ショーン・ペン『インディアン・ランナー』(1991)

 重力の映画とはすなわち、エロスの映画のことだと喝破したのは誰だったか、もう忘れてしまった。この「重力」は、僕らがみな思春期に獲得し、人によっては一生抱え続けることにもなるかもしれないあの身体のだるさ、人生のだるさのことだ。だから、青春映画がすべからくエロいのは、もちろんそこにいる少年少女がみな特有の重力に肉体をしなだれさせているからだと、言ってしまっていいだろうか。

 これは何も抽象的な話であるつもりはない。
 僕らが肉体をを眺める時に、常につきまとう問題である。つまり、なぜしなだれかかってくる人間はあんなにエロいのか、病気に臥せっている人間はあんなにエロいのか、押し倒された人間はあんなにエロいのか、ベッドに横たわる人間はあんなにエロいのか。 ただ重力のみが人間の肉体を捻じ曲げ、自由を奪い、彼らの肉体に気怠さを与える。 男子高校生と女子高校生がどちらもあの時代にしか持たないエロスを持っているのは、彼らが重力に囚われているからなのだ。そして、この映画で重力に囚われているのはヴィゴ・モーテンセンである。 ヴィゴ・モーテンセンは、熊のように鈍重な兄貴に身軽さを誇るように高所を取り続ける。 雪玉を投げる場面、盗んだ車を焼く場面、工事現場で働く場面、兄貴と話す夜の場面。 彼は必ず相手よりも高い位置に立とうとする。実際、「弟はまるで英雄のように見えた」と言うデヴィッド・モース演じる兄貴は、真面目な自分の人生に比べ、輝かんばかりに自由な弟の姿に羨望を感じてしまう。映画に出てくるような人生。 インディアンのように身軽に走り、兄貴を置いてけぼりにするヴィゴ・モーテンセンの場面は、彼がいつか去ってしまうのではないかという予感に満ちている。


 そんなモーテンセンが時折見せる、重力に負ける瞬間がたまらなくエロい。暴力を振るい、頭が真っ白になり、地面に倒れ込み、ぐったりと首を傾け、夢でも見ているかのように目がとろんとして、汗をぐっしょりとかいている。彼はその時にインディアンのような身軽さを失い、空を飛べなくなる。この映画は、そんなヴィゴ・モーテンセンを目で楽しむポルノである。そう言い切ってしまいたくなる観客のために、この映画には重力がたっぷりと用意されている。身体を横たえるためにベッドがまずある。重力による運動の遅延、スローモーションによる運動の遅延、水場による運動の遅延。水は肌を艶やかに濡らし、汗もまたその機能を果たし、流れる血さえも淫乱に見えてくる。モーテンセンがふっと放すタバコは重力に負けて落下し、ガソリンを撒かれた車に引火し、ゆっくりと揺れるエロチックな炎を作り出す。

 延々と前を何かが横切り続けることにどういう意味があるのかはまだ分かっていない。
モーテンセンが強盗をはたらくガソリンスタンドの「YES」と「YOUR FRIEND」の文字にどういう意味があるのかも分かっていない。ただまあとりあえず、ヴィゴ・モーテンセンがすごいエロいぜ、と言っておきたいのだ。