フリッツ・ラング『スカーレット・ストリート』
Scarlet Street
1945年 アメリカ 102分
監督:フリッツ・ラング
銀行で真面目に勤め上げてきた冴えない中年サラリーマンのクリス・クロスは、暴漢に襲われている美女キティ・マーチを助ける。女優を自称するキティに魅了されたクリスは、とっさに自分が金持ちの画家だと嘘をついてしまう。実はキティは娼婦で、暴漢に襲われているというのも、ヒモのジョニーと揉めていただけだった。クリスのことを聞いたジョニーはクリスから金を毟ることを考え付く。5年前に未亡人アデルと結婚したクリスだったが、前夫を偶像化するアデルには趣味の絵も認めてもらえず悪夢のような結婚生活を送っている。このような背景があり、キティはまんまとクリスに高級なアトリエを借りさせ、自分を囲わせることに成功する。そのためにアデルの生命保険だけではなく会社の金さえ使いこんでしまうクリスだったが、一方で偶然にもクリスの絵が批評家に見出されたことを好機と捉えたジョニーはキティを新人画家として売り出してしまう。これを見たアデルは夫のことをまったく評価していないので、クリスがキティの絵を盗作しているのだと思い込み彼を激しく非難する。訳の分からないままキティを問い詰めたクリスは、なにぶん根が善良なので、お金に困ったので絵を売ってしまったというキティの嘘を信じ込み、むしろ自分の絵が高く評価されたことを喜び、キティ名義のまま個展まで開催されても幸せそうである。そしてアデルの前夫ヒギンズが実は生きており、彼に強請られたのでアデルが貯め込んでいるヒギンズの生命保険を盗み出すようにそそのかして夜中に家に引き入れ、強引にアデルと引き合わせる。晴れてアデルとの結婚生活から解放され、キティと結婚できると思い込んだクリスだったが、アトリエには愛し合うキティとジョニーの姿があった。ひと悶着あったものの一縷の望みをかけて求婚するクリスだが、そこにはキティの容赦ない罵倒が向けられ、これには善良なクリスもたまらずキティをアイスピックで滅多刺しにする。犯人はジョニーということになり、自分を騙していた悪女も始末できて万々歳かと思いきや、なにぶん根が善良なのでクリスはそのことを気に病むのだった。
音響の映画と言ってもいいほど、音を中心にして映画が組み立てられている。ラングといえばドアの作家だが、本作でも実に多くのドアがバタンと閉められ、多くのドアがノックされ、多くのドアが二重に開け放たれている。ドアがバタンと閉められれば、クリスを演じるエドワード・G・ロビンソンが拒絶されたことが分かる。音そのものが拒絶の強さを教えてくれるのだ。そして、ジョニーとキティの関係がクリスにバレてはいけないこの映画において、不意の訪問者を告げるノック音はそれだけで見る者を宙づりにするサスペンスだ。また、悪妻アデルが夫をなじるときのキンキンとした耳障りな声。これこそが家庭の悪夢である。反復の多い映画でもあり、くりかえされる死者の幻聴という中心的なモチーフは序盤から執拗にその尻尾を見せつづける。誰もが指摘するであろうレコードの針飛びは、序盤に何気なく表れたあと、ラジオのノイズという別の小道具で反復され、いよいよクリスが愛する二人を発見する際には「LOVE,LOVE,LOVE,LOVE...」と意味深な歌詞を反復させる。このときクリスは決定的に壊れてしまい、二人が死んだあとも、ネオンの点滅とともにセリフが反復されることになるのだが、このように超常的な演出よりもずっと恐ろしいのがキティ演じるジョーン・ベネットの笑い声とも泣き声ともつかないあの声だ。騙されていたことを知ってもなお求婚してくるクリスを前にしてジョーン・ベネットは枕に突っ伏して、そんな彼を笑うのだが、クリスはそれを泣いているのだと勘違いする。しかし実際にその声は、笑い声のようにも聞こえるし、泣き声のようにも聞こえる。もちろん笑い声のようにしか聞こえない人もいるだろうし、泣き声のようにしか聞こえない人もいるだろう。このような曖昧さのなかに、日常から悪夢へと滑り落ちる瞬間があるのだと思う。エドワード・G・ロビンソンに投げつけられる罵倒の数々はまぎれもない現実だが、あまりに容赦がないので当人にとっては現実のようには見えない。そして、よりにもよってそんな修羅場でアイスピックが床に落ちてしまうことに感動するのは、アデルに拒絶され、ドアをバタンと閉められたとき、手にしたナイフが落ちたことを覚えているからだし、二人の情事を見たそのショックで鞄を落としてしまったことを覚えているからだ。ナイフとは違い、そのアイスピックは拾われ、使われることになるだろう。
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