〈耳刈ネルリシリーズ〉をまとめて

今更ながら、ずっと前に再読した〈耳刈ネルリシリーズ〉の感想をここにまとめておこうと思った。これを書いているのは、金曜日の深夜。夜更かしにはもってこいだ。


・『耳刈ネルリ御入学万歳万歳万々歳』

まずこれは、非常に繊細で、照れ屋にしか書けない小説だ。
レイチ・レイーチイチという語り手は、超ハイテンションな一人称の語り口で始終まくし立てていき、本心という本心を隠し通してしまう。そうやって現代日本オタク文化チャネリングしているとしか思えないエロい脳内妄想を繰り広げるレイチは、嘘を吐きまくることで、本来ならシリアスに盛り上がるべきシーンでも道化であることを徹底し、どこまでも軽く軽く軽く事件を乗り越えていってしまうのだ。もちろん、おちゃらけた一人称の背景で進んでいる出来事は決して軽くはなく、むしろ国内外の政治状況がいかにもそれっぽく書かれており、読み手としては一筋縄ではいかない印象を受けるわけだが、飽く迄レイチの本作における役目は道化に徹することにある。そのせいか本作では一貫して規範が避け続けられ、肝心のネルリに対する恋心も本音かどうかだいぶ怪しいのである。むしろ、前半ではナナイといい感じになるしね。

そんな感じでまあ、『耳刈ネルリ御入学万歳万歳万々歳』という作品は、「狂っている」というよりかは、そうやって道化にならざるを得ないレイチの内奥にある悲惨さが胸に痛い作品だと思うのだが、そういったところはすでにしょっぱなから見られるのである。


本書はこんな一文から始まる。

見渡す限りの黒い大地だった。

読んだ人にはお分かりだろうが、あれほどまでにハイテンションな『耳刈ネルリ御入学万歳万歳万々歳』の冒頭は、いやに落ち着いた、そしてどうにも暗い書き出しから始まっているのである。

さらに引用してみよう。

鉄道の線路が見えるかと思い窓の外に目をこらしたが、平原の土の黒さに紛れてしまっていた。プラットホームも見えない。

窓ガラスの向こうの夕暮れ空を仰ぎ見る。それに集中していると、目の錯覚で、暗い車内がさらに暗くなっていくように感じられる。

目を閉じると全てが闇に染まった。

夕日を浴びて真っ黒な影と化した機関車が長い長い列車を引っ張ってこちらに走って来ていた。世界の果てのようなこの荒野に突如現れた汽車は、夢の続きみたいに非現実的だった。

列車が長々と横たわる様は壮観だった。かつて夷狄の侵入を防ぐために築かれた長城のようだと思った。だが、平和な日常を守ってくれるはずの防壁の似姿は、かえって僕を不安にさせた。

こうやって抜き出してみると、「黒」、「闇」、「影」といった不穏なワードが連発されていることが分かる。一見すると、レイチ・レイーチイチとは思えぬほどテンションの低い文章の連なりである。
もちろん、これは恣意的な抜粋であり、これらは単に光学的な描写に過ぎないという解釈もありうるが、こういった風景描写が語り手の心象風景として意図されているというのは、小説の手法としては実にありふれたことであり、決して突飛なものではないと思う。そして、上で最後に引用した文章のまさに次の文以降の展開を見てみれば、きっとこれは深読みではないと納得して貰えるはずだ。

一人の少年がひょっこり顔を出した。

もちろん、この「少年」とはワジ・ワジーチのことである。

彼が出てくるシーンを眺めると、学園生活にあまり前向きな展望を見出せず、陰鬱な暗闇に閉ざされていたレイチの未来が、ばっと開けていく様がまざまざと描写されていることが実感される。
そしてその先に見える光景は、まさしくこのあと全三巻をかけて描かれていくレイチと一年十一組の未来を暗示しているようで、実にこれが感動的と言うほかないのだ。

僕は窓枠に肘を突いて、行く先に目を凝らした。木々の隙間に、星より明るい光の点がちらほら見えた。森を抜けるとその光は星よりも数が多くなった。ひとつひとつは小さいが、星に届きそうなほどの高さにまで規則正しく積み重なっている。か細い塔が互いに高さを競い合って群れなす、それが僕たちの高校だった。


まだよく分かっていないのは、この時点におけるレイチの、ネルリに対する恋心である。
お見舞いは偶然花を貰ったからだし、告白はネルリの冷酷さをほだす意図があったようにも読めるわけだ。レイチがはっきりと自覚的に恋心を認めるのは第2巻なんだよね。もちろん、書いているのはこの学園時代よりもあとの大人になったレイチなわけだから、どこまでが本当なのかは究極的には分からないのだが、まあ気になると言えば気になるのである。

ちなみに小ネタとしては、フェデリコフ・フェリーニン監督『夜道』が面白かった。もちろんフェデリコ・フェリーニ監督『道』をもじったんだろうけど、いかにもなイタリア人名をロシアっぽく強引に改変するあたりが石川博品だなあと思った。



・『耳刈ネルリと奪われた七人の花婿』

耳刈ネルリと奪われた七人の花婿 (ファミ通文庫)

耳刈ネルリと奪われた七人の花婿 (ファミ通文庫)

これは大傑作だ。胸をかきむしりたくなった。

こんなにストレート剛速球に「愛」を歌い上げるのも、演劇という嘘の中ならいいよねとばかりに本作も照れ屋にしか書けない小説なのである。
いや、本作の「演劇という嘘の中ならいいよね」の許容具合はとんでもない。なにしろ、現実的な政治問題さえ演劇の流れで解決してしまっているわけで、あの幸福な演劇空間の中では、〈耳刈ネルリシリーズ〉を通じてあれほどまでに重くレイチたちの背中にのしかかってくる政治的なアレコレが無効化されているのだ。そういう意味では、規範を避け続けた前作と違って本作にはフィクション賛歌を色濃く感じた。

ギャグが減ったのも、レイチが本音で喋れるようになって来ているのだろうなという事を感じさせて胸にくる。

しかし、こういうことをやった後にあの三巻があるのだからなあ……。



・『耳刈ネルリと十一人の一年十一組』

耳刈ネルリと十一人の一年十一組 (ファミ通文庫)

耳刈ネルリと十一人の一年十一組 (ファミ通文庫)

卒業も間近となり、必然的にこの『耳刈ネルリと十一人の一年十一組』でキーとなるのは、ズバリ「未来」である。しかし、語り手のレイチは学園を卒業して大人になった段階から本作を語っているのであり、ここで語られる「未来」というのは、過去でもあり、現在でもあり、未来でもある。そういった多重の含みのある「未来」になっている。

実際に、一騒動を巻き起こしてしまうネルリの「未来記」にしろ、色々なところで交わされる「約束」にしろ、そこで紡がれる言葉が向いているのは「未来」なのだが……もちろん、不確定な「未来」について語られる言葉は往々にして嘘であるし、だからこそ「未来記」騒動はああいう風に解決がつき、「約束」の数々はどれも過去への感傷に満ちた強がりな嘘のようにしか聞こえない。

あの幸福な第二巻『耳刈ネルリと奪われた七人の花婿』の演劇の場面は、石川博品という誠実で照れ屋な書き手が表現することのできたギリギリの、レイチたちの幸福であったということが分かる。

学園の中における、一時的な虚構は卒業と共に崩れ去り、レイチとネルリもその後は現実的な政治状況の持つ力の中へと戻っていくしかない。


総じて言えることは、〈耳刈ネルリシリーズ〉は嘘と過去の甘美さの裏にある非情な現実が、なおさらその嘘と過去の甘美さを掻き立てるという構造を採用していることである。

ラスト二文に泣かないのは馬鹿だ。

明日になれば嘘じゃないことが言えそうな気がしていた。たぶん僕らはみんな、そう信じていた。

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とりあえず今回はこのくらいで。また再読したら何か書くかもしれない。
石川博品は現役で最も好きな作家で、やっていることに共感できる書き手だし、新作が出るとすぐに読んでしまう。次はもっと細かなところ、気づけなかった仕掛けに目を留めていきたい。いつかワンシーンずつ検討してみる精読記事も挙げてみたい。