自分から遠く離れたい
よく小説について「なにを伝えたかったのか」とか「なにを表現したかったのか」と問われることがあって、これは小説に限らず制作一般についてよくよく誤解されていることだと思う。まあ確かにそういう部分がないわけではないけど、とても長い文章を書くときにモチベーションになっているのはそういう表現とかテーマとかいったこととはまったく違うことだったりする。それはどちらかと言えば、結果的に出てくるものであって、最初にあるものじゃない。
例えば、自分は、できるだけ自分から離れるために長い文章を書いている。ものを作るのが楽しいと言い換えてもいい。ピーター・ワッツが、人間の意識というのはメモ帳のようなものだと言っていた(確か)。意識というのはその時々のワーキングメモリであって、持続時間がとても短い。だから、長い文章を出力して、さらにそれを繋ぎ合わせていって、そういう作業を繰り返していくと、その時々のメモ帳にすぎない自分自身からはとても生まれるとは思えないようなものが生まれてくる。これがものを作る楽しさだし、自分から離れるということだ。
もちろん、いくら書いても自分から離れられないことのほうが多い。文章を書いていると出てくるのは自分ばかりなので、そこから離れるのはすごく大変だ。湯浅政明が「自分で面白いと思えるまで作る」ということをインタビューで言っていたけど、これも自分から離れるということの言い換えだ。作ったものを、自分で面白いと思えるというのは、それだけ自分から離れられたということでもあると思う。
自分から遠く離れないといけないので、やりにくい方法とか、苦手なこととか、やったことのないこととかに積極的に挑まなければいけない。そういう飛躍がないと書いたものには知っている自分ばかりが見つかってとてもつまらないしなんだか侘しい。だからといってもちろん、作品全体をそういうもので埋め尽くすのは無謀なのでやめたほうがいい。
例えば、小説は抽象的な概念を説明したり、時間や場所を自在に行き来してできごとを語るのは得意だけど、物体を視覚的に描写するのは苦手だ。空間の描写となると、映画に完全に敗北する。でも、だからこそ、そういうものをしつこく書くことでなにか扉が開けることもあるだろう。この前に読んだ、フォークナー『サンクチュアリ』の言語使用はそのような限界を目指していたように思った。
そういえば、フラナリー・オコナーも、「自分の書く物語から、作者は何かを発見できるようでなくてはいけない。もしそういうことがなければ、おそらく他の誰もそこに何も見つけてはくれまい。」と『秘儀と習俗』のなかで書いている。
とはいっても、こういう総論的なことをいくら書いてもなにか新しいことが開いてくるわけではない。新しいことは常に具体的だ。