レイ・ブラッドベリ『ウは宇宙船のウ』

ウは宇宙船のウ【新版】 (創元SF文庫)

ウは宇宙船のウ【新版】 (創元SF文庫)

途中まで。
読み終わったら順次更新していく予定。


・「ウは宇宙船の略号さ」フェンス越しに宇宙船の発射を見つめる少年たちの約束と別れ。アメリカンドリームな心をくすぐるお手本のような一作で、分かっていても最後の一文にはグッときた。ちなみに、我々の住む地球とはちょっと違った地球が舞台になっている。そこでは、宇宙飛行士に憧れる少年たちがいつかやってくる選抜に胸をときめかせ、友人たちとはいつも土曜日に宇宙船の打ち上げを見に行き、必ず宇宙飛行士になることを約束し合うのだが……。主人公の「ぼく」の下に選抜に通ったことを知らせるヘリコプターがやってくる一方で、約束した親友のところにはまだ来ていない。そんな中で「ぼく」はただ一人、母親とも友人たちとも別れ、発射の爆風を感じながらしがみついていたフェンスの向こう側へと足を踏み出すのだ。宇宙船を「個体となった申しぶんのない火」、「凍結した炎」、「解ける時期を待つ氷」等と描写するブラッドベリの詩的な言葉がちりばめられている打ち上げのシーンは美しくて満足。

・「初期の終わり」なんとなく『幼年期の終わり』を思い出させるタイトルだが、こちらは宇宙時代の開幕というわけで少しオールドフューチャーな感じである。息子を乗せた宇宙船が飛び立ち、最初の宇宙ステーションを打ち立てようとしている、そんな記念すべき夜の空を、老いた父と母(そして全人類が)が見上げているという情景を綴った短編だ。冒頭でいきなり宇宙にいる息子の視点を幻視して、すぐにまた地球の老いた父の視点に戻るというシーンに驚かされる。最初はよく意義が分からないのだが、終盤にはそれが人類史の老いと産声をぐるぐる回転する視点のチラ見せなのだということが理解できるようになっている。「わたしの年齢は十億歳だ、と彼はひそかに思った−−わたしは生まれてから一分しかたっていないのだ」「背の高さは一インチ、いや、一万マイルだ」といった矛盾した言い回しは、これまでの人類史の長く積み上げられてきた年月の老いと、今はじまったばかりの新時代の産声がぐるんぐるんと回転する酩酊感を表しているのだろう。その酩酊感を芝刈機の素朴な駆動音とその、ぐるぐると回る車輪に仮託しつつ、最後に「やがて彼は芝刈をすませた」という一文でしめる見事に動的な短編である。

・「霧笛」灯台に鳴り響く霧笛を聴いて、今日も海の底から、古代の生物が沖へと上がってくる。最後の一頭となって孤独なその怪獣は、自分に似た声(=霧笛)をもつ灯台を自分の仲間だと思っているらしい。そして……。という孤独についての短編なんだけど、僕は実はこれがあまり好きではない。『怪獣』に、『孤独』に、と好きそうな要素が揃っているのに何故だろうと思い今回二度目の読了を経たのだが、やっぱりダメだった。ベテラン灯台守の語りによって色々なことが説明されて、それがやや説明し過ぎだからグッとこないのだろうかと思った。あと、ずっと霧笛の読み方は「キリブエ」だと思っていたが、「ムテキ」なようだ。

・「宇宙船」宇宙旅行が当たり前になった未来世界。でも、結局のところ宇宙にいけるのは金持ちばかり。宇宙旅行に憧れる平凡なお父さんは、今日も家族のために働き、ようやく積み上がった一人分の宇宙旅行代を見ながら悩むのである。その一人を決めようとくじ引きをしても結局みんな遠慮をしてしまうのだ。だからお父さんはスクラップ置場で実験用の模型の宇宙船を動かし、みんなを宇宙まで連れて行くのだが……。という感じでたいへんポエジー。そもそも全体的に人形劇のようなスモールワールド的雰囲気があって、この世界だと宇宙がかなり近いところにあるんじゃないかと思わされる。例えば、冒頭に「裸に近い姿で暗闇に立ったまま、火の噴水のように宇宙船が空中にぶんぶんとびたってゆくのを見守っていた」という文章が出てくるんだが、そのあたりの情景描写の、なんか「すぐ近くに宇宙がある感じ」というか「成層圏とかなさそう」な感じが、後半の、「模型の宇宙船で宇宙まで行っちゃう」展開にシームレス繋がっていてよい。いや、実は宇宙に行ってないんだけど。このあたりはソ連の宇宙開発を盛大に皮肉った『宇宙飛行士オモン・ラー』(ヴィクトル・ペレ―ヴィン)のハリボテ感と、そこに生じる妙にポエジーで爽やかな感情に近いところがある。オチで、「実はみんなネタを分かっていて、そんな家族サービスを考え付いちゃうお父さんを温かく見守ってました」という事実が明かされて微笑ましいことは微笑ましいのだが、ハリボテ宇宙旅行の幻想が身も蓋もなく殺されたような感触もあって素直に感動できない自分もいる。ただ、くじ引きの場面の完成度は圧巻である。

・「宇宙船乗組員」宇宙船乗組員をやっていて、滅多に家に帰ってこないお父さんが帰ってくる! そんな長期出張お父さんと息子の温かな交流を描きつつ、一方でお母さんはなぜだか「まるでお父さんが見えないかのように」振舞っていると指摘してみせる。そういった何気ない日常のシーンで周到に外堀を埋めていったあとのラスト数ページに立ち込める死の香りがハードでいい。嘘は甘美だ。「十年前にお父さんが宇宙へ行ってしまったとき、わたしはひそかにこう思ったのよ、『あの人はもう亡くなったのだ』と。つまり死んだも同然なのよ。だからお父さんは亡くなったと思うことにしたの。それで、お父さんが年に三、四回帰ってきても、それはお父さんなんかじゃなく、ただの楽しいささやかな思い出か夢にすぎないのよ」と語るお母さんの強がりと、「宇宙船乗組員にはなるな」と息子に約束させた次の日の朝に「今度うちへ帰ってきたら、もうそれっきりずうっとうちにいるよ」と約束するお父さんの強がりが心にくる。そして、制服姿のお父さんに「もう一度回ってみて」と言ったお母さんを思い出して、無性に泣けるのだ。傑作。

・「太陽の金色のりんご」ハヤカワから出ている新装版『太陽の黄金の林檎』の方で読了済み。宇宙船に乗って太陽までたどり着き、そのひとかけらを掬って持って帰ろうというお話。冷え切った地球の人類に“火”を与える試みでもあり、宇宙の知恵を与える“果実”でもあることを示したこのタイトルが印象的だ。ここまでくるとオールドフューチャーというより、おとぎ話とか神話の類と言った方が近く、そのせいかブラッドベリとしても詩的文章が幅を利かせている短編である。また、氷と火を同時に出すのはブラッドベリによくあるのだが、ここでも太陽に突入するために船内に冬の寒さを持ち込んでおり、作中で唯一出る死者の死因が「凍死」であるという逆説もブラッドベリらしいと言えるだろう。太陽突入シーンの文章はなんだかすごいことになっている。「どの地平線も、どの方角も太陽だった。それは分を、秒を、砂時計を、柱時計を焼きはらい、時間と永遠とをすっかり焼きはらってしまったのだ。それはまぶたと、まぶたの裏の暗い世界の漿液と、網膜と、隠された脳髄とを焼きつくし、眠りと、眠りの甘い思い出と、涼しい日暮れとを焼きつくした」。

・「雷のとどろくような音」これも『太陽の黄金の林檎』で読了済み。今読めば素朴なタイム・トラベルもので、微笑ましくもある。時間旅行で太古の地球へと舞い降り、ティラノサウルスレックスをハンティングするのである。ただ、二十日鼠一匹を殺せば後々の人類の一国家を全滅させることになるので、ルートも厳密に指定されておりそこを踏み越えることは許されず、ハント対象も厳密に選び抜かれて「子孫も残さず、わざわざ狩らなくてもその後すぐに死ぬことになっている」対象になるわけだ。バタフライエフェクト〜。ただ、『太陽の黄金の林檎』版の訳では非常に印象的だった体言止めの一文が、この訳では体言止めじゃなくなっているので、その点少し残念ではあった。まあ、既訳の印象的なところだったから変えたのかな。

・「長雨」これも好きな遭難した宇宙飛行士ものじゃないか(宇宙飛行士感はないけど)。ずっと雨が降り続けている金星に不時着した一団が、太陽ドームなる救いを求めて歩き続け、段々と狂気に至る様を綴った短編。今読むとあまり金星という感じがしないのだが、そういうオールドフューチャーを楽しむとなればいける。空に向かって拳銃を撃つと、大量の雨粒が、時が止まったかのようにその中空に浮かび上がる様子を描写するあたりなんかはブラッドベリ一流の筆致だった。

・「亡命した人々」おおう……。ブラッドベリがビザールなものを書くことは知っていたけれども、いざこんなものを目にすると爆笑せざるをえないな。つまりバカ短編。『華氏451度』をバカ方面に加速させるとこんな感じになるのだろうか。冒頭でいきなり魔女が宇宙飛行士を呪い殺すところから始まり、宇宙飛行士たちの目的地になっている惑星に住んでいるのは実は……という代物。好みで言えばこの短編集全体でも随一かもしれない。

・「この地には虎数匹おれり」意思のある惑星に到着した宇宙船とその一団の数奇な体験を描く一作。望んだことを何でも可能にしてくれる酒池肉林の天国を提供されて帰りたくなくなる一団だが、たった一人チャタトンという船員だけはかたくなにこの惑星の恐ろしさを警告し続ける……。というわけで、まあなんというか、この惑星を「女なのだ」と評してしまうあたりは今のポリティカルコレクトネス的に大丈夫なのだろうかと思わないでもないが、まあそれはどうでもいいか。この短編集のこれまでの短編と比較すると、趣の異なる宇宙SFが二つ続いた印象だった。

・「いちご色の窓」あまり興味が湧かなかったのでノーコメント。

・「竜」短さもあって、ネタがすべてという感じでもある。読んだ通りの話だし、言及もしにくいのでほぼノーコメントで。