チャールズ・ストロス『シンギュラリティ・スカイ』

 

シンギュラリティ・スカイ (ハヤカワ文庫SF)

シンギュラリティ・スカイ (ハヤカワ文庫SF)

 

 チャールズ・ストロス『シンギュラリティ・スカイ』を読んだ。すっごい面白い。そして『アッチェレランド』のときはそういう印象はなかったけど、なんか基盤はルネサンス文学っぽいな…と思ってしまいました。

 
Wikipediaによれば元々のタイトルは"Festival of Fools"だったとか。
 
大きな枠組みでは領域国家による通信遮断と、それに対する情報の自由化というテーマがありつつ、具体的にはわざと文明が発展しないように人民を支配する新共和国という封建制と、そこにやってきたフェスティバル(という人間を超越した文明)との戦争が描かれるんだけど、それを戦争だと思っているのは実は新共和国だけで、フェスティバルはただの電話修理工でしたという『銀河ヒッチハイク・ガイド』並みのバカSFが繰り広げられる。
 
で、そういう背景がありつつ、主人公のマーティンは、謎めいた女性スパイであるレイチェルと仕事に恋愛に大忙しで、スペース・オペラやら、時間SFやら、ミリタリーSFやら、スパイアクションやらが上手くからまったプロットをただ走ることになるわけですが、このあたりはそれほどシンギュラリティというわけでもないので、あまり興味が湧きませんでした。
 
冴えないオタクであるマーティンが、才女であり美女でもあるレイチェルを射止めるのは、ひとえに保守的な新共和国にあって彼がただひとり女性にアプローチできないオタクだったから(≒紳士)ということですが、現実にはただ単に無害であることが女性に対する魅力になるかというと……必ずしもそうではないので(売り気のない営業マンがいい営業マンかといわれればそうでないように)、ここはフェミニズム的な言い訳を用意しておいて、内実としてはオタク向けに都合のいい恋愛シーンを書こうということなんでしょうか。いや、マーティンは知的な話ができるという美点もあるので、別それだけじゃないわけですが。
 
ストロスの手にかかると、時間旅行は致命的な大量破壊兵器で、それは人間なんか遥かに超越した、超ド級に高度な知性体にとっても、同じ宇宙に生きている以上、同様に致命的である。だから、エシャトンはあたまのわるい知性体が下手なことをしないように常に見張っているのだという説明がありました。
 
ストロスの小説の好きなところは、テクノロジーの変化によって、人間だけでなく、法律とか経済とかをぐにゃぐにゃと変形させてしまうところですね。
 
作中ではコルヌトピアマシンと呼ばれる、何でも作り出してしまう機械のせいで、新共和国の貨幣経済は崩壊します。これは『アッチェレランド』の恵与経済と同様のロジックで、つまり資本主義社会における価値はその希少性によって決まるのだから、じゃあ希少性というものをなくしちゃおうよというあれです。まあ、何でも生み出せるマシンが手元にあったら、お金使ってなにかを買おうとは思わないよな。
 
フェスティバルにお話しする代わりに、コルヌトピアマシンを手に入れた革命家たちは、新共和国を打倒せんとしてあれこれ画策するんですが、こちらが自分にとっては面白かった。マーティンやレイチェルが活躍する宇宙の話ではなくて、シンギュラリティによってグロテスクな変形を遂げさせられた保守的な社会のありさま。
 
シンギュラリった革命闘士たちが、自分の個性に惹かれることを個人崇拝ではないかと詰問したり、ルイス・キャロルか?という人間兎と一緒にルイセンコ主義的に進化する森林に分け入ったり、まるで童話のような世界が現実そのものになってしまいます。
 
その裏で修道士がブチ殺されてアップロードされ、空から落ちてきた携帯電話が民話を収集しており、批評家(と名乗るポスト・ヒューマン的知性体)は、フェスティバルによって情報の流れが開通したのに、物質ばかり求めて情報を求めないその国民たちが哲学的ゾンビではないかと怪しんだりします。
 
フェスティバルを歓迎した革命家には確かに階級と国家の解体がもたらされたのですが、同時にそこでは革命家も不要となってしまった様子が滑稽に、グロテスクに描かれます。ストロスはグロテスクなものはちゃんとグロテスクに描くような気がしますね。
 
そういえば『アッチェレランド』を再読していて、実はあの世界の地球も、ピーター・ワッツ『ブラインドサイト』みたいにポスト・ヒューマンによる現生人類の大量虐殺が起きていることがきちんと記述されているのに気づきました(すごくさらっとした描写だけど)。
 
シンギュラリティ後の新共和国の有様はグロテスクですが、ここで説話文学が引用されているのは、フェスティバルによって強制的に情報が自由化されていき、人々が空から落ちてきた携帯電話にむかって身の上話をしたりしているから、ということなのかもしれませんし、あるいはもっと単純に非リアリズムという観点から、童話や民話の世界観が採用されたということなのかもしれません。
 
『シンギュラリティ・スカイ』を読んでルネサンス文学っぽいと思ったのは、社会風刺を備えたコメディ路線(『ガルガンチュアとパンタグリュエル』、『痴愚神礼讃』)と、説話文学(『デカメロン』、『カンタベリー物語』)が両方あるよね、というだけのことなんですが、キリスト教支配からの脱却という最も単純なルネサンス観が、新共和国の情報封鎖からの脱却に重なるというのはこじつけとまでは言えないかなと思っています。
 
あと、レイ・カーツワイルによって語られるシンギュラリティは人間否定的なものではなく、むしろ人間性の増強に貢献するということなので、その小説版ともいえるストロスに人文主義的なところがあっても当然ではあります。
 
これがピーター・ワッツの場合、ヒューマニズムや既知の人間性なるものは徹底的に批判され、切り刻まれます(ワッツ曰く、最初から人間性を貶める目的をもって書くわけではなく、あくまでデータと統計に基づいて書くとあのようになるということですが)。
 
ワッツがしばしば聖書からの引用を行い、作中人物の関係などにもその聖書的な構造を埋め込んでいるのは(例えば、量子AI=神、吸血鬼=キリスト、シリ=パウロ)、比喩によってその非常に情報量の多い世界観をなんとかわかりやすくするという意図があるのかもしれませんが、同時にそれが比喩として機能するのは、そもそもキリスト教ヒューマニズムの否定が相性のいいものとも言えるかもしれません。
(とはいえワッツによる聖書の引用は、皮肉と悪意に満ちています)
  
シンギュラリティの展開方法として、一方に人間否定が、一方に人間肯定があり、各々参照すべき過去の作品が異なる、というなんとなくわかりやすい見取り図ができました。
 
そういうわけでストロスの影響下にあるであろう『トランスヒューマンガンマ線バースト童話集』が童話を引用しているのは、思考の流れとして自然なことであり、現代ネットミームを利用していることも自然なことなのかもしれません。