特集上映「永遠のオリヴェイラ」を見てきました。


特集上映「永遠のオリヴェイラ」を見てきた。すべての作品を見ることは叶わなかったし、特に代表作『アブラハム渓谷』を見逃したのは痛かったが、ともかく感想を記録しておきたいと思う。


『春の劇』
 パンフレットによれば「16世紀に書かれたテキストに基づいて山村クラリャで上演されるキリスト受難劇の記録」らしい。延々と毎年毎年、復活祭にこの劇が演じられてきたというのは正直信じられない思い。セリフは一定の節をつけられた独特の朗読によって行われるため、まるで百人一首の読み上げみたいな調子に聞こえた。
 劇の上演をドキュメンタリーとして記録したわけではなく、フィクションとして再構成してある。上演されるまでの村人たちの様子を冒頭に置きつつ、日常からスライドするような自然さで劇に入り込んでいく。舞台があるわけではなく、村のはずれにある丘で行われる。そこに行くまでの場面が面白くて、壷を頭にのせた女性が村の中をくだっていくところは、フィルムの発色といい、音といい、とても猥雑で刺激的だった。劇がすでに始まりつつあり、大声で復唱されるセリフをバックにして人々がわーっと劇に集まっていくまでを捉えた箇所は、これまた猥雑でいい。丘に行くまでは舞台が地理的に確定していないため、劇が作品として自己完結するフレームを持たず、人々の生活や観光客といった外部の侵入を許してしまう。もちろん、そのように劇を解体する立役者は映画のカメラなのだ。したがって、太鼓を叩きながら行進する兵士をとらえた映像が、流行曲をかけながら走る自動車に遮られてしまう、というような場面さえ出てくる。観光客は「これぞ必見よ」、「キリストの受難劇なんて退屈に決まっている」などと好き勝手な意見を述べるのである。
 しかしながら、いざ劇がはじまってからは、単調な朗読の調子と、村人たちのチープな上演の様子が延々と流されるので正直かなりつらい。演じている村人たちの肉体と、演じられている「受難劇の筋書き」、「キリストやユダ、パウロといった人物」などを含んだ総体としてのテクストが重なりつつも、完全に重なりきらない、というような状況が現れる。「劇映画は記録されたドラマ」、「ドキュメンタリー映画はドラマ化された記録」という表現があるが(確か『映画の生体解剖』で高橋洋が言っていたような気がするが、元ネタはわからない)、オリヴェイラは前者をかなり「記録」に寄せたようなつくりの作品が多いように思える。『春の劇』がそのターニングポイントらしい。わたしとしては『ブロンド少女は過激に美しく』くらい、巧妙なズレが絶えず襲い掛かってくるならともかく、これはきついなーと思った。オチも安易というか、作為的にすぎるように感じられた。

神曲
 「精神を病んだ人々の家」という表札のかけられた精神病院を舞台にして、そこにいる患者たちが様々なキリスト教関連のテクストの登場人物や著者を演じて(というよりも自分がまさにその人物だと思い込んで)、ぶつかり合うといったような内容。病院というには内装もつくりも家具も豪華絢爛過ぎるので貴族の屋敷にでも見える。引用されているテクストと人物は、アダムとイヴ、ラザロとキリストとパリサイ人、そしてドストエフスキー罪と罰』、『カラマーゾフの兄弟』の登場人物、ソーニャとラスコーリニコフ、イワン・カラマーゾフとアレクセイ・カラマーゾフ、そしてニーチェっぽい哲学者と第5福音書(ただし白紙)を持つ預言者。あとピアノを弾く音楽家(実際に有名なピアニストがキャスティングされている)。精神病院ということで院長と職員もいる。
 様々なブログで要約されているようなので内容については割愛。わたしが魅力を感じたのは、冒頭でアダムとイヴの「楽園追放」を微妙にズレた感触で再現するシーン(イヴの見事な裸体に目がいく。蛇もちゃんといる。裸を恥じたわけではなく、大雨のため精神病院に戻されたようだ)。『罪と罰』での老婆殺しの再現シーン。『パルプ・フィクション』にも出ていたマリア・ド・メデイルシュのファニーフェイスながら可愛い顔の造形と体のプロポーション、そしてその肉体を包む衣装。
 「患者が自分自身を○○だと思い込んでいる」という趣向のせいか、オリヴェイラとしては比較的人間らしい演技が行われている。〈テクスト〉−〈演じられるテクスト内の人物、あるいはテクストの解釈とでも言うべきもの〉―〈精神病院の患者〉―〈実際に演じている俳優〉という層が重なりつつ、重ならない部分もあり、その結果として現代にも通じる生々しい苦悩が現れる(イヴに男女の行為を拒否されるアダムの苦悩とか)という感じのことが起きていると思われる。
 他のオリヴェイラの作品同様、主題や内容そのものについては特に面白いとは思わない。『カニバイシュ』ほどではないにしろ、単調な顔のアップと切り返しが多い映画で、現時点では興味を持てなかった。

『アニキ・ボボ』
 長編デビュー作。オリヴェイラは34歳くらいかな。この頃は、まだ全然普通の映画。言われないとオリヴェイラの作品だとはわからないと思う。子供の映画で、アニキ・ボボというのは日本でいうところのドロケイ(ないしケイドロ)のことらしい。警察と泥棒に別れて追いかけっこをする遊びと、主人公の少年の犯した窃盗という犯罪が重なり合い、そして殺人未遂という濡れ衣が重なっていくことでどんどん追い詰められていく。少年少女がショーウィンドウの人形を物欲しげな目で見つめるショットはまばゆいばかりの白が出ているし、犯罪映画らしい影の使い方もあって、印象に残る場面はあるが、現段階で興味の沸く作品ではなかった。屋根に上らせたり、水に飛び込ませたり、汽車の走る近くに体を横たえさせたり、危ないなーと思うことをやらせている。しかし三角関係ばっかりだな、オリヴェイラ。少年少女でも三角関係かよ。

「レステロの老人」
実質的にこれがオリヴェイラの最後の作品ということになるらしい。『ドン・キホーテ』について色々語っていたが、正直よくわからん。生っぽいデジタル撮影で、どこかのベンチに集まってくるコスプレ老人集団が世を憂いてみせたりする。荒海に沈んだ本が浮かびあがってくるショットがあった。

フランシスカ
 これぞオリヴェイラという印象の大作。特集上映では最も(というか唯一)楽しんだ。オリヴェイラの映画の「魂がない」感じがよく出ていて、オリヴェイラの秘密を探るために懸命に眺めたが、いかんせん長尺なので寝てしまったところもあり、またストーリーを追うのもなかなか困難で、また機会があれば再見したいものだと思った。ソフト化されたら買います。
 「1850年代のポルト。小説家カミーロ・カステロ・ブランコと友人のジョゼ・アウグスト、そして「フランシスカ」と呼ばれる英国人の娘ファニー・オーウェン、実際にあった3人の恋の物語をもとに、アグスティナ・ベッサ=ルイスが書いた小説「ファニー・オーウェン」の映画化作品。」というのがパンフレットにある記述で、基本的には、愛についての話だと要約できるが、終わりに行けば行くほど事態が禍々しくなっていく。
 『ブロンド少女は過激に美しく』でも見られるオリヴェイラのスタイルがここにもある。役者はセリフを喋るというよりもただ読み上げ、ほとんど視線を合わせずに互い違いの方向を見ながら会話をし、蝋人形みたいな生気のなさで配置される。生きている人形を使った人形劇のようで、登場人物はみな内面を欠いているようにしか見えず、ペラペラで空っぽ。感情とか魂とかがそこにはない。画面にはどこまでも即物的なことしか映らない。つまり、物質としての役者の肉体や肉声、その衣装、あるいは背後にある風景しか映らないのだが、説話としては小説「ファニー・オーウェン」がどこまでも語られていくようだ。
 シーンの配置の仕方がちょっと紙芝居っぽくて、サイレント映画でよくあるような導入部の説明が字幕で出たあと、具体的なシーンに入って映像が出てくる。これを繰り返す。スターウォーズの最初の文字が流れてくるパートと本編の関係が、すべてのシーンにあるような感じ、と言ったら伝わるだろうか。わりとシーンとシーンの間が省略されているので、元のテクストを部分的に抜粋しながらストーリーを語っているというような印象が強く、また先述するようなオリヴェイラのスタイルも手伝ってか、ストーリーを把握するのがかなり難しい。映像だけでストーリーを十全に語ってしまうスタジオシステム全盛のアメリカ映画とは異なり、映像から分離した形でテクストがあることを嫌でも意識させられる。
 さらに、冒頭の手紙を読み上げるシーンをはじめとして、まったく同じセリフ(というかシーン)をそっくりそのまま二回繰り返す(ただしアングルは変える)という技法が随所で使われていることも一見して驚く仕掛けになっている。この繰り返しは、前半の駆け落ちのシーンの暗い夜の森が、終盤の別のシーンで反復・変奏される、というような物語上の反復とも関連しているのだが、今回は『フランシスカ』個別の読解は難しかったので、オリヴェイラの仕事全体を理解するための手がかりとして考えた。というのは、オリヴェイラの映画における、テクストと具体的な映像の関係をこの技法が端的に示しているのではないか、つまりオリヴェイラの秘密をこの技法が明かしているのではないかという仮説である。
 普通の映画では、あるテクスト(ストーリー、キャラクター、世界観、設定)などを語るために、ある一つのショットが必要とされ、それがまさにこれしかないという説得力で提出されるようにみな頑張る。感情やテーマは画面に映らない、というレトリックはよく使われるものの、本当にそれらを欠落させる人はあまりいない。目に見えないものを画面に映そうとするのが映画の王道である。
 しかし、『フランシスカ』のオリヴェイラは人々のそういった努力をあざ笑うかのようだ。あえて文学的なテクストを選択したうえで、そこから丸ごとテクストを分離させる。愛について語るこの映画のどこにも愛は映っていない。そのことは、フランシスカの死後、秘密をさぐるために彼女を解剖し、心臓を取り出した主人公とも物語的に重なるのかもしれない。オリヴェイラのドラマは「これしかない」という強度では記録されない。たまたまこのようなものとして記録されてしまったというのが『フランシスカ』なのだ。したがって、同じセリフやシーンを二度繰り返しても、それはオリヴェイラの世界にとって根本的に不自然なことではない。
 なにかの手違いで生み出されてしまったことで、本来あるべき世界からひどくズレてしまった、ちぐはぐで即物的機械仕掛けの人形劇のような世界。それがオリヴェイラの撮る映画である。なんとなくではあるが、飛浩隆の小説『グラン・ヴァカンス』をオリヴェイラが撮っていたら、どうなっていたのだろうという妄想が膨らむのであった。『グラン・ヴァカンス』は、人形劇の人形たちが、自らの現実の生々しさを知覚していることについての小説で、薄っぺらな世界がそれでもその内部を生きる者たちにとってはリアルなのだという、どちらかといえば『フランシスカ』とは真逆な作品なのだが。

カニバイシュ』
 非常に変な映画である。舞台は、時代も場所も不明な、どこかの上流貴族の舞踏会。黒塗りの高級車に乗った貴族が続々と晩餐会が行なわれる館に入っては群衆から拍手を浴びる。このあたりの無感動な拍手と、それを受ける貴族の仕草は、どちらも機械的なのであたかも人形劇のように見える。すでにオリヴェイラの世界が展開されている。最初の高級車に乗っているのは、貴族ではなく狂言回しで、バイオリンを持った二人一組の怪しげな男たち。歌いながら物語の導入部を語る、狂言回しのその歌いっぷりから、本作がオペラであることが判明するのだ。
 そこからはもうひたすら歌う。貴族の三角関係と、怪しげな子爵の秘密、ということで物語が進んでいくのだが、もうひたすらにオペラ。うんざりするくらいにもったいぶって歌う。笑い声も機械的で、およそ人間的な情緒はなく、動作も機械的で、『フランシスカ』よりもずっと人形劇に近づいている。子爵の秘密というのは最初のあたりからずっとほのめかされているのだが、それがいよいよ明かされる初夜の場面になってもずっと歌い続けてなかなか明かされないのでイライラしてくる。で、明かされたかと思ったら、ぼとりと手足が落ちて、芋虫状態の子爵は暖炉で轟々と燃えながら歌う。花嫁はショックのあまり飛び降り自殺をする。それまで嫉妬から、子爵の命を狙っていた男ドン・ジョアンは、いざそんな状態になっている子爵を見てどう反応していいのかわからず、義手義足をとりあえず手にとっては別のところに整理整頓したり、ただ燃えている子爵を眺めたりする(ここがすごくぶっきらぼうに撮られていて、オリヴェイラらしい)。それで翌朝、花嫁の父親とその息子たちが、空腹からその暖炉にくべられている肉(子爵である)を食べてしまい。するとその後、庭で自殺している花嫁と、胸を撃って自殺しようとし、実際に死にかけているドン・ジョアンが発見され、みなが嘆き悲しんでいる。ドン・ジョアンの告白から、人肉を食べてしまったことに気がついた父親と息子たちは動揺するのだが(とにかくマズかったことが心残りらしい)、途中から超展開になってもはやこうなるとなにがなんだかわからない。豚がバイオリンを奏でてみんなが踊るから、大円団っぽい雰囲気だけはある。
 正直、魅力もないわけではないが、単調な顔のアップとその切り返しが多いので、終盤の展開にびっくりさせられるとはいっても、ひどく苦痛だった。