デヴィッド・フィンチャー『ゴーン・ガール』(2014)


9か月前に書いた感想をいまさら投稿。
ちょっとずつ、日陰で書いたものを日向に移していこうと思う(あと『虐殺器官』レビューからの逃避もある)。


■総合的に
フィンチャーの中では『パニックルーム』、『ゾディアック』、『ベンジャミン・バトン』が好きな人ですが、今回はフィンチャーの中でも最もよく出来た作品なのではないかと思うくらいに良かった。『ゾディアック』と『ゴーン・ガール』が双璧かな。シナリオが面白過ぎて、フィンチャー独特の弛緩した時間があまり味わえなかったのでは?というところくらいか。

前作『ドラゴン・タトゥーの女』と違って、無駄なショットがかなり抑えられていて(無駄なショットもまたフィンチャーを見る楽しみではある)、物語を語ることに奉仕しつつも、どこかフィンチャー的と言うしかない不穏なショットを積み重ねているのが好印象だった。

ヒッチコックを容易に想像させるような映画だけど(中盤であっさりどんでん返し、不気味な隣人、血濡れた薄着でうろうろする金髪美人)、それが妻が帰って来たあたりから完全にスクリューボールコメディ(変人女とそれに困らせられる男の結婚喜劇)になって爆笑した。

オープニングでの時計のショットが印象的だけど、フィンチャーの近作に負けず劣らず、時間経過についての映画だった。

かなり俗っぽく面白くて、そこがダメなのではなく、むしろフィンチャーは自覚的にやっているのではないだろうか。僕自身もゴシップに群がる一人の人間として楽しんだ。「まるでリアリティ番組だ!」

ところで、本作についてはあまり映画としての楽しみとシナリオの楽しみを区別できていないかもしれない。というので、ストーリーテラーとしてのフィンチャーに好感を持ったというのが正直なところでしょうか(思えば『ゾディアック』でも自分はストーリーテラーとしてのフィンチャーに興奮したのだった)。確かに終盤はフィンチャーも、シナリオへの観客の好奇心に頼ったところがあるかもしれないですね。

 語り口、ということで言えば、回想シーンがすべて恐妻の信頼できない語りの中に納まっているのがいいと思った。映画だと「そもそもこの回想シーンって誰の視点なのよ?」「回想によって説明される内面についての話になったね、チャンチャン」みたいな問題に陥りやすいのだけれどもそこを回避し、それによってあのクソ夫婦の過去が曖昧になるのがよかった。それに加えて、視点が散らばり、誰の内面にもあまり寄らないことで、行動によってしか描かれない不気味な他者というラインが全体的にどの人物についても一定程度保たれているのがよかったのかな。映画的には。


■妻失踪〜転換点前

・妻の回想パートは日記に書かれているため、信頼できない語り手なのは一目瞭然なので、「ああ、きっと妻の方が夫をハメたんだろうな……」と慣れた人はすぐに予想がつくので、このパートが作中では最も退屈なはずなのに、それなりに楽しめた。

・妻が有名人である、ということがそこまで丁寧に説明されないので、誘拐事件の捜査の過程がかなり変に映って面白かった。ボランティアたちの不穏さがいい。ああいうどこの馬の骨とも知れない野次馬たちが、草原を散策したり、自転車で夜中の道路を走ったり、河川を散策したりする画はとてもおかしく不気味だった。モブシーン以外では、SNSに写真をシェアする女、妻は妊娠していたと叫ぶ見知らぬ近所の女性、料理を袋に詰めようとするホームレス。また、廃墟になったショッピングモールに無宿者がたむろしているというネタも面白かった。

・とにかく、誰かの視点にあまり寄り過ぎない会話シーンが面白い。『ハウス・オブ・カード』は1話しか見ていないけど、基本的に会話が二人の人物のカットバックで構成されていて退屈だった。でも、今回は会話シーンに複数の視点があってよく中断されるのだ。ベン・アフレックを取り巻く人物(女性が目立つ)、女刑事、その部下、双子の妹、妻の両親、不倫相手、弁護士、あるいは不気味な隣人たち。こういった人物が各所で会話シーンのカット構成に顔を出し、会話が会話内容に中心化されない(これは西谷弘がよく使うテクニックでもある)。

・ここで視点を分担させている個々人の役割がはっきりとしていないところ、曖昧なところが、サスペンスの弱さに繋がっていると思うのだけれど(ヒッチコックの厳格な視点制御を見るとよく実感される)、この弛緩したところはフィンチャーの個性でもあり、同時に単なる弱点とも思えるところである。自分は、これはこれで好きなので悩ましい。

ベン・アフレックをとにかく弄り倒す、というのも悪くなかった。ベン・アフレックの顎ネタに始まり、事情聴取を受ける時のベンアフはやたらとアホっぽく演出されているけど、これがまあ不気味に見えなくもない。

・小道具が楽しい。「ザ・バー」に人生ゲームという取り合わせ。弁護士の投げる粒状のお菓子。皮膚にテープを当てて剥がしたり、説明のない色々な捜査道具もなんだか変だ。フィンチャーはテレビゲームを退廃の象徴と捉えている節があり、『ハウス・オブ・カード』でも似たような使い方をしていた。しかも決まって殺人ゲームなのである。


■転換点〜妻帰宅

・ここからが本番。テキパキとした妻の手際に惚れ惚れとする転換点のネタバレショットを見ながら次へ。

・ただ、妻ロザムンド・パイクは少々やり過ぎ。いかにもロボットな感じを強調し過ぎて、演技過剰に思えた。特に終盤。

・息抜きに挟まれる風景の変な切り取り方がフィンチャーらしいと思うんだけど、どうなんだろう。あまり映画の被写体にならないような変な建築物が映されることが多く、他にも妻を探している広告がよく映される。

・逃亡生活の途中で軍資金を奪われて一転、弱者になってしまう妻が助けを求めた相手が、完全にヒッチコック的な悪役(女を思い通りに支配したがる、世間から隔絶したところに住んでいるお金持ち、マザコンっぽいダサさ)になっているあたりとか、このあたりからもう悲惨は悲惨だし、怖い演出はされるけど、なんだか滑稽である。


■妻帰宅〜エンドロール

・『キャリー』でござい、と血まみれになった妻が車を自分で運転して帰ってきたというのがもうギャグとしか思えない。そのあと、抱きとめられて、がくんと首を折るところもなんだかギャグだ。

・車椅子に座って演技をする妻と、あまりに怪しいので質問する女刑事のやりとりも既に喜劇の領域に入りつつある。

・妻と同居するしかないことを認めていく過程はもうコメディであることを隠していない。弁護士とのやりとり「危機は去った」「日々、危機を感じてるよ!」というやりとりとか。とにかくここらへんからは爆笑。「このクソ女!」「もう引かないって決めたの。クソ女だから」

・一般にミステリー映画の犯しやすいミスとして、過去・真相にさかのぼる話になる(アクションが停止していき、内面についての物語になってしまう)というのがあるが、そのあたりを大体回避できているのがよかった。なおかつ先の読めないプロットを求める観客にも対応しつつ、結果的に、夫婦の壮大な痴話喧嘩を映画に出来たのが、なんというか発明だなと思った。何よりの発明はやっぱり、ラスト付近のヤンデレブコメ時空だと思うけど。