アクションとしての死


映画における死とはなんだろう。

小説における死というのは、内面やら意味やらがまとわりつく様子を思い浮かべることで、何となくすぐに想像できるような気がする。もちろん死そのものは経験しえないので、実際に小説に描かれる「死」というものは想像としてしか書くことができないし、想像として読むことしかできない。
最後の点については映画でも同じで、主観的な死というものは真実としては描けないだろう。そもそも映画は内面との相性が悪いので、思いつくものと言えば、飛び降り自殺をする人の主観カメラで地面に接近して暗転する画面とか、一度ぐらついたあと暗転する画面とか、そういったものくらいだ。
仮に死というものがその程度のシンプルな経験だと分かったとしても、僕らは映画や小説で死を経験したあとも再び生きていけるのだから、それは主観的な死とは言い難い。
死は、少なくとも生きている人間にとっては常に外部に存在する出来事なのだ。

だとすれば映画における死について考えるとき、中心的に扱うべきなのはやはり、第三者から見た死でしかありえないだろう。
そこで思い出すのは、ジャン・ルノワールの『ゲームの規則』(1939)における死である。

というわけで、以下の動画を1:30くらいから最後まで見て欲しい。


さて、どうだろうか。
映画とは徹頭徹尾アクションであり、したがって死もまたアクションとして描かれるべきである。そして、実際にアクション化された死の、最もシンプルで必要十分な回答は、この『ゲームの規則』における「さっきまで動き回っていたものが唐突に停止し、二度と動かなくなる」という一回きりの運動だろうと思う。
恐らくこの映画では動物を本当に殺しているので反則気味かもしれないが、実はこの狩りのシーンは『ゲームの規則』全体では別のシーンと呼応しており、その点でルノワールの現出させた死は、単に「本当に殺した」というだけのものではなくなっている。
なのでこの記事を読んだ人は実際に『ゲームの規則』を見て貰いたい。そうすれば映画における死とは何なのかが、より強く実感されることだろう。

そうして『ゲームの規則』を見ていると、死とは悲痛なものなのだという当たり前のことが思い出される。僕らが死を目撃した時に胸を襲うのは、甘美な悲しみではなく、ただ痛ましく、できることなら避けたいような類の悲しみだ。そもそも死というのは目撃しづらいものであり、仮に目撃したとしても間近で見ることは難しいものであり、仮に間近で見れたとしてもそれは一瞬の出来事であり、一瞬で過去へと消えていってしまう唐突で暴力的な出来事なのである。

アクションとしての死は、つまりそういう悲痛な視覚的暴力だ。
だから、僕らが普段映画やTVドラマで見ることのできる死というのは、アクションではなく、感傷として表現される。ロングショットではなく顔のアップで、一瞬ではなく引き伸ばされた長大な時間の中で、人々はなにがしかの印象的な言葉を他人に残し、劇的に死んでいく。
冷静に考えれば、それは不自然なシチュエーションに他ならないのだが、僕らの多くはそのシーンに心を揺り動かされ、たまには涙も流し、あろうことかリアリティがあるとさえ感じている。
けれども、そこには死の悲痛さも暴力性も欠落している。
まあ、それはそれで別にいいのかもしれない。なぜなら、僕らは現実の悲痛さから目を背けるためにそういったものを見ているからだ。文句があるとすれば、それがあまりにも使い古された手段として出てくる場合であるとか、あまりにもド下手に演出された場合だろうか。

他方で、一般に暴力的な映画と呼ばれる一群の作品で描かれる死も『ゲームの規則』のような悲痛さを纏うことがない。そこでは暴力こそがセールスポイントとなり、死とはメインディッシュであるからだ。唐突な死は、ある時は筋立て上の驚きとして、ある時は祝祭的な見せ場として機能し、視聴者に満足感を与える。
特定の人にとっては、そういうシーンも悲痛さを持つかもしれないが、それは単にその人たちがその種の映画のターゲット層から外れているというだけだろう。

しかし、ルノワールの撮った死は悲痛だった。他の何よりも。