サム・ペキンパー『ビリー・ザ・キッド 21才の生涯』(1973)
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- 発売日: 2010/04/21
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『ワイルド・バンチ』→『ゲッタウェイ』→本作と見てきて初めてサム・ペキンパーを好きになった……と言えば怒られるのかもしれないが、とにかくこれまでペキンパーは苦手な作家だったのだ(たった2本で苦手も糞もないとはいえ)。それが変わったことを記念し、備忘録的に文章を綴りたい。
今回見たのは批評家が編集したとかいう特別版(こう書くとなんとも胡散臭い代物のように思えてきた)で、全体的にはボブ・ディランの音楽が大変エモくて心にくるものの、ちょっと感傷を引き伸ばしがちかなと思いつつ、なんだかんだ擁護の構えである。
■二人の男、イマジナリーライン越え
本作は、パット・ギャレットがビリー・ザ・キッドを殺すまでの長い道のりを描いた映画であると取りあえず要約してみよう。ギャレットとキッドは年の離れた友人で、今ではギャレットは保安官になっている。かつての友人が、今は敵同士というわけだ。追われる男と追う男の奇妙な友情関係ということで、よくある題材とはいえ、『ザ・クラッカー』などで印象的なスローモーションを使っているマイケル・マンはやっぱりサム・ペキンパーが好きなんだろうなと思った。
それはともかく、冒頭でギャレットとキッドが会話をするシーンが印象的である。
キッドに「捕まえられる前にメキシコに逃げろ」と助言するパットと、そんなパットを見て「変わったな」とコメントするキッド。ここで二人の基本的な関係が描写されるわけで、印象的なのは当然と言えば当然だが、カメラのイマジナリーライン越えもまたそのインパクトに貢献している。
カメラがイマジナリーラインを越えるのは二度だけ。
一つ目は、「捕まる前に逃げろ」とアドバイスするパットに言葉を失い、「まるで人が変わったみたいだ」とコメントするキッドのところで。
二つ目は、会話が終わりに差し掛かってキッドが「パット・ギャレット保安官」を祝して酒を煽ったところで。
共に、わざわざイマジナリーラインを越えて見せたのは、保安官に転身した友人の変わり様に驚いたビリー・ザ・キッドの感情を強く印象付けるためなのだろうなと推測する。
実際、印象的な場面だった。
■映画は見せ場だけでいい、ペキンパーのモンタージュ
「映画は見せ場だけでいい」というのはよくハワード・ホークスを引き合いに出して語られる言葉だが、本作もホークスに負けず劣らず見せ場ばかりで構成されている。まあ、ギャレットが一度捕まえたキッドに逃げられて、もう一度捜し出して撃ち殺すだけの緩いシナリオなので、見せ場の連続にしてもいいし、散文的にあまり本筋とは関係ないような遊戯も交えられるというわけだが。
(例えば、首を吊るロープで遊ぶ子供たちと、その横ではためく星条旗はなかなかインパクトがあった)。
そこに、あのペキンパー流のモンタージュが加えられるのである。
あの、通常速度とスローモーションのカットを組み合わせ、複数の視点を組み合わせたモンタージュは『ワイルド・バンチ』ではちょっと作品全体のカット数の多さも相まってか、(自分の主観としては)ちょっと軽薄に感じられてグッとこなかったのだが、今回は一つのアクションシーンにおける複数の人物の行動を対比することに成功しているように見えた。要するに生々しいのだ。冷徹な法の執行者として振舞うパットがキッドを撃ち殺すラストシーンにしても、同じ空間にいるのにもかかわらず、一方は日常に身を置き、もう一人は戦場に立っていることがあのモンタージュによって生々しく理解されるからこそ、深く心に感じ入るものがあるのだろう。
どのシーンも何かしらのドラマを生んでいるが、最初に強いインパクトを残すのは、なんといっても捕まったビリー・ザ・キッドが保安官助手二人を殺して逃れるところだろう。比較的いい関係を作っていた助手に階段で銃を突きつけ、「お前を殺したくない。だから逃げるな」と言ったキッドは、にもかかわらず「キッドは背中越しには撃たないよな」と逃げ出した助手を見て、すぐさま相手を撃ち殺すことになる。そうやって撃たれた助手が、階段の柵をぶち壊し、一階のドアもぶち壊して外の地べたに這いつくばる様子を、いつもながらのスローモーションで捉える。ド派手である。そして、キッドに散々悪態をつき、殴りさえもした方の憎まれ役の助手は、当人自身が持っていた散弾銃(弾丸の代わりにコインが詰められている)で無残に撃ち殺される。最後にキッドは、村人から馬を奪っておきながら、「ボブ(助手の名)の身体にコインがいっぱい詰まってるからそこから取りな」と決め台詞を言っておさらばである。
ここだけ見るとビリー・ザ・キッドの見事な英雄譚になっているようにも思えるが、基本的に本作におけるキッドは、ただちょっと腕の立つ早撃ちの有名人で、いつかきっとその命を散らし、歴史の遠近法の中に消え去ることを運命づけられている過去の人間である。
その代わりに観客の近くに立っているのは、官僚的な人間として生きることを決め、旧友を撃ち殺すことになったパット・ギャレット保安官である。
■撃ち殺した男、投げる男
そんなパット・ギャレットを演じるジェームズ・コバーンがいい。この映画は圧倒的にコバーンの映画だと思う。というか、原題だとPat Garrett and Billy the Kidなんだよね。ギャレットの方が先に来ているわけだ。
さて、本作のジェームズ・コバーンは、時代が変わって無法者から保安官へと転身し、非情な法の執行者として振る舞わんとした男を演じるわけだけど、どうもキッドにだけは非情になりきれないらしい。
とは言っても、キッドを殺せという命令は覆らないわけだし、キッドはメキシコに行けと言って素直に聞くような相手じゃないし。時代が変わったのだから、自分もそれに合わせて生きていくのだと決めているジェームズ・コバーンはどこまでもキッドを追い続けざるを得ない。
そして、とうとうキッドの居場所を突き止め、ジェームズ・コバーンは窓越しにキッドの姿を見るわけだが、そこには久々にお気に入りの娼婦とベッドにいて、幸せそうにしているキッドの姿がある。なるほど、これは撃てない。外にある、ロープで吊られた長椅子に座りながらゆらゆら揺られているジェームズ・コバーンのブレっぷりに深く共感してしまうシークエンスだ。
あるいは、同性愛的な感情からアンニュイな気分になっているだけなのかもしれないが。
そして、ようやっと覚悟を決めたコバーンは室内に入る。
ここからは同時に観客も、複数の人物の行動が入れ代わり立ち代わり挿入されモンタージュされ、襲撃される側の日常に身を置いた動作と、襲撃する側の戦場に身を置いた動作が交錯するとても生々しいシーンへとなだれ込むことになる。
最後、振り返って旧友を見つけて嬉しそうに笑うキッドに向かって、ジェームズ・コバーンは虚ろで死んだような顔になって引き金を引く。そんな自分自身に驚いているようなコバーンの表情にまた観客も驚き(少なくとも自分は驚いた)、直後、鏡に映ったコバーン自身の姿に驚いてさらにもう一発引き金を引き、鏡の中の自分を撃ち抜いてしまうあたりは、あざといと思いつつもまた感じ入るところがある。
そうやって最後、「殺した証拠に指を切り落とす」と息巻く部下をすごい剣幕で怒って蹴りまくるパット・ギャレット保安官はやっぱり非情になりきれていないのだが、そういう風に自分自身の魂を撃ち殺してしまったように見えるパットは、他ならぬ冒頭のシーンで実際に殺されていたことを思い出すのだった。
また、本作のジェームズ・コバーンは物を投げる動作もいい。
何度か物を投げるシーンがあるわけだが、中でもよかったのはタバコを最初に投げ捨てるところと、コルクを投げ捨てるところだ。素早く、しかし身振りは小さく投げるのがどうもコツなのではないかと思った。
■以下余談
最初に言ったように、追う男と追われる男の奇妙な関係もそうだし、最後の射殺シーンで鏡を撃ってしまうあたりもそうだし、マイケル・マンが鏡像の主題を扱うのもやっぱりこういうところからなのかな、と考えたりもした。もっとも、マンの場合は鏡という直接的なものは使わず、大きな窓ガラスなどに変奏するわけなんだけど。