ジョー・ヒル『20世紀の幽霊たち』


20世紀の幽霊たち (小学館文庫)

20世紀の幽霊たち (小学館文庫)


「シェヘラザードのタイプライター」謝辞の中にある短編なので、最初は見逃して、ジョー・ヒルの自作解題に読んでない短編があることに気がつき、ようやく読んだ次第。思惑にはまったのかもしれない。シェヘラザードと言えば『千夜一夜物語』で王さまに延々と語り続ける人のことですよね、という誰でも知っている知識の確認はどうでもよくて、持ち主の死後、延々と小説を書き続けるタイプライターという造形がなんだかいい。怪奇現象にしては堂々と昼でも夜でも書き続けるあたりがいい。


「年間ホラー傑作選」これは呻った。

 本作の構造はこうである。つまり、「ボタンボーイ」という短編小説の形をとった劇中作が存在しており、その内容は思わず目を背けたくなるほど猟奇的な犯罪を扱ったホラーである。『アメリカ年間ホラー傑作選』の編者である語り手はその作品に魅力を感じ、その謎めいた作品の作者を辺ぴな土地まで出向いて探しに行き、見事に出会うことに成功する。しかし、出会って話を聞いているうちにどうもそのフィクションだと思われた作品の内容が、実は作者の実録であったこという衝撃の事実が判明する。猟奇殺人犯は作者だったのだ。
 けれども本作の面白いところは、そこで終わらないことだ。その衝撃の事実によって、語り手が危機に陥るという展開そのものが、アメリカのホラーで手垢がつくほど繰り返された展開に過ぎないということを、そのホラーアンソロジストとしてうんざりするほどホラーを読んできた語り手は確認する。そして、自分ならこの展開から生き延びてみせることが出来ると宣言し、小説はそこで終わる。

 本来悲惨であるはずの悲劇的結末が、虚構の中で散々繰り返され、それを読み、体験することによって、二度目、つまり自分の身に降りかかった時には喜劇のようにさえ見える*1。それだけならばままある短編かもしれないが、そこに「ホラーに読み飽きたアンソロジスト」という語り手が挿入されることで、妙な勇敢さというか、絶望的な困難に立ち向かうというちょっとリリカルで勇ましい声が最後にこだますというのはなんとも笑わせてくれた。しかも背景で追っかけてくるのはあからさまに『悪魔のいけにえ』のパロディというかそのもののような怪人三人である。


「二十世紀の幽霊たち」あまり好みではないものの、これも頭の良い作品だと思う。シネコンではない、古びた映画館に現れる女の幽霊。映画館と幽霊。そのどちらも過去の遺物である。幽霊についてはよく分からないが、映画に関して言えば、それは基本的には二十世紀に全盛を得た娯楽芸術だと言ってしまって構わないだろう。今こういうものについて正面から書いてしまうことは、単なるノスタルジーと切って捨てられかねない。そこで、ジョー・ヒルは、そして作中の女の幽霊は、いかなる手段で以て遺物たる自分を延命したのだろうか……。そのやり口はノスタルジーとは無縁の図太さに満ちている。

 ……ところで本作に出てくるスティーヴン・グリンバーグという人物はてっきりスピルバーグのことかと思って読んでいたのだが、どうもこの人物は色々なものの継ぎ接ぎらしい。彼の撮る新作はトム・ハンクスハーレイ・ジョエル・オスメントが共演するらしいが、この二人が共演した作品と言えば『フォレスト・ガンプ』だろう。これはロバート・ゼメキスが監督している。しかもあらすじを見ると『フォレスト・ガンプ』ではどうも無さそうだ。ハーレイ・ジョエル・オスメントスピルバーグの『A.I.』の主演を張っていたのはこの際どうでもいい。そういえば、そもそもスティーヴン・グリンバーグなる人物は1963年の時点で12歳だったらしいが、これも1946年生まれのスピルバーグとは符合しない。

「ポップ・アート」風船人間の日常を、その親友の側から書いた作品。ジョー・ヒルとしてもお気に入りの作品らしい。風船人間という大きな「ウソ」を許す代わりに細部の描写がかなりリアリズムに徹して書かれているあたりがマジックリアリズムっぽい(この言葉はあまり使いたくないけど)。ユダヤ人をテーマにしているらしいことがおぼろげながら分かる。個人的に思い入れがないので、細かい分析とかは特にない。

「蝗の歌をきくがよい」『おすすめ文庫王国2013』で円城塔が『20世紀の幽霊たち』そのものを紹介した際に言及されていた短編がこの作品なのだが、その紹介文句が中々強烈だったので気になっていた一作。要約すると「ある日目覚めたら虫になってしまっていた男が、殺戮を始める話」なのだが、恐らくこの字面から期待されるお話と本作は少し印象が異なる。虐殺というほどの量は殺していないし、一人目が死ぬまでにも中々時間がかかる。それはともかく、読者が一度も経験していないような出来事を、実に生々しく描写出来るジョー・ヒルの才能を堪能できる作品でもある。最後、到着した軍隊を後目に、空を目指しながら歌い始める主人公には神々しささえ感じる。

アブラハムの息子たち」ヴァン・ヘルシング! ヴァン・ヘルシング教授じゃないですか!

「うちよりここのほうが」吸血鬼も幽霊もスプラッタもなしのリアリズム作品。父と息子の話。近年は父親がダメ人間の作品ばかり見るせいか、この頼りがいのある父親像は何とも新鮮。正直、リアリズム作品のせいか印象が薄いが、こういう作品にこそジョー・ヒルの個性が出るのかもしれない。

「黒電話」人攫いにあって監禁されるところまでは「年間ホラー傑作選」の劇中作「ボタン・ボーイ」と同じシチュエーション。主人公の少年は人攫いが出るという噂話を部外者として聞くだけだった過去の事を回想してみたり、その被害者の一人であるブルース・ヤマダと野球で交流を持ったことがあること(「えぐい球投げてたな」と声を掛けられたらしい)を思いだしたり、姉が自分を捜しに来てくれる妄想をしてみたりする。そして、監禁された場所にある黒電話があの世と繋がるのもホラー的にはお約束。しかし、電話先の相手は、その犯人に殺され、主人公が野球で交流を持ったというブルース・ヤマダという少年の幽霊なのである。彼は主人公に助言と励ましを送る。「大丈夫。えぐくいけ。きみならやれる」と。そして、そこから少年は犯人に反撃を開始する。これは熱い。このリリカルさがジョー・ヒルなのかもしれないと思ったが、主人公の少年の名前がフィニィであり、次作解説でジョー・ヒル本人がジャック・フィニィへの愛を語っているので、この抒情はフィニィから受け継いだものなのだろう。

「挟殺」うひい。識字障害の語り手の日常だけでも中々にきつい。ジョー・ヒルはこういう社会階層のどん底にいる人を書くのが巧い。障害を抱えていても中々それを理解して貰えず、むしろ説明が面倒くさいから自分でも話すことなく、それによってますます不利益を被っている。世間的には「本人が努力していない」という評価も頂きそうだが、本人としてはそう生きるしかない、そういった類の人物像だ。あと、中盤からかなり唐突なスプラッタ展開になるのだが、これはどう読めばいいのだろう。いや、こういうの好きですが。

「マント」魔法のマントで空を飛ぶ……といってもジョー・ヒルが書くからには陽気なファンタジーになり様が無い。大体、マントで飛んでいる時の描写からしてこうだ

 “スーパーマンを連想されては困る。むしろ、膝を胸元に引き寄せた姿勢で魔法の絨毯の上にすわっている男を想像してほしい、その映像が想像できたら絨毯を消す――それで、現実にかなり近くなるだろう。”

 しかし、最後主人公は驚くべき行動に出るのだが、ここの動機はよく分からない。2回読むと分かるのか、それとも分からないように書いてあるのか、どちらかは分からない。


「末期の吐息」色々な人の「末期の吐息」をビーカーに詰めて保存展示した博物館に三人家族がやってきて……という話。ワンアイデア、ワンシチュエーションものになっていて、世にも奇妙な物語とかでやっていそうな感じ。夫と息子は展示品にかなり興味津々なのに、妻はペテンだと決めつけるのだが、こういう話法はとても使いやすいので、ワナビの人は是非真似して欲しい(と言う自分もワナビ)。博物館というのはなんだかんだ男しか興味を抱かないものばかりが置かれている場合もありそうだなと記憶を反芻させつつも、この話の場合、両者を分けたのはある種のユーモアを解すかどうかという感じもする。

「死樹」3ページほどしかないし、ジョー・ヒルも「これの自作解題を書いたら本文より長くなってしまう」といったようなことを書いていた。木の幽霊の話と言えばそうなんだけど、「きみ」に語りかけるような調子のテキストなので、木の幽霊という思い付きから始まって思い出話にスライドしていく感じ。

寡婦の朝食」ホーボーの話ということで自分はアルドリッチの『北国の帝王』を思い出しながら読んでいた。列車から飛び降りるのはやっぱり危ないんだね。

「ボビー・コンロイ、死者の国より帰る」これはかなり好き。内容は男女関係に尽きるんだけど、なんせ舞台が『ゾンビ』の撮影所で(ジョージ・ロメロも出てくる)、登場人物がゾンビのエキストラなので面白い。妙に爽やかな終わり方するし。この爽やかさというか抒情的な感じと、血みどろな感じが混ざり合うラストがジョー・ヒルの持ち味なのだろうか。ところで、この短編は最初に本国で出た3種類のバージョンでは収録されていなかったらしく、そのせいかジョー・ヒルの自作解題にも載っていなかった。

「自発的入院」統合失調症の弟が地下室に作る、箱を使った要塞。語り手である兄の悪友が誘い込まれると、彼は二度と戻ってこなかった。そういう本筋の他にも、会わなくなって消えた友人の挿話があって、日常の中で経験する違和感や不安を自然と幻想的な現象へと繋げていく心地よい不気味さがある。

「救われしもの」ヒッチハイカーを乗せたら、そいつがヤバい奴だったというのは『悪魔のいけにえ』にもあったけど、これも導入はそれ。血がついているから怪しんだら、ヒッチハイカー曰くそれはイエスの血であるという……。

*1:そういう意味では劇中作の「ボタンボーイ」が「ありふれた日々の糧」を取り入れた「リアリティ」のある代物だとされていることも注目に値する。追体験としての質が高いのだ