成瀬巳喜男『女の中にいる他人』

女の中にいる他人
1966年 日本 102分
監督:成瀬巳喜男

る日、杉本は20年来の親友の田代が一人で酒を飲んでいるのを偶然見かけ、合流する。田代はなぜだか生気がなく気分が悪そうだが、理由はよくわからない。そして、その近くで杉本の妻さゆりが何者かに絞殺されていたことをその後知り、杉本はその死体を見ることになる。犯人がわからないまま時が経つにつれ、杉本はある女性から田代が犯人ではないかと言われるのだが信じないでいる。田代は依然として気分が落ち込んでおり、停電の夜になってついに彼を悩ませていたある秘密を妻の雅子に打ち明ける。その後、梅雨が晴れて、田代は雅子と一緒に気晴らしに温泉街にでも出かけ、そこで再び、より踏み込んだ告白をする。雅子はその告白に苦しむが、子供たちのためにも秘密を秘密のままにするよう田代に言い聞かせる。家からの電話で息子が急病に倒れていることを知り、急いで旅先から帰る二人だが、そこでは杉本がすべてを処理してくれていて事なきを得ることになる。田代はそんな杉本の親切を怪しみ、いつしか杉本にもある秘密を打ち明けるが、雅子からも杉本からも忘れるように諭される。秘密に耐えきれなくなった田代に意外な結末が訪れる。
瀬の撮った人殺しの映画。ぽつんと都市部の車道沿いを歩くスーツ姿の男がタバコをくわえると、カッティングインアクションでどこかのダイナーに飛んで環境音が消えるが、男はまったく同じように生気がない。つまり、外部環境が男になにも影響を与えておらず、この男が閉じ込められていることがわかる、かっこいいカットである。前半と後半で気象条件がまったく違っていて、前半はずっと雨が降っている。後半はずっと晴れている。雨が降っているけど窓は開けられていて、つまり風が吹いていないということがわかる。風がよく吹くはずの成瀬映画で風がまったく吹いておらず(温泉街に行くところでは流石に吹いているが)、それは後半になって梅雨が終わってからも変わらない。内省的で他人の目を気にするような顔をずっとしている男は、そこで開放へと心が向かうので、自分が親友の妻を殺したんだとしきりに告白したがるのも無理はないのだが、周囲の人間はとにかく男を閉じ込めたがるので、密室の中で窒息するようにして死ぬことになる。対して、海岸で子供を見守る妻はどこか開放的なように見える。ノワールみたいな陰影の映画でもあって、杉本の妻が死んだことを告白するシーンでは、点けたり消したりしていた部屋の一角の暗がりで密談が行われ、次は停電の暗闇のさなかに浮気の告白が行われ、そして温泉街ではトンネルの暗がりに入っていって殺人の告白となる。告白はどんどん意識的になっていく。対照的に新珠三千代の顔は白い。死体はきちんと映される(このシーンで暖簾(?)を開ける仕草は黒沢清に引き継がれているように思える)し、一線を踏み越えるシーンはネガポジ反転になっている。環境音の不気味な使い方が印象に残るし、特に職場で響く工事現場の音のまるで木が軋むような調子は気色悪いのだが、あくまでドラマチックな劇伴が中心のようである。心理的でほとんど運動はないが、冷たくていい映画だった。