アニメ『響け!ユーフォニアム』を見終わってから、2か月と3週間ほどが経った。

このアニメの面白いところは、黄前久美子という根本的に冷たいリアリストが、高坂麗奈という昨今お目にかからないくらい高貴なロマン主義者に感化されて段々とのぼせていく様子を描いていくところに、エロチックな演出がまぶせられ、結果として妖しい魅力が立ち上がってくるところだと思った。

最初から熱い人が熱くなったところで全然エロくはならなくて、不感症な人をのぼせさせていくからエロいんだと思う。

前に『たまこラブストーリー』の感想を書いたときも恋愛をエロスから説明したことがあるけど、こっちの方がかなり冷たく不健全なトーンになっていて、たまこラよりずっと自然なんじゃないかと思えた。山田尚子はハートが強いから、照れを見せずにたまこラみたいなストレート速球みたいな球も投げられるけど、あれはたまこみたいな人間的体重のなさそうなキャラにゆっくりと重量を与えていくという内容になっていて、こっちはむしろリアルでそのあたりにいそうな黄前久美子という重量級のキャラクターを少しずつ浮かせていくような感じである。だからまあ、もちろんたまこみたいなキャラの恋愛を描くよりかはずっと感情的に無理をしないでいいし、理知的な人間にとって、直球よりもこういう不健全を通って感情を解放させる方が自然なのかもしれない。

最初から夢想的な展開をするんじゃなくて、リアルで生々しく世俗っぽい世界を這いずり回るなかで夢が見えてくるという散文的な構成になっている。シナリオはスポ根&人間関係ドロドロものだけれど、すごく冷たく・理知的で・上品なものになっている。これはシリーズ演出を担当している山田尚子が持っている優れた演出家としての冷たさなのだろう(たぶん)。

■感情のアシストをするキャラクターたち
キャラクターが鏡像的になっていて、すべてに構成的な意図を見出すことができる。

例えば、久美子と麗菜は、それぞれアンチロマンチストとロマンチストという点でわかりやすい鏡像になっている。

この二人を中心軸にして、すべてのキャラクターが微妙に重なり合っていて、それがベタな話に重層的な響きを持ち込んでいることが、ちょっとした自由さを獲得しているんだと思う。

そして、『響け!ユーフォニアム』において、キャラクターが鏡像的になっている第一の理由は、久美子と麗菜という正反対のキャラクターを一致させるための中継地点として、それぞれ感情の浮島のようにして配置するためだろうと思う。

黄前久美子というのは熱くなるのに慣れていないキャラだし、そのうえあまりに対照的な二人をいきなり重ねるのは難しいから、色んなサブキャラクターのエピソードを進めておいて、最後になって久美子のドラマが大きく動くときに、これまで出てきたキャラクターの感情のなかを通っていくような仕組みができあがっているのだ。激しい運動をする前にストレッチをするような感じ。このおかげで感情の流れはサブキャラクターによって繋がれて無理がないし、主役のエピソードに中心化されない自由さもある。凡庸な比喩ではあるけど、交響楽的だと思った。

例えば、久美子と吉川優子(頭にでっかいリボンをつけた子)はいざというときは空気を読まずに自分の好きな相手以外には残酷になれるという点で似ている。つまり不和を恐れないし「性格が悪い」。でも久美子はこういう性格を日常的に誤魔化すのが得意で「食えない」、という点で優子との差異がある。だからこそ、この二人が外形的に同じようなえこひいきをすることができた11話の再オーディションの回は、久美子が感情を解放することができるようになったことを示している(さらに言えば、むしろ久美子は優子より開き直っている)。

また、久美子と田中あすかはその冷たさにおいて似ている。もっとも、あすかは最後までほとんど人間関係に関心を示さないし(中世古とか一部の二年生との関係ではちょっと人間らしい部分が垣間見える)、ロマン主義に目覚めたりもしない。本アニメでもっとも動かないキャラクターで、一番冷たいトーンを担当している。夢にも世俗にも興味がないし、あるのはただ音楽への快楽的で醒めた愛着だけなのだ。間違っても芸術作品に人生観を変えられたり、心をがつんとやられたりしないタイプ。このアニメでは音楽への情熱が、キャラクターに熱を帯びさせる要因になっているんだけど、音楽への情熱を持ちながらも徹底して醒めているのが田中あすかの異質さだろう。

田中あすか川島緑輝は、音楽への愛という点で似ているけど、他人への関心の有無という側面で違いがつけられている(それを示すエピソードもある)。だから、あすかは色恋には興味を示さず、一方で緑輝のなかでは音楽への愛といわゆる恋愛が溶け合っている。田中あすかとは違って、芸術をめぐる態度に人間賛歌的な傾向があるんだと思う。

麗菜とあすかと緑輝の、それぞれ音楽絶対主義でありながら絶妙にどれも違うところは面白い。麗菜はこのなかで一番音楽に対して不真面目とも言えて、音楽そのものよりも、音楽によって自分が特別になっていくこと自体に目的がある)

正反対に見える久美子と麗菜にも、人間関係的なものに冷淡であるという共通の側面があって、それを麗菜は「久美子って性格悪いよね」と評する。

本作は人間関係の曖昧な同調圧力に、音楽という絶対的な序列が持ち込まれていることが面白いのだと思った。たとえば中世古をえこひいきする優子でさえ、麗菜のトランペットには他と同様の価値判断を下している。

一方で音楽から降りた人たちもいて、音楽の絶対性にも動揺はある。久美子の姉と、斎藤葵がそうだ。これは久美子が通るかもしれない、しかし今回は通ることのないルートの感情を想起させる。田中あすかとはまた違った冷たさのパート担当である。

クライマックスにかけて重要である、中世古香織のエピソードと中川夏紀のエピソードは、久美子がオケのメンバーから外されたときのショックを準備するためのエピソードで、それぞれ「やる気のある部員」「最初はやる気のなかった部員」ということで異なる色がつけられている。久美子はどちらかと言えば夏紀の立場に近いけど、「先輩より上手い新人」という立場を夏紀に対して取ることもあって、視点を変えればむしろ麗菜と久美子の同調性を準備しているようにも見える。巧妙である。

これらがあったからこそ、感情を解放するのが苦手な久美子というキャラクターは、二人の感情をトンネルのようにくぐることで、ようやくコンクールでいい結果を残せなかったときの麗菜の涙にたどり着くことができるのだ。

■画面構成について
1、2話は基本的な要素の紹介もあってか、すごく演出が詰めてあって、ほとんどすべてのカットの意図が説明できる気がする。

被写体との距離、視点の取り方、それに関わってくるキャラクターの高低差、そして身体のパーツへのクローズアップ、話者とダイアローグの分離。これらの、基本的な技法の組み合わせだけで複数人の主観と客観をぐるぐると行き来する感情の動きを恐るべき洗練度合で造形している。カットが変わるたびに視点がポンポン飛んで、気がついたら色んな人の感情のなかをすいすいと動いている。

例えば、高校で吹奏楽やるかどうか悩んでいる久美子のシーンを見ると。部屋に1人でサボテンに話しかけながら座っている久美子を見下ろすカットの次に、姉の顔のクローズアップ(+台詞)があり。「客観的に視覚化された久美子の感情(鬱屈)」⇒「それを見た姉の感情」⇒「姉の言ったことを受け止める久美子の感情」の三点を、観客はするすると通っていくことになる。この間わずか2カットである。ドアを半開きにしているところは久美子の鬱屈に同調しない程度の距離感をつくっているし(つまり姉の視点に寄り添う)、そのあとの「立っている姉が、座っている久美子を見下ろしている」という視点の取り方と高低差は久美子がふて腐れているということを強調する。そして、大写しにされた姉のセリフのショックによって、すぐにまた久美子に感情移入してしまえるのだ。

基本的に、2、3人が会話するシーンで、どこに焦点を当てるのかという選択が1カットごとにパシパシと決まって洗練されている。迷いがない。吹奏楽に入るかどうかを悩む信号の踏切シーンでは、三人の会話が複雑に絡み合い、あるセリフは中心から外され、あるセリフは中心に引き寄せられる。外された要素は遊びになって画面に自由さを与え、また引き寄せられた感情の主観性を強めている。

緑輝から、「全国出場を目標とするか否かという顧問の二択について、麗菜の視線を気にしてどちらにも手を挙げなかった」ことを指摘される久美子の心境は、そのまま川辺に遠景でおおげさなポーズをとって悲鳴をあげる久美子のカットに引き継がれている。声の大きさと距離感、そして画面に現れる久美子の大げさなポーズと、それを遠景から捉えるというセンスが組み合わさり、「こじらせている」ことそれ自体の感情的なリアリティは保ったまま、どこかその大げささに喜劇的にトーンをもたせ、自己を観察するメタな久美子の感情をも演出するという、複雑な処理が行われている。

感情を追わなくても画面に動きがあって面白い。たとえば学校のシーン、葉月との握手で引きのカットにするセンス。あるいは、緑輝の背の低さを活かした非対称な180度切り返しという遊び。手を大きく広げ、しゃがむことで背の低さを強調しつつ画面に動きを与えている。そこから剽軽な先輩との、手を使ったアクションを二つ続けるところもインパクトがある。

また3話では、そういう繊細な技巧の組み合わせではなく、あえて麗菜の奏でるトランペットという音楽に頼った大柄な作劇もできるというところを見せてくるのだ。

4話ぐらいからどんどん言語化するのが難しくなってくる。冷たいトーンの演出が増えてくるのと同時に、最初の3話ほど詰め込まなくていいから、じっくりとコトコト煮ていく感じになる。中間的な部分を担う演出というのは繊細だから、私なんぞには到底思いつけない手さばきになってくる。

画面に映っている出来事と、セリフをずらしていくことで、画面に感情が乗らないようにする構成がこのころから特に目立ってくる。全体的に、ボイスと画面の関係の自由さは、最近ちょっと見ないレベルの複雑さである。

久美子の口からつい漏れ出てしまう「性格の悪さ」であるとか、姉や塚本と二人でいるときの自然体な低い声など、ボイスの自由さによって久美子は感情を解放する準備をしているし、それが久美子というキャラクターが実際に存在するのではないというくらいの感覚的なリアリティを形作っている。

あと、たまに背景がなんだか油絵で描いた実写という感じになる。例えば、2話の斎藤葵との会話シーンなど。キャラクターデザインがのっぺりしたまま背景が緻密になっていくのが和製アニメの近年の傾向なんだろうけど、写実性へのアプローチも幾つかの方法があるのだなと思った。

最終話は交響曲の終楽章みたいな内容になっていて、これまで現れたテーマがすべて何かしらのかたちでどこかのシーンに再登場して、観客の感情を押していく。それは感情が演出されるというよりも、まさに「配置していく」というさりげなさで、ほとんど楽譜みたいなシナリオだと思った。


こうやって書いていると、整理された感想を書きたいという気持ちがふつふつと湧いてきており、また最初から全部DVDを借りてきてしまった。

というわけで、ちょくちょく追記していきます。