黒沢清『クリーピー』(2016)

※めっちゃネタバレしてます。



■運命、刑事、女
『CURE』における萩原聖人のような怪物。
『CURE』における役所広司のような刑事。
トウキョウソナタ』における小泉今日子のような女。

これらの黒沢清的な人物はこれまでバラバラに存在していた。怪物と刑事が対決したり、刑事と女にロマンスがあったり、女と怪物が重ねあわされたり、そういうことはあっても、これらの三者にそれぞれ俳優を置いて全員対決させたのは初めてだと思う。

怪物というのは人間的な情緒によって説明できず、また変化させることもできず、結果として決定論的な空間を作り出す。そういう機能を果たしている。「一度作動したらどうやっても止めることができないもの」である。人間が何をしようと運命は変わらず、理不尽に機能しつづけて、登場人物をどん底に落とすのだ。

それとは異なり、なにかしらの役割を負って、理性の側に立ち、運命に立ち向かっていく存在として『CURE』の役所広司のような人物がいる。しかし、彼もまた途中で決定論に身を委ね、役割を放棄し、運命へと同化していってしまう。

このように刑事が変化していくことによって作品内に時間的展開をつくりだし、通俗的な物語と黒沢清の作家性が奇跡的なバランスで成立したのが恐らく『CURE』という作品である。一方で、改めて同じことをやろうとしても、『CURE』はある種の到達点であって、あれを越えることはなかなか難しいのではないだろうか。

そしてどういうわけか、最近の黒沢清はいつのまにか「女優の映画」を撮る人として認知されつつある。『LOFT ロフト』の中谷美紀の段階である程度その兆候を見せつつ、『トウキョウソナタ』では小泉今日子を見出し、いよいよ『贖罪』でそれを決定的なものにしてしまう。『Seventh Code』の前田敦子、『ビューティフル ニュー ベイエリア プロジェクト』の三田真央、『岸辺の旅』の深津絵里といったように、女優のカラーで映画のカラーが決まってしまうところが、最近の黒沢清の映画にはある。

これら三つの人物が、同時に現れることで作品にどういうことが起きたのだろうか。


■共感
簡単に言うと、運命でもなく、刑事でもなく、女が勝った。
勝者は女である。

描かれ方として、『クリーピー』に出てくる竹内結子は、『トウキョウソナタ』の小泉今日子に似ている。職業を持たない専業主婦で、これといってやることがなく、人物として空虚である。空虚な日常生活と郊外の風景のせいか、それとも本来的にそうなのか、そのあたりはわからない。そして夫はそれに気がつくことがなく、彼女たちは堕ちていく。

これまで黒沢清の映画に出てくる「堕ちたがる女」はどれも、最後まで男たちとディスコミュニケーションによって終わっていたように思える。黒沢清の映画に出てくる「無神経な男」と情感的に交わることはなかった。

LOFT ロフト』で最後に勝利するのは運命であり、男女の愛は滑稽に終わる。

トウキョウソナタ』の小泉今日子は、確かに家庭に戻ってくるし、息子の演奏会を家族で一緒に見つめることになるけれど、夫との一対一の和解は果たされていない。

『贖罪』の小泉今日子は、最後ただ街路を放浪することになる。

『リアル』の綾瀬はるか佐藤健一と終始ディスコミュニケーションをやっていて、最後もハッピーエンドなのかどうか未確定で、不気味な余韻を残しつつ、宙吊りで終わる。

『岸辺の旅』は……そもそも黒沢清がやりそうにないことを、黒沢清が映画にしていくという感触で、『トウキョウソナタ』とか『贖罪』とか『クリーピー』みたいな映画のなかで描かれる男女の情緒を語るときに一緒に並べるのは難しい……ように思う。出来る人がやって欲しい。食べ物をつくるところとかは通底しているよね……『クリーピー』だと台詞が情緒的なのにミキサーまで情緒的なのはあざとかった。

黒沢清は、はっきりいって健全な男女の恋愛を描くのが得意ではない。そういうものをリアリティの感じられる欲望として持っていないのだと思う(実生活の話としてではなく、創作上の動機として)。

ただその代わり、エロスというか不健全な状況で結ばれる男女の情感は出せるのではないかと思うところがあって。例えば、『回路』にあっては、孤独という題材が表に出てくることで、人物が近づいたり離れたりすることにある種のエロスがあった。『叫』の男女の結びつきは理不尽だし、そもそもこの映画の女はみな生きていないが、しかしどこか身勝手な情感がある。

クリーピー』では、怪物は怪物であり、刑事は刑事たらん(もっと言うと男たらんとするのだが)、いずれも女によって敗れ去るのである。

竹内結子を守ろうとした西島秀俊は、背後からぶっすりとやられる。
運命にたぶらかされた女のように、刑事もまたその身を委ねるのだろうか……。

そう思っていると、竹内結子西島秀俊にクッキーをあげる。ベッドに倒れている刑事の上にのしかかり、まるでキスをするように。

ここが感動的なのだ。

わたしはこのシーンには情緒を感じることができる。あのドライな黒沢清の映画なのに。
感情的なとっかかりのある黒沢映画を見るなんていつぶりなんだろう(『アカルイミライ』以降? それとも『トウキョウソナタ』以降?)。

そして、黒沢清の映画のなかで、『トウキョウソナタ』以降の「堕ちたがる女」と、『CURE』の役所広司的な「無神経な男」が、このような形で、不健全な愛を成立させるのは初めてのことではないだろうか。

そういう意味で本作は、近時の黒沢清の一つの集大成なのだろうと思う。

そして西島秀俊が、実は運命にたぶらかされたわけではなく(表現としては竹内結子のクッキーのおかげで)、理性を維持しており、香川照之を銃殺する。理性が運命に勝った、のだろうか。

最後、抱き合う竹内結子の泣き叫ぶ様子はちょっと普通の感動的なシーンとはズれていて(あれはアドリブらしい)、あの音が暴力的にこだましたまま、なんとなく宙吊りで映画が終わる。

一番情感的なシーンが、助かったあとに抱き合うところではなく、その前、二人して監禁されているところのクッキーをあげる場面にあるというのが、この映画における女の勝利を印象づけるのだと思う。


■上下の運動
西野家の禍々しい玄関を越えるのに、カメラが上に移動していく。

段差があるからそうなるんだけど、門というわかりやすい仕掛けがあるのに、そこからさらに僅かな上への移動撮影をすることによって「侵入してしまった感じ」を出すのは新鮮で、驚きがあった。なんなんだろうね。映画で上下に運動が伸びるのは珍しいんだけど、黒沢清の映画ではむしろ多発だしなあ。


■植物
この映画、植物が怖い。

これまでの黒沢映画でも例えば『カリスマ』で、そのものずばり最重要モチーフとして植物が使われていたと思うけど、今回はそういうのではなくて、例えばビニールシートとか、廃墟とか、そういうものと同じような素材・道具として植物が使われている。

第一に、カメラが植物の緑の毒々しさを拾っている。全然関係ないけど、例えば『海街diary』の白飛びしている植物とはまったく違う。

ご近所づきあいを視覚化するにあたって、植物があれば視界が遮られて不気味だし、さらに風に揺らすこともできる、と考えたのだろう。実際、香川照之の初登場シーンではその顔が植物に隠れている(そしてその陰から出てくる)。

確かに、伸び放題の植物が繁茂している不気味な家っていうのは一つの紋切型だし、生活実感としても納得できるものがある。

基本的に狭いところに縦構図をつくり、印象的な横移動でアクションを生起させていくのが今回のご近所づきあいの基本モードだと思うが、どのシーンも導線設計がしっかり作ってあって会話シーンでも飽きない。


■モブ
大学のシーンで出てくるモブが暴力的である。
とりわけ、西島秀俊川口春奈を問い詰めるシーン。

自由度の高い照明と、綿密な導線設計によって動かされるメインの俳優のアクションと共に激しくなっていくけれど、一見無関係な動きをしているように思える。あまりにも書割的で現実感がないし、画面の手前で行われているドラマにまるで興味を示していない。四方八方へと散らばっていくのに、機械装置のようで、つまり運命みたいだ。

それらの激しい演出に反比例するように、西島秀俊の言葉がどんどん機械的でそっけない詰問へと変わっていく。激しく動くけど、人間的な情感がなくて、それが川口春奈を追い詰めていく。つまり暴力的な演出になるのだろう。


■過去・トラウマ
黒沢清が嫌うものに、トラウマものがある。つまり目の前に立ちはだかってくる事件なり怪物なりを、過去の原因にさかのぼり、人間的な因果関係として説明してしまうことを嫌う。因果関係を持ち出してしまうと、ホラーはホラーでなくなり、ミステリになってしまう。そして黒沢清の思う「映画」ではなくなってしまう(それなのに黒沢清はトラウマものばっかり撮っている印象がある)。

これを今回、「過去起きたことが、現在も起きている」という方法で解消している。

運命とは時間に左右されず作用するもので、香川照之演じる謎の人物による家庭の破壊は、六年前の失踪事件の被害者である川口春奈にとっては過去のトラウマとして、現在一緒に住んでいる藤野涼子にとっては現在進行形の悪夢として、そして竹内結子にとっては今まさにハマりつつある未来の落とし穴として存在している。

このように三者に分割することによって、過去を直接描くことなくトラウマを処理している(解消はできていないので、それを願う観客は後味の悪い思いをするだろう)。現在進行形の藤野涼子だけをねっとりと描くことにして、過去と未来は想像させることに留めているのだ。経済的だと思うし、これくらいの余白があった方がいい。


■キャスティング
これが弱い。

これまでの黒沢清の面白いところとして、意外性があり、かつキャスティングすることによってその俳優を黒沢映画の人物にしてしまうような創造性があった。

香川照之西島秀俊はどちらも、過去に黒沢清が発掘してきた俳優であるけど、それ以降はすっかり多作をこなしており、そうやって世間に露出し、造形されたそのままのイメージで『クリーピー』に登場しているように思う。集客という意味では正解なのかもしれないけど、これはちょっと損ではないか。

東出昌大もすでに『寄生獣』でこういう目の死んだ役をやっちゃった後だしな……。

藤野涼子は称賛の声を見るけど(確かに一番愚直な労働者であった)、『ソロモンの偽証』を見てないから、そのあたりはちょっとわからないな……。


真空パック
今回の「一度作動したらどうやっても止めることができないもの」。

めっちゃ気合入ってて、丁寧に撮るし、吸引をするときの音も凄まじい。
これが出てきて、あの異常な家の中が出てくる瞬間からジャンルが変わった。高橋洋脚本の作品とか、あるいは黒沢清自身が言うところのグラン・ギニョールな風合いだ。
これだけはみんな記憶して帰るでしょう。


■娯楽作としてのバランス
今回、だいぶ手堅くいいと思う。

原作はかなり変えているみたいだけど、苦手な原作ものを、一応は企画の方向性に沿うようなものにしていて、かつしっかり自分のやりたいこともできている。yahoo映画ではかなり評判が悪いらしいけど(ご都合主義だとか)、twitter検索をしてみると結構フツーに楽しんでいる人もいる。どっちかっていうと好評の方が多い印象だ。ネットに映画レビューを書く層と、twitterに「面白かった―」とか「怖かった―」とかただ呟く層。どっちが一般的なサンプルとしてふさわしいんだろう。

でも「人を選ぶ作品」って言われるのは避けられないだろうし、やっぱり職人監督ではないよ黒沢清
ジャンル映画を期待するとハズされるし。