M・ナイト・シャマラン『スプリット』


シャマランの新作『スプリット』を見てきた。

前作『ヴィジット』は自分にとってもその年のベストで、続くこの映画が大ヒットしていると聞いて嬉しい思いだったが、実際に見てみると困惑するのだった。

アバンタイトルこそ、情報の出し方、シーンの省略に濃密なシャマランの気配を感じてすごく興奮したんだけど(マカヴォイに襲われても主役の子が微動だにせず、涙を流し出しつつ、脱出の機会を伺っているというのがとてもいい。しかも脱出の方法に注意を向けるような撮り方ではなく、少女の視線を真正面から受け止めるカットを並べて、マカヴォイからは見られることがなく、脱出の方法はあくまで隠している)。

普通のジャンル映画として考えると、回想、カウンセラーとの会話といった要素がくりかえし流れを寸断するのでフラストレーションが溜まるし、監禁されているので空間的な広がりにも欠ける。ジェームズ・マカヴォイは人格ごとにわざとらしく表情を変えるし、やたらとクローズアップが多いので見ている方としては食傷気味になる。しばらくマカヴォイは見たくない。

シャマランの映画として考えると、多重人格者が妄想で生み出した人格が、本当に人間の規格を越えて超常的な力を得るということで、厚みを欠いたストーリーを信じることについて、相変わらず同じ主題を撮っているという風に思える。

マカヴォイの信じる「ビースト」という妄想は、多重人格というネタを使っているおかげで『レディ・イン・ザ・ウォーター』に比べるとまだ少しはもっともらしいけど、それにしたって今更多重人格……という観があるし、そもそも、皮膚が多少厚かろうが、壁が登れようが、それがどうした? それはただの猛獣で、そこまで神聖なものではないのでは? と思ってしまう。やはり、なんというか良識のある大人であれば一笑に付してしまうような、厚みや密度を欠いたものであり、そのチープさにシャマランの作家性(狂気)を感じられる。

実際、「ビースト」という妄想は動物園にいる動物たちの特徴をかけ合わせた、ありあわせで作られたものだと最後になってわかる。出自も正当性も怪しげな妄想である。

シャマランはアクション映画を撮るタイプではなく、本作でも主体的に動いていった女の子たちはみな反撃を受けて閉じ込められてしまうし、最後は食べられる。唯一、アニヤ・テイラー・ジョイだけが状況を観察して、じっくりと兆候を読んでいる。これは作中内論理では、彼女は家の伝統として「狩り」の訓練を受けていたから……ということになるのだろうが、世界に表れた兆候を読みとって、そのとおりに正しく行動すれば道が開かれるというのはシャマランの映画に共通してある要素だ。

したがって、アニヤ・テイラー・ジョイは会話から誘拐犯の状況を理解し、彼らの話すストーリーに耳を傾ける。最後現れた「ビースト」への反撃はすべて言葉に基づいている。カウンセラーの残したメモ書きから、誘拐犯の本名を知って、それを使うことで一時の助けを得ることができる。また、一度だけ現れた本来の人格から、ショットガンと弾薬の場所を知り、それにしたがって彼女は行動することになる。

そして、彼女を最後の最後に助けたのは、虐待の痕という「しるし」だ。彼女は最後になって、読む側から読まれる側に変わる。反転するのである。(「ビースト」の方でもショットガンの一撃を受け止めた傷こそが自身の最大の証明になる)。

肉体に記されたしるしを読むことが大事なので、服を脱いでいくことが作劇の重要な部分を担っている。すごく自然な流れで女優を脱がしているのにはシャマランのB級映画監督としてのセンスを見たような気がしたが(脱走を防ぐための脱衣!合理的!)、最後に脱ぐことになるアニヤ・テイラー・ジョイはだからこそたくさん服を着ている(そのことに合理性もある)。また、服装が変わることが、マカヴォイの人格変化のしるしであり(もっとも社交的な人格であるバリーはデザインの才能がある)、最も強力な「ビースト」は服を着ない。

あちこちで言われているけど、アニヤ・テイラー・ジョイの瞳にはすごく存在感がある。シャマランはチープな話にこういう清新なリアリティを持ち込むのが得意だ(現実らしい、ということではなく、リアルだと感じられるほど生々しく力強い「感覚」を持ち込むこと)。


シャマランらしい異常さは、マカヴォイの演技に頼ったぶん少ないようにも思えたが、あるにはある。

過去の回想に出てくる、恐らくはレイプシーンだと思われる箇所には、「動物の真似をするごっこ遊び」だと称してパンツ一丁になった叔父がアオーンと吠える絵面が出てくる。ここは、深刻な場面ではあるけど、同時に何だか滑稽であり、かといって笑うこともできず、唖然とさせられる。いかにもシャマランといった感触がある(『ヴィジット』っぽい)。

「おしっこしちゃえ」のところは、あまりに突然のことだし、カメラの位置や距離感もおかしいし、何言ってんだこいつということもあって異常性の高い場面だった(なぜそんなことを言えたのか、ということは後になってわかるが……)。

ヘドウィグがカニエを踊るところも、なんかそういうものだと分かっていても変だった。


あと、この映画にはアップが多い。それもカメラにかなり近いアップが多かった。あと真上からのショットも多い。

また、門のところと、最初に閉じ込められた部屋を映すところに顕著だけど、画面を半分に分割する縦線の入ったシンメトリーな構図もたびたび見られて、これは多重人格と関わっているのかなと思った。

映像としては、アップの多さとシンメトリーな構図の多さが単調にしか思えなくて、中盤から後半は退屈してしまった。


ううーん、これはどうなんだろう。