小説が読めない


雑談であるが、ここのところ小説が読めないでいる。

求心的な物語のあるやつは読める。しかし散文的なだらーっとした時間に浸るような読書体験ができなくなっているのだ。

映画を見ていてもすぐにスマホに手が伸びるし、集中力が続かない。
時間芸術なのに、時間を身体で感じることができるような映画ってのはあまり見つからない。

ごくまれに、例えば三隅の映画を見ていたり、北野武の映画を見ていたり、あるいは増村の『美貌に罪あり』のような映画を見ているときに、身体的に知覚できる時間というものを感じることができる

昔なら、夏休みの気の遠くなるような午後や、サッカーの試合の合間にあるぬぼーっとした待機時間といった散文的な時間がわたしの生活の中にあったのだが、それがいまではなくなってしまった。

単に忙しくなった、というだけのことではないように思う。なにか散文的な時間を過ごす身体感覚がなくなってしまったような気持ちがする。
プルーストを読んでいると楽しいのだが、しかし「19世紀的な小説なんてかったるくて読めたものではない」という感想も同時にある。

自分では19世紀的な人間のつもりだったが、ここのところはそうでもないのかもしれない。

だから小説を書くのも、読むのも、もはや今世紀にあっては意味のないことなのかもしれないと思ってしまうのだった。