ポール・オースター『孤独の発明』、あるいは書くことについて
- 作者: ポールオースター,Paul Auster,柴田元幸
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1996/03/28
- メディア: 文庫
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とても面白かった。個人的関心からいって、これまで読んだオースターの作品でもベストだと思った。もっとも、自分はあまりオースターを読んでいるわけではないけど。
自分が他に読んだ『ガラスの街』、『偶然の音楽』、『幻影の書』と異なり、全体をひとまとまりのものとして理解できる物語性は希薄で、韻文を含んだ散文の集積という感触である。内容は、父の死を契機として、オースターにとって理解しがたい人間であったその父について語る前半部の「見えない人間の肖像」と、後半部、膨大な引用を通じて記憶について語る「記憶の書」によって構成されている。
自分にとって本作が興味深かったのは、この作品ではオースターが明白に、言葉では書きえない対象に対して、見通しが立たないままそれでも書こうとしているからだった。しかも、その対象というのが、他人を拒むような生き方をしていた実の父であるというわけで、そこにはある種の切実さがある。
切実さがあったところで、書くということは困難な作業であることには変わりがない。本作のオースターは執筆上の苦労についてあけすけに語っており、たとえば以下のような文章は、長い散文を書いたことのある人にとってはとても共感できるものだと思う。
この仕事をはじめたときは、言葉の方から勝手に出てきてくれるものと私は思っていた。神がかりのごとく、言葉がとめどなくあふれ出てくるだろうと。書きたいという欲求はこの上なく強かったから、物語はひとりでに書けてしまうだろうと思ったのだ。だが実際にやってみると、言葉はなかなか出てきてくれない。調子のいい日で、一ページ、二ページ書くのがやっとだ。何かが私を妨げているような、呪いをかけているような気がする。書こうという気持ちはあるのに、どうにも集中できない。自分の思考が眼前の問題から離れていってしまうのを、私は何度も、なすすべもなく眺めてきた。ある事柄を思いついたとたん、それが別の事柄を喚起し、さらにまた別の事柄につながってゆく。やがてはおそろしく濃密なディティールの蓄積ができ上がり、ほとんど息が詰まりそうになる。考えることと書くことのあいだの裂け目を、これほど痛感させられたのははじめてだ。実際、ここ数日、自分が語ろうとしている物語は、実は言語とは両立しえないのではないか、そんな気さえしてきている。おそらく、物語が言語に抗えば抗うほど、それは私が何か大切なことを言いうる地点に近づいた証しにほかならない。だが、まさに唯一大切なことを(かりにそんなものがあるとして)言うべき瞬間に達したとき、私はそれを言うことはできないだろう
行き詰まり。脱線。言語と思考の乖離。どれも書くことに欠かせないパートナーだ。
「見えない人間の肖像」でオースターは、父の父、つまりオースターの祖父が殺害された事件についての資料を調べることで、隠された父の内面に迫っている。そこでは、幼少期の事件からその人の内面を推しはかるという、それ自体は素朴な手法を用いられているが、そのことがすぐに父の内面の理解につながるといったことにはならない。結局のところ、一人の人間は矛盾としてしか記述しえない、ということをオースターは確認している。
矛盾というものの、奔放な、神秘的というほかない力。それぞれの事実が次の事実によって無化されることを私はいまや理解する。それぞれの想いが、それと同等の、反対の想いを生み出す。いかなる陳述も限定なしで行うことはできない。彼はいい人間だった、彼は悪い人間だった。彼はこれだった、彼はあれだった。どれも等しく本当なのだ。ときとして私は、三人か四人の人間について書いているような気になってくる。そのそれぞれが別個の存在であり、それぞれが他のすべてを否定している。断片。あるい知の一形態としての逸話。
それが誰であれ、誰かについて何かを書くということはむなしいことだ、とオースターは言っている。では、どうして書くのか。どうして小説を書く人は、小説を書こうと思うのだろうか。誰かについて何かを書く人は、その文章を書こうと思うのだろうか。僕にしても、今ここで『孤独の発明』についてどうしてこのまとまらない文章を書こうとしているのか。書けはしない、でも書けるかもしれない、そういう対象を選んで、終わりのない散文の集積へと身を任せる。どうしてそういう無謀なことをしてしまうのだろうか。そうやって失敗に終わった原稿がいくつあるだろうか。
「記憶の書」にはこう書いてある。
書く行為、イコール記憶する行為。
これは、このブログのタイトルそのままじゃないかと思った。
そうだ、少なくとも僕という人間にとって、書くという行為は生きる行為と直結している。自分にとって大切なものを忘れないために、書くのだ。あとでこの文章を読んだときに、まるで自分ではない人間が書いているような感触がしても、そのくらいの時間が経っても、その時の自分が大切に思ったこと、書くことを通じて理解しようと思ったこと、形にしようと思ったこと、記憶しようと思ったこと、そういったことを残しておきたいと思うから書くのだ。このブログのタイトルである「忘れないために書きます」というのはつまり、そういうことなのだ、と思った。
オースターの最終的な結論が、その『孤独の発明』を読んだ僕と同じでなくて構わない。一度でも、オースターがそのような確信を、悟りを得たというのであれば、それは僕にとっては充分で、このような小説が書籍化され、(オースターの名前ありきとはいえ)こうやって翻訳されて日本で文庫化されているという事実に勇気づけられるのだ。オースターが自分と同じことを考えたことがあるから、勇気づけられるわけではない。このように、書きえない対象に、それでもそれが自分にとって必要だから、自らを立ち向かわせている、散文の中で四苦八苦している、希望をもって書いている、それが商品として流通している。そのことに勇気づけられるのである。
「記憶の書」では、色々なものが、色々な記憶を刻みつけている、ということも語られている。野球というものが様々な記憶を連想させることについて書いてある。それによってオースターは、死にゆく祖父と話題を共有することができる。あるいは絵画が、詩が、あらゆるものが何かを思い出させる。
書くことが、語ることが、生命を救うことの可能性を、『千夜一夜物語』を通じてオースターは書いている。そしてそれが、「生命を救うこと」という意味から、「生命を生み出すこと」へと読みかえられていく過程は感動的だが、一方で、父親として、自らの命を差しだせるほどの愛を子供に捧げるオースターの心理を、まだ僕は実感として理解できるわけではない。しかし、書くことが、何らかの希望を持ってなされるものだということは、僕にも理解できる。
書くことができるかどうか分からない。そもそも書いてしまってよいのかも分からない。でも何か書けるかもしれない。そういうことを思いながら、人は長い散文を書くのだろうと思う。オースターは「絶望に屈してはならない」と自らを叱咤している。フラナリー・オコナーも、「希望を持たぬ人が小説を書くことはない」と言っていた。その根拠はもう忘れてしまった。それでも、見通しの立たない、長い長い文章を書くのに、希望が必要であることは疑えないだろう。
孤独の発明。
彼は言いたい。すなわち、彼は意味する。フランス語でいえば“vouloir dire”、文字どおりには〈言いたい〉という意味、だが実際は〈意味する〉という意味。彼は言いたいことを意味する。彼は意味することを言いたい。彼は意味したいことを言う。彼は言うことを意味する。
彼は新しい紙を取り出す。それをテーブルの上に広げて、これらの言葉をペンで書く。
それはあった。それは二度とないだろう。思い出せ。