ウィリアム・フリードキン『ハンテッド』(2003)

ハンテッド [DVD]

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 純粋な活劇は中々理解されない。

 感情移入はできないし、あっと驚く真相が待っているわけでもなく、テーマやら社会性やらを読み込むこともできない。ほとんどの人はこの3つの手を封じられてしまうと作品とどう向き合っていいのかが分からなくなってしまう。ある種の作品では、かろうじて、バカ映画だと笑い、ツッコミを入れて楽しむことができるかもしれないだろうし、派手なスペクタクルがあれば、それに目を楽しませることもできるだろう。
 しかしながら、そのどれにもこのウィリアム・フリードキンの『ハンテッド』という映画は当てはまらない。

 世紀末1999年のコソボ紛争で勲章を得たハラム(ベニチオ・デル・トロ)という男が失踪し、森の中でハンターを殺害する事件が起きる。同様の手口で4名殺害+死体損壊を確認したFBIは、“トラッカー”として高名な老野生保護官であるL.T.ボナム(トミー・リー・ジョーンズ)を呼び、捜査に協力させる。L.T.は容疑者がかつての教え子であるハラムだと確信し、そこから二人の二転三転する狩り合いが始まる……。いわば『ランボー』に、ランボーの師匠を出演させ、その二人の追いかけっこと殺し合いを延々と撮り続けているような映画である。

 さて、前言を撤回するようではあるが、この映画が純粋な活劇と呼びにくいと思える理由も幾つかある。ランボーを思わせる殺人マシーンとなったハラムという男のトラウマが冒頭で提示されているため、社会性を読みこんだ感想を書くことが取りあえず可能だ。また、アブラハムとイサク、「父と子」、「狩り」といったキーワードから絵解きをすることも可能であると言える。さらには、ナイフ格闘やトラッキングと呼ばれる追跡の技術についてのトリビア集として本作を語ることも可能だろう。

 ある意味、ここで殺し合う二人の因縁であるとか、行動の大枠の理由は説明されているので、その行動と理屈を紐付けることが可能である以上、地味なりに理解の範疇にある活劇かもしれない。本来、活劇の怖さと言うものは、人間の行動しか描かれないことによってその人間を理解することができないこと、何かしらのステレオタイプに当てはめられないところにあるからだ。これは多くの場合、作品の欠陥として指摘されることが多いが、そもそも映画は心理だとか理由だとかいう不可視のものについて説明する保証のないメディアなので、そのような指摘が批判として有効であるかどうかは大いに疑問が残る。

 ……さて、長々と『ハンテッド』本編とはあまり関係の無い一般論を語ってきたが、本作はつまるところデルトロとトミー・リー・ジョーンズのプロフェッショナルなアクションを徹頭徹尾楽しむことの出来る娯楽作品であり、森中、地下、市街、電車内、滝と舞台の移り変わりが豊かなジェットコースタームービーである。伊藤計劃メタルギアソリッドが参照していたという話も聞く。

 筋はランボーに似ているが、ランボーと違って殆どが二人の追いかけっこと対決に注がれ、脇役は、“向こう側”にいる二人にほとんど介入することすら出来ない。冒頭の森では、トミー・リー・ジョーンズFBIを退けさせて単身、デルトロに挑む。ここで決着をつけるのはFBI側の麻酔矢で、ここは彼らが二人の戦いに介入出来たピークである。その後は、家で立ち会う二人に女性捜査官が銃を突きつけるものの、デルトロは窓から逃げ、「この線を越えたら、後はもうこの俺を殺すしかないぞ」と宣言した線を越えるのはトミー・リー・ジョーンズだけである。市街での追跡はトミー・リー・ジョーンズとデルトロの独壇場であり、電車に乗り込む場面では電車という箱によってFBIは蚊帳の外に置かれ、その後橋の塔を登る場面でも、高さという壁によってFBIは蚊帳の外に置かれている。最後の滝壺での対決はもちろん、二人だけの世界だ。

 格闘は、ナイフ戦に絞ったおかげでかなり独特のアクションに仕上がっている。例えば、持ち手以外の手足の使い方であったり、膠着状態に陥った時の突破方法であったり、銃やナイフを持っている相手を拘束する近接格闘の方法であったり。訓練シーンだと、ライフルのスリングを使って相手の肉体をコントロールする手段であるとか、特定の姿勢からどういう順番で相手の急所をナイフで攻撃していくのか、といったところも紹介されている。最初に出会った時の二人は手足を使ってなんだかじゃれ合っているような組み手をやっているような不思議な格闘をするわけだが、これ相手を押したりして間合いを取ってるんだよなあ。一つしかない武器が地面に落ちた時、それを取ろうとするモーションが二人とも全身を使った跳躍であったのが印象深かった。確かに、それが最速だろうけど。また、戦闘中に身を隠しながら傷口の上を縛って出血を止めるあたりも恰好良かった。

 雨が降っている直接のシーンが無いまま、窓ガラスやら路面やらが濡れているところや、道路に地下からの白煙が立ち込めているところは古典映画の美学が覗けて良かった。古典映画と言えば、追跡ということで自分が思い出したのはロバート・アルドリッチの『ワイルド・アパッチ』だった。野営の跡を消すとか、足跡を辿るといった追跡の技術は、西部劇でもそれなりに見られたよね。「トラッキングという技術がよく分からない」という感想は結構見かけるけど、まあ結局のところ昔ながらの追跡劇だと思えばいいわけです。

 フリードキンはこれで3作目。最初の『エクソシスト』は途中で寝てしまいちょっと苦手意識を抱くが、『Killer Joe』という怪作に出会って変態映画監督という印象を持ち、そしてこの『ハンテッド』が抜群に面白かったので今後どんどん見て行きたいお気に入りに加わった。

 ところで、自分の知る限りこの手の映画の極北にあるのが、イェジー・スコリモフスキの『エッセンシャル・キリング』である。そこでサバイバルを繰り広げるヴィンセント・ギャロからは社会性、過去、時制はおろか、言葉さえ削ぎ落とされており、かろうじて神の存在が示唆されるだけだ。内面は全くうかがえず、あるのは生物としての基本的な欲求と、それを満たすための行動のみ。ここまでくるともはや、サイレント映画と言ってもいいかもしれない。