クリント・イーストウッド『チェンジリング』/過去と記憶と掘り起こすこと
久しぶりにクリント・イーストウッドの『チェンジリング』を見ました。
見ていることを前提で話すのですが、僕が今回気になったのは、殺人に加担させられた子供が、刑事に指示されて自分たちが殺した子供が埋まっている地面を掘るところです。無論、ここで画面に立ち込める土煙がとても興味深いですし、映画において煙や霧というのは重要な視覚的細部だと思うわけですが、今回はそこには触れません。というのも、今回注目したいのは、「土を掘る」という具体的なアクションがここでは密接に過去と繋がっており、精神的外傷と向き合うという側面を持っているからです。
似たような例として、シネフィルの方であれば幾つもの西部劇を羅列することが出来るのでしょうが、あいにく自分にはそこまでのライブラリがありません。というわけで、自分の場合思い出すのは『鋼の錬金術師』11巻で母親らしきものを埋めた場所をエドワードが掘り起こす場面です。(ここでは土埃ではなく、雨という比較的寓意の取りやすい細部が使われており、一層イーストウッドの選んだ土埃というものへの関心が強まるわけですが)
そこでも、「土を掘る」という行為が精神的外傷と向き合うという意味合いを持っていることが分かります。
ここにおいて、「土を掘る」という行為がそのまま『チェンジリング』の主題へ結び付けられているような気がしてきました。そもそも本作は、ある日突然いなくなった息子が、帰ってきたと思いきや別人であり、にも関わらずそれを本当の息子だと言い張る警察と戦う孤独な母親の話です。
この映画の中で、目の前の相手ときちんと向き合い、話を聞く人々はとても少ないです。ジョーンズ警部は、最初に列車が別の子供を連れてきた時から母親であるアンジェリーナ・ジョリーの目よりも、奥にいる記者たちの方を意識し、ちらちらとそちらへ視線を送ります。結果、警察側は「あれは私の息子じゃない」と言う母親の言葉と向き合わず、話を聞かず、事実を捻じ曲げます。悲しいのは、母親を助ける役となるジョン・マルコヴィッチ演じる牧師さえもが、「息子に帰ってきて欲しい」と願う母親と微妙に、しかし確実に目的がズレていることです。牧師の目的は、あくまで腐敗した警察を追及することです。後半になって殺人事件がおおっぴらになると、「息子さんは死んだ」という警察側の作ったストーリーを共有してしまいます。(そう、これはストーリーを巡る話であり、自分のストーリーは自分で語れという寓話でもあります)。インテリらしい嫌味っぽさの残る声を持つマルコヴィッチをこういう役柄にあてるというのは皮肉なのかなんなのか、分かりませんが。
その点、印象に残るのは、やはり「20人も殺した」というにわかに信じがたい子供の告白を、受け止めたヤバラ刑事でしょう。彼は少年の言葉と向き合い、話を聞き、見事に事件の流れを変えてしまいます。その上、先に述べた通り彼は少年に過去を掘り起こすことを指示し、精神的外傷と向き合うことを指示します。
ここでは一つのコミュニケーション論が形作られているのかもしれません。
『チェンジリング』は他にも語りどころの多い映画ですが、ひとまずはこれくらいにします。おいおいは映画における「土埃」という細部の含意も探っていきたいですが。
それはそうとして、実は自分は土を掘ることが過去を掘り起こすことになる、というモチーフが好きで、これで一本の短編を書いていたりします。長編バージョンも書こうとしましたが、6万字ほど書いてしばらくストップ中です。
ジョジョ第6部に出てくるディオの息子たちの一人、ヴェルサスの持つスタンド《アンダー・ワールド》も、地面を掘ることで、過去を掘り起こすことの出来る能力でしたが、このようなケースにおいてもやはりこの二つの結びつきは甘美であるなと感じてしまいます。