ポール・グリーングラス『キャプテン・フィリップス』(2013)


 この映画は、ことさらにソマリアの海賊の事情やアメリカとの関係を説明しようとはしない。そんなものが知りたければ本でも読めばいい。代わりに、悪党でも英雄でもない、せいぜいが中間管理職でしかない平凡な人々の顔が、過酷な生存競争に晒される中かろうじて保たれている光景が切り取られる。互いに双眼鏡で相対した2人の船長を分けたのは、後ろについている力の大小でしかないという即物さに貫かれている。


 即物さ、という事で言えば芝居に関しても幾つか目についたところがある。例えば、終盤ドンドン追い詰められていく海賊側の船長が小刻みにふらふら揺れる。ナイフで手のひらを傷つけられたことから彼は体力を失っていくわけだが、感情がどうと言うよりも、体力を失っていること、それに伴い正常な判断能力を失っていることがそういった身のこなしを通じて伝わってくる。また、救出されたトム・ハンクスが治療を受ける場面。泣くというか、安堵するというか、如何とも言い難い感情を放出するわけだが、それがステレオタイプ的な感情表現ではなく、もう殆どただぜいぜい喘いでいるだけにしか見えないような身体的なものになっているところは、ポール・バーホーベンの『ブラックブック』でカリス・ファン・ハウテンの泣き演技が、泣くと言うよりもただ痙攣するようになっていたことを思い出した。


 また本作は、映画における索敵というものの面白さを再確認させてくれる作品でもあった。前半とクライマックスに顕著だが、視線が繋がることと射線が繋がることが全く同じであるというスリルがある。相手の視野に入れば銃で撃たれるわけだから、当然相手を見つけ出し、加えて相手からは見られないでいるということが大事になる。見ること/見られることのサスペンスと言うべきか。これはマイケル・マンの『ヒート』に一貫して見られた仕掛けでもある。双眼鏡でデ・ニーロを覗くアル・パチーノを、あるいはカメラでアル・パチーノを撮影するデ・ニーロを覚えているだろうか。警察を見つけた瞬間、直前まで笑顔だったヴァル・キルマーが間髪入れず発砲するところを覚えているだろうか。マイケル・マンの作品になぜあんなにも大きな窓ガラスが出てくるのかと言えば、それは「追う者と追われる者が鏡像である」ことを示唆するための装置としてマンが窓を用いているからであり、そのことは『レッド・ドラゴン』を見ると明らかなのだが、もう一つこの視線と射線の問題、索敵のスリルが挙げられると思う。


 貨物船に接近してくる海賊たちのボート。それを遮蔽物から出てこっそり覗くトム・ハンクス。すると、ロングショットで捉えられたソマリアの海賊たちの手もとでAKが火を吹く。次の瞬間、それを覗いていたトム・ハンクスらの周囲で銃弾がバチバチ言う。これも映画における、一つの視線のサスペンスだと言える。


 実はポール・グリーングラスの映画を見るのは初めてで、正直ボーンシリーズを一本も見ていないことを告白するのはかなり気恥ずかしい気持ちだ。現代のアメリカ映画を語りたいなら、見ずに済まされないであろうことはよく分かった。