プルースト『失われた時を求めて』読書メモ ♯1


読了までに時間がかかりそうなので、逐一メモにして残していく。
以下すべて岩波版の『失われた時を求めて』1巻より引用。


われわれのまわりに存在する事物が不動の状態にあるのは、それがそれであって他のものではないというわれわれの確信のなせる業であり、つまり、それらを前にしたときのわれわれの思考の不動性が、それらを不動の状態に置いているのかもしれない。とはいえ私がこのように目覚めるとき、わが精神は私がどこにいるかを知ろうと必死にあがくけど徒労におわり、すべてが、事物が、土地が、歳月が、まわりの暗闇のなかをぐるぐると旋回する。私の身体は、しびれて身動きできない場合、疲労の具合から手足の位置をつきとめ、そこから壁の向きや家具の位置を割り出し、自分のいる住まいを再構成し、それがどこなのかを判断しようとする。身体にやどる記憶が、肋骨や、膝や、肩にやどる記憶が、かつて寝たことのある部屋をつぎつぎに提示してくれるのだが、そのあいだも身体のまわりでは、さまざまな目に見えない壁が、想いうかべた部屋のかたちに合わせて位置を変えつつ、暗闇のなかを渦のように旋回する。(30ページ)

無意識的記憶がどういうものかをわかりやすく説明してくれている。


習慣とは、腕は立つが、じつに仕事の遅い改装業者というべきで、まずは何週間にもわたる仮住まいでわれわれの精神を苦しませる。それでも精神からするとこの業者が見つかったのはありがたいことで、かりに習慣の助けがなく、精神だけの手立てでは、いくらあがいても住まいが落ち着けるものにならないのである(35ページ)

ところが人間というものは、人生のどれほどささいなことから判断しても、全体が物質でできているわけでもなく、請負契約書や遺言書のように全員から同じように理解されるわけでもない。われわれの社会的人格なるものは、他人の思考の産物なのである。われわれが「知り合いに会う」と言っているような単純な行為でも、一部は知的行為にほかならない。われわれは目の前にいる人の肉体的外観のなかに、その人にかんする知識をすべて詰め込んでいるから、その人について想いえがく全体像のなかで間違いなくいちばん大きな割合を占めているのは、そうした知識なのだ(56ページ)

私が若かりしときの数々の愛すべき誤りを見出すこの最初のスワンは、そもそも後のスワンと比べると、むしろ同じ時期に私が知ったほかの多くの人に似ている。(57ページ)

すると、このような文学的関心から離れ、それとなんら関係なく、突然、とある屋根や、小石にあたる陽の光や、土の道の匂いなどが私の足をとめ、格別の喜びをもたらしてくれた。それらが私の足を止めたのは、目に見える背後に隠しているように感じられるものを把握するよう誘われていながら、いくら努力してもそれを発見できないきがしたからである。それは対象のなかに存在するように感じられたから、私はじっとそこにとどまり、目を凝らし、匂いをかぎ、わが思考とともにそのイメージや匂いの背後にまで到達しようと試みた。(381ページ)