中島哲也『来る』と澤村伊智『ぼぎわんが、来る 』を比較してみた


昨年公開映画ということもあり旬を大きく逃しているけど、そのうち中島哲也については書きたいと思っているので試しに書いてみた。


映画化に際して『ぼぎわんが、来る』から変更された点を列挙するので、当然ながらネタバレしています。


原作から大きく変わった部分は以下のとおり。
 ①原作になかった結婚式・その二次会・実家訪問・ホームパーティの場面の追加
②原作になかった、幼少期に山で親しく遊んでいた少女が消えた経験が挿入される
③子宝温泉の削除
④会社の後輩が病床で恨み節をぶつける
⑤唐草と津田さんの統合
⑥香奈の改心・生存がなくなり、津田と不倫。トイレでぼぎわんに殺害される
⑦後半の真相調査パートの削除(ぼぎわんの由来や、祖父のDV、祖母が呪った事実などが消える)
⑧チサだけでなく真琴も連れていかれる
⑨クライマックスのお祓いの大掛かり化
 ⑩野崎と比嘉姉妹(姉の方)の対立

 


全体的に、秀樹と香奈の両名の俗悪さを強調し、同情の余地をなくしたうえで、野崎・真琴の子供の産めないカップルへ子を受け渡すような構成になっている。子に焦点を当てるためか、あるいは社会規範を裏返すためか、原作にあった男性社会に対する批判的なニュアンスはなくなっており、薄っぺらい人間の俗悪さが薄っぺらく表現されている。ぼぎわんの民俗学的な掘り下げや、秀樹の祖父母の話も削除。育児ブログ大活躍。


①は中島哲也の得意とする、俗悪な世間を誇張した表現を前面に出すための改変であり、原作にはなかった秀樹の実家の田舎特有の嫌な感じがこれでもかと強調される。結婚式も二次会も正視に堪えないほど俗悪でつらい。原作とは違って、秀樹はもうこの時点ですでにクソ野郎としてしか描かれてない。妻夫木聡が演じがちな人の心がわからないサイコパスにしか見えない。育児ブログ描写もやばい。心温まるご家庭のCM的表現が、社会的文脈とは意味をズラされて配置されている。


②子供の頃、祖父宅でぼぎわんと会った記憶に加えて、山で少女と遊び「あんたは嘘つきやから、あんたもお山にさらわれる」などと言われたトラウマ描写が追加されている。秀樹はこの子の名前を思い出せない。


また、会社にぼぎわんがやってくる場面は、原作ではすでに秀樹と香奈に子供が生まれたことがわかっている。しかし映画では、まだ子供が生まれたことが観客にわからないよう情報の順番を前後させているので、「チサさんについて」と言われて、観客に疑問が湧くようにされている。こんな風に、情報の出し方を変えている場面が多くあって、ほとんどがショックやサプライズを増幅させるための効果的な変更になっている。


会社の後輩が大出血するところでは、原作ではそのまま病気⇒退職に追い込んでいたが、映画だと一度何事もなく回復した描写を混ぜたあと、中間の情報をカットして、いきなり病床で廃人のようになっている後輩を映していた。④にあるように、表面上は仲が良かった先輩に対する、内心の憎悪が噴き出る場面も追加される。ここは恐らく、「大出血」⇒「病気」という劇的な情報を2連続させると非現実的な印象が強くなり、恐怖が弱まるので、一度何事もなかったかのように回復させて、ショックのための間を作っているのではないだろうか。怪談系のホラーではよく見られる手法だ。


さらに秀樹が真琴と会って相談を受ける場面では、真琴から「奥さんとお子さんに優しくして下さい」と言われる場面を直接出さず、(1)キレて部屋から飛び出る秀樹⇒(2)津田(唐草)が話を聞いて事情が分かる、という構成に変えている。これも、「秀樹が何故怒っているのか?」と観客にクエスチョンを持たせてから、情報を開示するという手法で、時系列順に情報を出していた原作よりも洗練されている。また、「失礼なことを言われて怒る」という場面は劇的なので真正面に演出するのはなかなか難しい。役者の演技に頼ることにもなる。それを避ける方法としてもいい。


もうひとつ細かく指摘すると、「マンションに帰るといきなり野崎と真琴が部屋にやってきている」という場面も原作からの変更点だ。これも順番を前後させることで観客にサプライズと疑問を与え、それを解消するという手法を使っている。映画版はとにかくシーンの組み方、情報の出し方が上手い。


情報の出し方ではなく取捨選択になるが、秀樹が死ぬ場面にも洗練された改変がなされている。原作だとギリギリでどちらの声が味方で、どちらの声がぼぎわんか分かるようになっているが、映画だと余計なセリフを削り、最後までわからないように演出されている。観客の恐怖は増幅するし、そもそも成否は秀樹の生死でわかるのだから余計だということだろう。原作では不用意に人間らしかったこの場面のぼぎわんから感情を剥ぎ取り、ぼぎわんの非人間性を高めることに成功している。


③子宝温泉どころか民俗学的な部分はほぼカットされている。これは映画だから背景的なものはいらないとの判断だろう。


⑤ご近所の津田さんはいなくなり、原作の唐草の名前が津田に変わる。登場人物の人数を減らしても問題ないところは当然減らすということだろう。


⑥原作だと、香奈は最後に秀樹に対する印象を改め、一度発狂するものの、終盤でけろりと元に戻って改心している様子なのだが、映画では津田と不倫してるし、トイレで普通に死ぬ。タバコ吸うのは同様。ここでの改心がないせいか、野崎が香奈に、秀樹のフォローを入れるという謎シーンが追加されている(野崎ってそんなに秀樹に好印象持ってたっけ?)


⑦映画だからか、尺の都合か、ぼぎわん周りの辻褄合わせは放棄された。祖母の呪いという話もまったく出てこない。水子霊っぽく結論づけられている。これも子供に焦点が移ったからだろうか。


⑧チサだけでなく真琴も連れていかれる。野崎が終盤の主人公なので、彼も当事者にするためかと思われる。なお、この改変のせいで看護師1名死亡。全体的にぼぎわんに殺された人間が原作の10倍くらいになるのでは?


⑨お祓いのスケールが全然違う。政府がガス漏れを装って住民を避難させ、神社を作り、神主や巫女を用意して結界を作っている。沖縄から増援が次々とやってきて、かなり強キャラ感を出していたおばちゃんたち(これは『サスペリア・テルザ 最後の魔女』が元ネタらしい)が一網打尽にされる場面や、それを感知した男性集団が「これは手ごわいな」「一人でも辿り着ければいい」みたいなことを言う。肝が据わりすぎている。損耗率高い仕事だなと思った。終盤にかけて死者数はすごい。ぼぎわんが来たら地震が起き、建物は倒壊し、街灯は砕け、人間は全員血を吐いて死ぬ。そういえば原作では中盤で死んだ中年の霊媒師が終盤まで奮闘している。


⑩チサを犠牲にしてお祓いをしようとする比嘉(姉)と野崎が対立。これもテーマが水子霊に引き寄せられたことと、終盤に葛藤を作りたかったからだろうか。あと原作より姉が妹に厳しく、また真琴は霊能力がなかったのに傷だらけで霊媒師をする姉に憧れて自傷したり修行したりして少しでも近づこうとしている。

 


中島哲也の映画では、よく時系列を入替えた語りが採用されるが本作ではそういった趣向は薄めである。その代わりに、情報を組み替えてより効果的な出し方をするといった基本的な脚本術についても優れた手腕を持っていることがわかりやすくなっている。


ところで、時に「CMのように」と揶揄される中島哲也の映像表現だが、少し触れておきたい。

 

映画からは離れてしまって恐縮なのだが、例えば、小説において広告を作品に取り入れることは少なくとも19世紀にはすでに用いられていた手法である(『広告する小説』などで論じられている)。

 

少なくともいま分かっている事は、同時代のおもだった作家たちのなかでただ一人、ディケンズだけが、社会のシステムとして組織化された広告のうちに、自分の作品との何らかの共通点を見出していたということである。――『広告する小説』


このことは小説が言語でできていることと密接な関係があるだろう。最も安上がりな広告は言葉で作られ、また言語はコミュニケーションの最も基本的なツールである以上、様々な社会的文脈を与えられている。

(「広告」に限定せず、「様々な社会的な場面で使われる言葉」まで広げると、バフチン『小説の言葉』などの射程に入る)


自分も普段意識することがないわけではない。主にその短さのせいで、ツイッターでつぶやかれる小説や映画の感想と、商品の宣伝広告をになうキャッチコピーに大きな形式的差はみられない。


もちろん絵や映像といった視覚的媒体こそがいまや広告の王様だということは言えるが、言語とちがってパロディをするにも非常に大きなお金がかかるわけだし、言語ほどコミュニケーションの隅々にまで浸透しているわけではなさそうだ。

 

したがって、例えば、バフチン『小説の言葉』において論じられている水準で、映像にまとわりつく社会的文脈や特性について論じ、それを使って実作を分析するといったことはなかなか難しいとは思う。

 

ただ、かなりの変形はいるにせよ、同じような着想からスタートして、何かしら言えることがあるんじゃないだろうかという気にさせられる。『小説の言葉』を読んでいると、これこそまさに中島哲也の映画について言いたいことなんだよ、と思うフレーズによく出会うのだ。


たぶんデジタル撮影による後からの加工が容易になったこと、そして映像が比較的誰にでも投稿でき、ある程度通信量を気にせずに見られるようになったことは、小説について論じられていたことを映画についても敷衍できるようになりつつある事態と、大きく関係している。環境が整備されたのだ。

 

ということはつまり、マジック・アワーの自然光を狙った撮影や、すごい長回しといった映画の一回性の価値は下がり、むしろ作り手の意向がよりダイレクトに映画のルックに反映されやすくなったことで、具体的な映像に表れる自意識を厳しくチェックする頭脳と反骨精神が重要になってくるのだろう。

 

中島哲也の映画では、テレビCMをはじめとして映像・視覚文化の色んな紋切り型が素材として収集されており、それらが高い技術で再現されたうえで、社会のなかで通常与えられている意味や文脈とはズラした形で配置するということが多く行われている。ここにきて登場人物が薄っぺらいなどといった批判は無意味だろう。

 

なぜなら、中島哲也の映画ではテレビコマーシャルと人間のあいだに表現上の差を設けておらず、同じものとして扱っており、また扱えるのだということ示すことができているからだ。その映画のキャラクターが薄っぺらいのだとすれば、それは「テレビコマーシャルに出てくる人間像がそもそも薄っぺらいのだ」という事実を反映しているに過ぎない。

 

とはいえ前述したように、このあたりの問題をきちんと論じるには時間もインプットも足りていないので、次の目標としたい。


『来る』について個人的な感想をいえば、後半もっと野崎とかを相対化してしまえばいいのにと少し思ったが、総じてなかなか楽しかった。


小松菜奈が聖なるキャバ嬢霊媒師を演じており、かわいい。妻夫木君はすっかりこういう役が板についてしまったなあ。

 

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