アニメ『SSSS.GRIDMAN』ネタバレ感想

 

このアニメは最初、あたかも新条アカネと、その被造物であるこの世界の間に支配的な関係があるかのようにはじまる。それは事実としてそうだし、アカネに不快感を与えた人物は怪獣に殺されてしまうのだけど、話数が進むにつれてそのトーンは薄くなっていき、むしろアカネはグリッドマンとの戦いに勝つことができず、神なのに、まったく目の前の現実をコントロールできなくなっている、というトーンのほうが強調されるようになる。

 

アカネが神として振舞うことができないのは、ひとえにグリッドマンという外部からの侵入者がいるせいだが、ではアカネとグリッドマンはこの世界に対して同じレベルに立っているのかといえば、そうでもない。むしろグリッドマンと並立関係にあるのはアカネを影で支援するアレクシス・ケリブという宇宙人であり、ここにねじれが生じている。

 

また、アレクシス・ケリブは黒幕的に、アカネ本人には間接的な影響しか及ぼさず、言葉や行動で自分の目的にアカネをうまく誘導しているのだが、一方でグリッドマンは憑依対象である響裕太と不完全ながらも入れ替わっており、記憶喪失に陥っている。ここにもまた大きなねじれがある。

 

どこかで見たような図式があって、それが終盤に向かって整理されていくのだけど、何だか当初思っていたような感覚に至らない。わざと上手く折り畳めないようにしてあって、どこかに横滑りしていくような感じがあって面白かった。

 

「現実>箱庭」という図式があることに箱庭の中の住人が気づいてしまう、という「世界5分前仮説」みたいなやつかな~と思っていたら、そういうヒエラルキーが現実と箱庭の間に生じなくて、むしろいくつかの並行世界がある時点で交錯するという奇跡?についての話に終わっているというのがなんとも不思議だった。なんというか『電脳コイル』とか『君の名は』みたいな?

 

ところでこのアニメを面白いと思ったのは、自分が毎週追っていたというタイムスパンにかなり影響されていて、それをブログ記事ひとつに簡単に図式化してしまうと経験が上手く伝わらない予感がありありとするのだが、それでもある程度記録に残しておきたいので書くこととする。


このアニメでは基本的に、一話につき一頭の怪獣があらわれて町を破壊し、それをグリッドマンが食い止めるという紋切り型が反復される。これは元となっている特撮怪獣ものの基本が踏襲されているということだろう。

 

つまり、これは何度もやり直すことのできる遊びの世界であり、そのことは2つあるプレイヤー陣営のどちらもある程度自覚している。

 

特撮ファンでもあるアカネにとっては紛れもなく、少なくともはじめは、グリッドマンとの怪獣プロレスごっこは楽しい遊びだった。

 

そして、グリッドマン同盟の裕太や六花や内海にとっては、自分たちが生きている現実の世界が戦場になっているという抜き差しならない事情があるものの、遊びの側面がないわけではない。ドラマとしては、六花が戦いを血生臭い現実として、そして内海(特撮ファン)がそこに遊びとしての喜びを見出してもいる。大雑把にいえば、そのような役割の分担が行われていた。

 

しかし、高校生の現実からはかけ離れた、グリッドマン同盟としての活動は、今・こことは異なるもうひとつの現実であり、つまり遊戯の側面がある。同盟としての活動をするかぎりにおいて、裕太・六花・内海全員がみんな平等に遊びにふけっていたと言えなくもない。

 

遊びだから何度もやり直すことができるし、怪獣が町を破壊するという取り返しのつかないできごとにもやり直しがきく。それは現実につきまとってくる重さを失わせ、ひとつの行為、ひとつの場面を軽くして、怪獣との戦いをごっこ遊びに変えてしまう。

 

しかしこのごっこ遊びには、ひとつ元通りにならないものがある。

 

そう死んだ人間である。

 

怪獣を倒したあと、町は元通りに復元され、人々の記憶も消されて元通りになるが、死んだ人間は戻ってこない。殺す相手は、アカネにとって不愉快な人物だ。

 

死んだ人間だけが、元通りにできない影響を与える。グリッドマンがやってくる前まで、それはこの反復される世界にもたらされる唯一の変化といえるものだった。変化は自由を生むものだと思うかもしれない。しかし、その変化はこの世界に自由さをもたらすものではなかった。

 

むしろアカネにとって、不愉快な人物の殺害は、この世界をより完全な理想世界に近づけ、これ以上何かを変化させたり、動かすことのできない、飽和状態に接近させてしまう。そこは居心地のいい世界だが、自分にとって予想外のことや、都合の悪いことが起きない息苦しいものになる。まるでやりつくしたゲームのように。

 

アカネも完全な神ではないことが示唆されている。そもそも、この世界に住む人間を創造し、自分のことを好きになるように設定できるのにもかかわらず、わざわざ怪獣を使って不快な人物を殺していることがそのひとつの証拠だ(アカネの沸点が低すぎるというのが一番の問題ではあるものの、偶然や、些細なことで生じた不快感まで事前に予測してコントロールすることはできない)。また、彼女は終盤にグリッドマンが変身する際にジャンクを使っていることを知るが、そのこともまた目にするまでわからなかった。

 

話を戻そう。上述したように、変化のない理想世界に囚われているという意味で、第1話からすでにアカネは追い詰められた状態にあるともいえるけど、作中で話数が重ねられるにつれて(つまり我々観客がよく実感するものとして)アカネを追い詰める大きな要因は、グリッドマンが来てからというもの、この遊びにまったく勝てなくなるということだろう。

 

いくら遊びであり、何度もやり直すことが可能だとしても、ゲームにまったく勝てないプレイヤーは精神的に追い詰められていく。そこでアカネがとる方法はどんどん番外戦術的なものになっていき、最終的にはみずから裕太を刺しにくる始末。ここでも神様はおよそ神様らしくない方法を選んでいる。

 

途中から観客は、新条アカネに同情するようになる。そういう風に作ってあるし、彼女に同情するように誘導されていること自体にも気づくようになっているだろう。これは彼女を救うシナリオなのだと。

 

しかし、彼女を救う過程においても、図式が巧妙に横ずれしていく。グリッドマンも裕太も新条アカネを直接は救わない。いや、ビームで直接的に救ってたじゃん、とは言われたらそうなんだけど、アカネを心理的に救うのは六花だし、アンチくんだし、でつまり彼女の被造物だ。

 

アンチくんは当初グリッドマンのライバルとして生み出され、アカネやキャリバーさんとそれぞれ特殊な関係を築いていく。後半ではグリッドマンの半ば味方のようになり、最後の最後ではアレクシスにやられて包帯が巻かれていた部分が取れ、オッドアイになっている。彼はこの世界でまたグリッドナイトになるのだろうか。

 

アンチくんは模倣をする怪獣だった。その彼が何度も何度もグリッドマンと戦うのは、いわば空手や柔道の型を習うようなものなのかもしれない。キャリバーさんと戦うのも、どことなく稽古のように思えなくもない。

 

少年が空手の型を習い、まったく同じ反復のなかから突如、変化する。彼の物語はまだ終わっていない。