ジェームズ・グレイ『エヴァの告白』(2013)

エヴァの告白 [DVD]

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※いつものように、ネタバレしています。


見たのは二か月以上前のことになるのだけれど、とにかく巧くて呻ったので、やはりこれは忘れないうちに書いておくべきだろうと思った。グレイの作品は『アンダーカヴァー』『裏切り者』『トゥー・ラバーズ』の三つを見ている。

さてこの作品、原題が“The Immigrant”であることから分かるように、アメリカにやってくる移民の話である。裏から見た“自由の女神”像がちっとも自由に見えない象徴的なショットに始まり、マリオン・コティヤールがなんやかんやで身体を売るはめになって、ポン引きのホアキン・フェニックスや、マジシャンのジェレミー・レナーなどと三角関係を繰り広げるという感じのプロットだ。

そういう、物凄く辛気臭い映画なんだが、グレイ本人の個人的なオブセッションがあると言う、エリス島の雄弁な風景撮影の数々と、さらには辛気臭さを忘れさせるような見事なストーリーテリングの技術が振るわれていて、小説を書くことを趣味にしている人間としては気になるのはその見事な巧みさなのである。

もちろん、グレイの本作における達成が、単純に“巧みさ”という言葉で表現されるのは間違っているとは思う。グレイはまずもって題材や俳優に対して極めて真摯であろうとする作家なので、自分がやっていることは腹に落ちていないんじゃないのか、とか、ここで表現しようとしている感情に嘘はないのか、とかそのようなことを、実際に現場で俳優やスタッフと執拗に繰り広げたのだろうと推測するのだが(幾つかのインタビューやニュースを読む限り、実際そのような雰囲気が伝わってくる)、ともかく今回自分に拾えたのはいつもながらのグレイの“巧みさ”であったので、その部分だけを取りあえず語ってみることにする。

まず大胆なのが、マリオン・コティヤールの行動を動機付けているマクガフィンとしての、コティヤールの妹の扱いである。なんと、最初の入国審査のところですぐにコティヤールから引き離されたあと、最後の再会のシーンに至るまで妹は一度も姿を現さないのである。最近あんまり見ないレベルの割り切り方だろう。そこらの(例えば自分のような)作り手ならば、なんとか短いシーンの中で妹のキャラを立たせよう、とか考えてしまうのだろうと推測するが、ジェームズ・グレイはそのような努力を一切しない。性格も何も分からないうちに、病気を疑われてすぐさま入国待ちの席から退場させられてしまうのだ。なんともマクガフィンの原義に忠実な扱いだった。確かに終わってみれば、妹のキャラクターはどうでもよいということが分かる。

また、このように妹が物語の外側に置かれることによって、コティヤールの演技にあるものが感じられた。それは、瞳がどこを見ているのか分からないということである。ここではないどこかを見ている、あるいはわたしたち観客には見えないものを見ているような視線の作り方。それは恐らく、物語の外にいるが、コティヤールにとっては常に一番大切な妹を見ているからなのだろうと推測したくなる。例えば、曇って何も見えないんじゃないかと思うような鏡を見ながら、血で唇に紅を差し、髪を整えるところであるとか、酒を飲み過ぎてぼんやりと鏡を見つめるところであるとか、最初に男を迎える場面のどこか外れた視線などがそうだと感じられた。

次に驚くのは、全編を通じて光る、シーン選択の巧さだ。これだけ辛気臭い話なのに最後まで一息に見れてしまうのは、ひとえにジェームズ・グレイのシーン選択あってのものだと思う(ちなみにグレイはこれまで関わった映画のすべてで脚本を書いている)。とにかく、どのシーンでも必ず一つのドラマが繰り広げられるのである。それでいてプロットを読まされているという感触はない。むしろ、そのシーンで語られるべき出来事が、それ以外の出来事によって巧妙にハズされているかのような感触がある。確実にプロットを進め、ドラマを作りながら、それが正面に出ていない演出の間接性など、その滑らかさにはとんでもないところがある。人によっては淡々とした地味な語り口に映るのだろうと思うが、一つ一つのシーンが展開するドラマは明快であり、いわゆる起伏のない物語では断じてない。

ドアなどの仕切りを使って、一つのシーンに二つのシチュエーションを並立させ、それを的確にスイッチングしていくあたりを見ると、仕切りの活用の巧さも目立っている。

ただ、ユーモアは他のグレイの映画と比べても少ないかもしれない、とは思う。特に、同じくらい辛気臭い『トゥー・ラバーズ』でユーモアが光ることもあってか、そういう感触は強い。なんとなくグレイの個人的な物語であるところが影響しているんじゃないだろうか、と邪推もしてみたい気にもなる。(詳しくはこちらのインタビューをどうぞ http://www.webdice.jp/dice/detail/4114/

演出の間接性ということで一つ。例えば、マジシャンであるジェレミー・レナーが舞台に出て、観客席にいるマリオン・コティヤールに一目惚れする場面を見てみよう。元々、一目惚れする場面というのは、その偶然性を強調するために演出は自然と間接的になるものだけれども、このシーンは中でも出色の巧さだと思った。舞台で注目を集めるレナーと、ここにはいない妹しか見えていないコティアールが対比される。拳銃の音や、観客のどよめきや拍手、歌手の美声などが響くのだが、むしろそれによって彼女が場の空気を共有していないことがはっきりとし、コティヤールは妹と後ろ姿の似た観客にばかり気をとられているから、レナーに花を渡されても心ここにあらずという感じである。

愚かにも夢を見ているからこそ聖性をまとえるジェレミー・レナーと、利口に現実を見るからこそ病的にならざるを得ないホアキン・フェニックスの対比も魅惑的で、二人が相対するところではじめてレナーが暴力的に拳銃を握るところの意外性も、チラッとダガーを見せるだけで事の顛末をすべて語りしめるあっけなさもすごい。


という感じで、特にまとまりもなく本作を見てきたが、恐らく誰もが言及するであろう、あの雄弁なラストカット周辺について少し触れてみたい。アメリカに残るしかないホアキンと、(移民であるからこそ)逃げ出すことのできたコティヤールとその妹が、鏡面を使うことで同一カットに納まるあのラストカットのことである。実は個人的に印象深かったのはその前あたりの一連のカットで、ちょうど妹と再会するコティヤールをガラス越しに捉えたカットのことだ。印象深い最初のカットでは、窓ガラス越しに(窓枠の目立つカットである)再会の様子が捉えられ、しばらくすると、起きたホアキンがその様子を見て、再度二人の再会カットが映される。ここで自分が思い出したのは、ホアキンはヴォードヴィルの男であるということだった。つまり、窓ガラスをスクリーン内スクリーンなのだとみなせば、これはヴォードヴィルの男が映画を見ているということにはならないだろうか、と思ったのだった。さて、1920年代ではすでに時代遅れになりつつあったヴォードヴィルの男が、あのように映画的な感動の瞬間を見て何を思ったのだろうか。

このシーンで強調されるのは汚れたホアキンと、美しい再会の様子の隔たりであり、繰り返すように、アメリカでの底辺の日常という地獄に残るしかないホアキンと、逃げ出すことのできたコティヤールの対比なのであるが、しかしあのガラス越しに捉えられたカットがあるからこそ、わたしたち観客はあのラストカットに感じ入ることが出来るのだと思う。このような映画の美しいシーンに感動する自分と、しかしまた、そのような美しさとは無縁の現実に戻っていくしかない自分が、まさしく「見ることしか出来ない」ホアキンそのものになって映画に没入してしまうからだ。

この映画は、また観たいと思う。
未見の『リトル・オデッサ』のDVDも安価で発売されたし、グレイが関わった『マイ・ブラザー』も見たいと思う。