ジョゼ・パジーリャ『ロボコップ』(2014)(7月6日に追記あり)

【※ネタバレ】

 なんという、おれが見たかった「伊藤計劃以後」。

 というのは冗談だとしても、「決断しているのはソフトウェアだが、本人は自分が決断したと錯覚しているロボット警官」、「特定のタグ付けされた対象に攻撃できない環境管理型権力に阻害されるロボット警官」、「張り巡らされた監視カメラからの映像を基に、ビッグデータ活用の犯罪捜査を行うロボット警官」、なにこのSFガジェットへの生真面目さ、面倒くささ。お仲間だとしか思えないジョゼ・パジーリャ監督への共感で快哉を叫びそうになった。

 無論、ハリウッド映画という規格の持つ限界もある。途中でロボコップが感情を失ってしまうあたりなんかは、その科学的メカニズムについて、例えばイーガンを初めとしたSF作家であればもっと書きこんでいるだろう細部であると思うし、また最後のオムニコープ社の社長との対決では、なぜかタグ付けで攻撃出来ない対象に向けて攻撃できてしまう。このあたりなんかは急に古典的になって残念だった。多分、このタグ付けによる攻撃不可対象の存在こそ、ロボコップに人間の相棒が必要な理由に他ならないと思うし、監督も恐らくそのへんは考えているんだろうとは思うが、本作では相棒の占めるウェイトが小さかったので活かされるシチュエーションに乏しかった。もし続編があればそこらへんを調整して欲しいものだ。とはいえ、総じてビッグバジェットのハリウッド映画としてここまで出来たのはかなり凄いと思う。

 オリジナルの『ロボコップ』との比較で言えば、まず本作は無人兵器によって治安維持されている中東のとある国の様子が挿入されることと、別のシーンで文脈的に付随して述べられる「人と機械の融合なんて逆行だ」という台詞が印象的だ。

 確かにその通りで、実際、本作のロボコップはそもそも米国に無人兵器の国内への導入を禁止する法律がなければ作られることすらなかったのだ。オムニコープ社はこの法律を廃案にするために世論操作に踏み切り、人々に好意を以て受け入れられる治安維持ロボット、ロボコップを作ることとする。ここで分かる通り、オムニコープ社は様々な社会的しがらみに手足を縛られた単なる巨大企業に過ぎず、古典的な悪役からはほど遠い。

 しかしもちろん、ある人間をロボコップにするのであれば、本人、あるいはその親族の承諾が必要となるし、国民ウケや、精神・肉体的な安定度なども勘案することもあって、そのオリジナルが誰でもいいというわけにはいかない。そういうわけで、捜査中に買った恨みから爆弾で攻撃され、全身の火傷、脊髄の切断に追い込まれた一人の警官を助けるという名目で、その妻に了承を得てロボコップは誕生する。

 しかしながら、人間の良心、恐怖、倫理などが判断行程の途中にノイズとして生じてしまうので、テスト段階でロボコップ無人兵器に後れをとることが問題とされる。それを解決するためにとった手段が、あの前述した〈リベットの実験〉めいた発想である。

 すなわち、「通常モードでは人間が意思決定を行い」、「戦闘モードではソフトウェアが意思決定を行い、マシンが身体を動かす。人間は自分が意思決定を行ったと錯覚する」という仕組みである。博士役のゲイリー・オールドマンは「自由意思の幻想だよ」とまで言ってのける。

 それで問題も解決か、と思われた矢先、メディアへの発表の直前になって、ロボコップは流し込まれた監視カメラの映像に苦しむことになる。大量の監視カメラはリアルタイムで中継され、遠隔にいながらも「目の前にいながら助けられない犠牲者」の存在を浮き彫りにしてしまう。さらに、車を爆弾で吹き飛ばす映像が、自身が死にかけた際の映像をフラッシュバックさせてしまい、PTSDを発症してしまうのだ。しかしメディアへの発表は目前であり、「なんとかしろ!」と言われるゲイリー・オールドマンは限界を越えて鎮静剤を投与し、ロボコップの感情を消滅させてしまうのだ。誰かが決定的に悪いわけではない、偶然に偶然が重なり、タイミングの悪かった一人の人間が犠牲となってしまう。そういうリアルな「悪」の造形を目指していることが分かる。

 ここで思い出されるのは、「無人兵器を操作する戦闘員のPTSD発症率が高い」というアメリカ軍が抱える現実の問題である。遠隔でありながら、カメラではっきりと相手を殺害したことを確認してしまうことが原因であるらしいが、本作のロボコップも人間を超えた視覚を持ってしまうことで、精神を安定させることができなくなってしまう。すなわち、ここでも感情はノイズになってしまっていることが分かる。そして、ビッグデータを使った合理的な犯罪捜査のために必要なのは、感情を一切持たず、そのため普通の人間として生きることのできない、社会の一員として友人や妻子と普通に関わることのできない人間であるということもまた明らかになってしまうのである。

 鎮静剤の投入や、脳を直接いじる手術のシーンの存在などもあり、「感情」というものがかなり物理的な現象であるということは本作の態度として表明されているものの、ではその「感情」という現象のディティールがどうなのかと言うと、割とはしょられている感が否めない。もしこれがグレッグ・イーガンなら、ピーター・ワッツなら、伊藤計劃なら、長谷敏司なら、と思うところはあるが、しかし映像でそういった言語的なものを提示することの困難さ、かつそれを娯楽作品として昇華する困難さを考えると、仕方がないかという気にもなる。

 だからといって無策かといえばそんなこともない。そこからが本作の凄いところである。感情を失ったあとのロボコップは単に役者が無表情になり、機械的に喋り、機械的に動くだけでなく、主観カメラの映像でまざまざとその非人間ぶりを見せてくれる。ロボコップは人間を見る際には「threat」なのか「no threat」の区別しかしていないということが視覚的に明らかにされるのだ。顔を認識するとビッグデータに検索を掛け、前科情報を調べて、該当すれば逮捕、該当しなければ無視をする。例えそれが妻子であっても。

 詳しく描写されてはいないが、表情やまばたきの回数から心理状態を把握することが「STONED」や「COOPERATED」といった分かりやすい文字で表現される。スキャンによって怪我の具合をみたり、服の下や体内に武器を隠していないかをチェックすることができる。ただ、あくまでこういったものは捜査の一環として用いられ、人間の感情を把握することができるからといって人間と親しげに会話を交わすことはない。

 ロボコップは常に思考を覗き見され、タグ付けにより管理され、オムニコープ社の人間やアメリカ国民にとって都合のいい、完璧なる、公共の所有物としてのヒーローへと変貌する。物理的にも、社会関係的にもプライベートは消滅し、ひたすら効率的に犯罪捜査を進めるだけの「わたし」のないヒーロー。彼がバイクを走らせ、その黒いボディを煌めかせる姿を見ると、二十一世紀のバットマンとはこうなるのか、という虚しさがある。

 それゆえに、そこから矛盾しない形で「わたし」を復活させていく姿が極めて感動的なのであり、そこのエモーションこそがこの作品の最大の成果と言えるだろう。

 ロボコップの動揺は、一連のロボコップの事件で不登校になってしまっている息子の存在である。そこで彼は、優先順位を無視して息子の下校の映像を何度も見続ける。このあたりは、いかに機械と言えど、高度な知性を持った一つの人格が外部からの命令で完全にコントロールされえないのではないか? という本作のリアリティラインを示した描写でもある。そして、このラインの守り方がとても感動的なのだ。

 そして、ロボコップは、「捜査」という自分に唯一残された行動を通じて、ギリギリまで削られてしまった「わたし」という生の外縁を取り戻していくことになる。

 例えば彼は、自分が爆弾で攻撃された事件の捜査を目的として、自宅で当時の映像を監視カメラから入手して見ながら、ロボコップはかけよっていく妻を見つめ、その様子を上の窓から覗く息子と時空を超えて見つめ合う。ここでは、「窃視」という映画伝統のエモーションを生じさせている。

 また例えば、その「捜査」は警察上層部とギャングの癒着にたどり着き、かつロボコップになる前に相棒と捜査している事件であったために、相棒との友情も取り戻すことになる。

 繰り返しになるが、「捜査」以外できなくなってしまった非人間的な生と矛盾させず、あくまでその制限を破ることなく、「捜査」を通じて人間的な生を取り戻していく様が実に感動的なのだ。
 
 さらに、無人兵器禁止を定めた法律の廃案が決まり、不要どころか邪魔となったロボコップを亡きものにしようとするオムニコープ社に反撃するために、ロボコップは、自身の殺害未遂という「捜査」を理由にしてオムニコープ社相手に戦うのである。だから、オムニコープ社での戦闘シーンにおいても感動的なのは、ロボコップが二足歩行ロボットと戦う姿ではなく、追い詰められたロボコップを救うために「武器を持たない人間は攻撃できない」という無人兵器のタグ付けを利用して身を呈して庇う相棒であるとか、「怪我の状態をスキャンする」という自らの機能を通じて「大丈夫だ、命に別状はない」と声を掛けるロボコップの姿に感動するのである。環境管理型権力にがんがらじめに拘束されながらも、時にそれを利用し、強かに生きていく人間の姿を見る感動がここにある。

 それゆえに、最後、タグのせいで攻撃できないオムニコープ社の社長相手に気合で攻撃するところは少し興ざめだったのだが、もしかして何か理屈上の伏線があったのだろうか。「君はロボットだからわたしを攻撃できない」と言う社長は、現実的な悪役とはいえ、なかなかに悪役らしかった。そして、こういうことがあるために、ロボコップは人間の相棒を必要とするんだろうなあと思った。

 こういう趣向のために、アクション映画としては手続きが多くてストレスフルで、また現実的な悪役造形のせいでカタルシスには欠ける。とはいえ、このロボコップはこのロボコップヴァーホーヴェン版に負けない作品だと思う。

追記/オムニコープ社の社長に最後ロボコップが攻撃できたのは、「今回のロボコップは中国製だから誤作動した」という説があるらしい。なるほど納得。人間性の勝利というものさえそういう皮肉な解決を迎えるのだからジョゼ・パジーリャ監督のへそ曲がりぶりが分かる。しかもヒューマンエラー+意志の勝利ということで、総じて人間性の勝利といえなくもないところが憎らしい。そもそも中国の工場でロボコップが作られていたのも、中国市場を意識するために入れろと言われたかららしくて、ジョゼ・パジーリャ監督も本作のロボコップのように、制限された中から狡猾に自由を獲得しているんだ。(「10個アイデアを出して9個没にされた」で、これなんだから、恐らくはハリウッドのプロデューサー側も大変だったんだろうと思う)