精神を病んだ女なので、観客として受ける印象はもっと陰惨なものだ。

 

 女たちが病んだ理由は、とぎれとぎれの回想という形でしか示されないので詳細がはっきりしない部分もあるが、息子を欲しがる夫が娘を犯したり、ジフテリアで子供三人が死んだりと、それぞれ十九世紀アメリカ西部の過酷な環境を反映している。病んだ女たちの情けない夫どもの描写などを見るに、家父長制批判と受け取れるところもあるが、二十一世紀の日本に住む人間としては、同時に当時のアメリカ西部の資源不足ぶりに原因を求めたくなるところもあるだろう。

 

 全体のシナリオは、信心深い独身女と無法者のバディものになっており、段々とその無法者が"善良"になっていくところ含めて一応、定型的と言える。とはいえ、あまりにも結婚に執着するメアリーのキャラクター描写と、中盤のショッキングな展開(実はバディものではなかったとさえ言える)、そして"善良"になっていくものの結局はどこにも行けない男として描かれるジョージなど、定型からは外れるところや苦い印象を残す場面も少なくない。

 

 特に、通常であれば"自立した女性"としてヒロイックに描かれてもおかしくない、独身女メアリーが実のところ結婚に固執していることが序盤から描かれ、積極的に求婚しては振られるという場面がいくつか出てくるのは印象的だったし、痛々しいものがある。

 

 なんというか、身も蓋もないのだ。

 

 また、やや唐突な挿話として、三日飲まず食わずの一行がホテルに着くものの、当日開催される投資家のパーティのために入れて貰えないという場面がある。このシーンはそれだけで終わらず、その晩、「飯を取ってくる」と言ったジョージが向かうのはそのホテルで、放火・銃撃のうえ食糧を強奪し、建物は全焼する。

 

 いくら相手が施しをしない資本家連中とはいえ、"善行"としては天秤が釣り合っていないので(やり過ぎ)、これは根が軍人であることを払拭できていないジョージの歪さを表現しているのかとも思ったが、あるいはひょっとして資本主義批判なのだろうか(だとすれば取ってつけたような感が否めないが)。ゆったりとしたロードムービーという色の強い本作では、数少ない暴力シーンでもある。

 

 終盤、無事アイオワに女たちを送り届けたジョージだが、報酬の300ドルは発行した銀行が倒産したせいで紙切れ同然と化し、再び一文無しになってしまう。裸足で給仕をしている十四歳の少女に靴を買ってやったあと、「西部で一攫千金を夢見る男と結婚するな。この地に留まれ」と助言をしてやったかと思うと、どこにも行く場所がなくなったのでまた西部へと向かうのだった。

 

 といったように、身も蓋もない脚本ではあるが、撮影面では古典的に処理されていて、監督トミー・リー・ジョーンズの西部劇好きが伺えるものになっている。冒頭は、地平線を画面の真ん中ほどに据えた草原のフィックスのショットがいくつも並ぶというもの。それ以外の普通の場面も、基本的にフィックスで撮影し、カメラは揺らさない。背景を入れるために被写体とカメラの距離は遠く、ほどよく陰影をつけている。夜の場面はそれほど多くはなく、たまに降る雪が、土地の厳しさを演出していた。編集もせかせかしておらず、抑制的だ。

 

 美しいといえば美しい撮影だが、傑出したものは感じない。脚本を含めとても渋い内容なので、少しつまらないと言えばつまらない。ただ、ごく普通の西部劇という見た目をしていて、ちょうどそういうものを見たい気分だったのだ。

制作と歩くこと

宇多田ヒカル「仕事柄よく歩くんですけど」

以前、「マツコの知らない世界」というテレビ番組に宇多田ヒカルが出演して話題になったことがあった。


わたしも、宇多田ヒカルのファンだったので(それもかなり年季の入ったファンだ)、ものすごく久しぶりのテレビ出演に喜び、ドキドキしながらリアルタイムで見ていた。


一見してわかるように、宇多田ヒカルはテレビ向きの人間ではない。


なんというか、テレビが求めているようなリアクションやコメントをしないのだ。しないというか、感覚的にそういうものがわかっていないような感じがある。


もちろんファンはそんなこと分かり切っているので、その放送事故スレスレの出演を、そういうものとして楽しむのが常であるのだが(少なくとも自分はそうだ)、その回でも独自の世界観を展開しており、多くのそれほど宇多田ヒカルに興味のない人は、ハラハラしたか退屈したか、そのどちらかだろう。


出演中ずっとそんな感じだったのでさらっと流れたが、宇多田ヒカルがぼそっと「わたしは仕事柄よく歩くんですけど」と口にしていた。


マツコはこれに反応できず、(なんでミュージシャン=よく歩く、なの?)と戸惑っているように見えた。


その後も特に、「なぜ宇多田ヒカルは仕事柄よく歩くのか」、本人の口から説明されることもなく、自明のものとして話は進んでいったのだが(こういうところが多分、テレビ向きではない)、見ているわたしとしては、とてもよくわかることだった。


歩くこと

『デジタル・ミニマリスト 本当に大切なことに集中する』という本がある。


この本は、要約するとつまり、「戦略的にスマホとの接続を絶って、終始こちらの注意力を奪われるような状態から逃れよう」といった感じの思想書であり実践の書だ。


この本は同時に、スマホを断つことで得られる、孤独の豊かさ、一人だけの思索の時間の大切さについても触れている。


そのなかで「歩くこと」の大切さについて言及しているのだが、いわく、


ニーチェは一日最大八時間歩く


アルチュール・ランボーもたびたび徒歩の長い旅に出ていた


ルソーは次のように書いている『ほかに何もせずただ歩くとき、田園は私の書斎となる』


そのほか、様々な”ウォーカー”たちの歩きっぷりと、その効用について書かれているのだが、個人的にこの感覚はとてもよくわかる。


わたしも歩かないとアウトプットや思索ができないタイプで、親からはよく「熊のように室内をうろうろと歩く」と言われていた。


試験勉強をするときは、ひたすら英語の教科書を暗唱しながら部屋をうろつき回ったりするし、小説を書くときに繁華街をうろうろしながらスマホに打ちこむことがある。


これがランニングではうまくいかない。走る行為にはエネルギーを多く使うせいか、頭で物を考えられなくなるのだ。


小説であれ音楽であれ映画であれ、何であれ制作のためには、実際に制作している時間とはべつに、無目的の、ただ無為に時間が流れているだけのようにも思えるような精神的ゆとりが必要で、そのため「制作をする人はよく歩く」のかもしれない。


あるいはただ多動症っぽいだけなのかも。

サフディ兄弟『アンカット・ダイヤモンド』


以下では、内容に触れているけど、この映画の面白さのひとつに、目の前で起きている事態がすぐには把握できないこと、そして段々と事実関係がわかってくるという点があるので、まだ未見で、かつ体験を阻害されたくない人はブラウザバックすることを推奨する。


  • イカれたユダヤの宝石商ハワード・ラトナーは、ギャンブル中毒であちこちに借金をしまくり、敵を作りまくり、商売女と浮気をして、家族関係は冷え切っている。
    • 義兄のアルノにまで借金をしているのでその用心棒から常に監視を受けている始末。
    • どのくらいイカれているかというと、有名バスケプレイヤーのKGに、オパールの原石を預ける担保として手に入れた時計を、そのまま質に入れてスポーツ賭博に全額突っ込むくらいにはイカれている。
    • 借金取りに命を狙われているのに、せっかく手に入れた儲けを、構わずぜんぶハイリスクハイリターンの賭けに突っ込んでしまう。


  • 基本は修羅場の連続で、映画を牽引していく。
  • 「人がめちゃくちゃ訪問してくる」+「主人公が文字通り他人の話を聞かない」の合わせ技がいい。
  • このおかげで、ダイアローグがすごく複雑になっていて面白い。
  • ハワードの仕事と、オフィスの構造に起因するところが大きい。
    • 色んな人間と商売をし、借金をし、賭博をする、個人事業主であるハワードにとって、コミュニケーションを取らなければならない相手はものすごく多い。
    • さらにオフィスの構造が効いてくる。事務所→ドア一枚→宝石売場→ドア二枚→廊下、という多層構造で、複数の訪問者が入り乱れることを可能にしており、さらにここに電話が加わってくるので場は益々カオスになる。
    • 二枚のドアはスイッチによる開閉式で、開く時にブザーが鳴る。
    • また、二枚のドアの間にも空間があることが面白い。
    • ハワードは常に複数現れる会話のうち「どれを無視して、どれに取り合うか」を選択し続ける必要があって、その選択が人柄を表しもするし、またそれによって状況が動いていく。
    • このオフィスの造形が極めて複雑なダイアローグ(場面によっては3つ以上あるからそれどころではない)を可能にしており、まさにこの映画の根幹ではないかと思った。


  • 印象的なラブシーンがある。
    • 宝石売場を借金取りに占拠された状態で、ハワードはその奥にある事務所に引っ込んでいるのだが、手に入れた資金をなんとか賭けの場に持っていきたいという場面。
    • ハワードは宝石売場にいる愛人に電話をかけて、部屋を出るように指示する。
    • その愛人は、口実をつくって売り場を離れると、同じ建物で、ちょうどハワードの事務所の窓の隣にある別の窓にたどりつき、お互いに窓から身体を突き出して、大金の入ったバッグを手渡すというシーン。
    • なんとかバッグは手渡せるけど、触れられはしないという距離が、幸福感のあるラブシーンの演出に活かされる。


  • 説明的な場面やセリフがほとんどなくて、全体的に作り物っぽさがあまりない。ドキュメンタリータッチで、「カメラの前で本当にこういうことが起こっていますよ」という感じ。
    • 被写体とカメラの距離は比較的近い。バストアップが多い。
    • レイアウトや審美性を重視するというよりも、被写体そのものがシェイクすることで映画もシェイクしていく感じ。
    • 移動撮影は多い。人物の後を追って回り込むような撮影が頻出する。

読書記録「MONKEY vol.20 探偵の一ダース」

 

ずっと長編小説を書いていて、ようやく解放された。 というわけで、ブログを停止している間に読んだ短編の感想を書いておく。



  • 柴崎友香「帰れない探偵」
    • タイトルの通り、自宅への帰り方を忘れてしまった探偵。彼が毎日を耐え凌ぐために仕事をする様子が描かれる。「今から十年くらいあとの話。」という奇妙な書き出しから始まって、坂道が多いという街の説明が挟まる。舞台となる街は具体的な地名が出てくるわけではなく、匿名的な街なんだけど、そのロケーションが魅力的なので想像力がかき立てられた。
    • 探偵で都市というと紋切り型の印象はあったけど、ここで語られる都市は再開発や取り壊し、建て直しによって地図が随時書き換えられていく動的なもので、人は過去あった建物のことを覚えていないし、古地図のデジタルデータに語り手は、「加工された痕があるのではないか」という違和感を拭えない。世界に穴が空いている、という感覚は同著者の過去作にもあったなと思う。


  • バリー・ユアグロー「鵞鳥」
    • 名指しはされていないが、ホームズ、ワトソンの出てくるショートショートでパロディ。ホームズに心底うんざりしていることを自覚したワトソンが非常に地味な嫌がらせをしている。不愉快な爽快感とでも表現すべき、不思議な読後感がある。
    • この人の小説を読むのは初めて。


  • 円城塔「男・右靴・石」
    • 円城塔の探偵小説、ということ以上のことは何も言えそうにない。記者と探偵のやりとりが面白い。いつのまにか記者と探偵のすり替えを試みようとする探偵の語りが面白い。  

2019年をふりかえる

最近追っているアメコミの連載について感想でも書こうかと思ったけど、面倒臭いのでやめた。
 
代わりにこの1年を振り返ることにした。
 
 
●できるようになったこと、とか
 
・結婚した 
 孤独がいかに健康に悪いのかは、科学的な研究でも多くの証拠が出ており、経験からも明らかである。また、二人で暮らすことで固定費が下がるし、種々の選択肢も増える。これは功利的に正しい選択だと思うが、具体的な結婚はそういう打算とはあまり関係なく進んだ。
 
・仕事が大変になってきた
    この一年で業務範囲が明らかに拡大し、それに伴って若干の政治力もついてきたけど、実力も年齢も役職もあるべき理想像からすれば足りなくて、ストレスと残業時間が目下のところ加速している。実務でキャッチアップしている人間が自分しかいないという切迫感は、何よりも勉強のモチベーションになる(ぐるぐる目)。
 
・アメコミを読むことを楽しみにできた
   アメコミにはじめて触れたのは大学時代だけど、まずそのスタイルに慣れるまで、翻訳だろうとアメコミを読むこと自体に少し「お勉強」の感があった。今年はそれを払拭し、純粋に楽しみとしてアメコミを読み、未訳のアメコミもあくまで楽しみとして読めるようになった。社会人になったことで好みが狭く、固定化されて、日本語であるか英語であるかより、好みかどうかの方が重要視されるようになった。DCだけとはいえ、連載をリアルタイムで追うようになったのも今年からだ。来年はもっとアメコミ関連の記事を書ければいいなと思っている。
 
iPad Proを買った
 早く買えばよかったと思っている。漫画を読むのに最適で、これがなかったらアメコミを読む習慣は作れなかったと思う。また、場所をとっていた書籍を大幅に電子化することができて、特に勉強や仕事に使う書籍をいちいち持ち運ぶ必要がなくなってよかった。OCR万歳。小説を書くデバイスとしても悪くない。とはいえ、もちろんPCの完全な代替にはならないことを実感する場面も多い。
 
 
●できなかったこと
 
・長編小説の締め切りがやばい
 1年に1作長編を書こうとして、今年もちんたら書いていたら結婚に関わる諸々のイベントもあって進捗率がヤバいことになっている。仕事が忙しくなってきたことで、趣味として小説を書くのもかなり辛い感じになってきた。職業人生をある程度犠牲にして小説を楽しみとして書いてきたけど、それもそろそろ難しいのかもしれない。
 
・ジムに行っていない
 せっかく契約したジムにあまり行けていない。羞恥心とか、会員カードをしばしば失くす迂闊さが足かせになっている。運動不足解消は来年の目標だ。
 
・勉強が中途半端
 結婚に関わる諸々のイベントもあって、専門の勉強があまりできていない。継ぎ接ぎでなんとかしている。胃によくない。
 
 
●来年やりたいこと
 
・プログラミング
 仕事に使えないかなと思っている。MacBookか何か、買わなきゃな。
 
神経生物学
 SFを読む人間として『スタンフォード神経生物学』を楽しく読みたい。
 
・専門
 資格の勉強したいですね。
 
・英語
 転職用に、資格の勉強したいですね。あと趣味でアメコミと小説を、もっと楽しみとして読めるようになりたい。
 
・小説
 長編小説をなんとしても完成させる。させます。

読書日記:フリッツ・ライバー『妻という名の魔女たち』

フリッツ・ライバーを読みたい気分なので、『妻という名の魔女たち』を読んでいる。
 
まだ半分ほどだが、内容としては保守的な土地柄にあるヘンプネル大学で教えているノーマンという教員が、妻の魔術道具を見つけてしまったことをきっかけに、実は教員たちの妻がそれぞれ魔術を使って夫を守っている(そして競争相手を蹴落とすために相手の夫を呪っている)のではないかという疑心に囚われるというもの。
 
いわば内助の功を、オカルティックに解釈した小説なんだけど、最初の章のシーン作りがほとんど完璧なホラー映画になっていて驚いた。
 
もっともライバーの視覚的シークエンスの描写力、演出力はすでに故殊能将之氏の記事などで広く知られているところだが、今回はまるまる一章分が見事なシークエンスになっていてすごく感じ入った。非常にさりげないが、本当に上手い。
 
全体としては、ノーマンが妻の魔術道具を発見してしまうまでのシークエンスなのだが、まず冒頭で妻の秘密を発見することについて無気味なイメージをちらつかせる。ホラー映画の冒頭で、不安な夢を見てしまうような場面に当たるのだと思う。
 
もちろんノーマンとて、青髭の好奇心旺盛な妻たちに何が起こったのかは知っていた。事実、いつだったか、女たちが吊られるこの不思議な話の潜在要素を、精神分析の手法によって、かなりつっこんで調べてみたことがある。しかし同じような驚きが、夫を、それも現代の夫を待ちうけているとは、考えたこともなかった。もしかしてクリーム色に輝くあのドアの背後で、ハンサムな男が六人もフックにかけられているのか。そんなふうに思っただけでも笑いがこみあげたことだろう
 
このあと、自らの家を視覚的に描写しつつ、そこにあるインテリアや家具から想起して、自分と妻の関係や、職業生活、過去にあったできごとを説明していく導入のパートがつづく。
 
この間ずっと室内にいるわけだが、時折、外の風景がザッピング的に挿入される。
 
寝室の窓の外では、近所の子供が新聞を積みあげたコースター・ワゴンをひっぱっていた。通りの向こうでは、老人が新しい芝生の上を用心深く歩きながら、踏鋤をつかって灌木のまわりを掘っている。クリーニング屋のトラックが大学のほうに向かって走っていった。ノーマンはつかのま眉間に皺を寄せた。そして反対側に目を向け、ズボンをはいた二人の女子学生が、シャツの裾を出したままという、教室では禁じられている恰好で、のんびり歩いてくるのを見た。
 
同時間に、同じ場所にあるが、ひとつひとつは関連しない異なる視覚的イメージを描写することで、単線的な小説の描写が、映像に近づいていく。もっとも映画でいえば、これは周囲の状況を説明するために一定のリズムで編集される、風景や雑踏を捉えたショットの連なりだろう。
 
このザッピング的な外の風景の挿入は、室内でみずからの内面に入り込んでいるノーマンからカメラが外れることで、彼が部屋でただ一人ぽつんといる状況を読者に意識させている。
 
これに加えて、飼い猫の視点をくりかえし登場させ、シークエンスを中断させることで、カメラがノーマンから引くような効果を出しており、また「誰かに見られている」という不安を読者に意識させている。
 
(猫の視点とホラー映画といえば、ジャック・ターナーキャット・ピープル』の一番有名なプールサイドのシーンを思い出す。あのシーンはただ猫がいるだけではなく、かなり珍しい「猫の主観ショット」さえ登場するのだが、かなり自然に挿入されているので、多分意識しないとわからない)
 
ノーマンは部屋を見ていくなかで、ためらいながらもゆっくりと妻の秘密に手を伸ばしていき、そのヴェールを段階的に剥がしていく。
 
ここのためらいと前進のくりかえしがまた上手い。じわじわと対象に迫るような間の取り方が不安を煽るのだ。とはいえ、引用するには長すぎるのでこのあたりは実際に読んでもらったほうがいいだろう。
 

妻という名の魔女たち (創元SF文庫)

妻という名の魔女たち (創元SF文庫)

 

 

伴名練『なめらかな世界と、その敵』読書会用リンク集

 やるので、リンク集でも作っておこうと思った

 

 

 

 基本系

伴名練 - Wikipedia

石黒達昌ファンブログ

なめらかな世界と、その敵

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公式

いま最も読まれているSFラブストーリー。『なめらかな世界と、その敵』|Hayakawa Books & Magazines(β)

 

「2010年代、世界で最もSFを愛した作家」伴名練1万字メッセージ|Hayakawa Books & Magazines(β)

 

『なめらかな世界と、その敵』印税の寄付について|Hayakawa Books & Magazines(β)

 

「ひかりよりも速く、ゆるやかに」試し読み

https://www.hayakawabooks.com/n/n0cfa8c1132ce

 

話題になった書評とか

この世界の中で、この世界を超えて――伴名練とSF的想像力の帰趨 - “文学少女”と名前のない著者

 

伴名練『なめらかな世界と、その敵』 最高の読み手による最強のSF短編集 - ねとらぼ

 

伴名練『なめらかな世界と、その敵』(早川書房)を読んで|橋本輝幸/@biotit|note

 

SFの中心で愛を叫んだ覆面作家 伴名練さんの新刊好調:朝日新聞デジタル

 

なめらかな世界と、その敵 感想 伴名 練 - 読書メーター

 

関連書籍

なめらかな社会とその敵

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少女禁区 (角川ホラー文庫)

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  ・伴名練特集

SFマガジン 2019年 10 月号

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何かあればまた追記していきます。