湯浅政明『夜は短し歩けよ乙女』を見てきました。


湯浅政明夜は短し歩けよ乙女』を見た。なんだか歯に物がはさまったような感じだ。面白いところ、上手いところ、盛り上がるところ、色々とあるにはあるんだけど、今一歩肯定できない感じ。かといって駄目だというわけでもない。この作品に楽しめない自分自身に困惑しているという自覚があって、そのことに対するもやもやがこの文章を書かせている。

まずは、企画に対する疑問がある。なぜ今更『夜は短し歩けよ乙女』の劇場アニメ化をやるのか。10年以上前の原作だし、人びとにかけられた森見ワールドの魔法もそろそろ解けた頃合いなんじゃないか、5年以上前に『四畳半神話大系』があったじゃないか、と思ってしまう。

自分自身、リアルタイムで原作を読み、京大に入り、アニメ『四畳半神話大系』を見てしまっているわけで。そのことが影響しているのは間違いない。

よくよく考えても不思議な話だ。この作品における京都ってなんなんだろうとあらためて思う。「先輩」の妄想ではないことは、かなりのシーンに先輩が登場しないことによって明らかだ。ラストになって、初デート当日になった先輩と乙女の二人ともが「あの一晩に何をしていたのか尋ねよう」とお互いに考えていることからも、この森見ワールドは複数の人物の視点によって成り立っていることがわかる。実際、色んな勢力・人物がこの京都にははびこっていて、それらが複雑に絡み合って独特のコミュニティを作っている。「君と僕」という二人に閉じられた作品ではない。どころか、終盤になるまで二人はろくに関係しない。

先輩は、黒髪の乙女に恋しているんだけど、基本戦術が「待つ」ことなので、実際に舞台を動き回っているのは乙女のほうだ。先輩は自分が欲しいものに固執するからこそ動けないでいるが、乙女は逆に次々と欲しいものが入れ替わっていき、行きずりの相手に簡単に気を許して頼みを聞いてしまう。ゲリラ演劇の主役をやれと言われて素直に引き受けてしまう。ずばずばと決断して男前にやり遂げていくので錯覚しがちだが、乙女にはあまり自分の目標というものはない。ご縁とか、運命とか、ご都合主義が素晴らしいという信条なのだから当然といえば当然のことだ。かくして乙女はこの京都に張り巡らせられたコミュニティが起こす騒動の渦中に現れては、舞台の上でスポットライトを浴びる。一方、先輩はその背後であれやこれや頑張っているがいまいち主役を張ることができないでいる。

かろうじて思いつくのは、ここにおける京都のリアリティを支えているのはエキゾチズムかもしれないということだ。ニンジャとかサムライとかに向けられるような、勘違い日本像みたいなもので、本作はいわば勘違い京都であり、勘違い京大だ。実際にはここまでトンチキな場所ではない。ただ、ニンジャやサムライと違って、ところどころ妙にリアルというか、まったく身に覚えがないかというとそんなことはないのだ。そっくりそのままではないものの、近いマジックを体験することはできる。先斗町を飲み歩くことは実際にできる(当たり前だ)。古本市が夜に行われるわけではないが、そこを徘徊する古本ヤクザなる連中はいる。学園祭にこたつで鍋をやってる連中は実際にいる。酒をこよなく愛する乙女の言動を見ながら、わたしは古巣の先輩を思い出さずにはいられなかった。今現在の京大周辺の状況は知らないが、適切な人脈やコミュティがあれば、こういったものに近い雰囲気を味わえるのではないかと思う。

あるいは、樋口、羽貫、といった『四畳半神話大系』にも登場する人物たちの生々しさ。あー、いたよね京大にこういう人。とついつい思ってしまう。これは観客によって「あるある」を感じる相手が違うのかもしれないけど。とにかく、細部はけっこうリアル。

そのリアルさというのは、詭弁論部の追い出しコンとか、結婚する先輩に対する未練とか、ナチュラルなセクハラオヤジである東堂さんなど、いかにもな俗っぽさに根拠があるのではないか。もともと、湯浅政明にはこういう俗悪なものを、あまり練らずに放り込む傾向があるんだけど、京都という舞台の限定と、原作の世界観がうまく効いているのであんまり厭らしくなっていない。

本作は、京都という土地に上書きするようにしてまったく架空のフィクションを創造したわけではなく、あるいは距離の遠さから間違ったドリームを抱いているわけではなく、元来そこにある性質(やや奇妙な世界・コミュティ)が、それに憧れてやってきた人々によって強化されているといったようなものではないかと思う。

重要なのは、京大周辺には学生が多いということなのかもしれない。それはエキゾチズムというよりも、ハリウッドとかニューヨークとか東京とかに若者が上京するときの誇大妄想とその失望を、誇張・拡大したものではないかと思う。京都に対する間違った(しかしすべて的外れとも言いがたい)ドリームは、そのドリームを持った人が実際に移り住んでくることによって強化される。

これは結構当たっているんじゃないかと思う。上京する若者の抱く誇大妄想とその失望、というのはかなり妥当な線のように思えてきた。

ただそれでは、自分がノリきれなかったのは、すでに就職したことで京都を離れ、もはやそのマジックをリアルなものとして体感できないということになり、それはいくらなんでも結論としてはつまらない。

違う切り口からいけば、このマジックとその失望を、すでに『四畳半神話大系』でやっているから、ということは考えられる。『四畳半神話大系』は尺も全然違って長いため、この問題をきちんと掘り下げて、地の足のついた解決をやっている。自分自身は湯浅政明を特段好きでも嫌いでもないけど、いい作品だと思った記憶がある。

対して今回は、(事前に想定していたとはいえ)驚くほど『四畳半神話大系』からの再利用が多い作品だけど、毛色はかなり違う。

乙女には自意識というか葛藤があまりなく、その葛藤のなさによって淡々と物事を進めていくことができる。終盤になって画面が大きく荒れて、カオティックになっていくが、このようなグルーヴがそれまでずっと抑制されているともいえる。先輩は自意識にまみれていて、だからこそ画面に混乱をもたらすことができるのかもしれないが、その先輩が乙女にひたすら抑えられているような感じ。

本作のキャラクターが歩くときのモーションが、キャラクターごとに微妙に違うのだが、特にクローズアップされる乙女の歩き方。走っているわけではないけど、遅いわけでもなく、体幹がブレずに、てくてくすたすたと歩いていく。気がつけば置いていかれているような、あのテンポ。

様々なキャラクターが交錯し、絡み、そして舞台設計もかなり立体的で、また高所が有効活用されているので、シチュエーションはいい感じに複雑化していくのだが、乙女はブレない。このブレなさが最後まで一貫して、そこを先輩のグルーヴが崩そうとするのだが、ちょっと時間切れというか、乙女のブレなさに対して拮抗するほどの造形がほどこされているとはどうしても思えないまま終わってしまった。

キャラクターの歩き方が違うということとは別に、キャラクターごとに時間の流れ方が違うということがかなり早い段階で示されている。これは終盤の、李白と乙女の対話にも生かされてくるのだが、乙女よりも体が重そうな年長者の時間は早く過ぎていてそれゆえに長く、陰鬱なものになっている。

この作品自体が一夜のできごとで、原作では一年間のできごとなのだから、これは90分の映画にするための圧縮かと思われたのだが、実際にはこの夜は不自然に長い。映画で一夜のできごとというと、多くは時間制限の設定に活かされるものだと思う。人生は一回きりであり、時間は制限されるのだが、本作ではそうじゃない。この夜ではむしろできごとが反復される。時間は制限されてなどおらず、だから乙女は走ることがなく、淡々と歩いていく。李白は、長く過ぎ去った時間を回復してつやつやと顔色をよくすることもできる。この夜は不自然に長い。

この作り込みが比重として大きくて、そこを最後まで崩せなかったのかなあ、というのが本作に対する、不満とまでは言わないでも、ノレない理由かもしれない。

いや、それでも、いい感じに事態が複雑になってきたところでいよいよ李白登場!であるとか(あの光と電車の音!)、学園祭で韋駄天こたつとゲリラ演劇の関係がバレてみなが走りはじめるときの躍動感であるとか、先輩の自我があふれて画面がいい感じに荒ぶってきたところで、テンションの高い音楽が流れてグルーヴがかかる感じ。こういう動物的な勘の冴えわたりかたは流石だし、ノせられたのは事実だった。

ミュージカルもかなり多かった。歌として聞かせるというよりも、明らかに間延びしていて、平坦で、演者の声質をそのまま聞かせるようなところがある。演劇だからかカメラもちょっと遠くて、キャラクターは人形っぽい。ここはなんか湯浅政明っぽいなあと思った。

声についていえば、星野源花澤香菜のいずれについても最後まで納得できなかった。無難にいいとは思うんだけど、これしかないという強度ではまってくれない。いや、お前がそう思うだけだろと言われたら何も反論できないのだけど。

以上、またなにか考えついたら続きを書いてみます。