チャイナ・ミエヴィル『都市と都市』/フィクションの消滅


都市と都市 (ハヤカワ文庫SF)

都市と都市 (ハヤカワ文庫SF)


ミエヴィルの『都市と都市』を読んだわけだけど……原書が2009年に出版され、翻訳も2011年の年末には出版されていたこの小説を読み終わるのが、まさか2018年になるとは思っていなかった。途中、もう完全に読んでいない時期もあったのだが、それでもなんとか1ページずつ読んでいき、半分ほどまで読んだところで挫折し、しばらくは読んだふりをしてなんとか『都市と都市』の話題を切り抜けていた。そして読み終わったいま、だれも『都市と都市』の話をしていない……。

Togetterにまとめられている感想ツイートを読むと、当時、みんな本当にきちんとリアルタイムで読んでいたんだなという気持になった。

以下では、『都市と都市』のネタバレも一部あります。お気をつけて読んでください。



『都市と都市』はタイトルが示すように、二つのとても奇妙な都市にまつわる小説になっている。〈ベジェル〉と〈ウル・コーマ〉という二つの都市国家は、地理的にはほとんど同じ場所にあるのだが、モザイク状に入り組み、それぞれがまったく別々に独立した国家として存在している。まるで東西冷戦期の東ドイツと西ドイツをおもわせるような設定だけれども、べジェルとウル・コーマをへだてる壁があるわけではない。そこに住む住人たちは、お互いを、そしてお互いに属する建物や車などあらゆるものを〈見ない〉ようにし、声さえも〈聞かない〉ようにして生きている。これを破るようなことをしたとき、どこからともなく〈ブリーチ〉という組織がやってきて違反者を連れ去ってしまうという。そのルールを破る行為そのものもまた、〈ブリーチ〉と呼ばれる。

したがって、地理的には近隣であるはずの場所でおこった火事を見ることができないため、隣国のできごととしてテレビでその光景を見るといった奇妙極まりないシーンがでてくるのだ。

かといって、べジェルとウル・コーマでは相互の交流が断絶しているというわけではなく、コピュラ・ホールという施設をとおって反対側の国にいくことができる。そこでは、旅行者は長い検査をうけて母国を〈見ない〉ようにし、異国を〈見る〉ようにする訓練を積まなければならない。

また、べジェルとウル・コーマの混在の仕方はさまざまで、ある土地は〈完全〉にべジェルないしウル・コーマだが、それらの区分が複雑に入り乱れているところ、すなわち〈クロスハッチ〉している箇所もある。そして、べジェルなのかウル・コーマなのかがはっきりとは分からない土地もあるせいか、都市と都市のはざまには第三の土地〈オルツィニー〉があるという伝説さえ存在するのだ。

チャイナ・ミエヴィルは、これほどまでに奇妙な話を、これといったSF設定も用いずに、警察・ハードボイルド小説の説話になじませて、現代の欧州のどこかに存在する都市国家の話として成立させている。

だから、作中には平気で「グーグル」という言葉が出てくるし、アメリカのハイテク企業が投資のためにやってきていたりもする。

それどころか、ベジェルやウル・コーマの人々が、懸命に守っている都市のルールを、外部からきた人間が完全に無効化するような瞬間さえ『都市と都市』には描かれているのだ。

作中でほとんど無制限な権力を行使できるような、万能に近い組織として描かれることの多かった〈ブリーチ〉に制止をうけ、銃を向けられたある外国人はいう。

「私はべジェル人でもウル・コーマ人でもない」クロフトは言った。英語で話しているが、私たちの言っていることはきちんと理解していた。「あんたらに興味もないし、怖くもないよ。私は行く。『ブリーチ』、ね」彼は首を振った。「まるで見世物小屋だ。こんな奇妙でちっぽけな二つの都市を、外の人間が気にかけているとでも思うのかね? ここの人々はあんたらに資金を出し、あんたらの言うことを聞き、疑問も挟まないだろうし、あんたらを恐れる必要もあるかもしれないが、ほかの人間はそうじゃないんだよ」クロフトはパイロットの隣に座り、シートベルトを締めた。「あんたらには無理だとまでは思ってないが、あんたらやその仲間には、このヘリを阻止したりしないことを強く提案するね。『離陸禁止』か。あんたらがわが国の政府を怒らせたら、いったい何が起きると思ってるんだ? べジェルかウル・コーマが本物の国を相手に戦争を挑むなんて、考えただけでも滑稽だ。ましてあんたがた〈ブリーチ〉じゃあね」(471p)

設定の根幹が、超常的なSFガジェットに支えられているわけでもなく、あくまでべジェルやウル・コーマやブリーチといった共同体に所属する人々の自助努力によってなされている以上、そういった文脈を共有しない外部の人間にこうしてあっけなく突き崩されることも、考えてみれば当たり前のことだ。

そして、あれほど万能に見えた〈ブリーチ〉も、ここにいたっては単なる小さな都市国家の、そのまた一部を担う官僚機構でしかなく、外国人を制止するだけの権力も持ちえないということが明らかになる。

これはかなりすごいことではないのか。

あるユートピアディストピア、あるいは現実離れしたルールによって支配された都市や国家を舞台にすえた小説・映画・コミックは枚挙に暇がないが、基本的にどの作品も、今ここにある現実との距離を計測し、しばしば現実から完全に切り離されたものとしてそういった都市・国家を描くことになる。なぜなら、そういった荒唐無稽な設定は、現実世界のなかに据えたとき、明らかに馬鹿馬鹿しくツッコミどころ満載のものにしかならないからだ。

もちろん、そういった荒唐無稽な虚構と現実の衝突を作劇に組み込むことができるが、『都市と都市』で起きていることは衝突でさえない。そもそもの根幹的な設定が、先ほどの引用部では、完全に無効化されてしまっているのだ。

よくよく考えてみると、完全に現実から切り離された空間として、都市や国家を設計し、そこでフィクションを展開することは、しばしば容易である。現実から切り離すことで、さまざまな瑕疵には目をつぶってもらいやすくなるし、〈寓話〉ということで、描写の曖昧さにも目をつぶってもらえる。

もちろん、そういったことは、小説の活かし方としては正しいのだと思う。けれども、それだけではダメなんじゃないだろうか、ということを最近強く思うのだ。

ミエヴィルのやったことは、現実には成立しがたい奇妙な設定をあえて読者の厳しい目線にさらすようなことで、通常は書き手が避けてとおりたいようなことだ。またミエヴィルはジャンルフィクションの定型に対して敬意を払い、きちんと忠実にミステリやハードボイルドの小説として読まれるのに遜色のないものを提出している。そういった生真面目さが、あるいは展開の突飛さや、あっというような派手なアクションをはばんでいるのかもしれない。それによって失われるものも当然ある。そのバランスをどうすべきなのかが、いつも問題になるのだろう。

〈見ることのできない〉犯人を追うパートや、べジェルやウル・コーマのいずれを歩いているのかわからない人間を追い詰める方法であるとか。〈オルツィニー〉の存在や、〈ブリーチ〉の実態など、いずれも発展のさせかたに魅力があって、ハードボイルド小説の筋はもちろんとして、思考実験としてのSF的な部分もきちんと楽しめる読書だった。

『都市と都市』がすぐれた小説であることに異論はないが、こういった小説を書くハードルをいくつも上げてくるような小説で、頭をかかえるのであった。