備忘録:長編小説を書いた


2018年1月24日に、今現在書いている長編小説の第1稿を書きおえた。

書きはじめたのが2017年1月21日なので、ほとんど丸1年間かかってしまった計算になる。というか、このあと推敲しなければならないので、本当はもっとかかる。

2017年6月時点での達成度はおよそ半分ほどだった。当初は6月末の賞に出す予定だったので、見積りの倍かかったというところだろう。半年で長編小説を書きおえるという、そもそもの計画に無茶があったのだ。

長編小説を書きおえたのははじめてなので、心底うれしい。これまで何十万字と書いてきたのに、長編小説を書きおえたのはこれがはじめてだ。

今回は、原稿のほとんどをEvernoteで管理していた。推敲にあたってはScrivenerを使う予定だが、うまく生活に馴染んでいないのでこれから心配で仕方がない。はたして自分は推敲をきちんとできるのだろうか……。

Evernoteをつかって、これ以上続けられなくなったところで章を切っていく方式が自分と相性がよかったのだと思う。街をぶらつきながらスマホで書くというのが捗るというのも発見だった。自分は少年時代から熊のように室内をうろついて考え事をまとめる癖があるのだが、これが小説を書くときにも発揮されるということなのかもしれない。というか、多動症なんでしょうね。

街を歩くと目からはいってくる情報で、刺激もたくさん貰えるので、それも書くのに貢献してくれた。

ところで、一般に小説といえばその生成物を指すことが多いだろうが、今後の自分の参考のために、まさに生成している過程についても自分なりにまとめておきたい。

長編を書くにあたって気がついたことは、まず、書き方がかなり散文的になったというところだろう。平均的な長編小説は10万字以上から15万字未満くらいのレンジだろうが、ともかくその程度は書かなければならない。とすると、あれこれ悩んでいてはきりがないので、とにかく書くしか方法がない。わたしは、夢想や詩に走ろうとする手をいさめて、即物的に書いていく方法を会得した。プログラムを書くように、文章を書くのである(プログラム書いたことないけど)。

また、ストーリーを書くということは、往々にしてストーリーを書かないということであるとも思った。というのも、シナリオをそのまま言葉にしていけば、それは単なるあらすじか、もしくは古典的な口承の物語といった形式になっていくからだ。回想場面などはそれでもいいと思うが、いわゆる「場」や「シーン」をそんな風に書いていいわけではない。

ストーリーだけでは小説は書けない。もっと様々なものを持ち込まないと10万字という分量は埋まらない。人によってはそれが、辞書的な知識であったり、カタログ的な知識であったり、科学であったり、哲学であったり、無駄話であったりするわけだ。

たとえば、ストーリーを書くときに必要なのは、それを進めると、具体的にどのようなことが起きて、どのようなことが返ってくるのか、という情報である。

これが現代小説ならば、たとえば家庭のリビングを舞台にした場面を書くのであれば、わたしはまずカタログを開くだろう。その家庭の年収がどれくらいで、どのような家族構成なのかを考えたうえで、ニトリや大塚家具などのネットカタログをひらく。そこから、あるべき家具を選択して、リビングを想像しなければならない。そうして、イメージができたところでようやく書きはじめる。とはいっても、それらを本当に描写するわけではない。ほとんどは脳内にしかなく、脳内から一歩も出ないうちにおわる。それは実際の生成物としての小説には残らないが、生成の過程には必要なのだ。

銀行強盗を書きたいのなら、どのように銀行強盗をするのかを知らなければならないし、他のあらゆることについてもそれがいえるだろう。

もちろん、すべてをあらかじめ考えたうえで書くのは不可能だし、今回書いたのは歴史ものなので、調査や想像にも限度がある。こういった情報が邪魔になる場合もあるだろう。自分自身、そういった情報をまったく仕入れずに書いた部分もある。そういった箇所はだいたいにおいて薄っぺらくなるが、どんな話にも省略すべき点はあるわけで、自然とそういう省略すべき点に資料はすくなくなっていく。

散文的で、即物的な書き方とはいったものの、そういった文章を続けているとしだいに官僚的になってくる。手癖にはならないように、資料などを呑みこんだうえで書いたとしても、最終的にはより魅力的で変化に富んだパターンが必要になってくるのだ。

手癖というのは、怖ろしく狭くて単調なパターンのくりかえしなので、続けていくと文章はつまらなくなっていく。それを避けるためには、第一に資料を読む必要があり、第二に詩の心をとりもどさなければならない。長期的にはおそらく、手癖のレパートリーを増やしてく必要がある。

詩の心をとりもどすといっても、それは自分の内側にはないものなので、なかなか難しい。対処療法的には、ラファティを読んだり、『デビルマン crybaby』を見たりした。

また今回、長編を書いたといっても、強引に後半だけでたたんでしまった感触があるので、次に書くときにはもっと構築的に長編を書いてみたいと思った。そのためにはもっと、採用する物語の類型と、主人公の職業などをより綿密に選定しないといけないのだろう。

今回は、陰謀を追うというストーリーラインと、銀行強盗という職業が致命的に合わなかった。あちらを立てればこちらが立たず。もちろん、ジャンルを混交するために意図的にそうしたのだが、自分のおそまつなプロット管理能力にはなかなか荷が重かったようだ。