見ました。未整理ですが少し感想でも。
■水とメロドラマ、そして色々なものとメロドラマ
本作では、二人だけの空間であり、コミュニケーションのルートである糸電話による告白がいきなり失敗します。誰もが考えるルートであるがゆえに、ここを潰すというのは一つの宣言のようにも見えます。つまり、あそこはあくまでも二人が「幼馴染」であるということを前提にしたルートなのだということです。下手をすれば妹のあんこにも混線しかねない、おおざっぱな二人だけの空間なのだと。だからこそ、二人が「恋人」として関係を結び直すために、山田尚子監督はこのルートを潰してみせます。
水に落ちなければ、たまこともち蔵はいつまでも「幼馴染」だったでしょう。言い換えれば、たまこともち蔵を「恋人」にするためには、あの鴨川の飛び石でたまこが水に落ちる必要があったのです。メロドラマの名作と呼ばれる作品の多くが「水」と関係しているという一説は有名なものですが(参考“「アマルフィ〜女神の報酬」西谷弘〜ゴダール「アワーミュージック」への返答について」”/映画研究塾 http://movie.geocities.jp/dwgw1915/newpage158.html)、あの場面に河川敷を選び、たまこを水に落とした山田尚子監督は意識的にしろ、無意識のうちにしろ映画語を使っているのだなあと思いました。
また、僕が“ショーン・ペン『インディアン・ランナー』”の記事(http://d.hatena.ne.jp/clementiae/20140513/1400007506)で言及したように、身体的なだるさや、重力というものが恋愛というエロティックなエピソードを語る上で採用されているようにも思います。飛び石を渡るというのは、身軽さと正常な身体感覚が必要です(これはバトンにも言えることですが、たまこがバトンを取れないのはいつものことなので)。だからこそ逆算でこのロケーションが選ばれたのでしょう。たまこはもち蔵に告白されることで身軽さを失い、重力に引きずられて水に落ちてしまいます。そして、ずぶ濡れになったことで「熱でもあるんじゃない?」と言われるのですが、ここでは露骨に、恋に落ちることと、重力、水、身体的なだるさが重ねあわされています。水も夕陽でピンク色だし、青春はエロいのです。
だからここで僕は、TVシリーズのたまこマーケットで気持ち悪いくらいに抑圧されていた「性」というものが、本作では解放されていることを思い出しました。冒頭のデラの短編では、本作では「性」の抑圧を解きますと宣言するかのように下ネタを連発します。それを受信するかのように、たまこも「お尻もち」やら「おっぱいもち」やらといったアイデアを口にしては、妹のあんこに窘められるシーンがあります。
エロスと言えば、本作ではプライベートというものがあるんですよね*1。商店街という空間では、他人の私生活が容赦なく自分の私生活に侵入してきますし、向かい合うもち蔵とたまこの家も窓越しにお互いを覗きあうことが出来ます。つまりプライベートが存在しません。
しかし、プライベートが存在しないということは、二人だけの恋愛空間を作ることが難しいということです。だからこそ、本作は多くを学校や登下校のシーンで設定しているのかもしれません。ここで糸電話という二人だけのプライベートがあることの意味が少し気になってきました。本作でも言われているように、本来ならこれは携帯電話でやりとりすればいいだけなのですが、糸電話を介すことによって周囲に「二人だけのプライベートな空間があります」ということを見せているとも取れますよね。たまこともち蔵にそういう可能性が残されていることを示すのがあの糸電話なのだと。ま、たまこが水に落ちるまでは、所詮「幼馴染」というプライベートな空間でしかないのですが。
ただ、たまこが水に落ちた後では、二人はカーテンを閉めますし、窓というルートが塞がることによって糸電話というルートも途絶えます。もち蔵とたまこの間に今まで存在していなかったプライベートが生じます。こうして考えると、あのカーテンを閉めるという行為は相手の拒絶ではなくて、互いのエロチックな関係への気恥ずかしさを覚えたがゆえのものなんですよね。
そして、かんなちゃんは二人のルートを再び開通するために(大工の娘だけに)、廊下の曲がり角で出会いがしらにぶつかるという、直角を愛するかんなちゃんらしいルートを提案するのですが、これは上手くいきません。まあそれもそうで、かんなちゃんは二人のプライベートな関係にまったく無知なわけですから。恋愛経験が高そうに見えて、鈍感なんですね。
そこで決心したたまこが、「連絡網を回さない」という作戦で二人だけの空間を作ろうと画策しますが、これもまた上手くいきません。結局のところもち蔵もたまこもそういう賢しさからは無縁の人間なんでしょう。そんな二人を見ていられなかったみどちゃんが助け船を出し、ようやくたまこは走ります。河川敷で告白したもち蔵も結局は頭で考えた作戦はすべて失敗し、飛び石を渡るというアクションの中でルートが開かれました。同じように、たまこも、頭で考えた作戦はすべて失敗し、「走る」というアクションの中でとうとうルートが開かれるわけです。
で、僕は実は「キャッチする」というモチーフが繰り返され、前景化されることで、なんだか作品自体が一本調子になっていて嫌だなあと思ったのですが、しかしこの告白の場面ではその伏線が実はフェイクだったことが判明します。
あの暗転に響くたまこの声!
そう、何が一本調子だ、そんなの自分が勝手に賢しく考えていたことに過ぎなくて、映画そのものはこの声にかけていたのでした。まんまと騙された。ああ、自分も賢しさに振り回されるという点では、たまことも、もち蔵とも一緒だなと、完全にしてやられた気分で劇場を後にしました。
■足は口ほどにものを言う
山田尚子監督が上半身ではなく、足を切り取った構図を多用するのはよく知られた事実ですが、本作ではいつも以上に気になりました。例えば冒頭、登場するもち蔵が席を立つ時、彼の足(とリンゴが)が画面に大写しになります。また、回想の中ではしゃぐたまこもまず足が出てきたような気がします。体育館でバトンをやっているみどちゃんも「キュッ」という音といっしょに足がまず登場しますし、同じく体育館でバドミントンをやる史織さんも、「キュッ」という音といっしょに足がまず登場します。かんなちゃんは職員室(?)から出てポスターをしげしげと見つめてまた職員室に入っていくためそうではないかと思っていると、バトン部のみんなのところに行く場面では「ささささ」という声と共に、わたわた滑る足が映ります。
足はいたるところで出てきます。
トイレでたまこを待つみどちゃんの、じれったそうな足。あるいは、ラストでたまこを走らせるために嘘を吐く場面での、右足を左足に絡ませた足。あるいは、商店街でたまこがさゆりさんに会った場面での二人の足。それらはお互いに向き合いながらも、急ぐさゆりさんの足と止まっているたまこの足で異なる動きをします。あるいは、ジャストミートでもち蔵と出会ったたまこが引き返しつつも、「いや、これではいけない」と覚悟を決めてもち蔵の方へと方向転換する際に足が映されているのも見逃せません。
ただしこれは、糸電話を投げたり、キャッチしたりするといったモチーフとは違って、主題化はしません。単に、人物を切り取る際に、足を映した方がいい時があるから、とでも言うような感覚で足が切り取られます。あるいは、人間には上半身と下半身があるのにどうして足を映さないのかしらん、とでも言うように。