
- 作者: J・G・バラード,増田まもる
- 出版社/メーカー: 東京創元社
- 発売日: 2018/06/21
- メディア: 文庫
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- 作者: J・G・バラード,増田まもる
- 出版社/メーカー: 東京創元社
- 発売日: 2011/01/21
- メディア: 単行本
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2018年8月25日大阪某所で行われたSf・海外文学読書会第3回J・G・バラード『ミレニアム・ピープル』の模様を、主にわたしの記憶による再現でまとめてみました。参加者は9名。主な構成員は20〜30代の男性です。
完全に匿名化した状態でテキストに起こしてみましたが、この発言はなかったことにしてほしいという方はtwitterのclementia1960というアカウントまでご一報ください。それはちょっと違う、というものも同様にどうぞ。
※ネタバレあり
- 『ミレニアム・ピープル』というタイトルの割に、あまり新世紀要素を感じなかった。
- では「ミレニアム・ピープル/千年紀の民」とは誰のことを指しているのか?
- (下記引用参照)動機のない無差別殺人者。むしろリチャード・グールドはそれに意味づけをしようとした点からも、旧世紀の民なのではないか。
「彼なりの絶望的でサイコパス的な形ではあるが 、リチャード ・グールドの動機は尊敬すべきものだった。もっとも意味のない時代に意味を見出そうとしたのだ。彼は存在の専横と時空の暴虐に頭を下げることを拒絶した最初の新しい絶望者であり、もっとも無意味な行為こそが、その独自のゲ ームで宇宙に異議申立てできると信じていた。グールドはそのゲームに破れ、世界を再聖別する試みとして残虐な犯罪を遂行した、学校の校庭や図書館の建物の無差別殺人者たちという、新たなはみだし者たちと交代しなければならなかった」第三十五章「影のない太陽」
- ケイとグールドの違い。
- ケイは中産階級の地位向上という目的意識があったが、グールドはそれを隠れ蓑にして無意味な行為にこそ意味を見出していた。
- デイヴィットはヒースロー空港の事件からずっとグールド側に惹かれているのだが、どっちつかずではっきりとしない。
- ケイもデイヴィットも、みんなあっさりと日常に戻って来る。バラードの初期作品では世界の破滅は不可逆的な出来事だったが、『ミレニアム・ピープル』はそうではない。ハレとケのように、日常と非日常を行き来し、またそれが繰り返される予感がある。
- 序盤、抗議運動一般をデヴィットはレジャー的なものとして批判的に見ていた(下記参照)が、ケイたちはレジャー的なものへの抗議活動をしているつもりだった(実際、レンタルビデオ店やナショナル・フィルム・シアターを襲撃した)。そこにグールドが深みを与えようとしたが、最終的にはレジャー的なものとしての抗議活動が勝ったのでは。
- 中産階級の地位向上という目的も達している。
「抗議運動は、正気なものも正気でないものも 、賢明なものもばかげたものも 、ロンドンの生活のほとんどあらゆる側面に影響をあたえた。それはもっと意味のある世界を切実に必要とする人々の心のはけ口となるデモンストレーションの広大な網の目だった。人間の活動で、抗議活動家の標的とならないものはほとんどなかった」第五章「オリンピア展示場での対決」
- 9.11にはイスラム対アメリカという理解しやすいお題目があった。そこから、このような小説が生まれたのは不思議に思う。
- だから動機のない無差別殺人者、といっても犯人にはそれなりの動機があるだろう。むしろ、個別の動機というのはいくらでも交換可能なもので、それが本質的に無意味なものだと。
- なんだか『虐殺器官』ぽい話だ。
- 中産階級という割にハイクラスの人間が多く、ケイの主張には正直賛同できるところがあまりなかった。しかし、イギリスには貴族・資産家階級が絶対的なものとしてあって、そのような社会では弁護士や医師のような階級も中産階級という自覚を持つのではないか。
- 働かないと食べていけない、ローンで家を買う、リストラの危機に怯えている、などという点では中産階級なのだろう。
- 描かれている世界が狭い。自分たちが利用するような場所を攻撃していて、自傷行為みたい。
- デイヴィットとグールドの関係が謎めいている。単なるカリスマと信者という関係には見えない。
- なぜグールドは内務大臣を狙おうとしたのか。政府の人間を狙ってしまうと強烈に意味づけされてしまい、無意味なテロと整合性がつかないのでは。
- デイヴィットを誘い出すためなのでは。
- デイヴィットがグールドを殺すのかと思ったら、デクスターが殺した。
- デクスター怖いよね……
- デヴィット・フィンチャーが映画化したものを見てみたい。
- ヴェラ・ブラックバーンは『ドラゴンタトゥーの女』のルーニー・マーラーを連想していた。
- デイヴィットの周囲の人が優しい
- 晩年のバラードは、カリスマに主人公がオルグされかかり、ある種の共犯関係を結ぶという展開が非常に多い。また、「安全で清潔に管理された郊外では、暴力を伴う犯罪行為が唯一の出口となる」というテーマが何度も繰り返される。この定型(特に前者)を伊藤計劃は『虐殺器官』や『ハーモニー』で踏襲している。
- 伊藤計劃『ハーモニー』の元ネタっぽい文章がある。
「大ボスなど存在しない。このシステムは自動制御なのだ。われわれの市民としての責任感に依存している」第十三章「神を見つめる神経科学者」
「興味深いのは、彼らが自分たち自身に異議申し立てをしていることだ。敵は外にはいない。自分が敵であることを知っているんだ」第十四章「ギルフォードから第二ターミナルへ」
「われわれは前の世代の受刑者によって建てられた規則のゆるやかな監獄に住んでいるんだ 。なんとかして脱獄しなければならない」第十七章「絶対震度」
次回はトーベ・ヤンソン『誠実な詐欺師』になります。