クエンティン・タランティーノ『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』/俳優とスタントマン
タランティーノの9作目となる新作映画を見てきた。
なんというかシンプルかつ渋い映画で、タランティーノの名前にだけ惹かれて映画館に来た観客の中には、置いてけぼりを食った人もいるんじゃないだろうか(特にシャロン・テート殺害事件のことを知らなかった人)。
過去の監督作にあるアクの強さみたいなのも劇中劇にすこし出てくる程度で(黒人のキャストがほとんど?全く?登場しないのも理由の一端にありそう)、あとは本当に人々の日々の営みを映していくだけ……という感触だった。
また、隣人という以上には特に接点のない登場人物同士をカメラの移動撮影でつないでいく趣向せいか、カメラの距離感が非人間中心的で寒々しかった。こういうのって巨匠の遺作っぽい雰囲気で、アルトマンとか思い出したな~。
時代は1969年、場所はハリウッド。登場するのは、テレビ俳優として人気のピークを過ぎ、映画スターへの転身を目指すリック・ダルトンと、その運転手兼スタントマンのクリフ・ブース。
俳優とスタントマン。
このパートナーにはあからさまな寓意がこめられている。映画における嘘の暴力と、本当の暴力である。あるいは、演技とアクションとでもいうべきか。
序盤、ベトナム戦争の戦況を伝えるラジオ放送がインサートされる。共産主義者が何人死んだ、とかなんとかいうニュース。路上にはヒッピーが歩いている。
そして、リック・ダルトンのもとにやってくるプロデューサーは、ダルトンの出た映画の感想を口にし、マシンガンで撃つ真似をする。それっぽく加工された劇中劇がインサートされ、マシンガンを乱射したり、火炎放射器でナチを焼き殺したりするダルトンが映る。
「貸家はダメだ、持ち家を買え」とクリフに忠告するリック・ダルトンの家。その隣には新婚のロマン・ポランスキーとシャロン・テートが仲睦まじく暮らしている。
映画に流れる時間はゆっくりとしていて、リック・ダルトン、クリフ・ブース、シャロン・テートの三人が、入れ替わるようにしてカメラの前に姿を表し、いくつかの挿話が語られる。
それは例えば、リック・ダルトンが飲みすぎてセリフを飛ばしてしまうという挿話。そしてパルプ小説の主人公に自分を重ねて泣いてしまい、八歳の子役に慰められるという挿話。
あるいは、トレーラー暮らしをして、犬に餌を与えるクリフ・ブースの孤独な夜の生活。整然と並べられた缶のドッグフードを取り出し、逆さまになった缶から中身が垂直落下する。広告的に撮影されるジャンクな食べ物。それを鍋のまま食べるクリフ。おともにはテレビジョン。
あるいは、自分が出た映画『サイレンサー第4弾/破壊部隊』を見てニコニコとするシャロン・テート。映画館の受付や支配人に、自分が出た映画なんだと言ってみても、彼らはシャロンのことをよく知らない。映画女優になったというウキウキを隠せないシャロン・テートと、世間には知られていないというギャップ。
クリフが運転をしていると幾度となく出会う、黒髪のヒッピー女。プッシーキャット。三度目の正直で彼女の住んでいるところまで車で案内すると、そこは寂れた廃墟同前の、かつて西部劇を撮影されていた場所。スパーン映画牧場だった。
そして史実のとおり、マンソンファミリーがそこを根城にしており、クリフの訪問はホラー映画のように演出される(あの長すぎる階段!)。撮影所の元管理人である盲目の老人がヒッピーに騙され、寄生されており、知り合いであるはずのクリフのことさえ覚えていないのだ。
半年後、マンソンファミリーは史実のとおりシャロン・テート宅近辺にやってくるが、その結果はいささか違うものになった。
『イングロリアス・バスターズ』がそうであったように、この映画を、フィクションをもって現実の悲劇を救う映画だと指摘する声は多い。
しかしそれは不十分な指摘であるように思う。
確かに、クリフ・ブースとリック・ダルトンは事件の実行犯を撃退し、この映画にあって、シャロン・テートは生存する。
しかしながら、犯行前に実行犯のひとりが口にするのはこうだ。正確な引用はできないが、趣旨としてこうだった。「わたしたちはテレビで、映画で、嘘の暴力を見てきて育った。映画を通じて暴力を学んだのだから、それをやつら(=ハリウッド)に向けてやろう」と。
かくして映画の廃墟にすみついたマンソンファミリーは嘘の暴力を見て育ち、やがてハリウッドに本当の暴力を向けるのだが、それを本当の暴力の体現者であるクリフ・ブースが撃退する。容赦のない暴力をもって。
言ってしまえばクリフがやったのは、身から出た錆を払うことだ。
もちろん実際の話としては、シャロン・テートが標的になったのは偶然であり、ハリウッドがその責任を負わされるいわれはない。
しかしこの映画では、フィクションがただ現実の悲劇を救うだけではなく、映画と現実の暴力の関係が、作中で寓意的に描かれているのである。その意味でタランティーノは、映画が被害者だったというつもりはないのだろう。
これからも映画は嘘の暴力を描きつづけるだろうし、スパーン映画牧場のような廃墟も築かれるだろう。なにより、クリフとリックは別れてしまったのだし。
ただこの映画は、タランティーノの意図もあってか、ラストを除いて、暴力的なアクションシーンのほとんどない映画として作られている。
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わたしはタランティーノの映画を痛快だと感じたことがない。嘘だ。どのタランティーノの映画にも痛快さを感じたが、それ以上にずっと腹の脇のほうが痛くなるような、暗い気分にさせられる。それも嘘だ。近年のタランティーノの映画は政治的だし、リベラル派なのかもしれないが、倫理的に危うい場面で目を輝かせる。演出に弾みがつく。そこが重苦しいし、ねじくれていて楽しい。
前作『ヘイトフル・エイト』では、黒人の賞金稼ぎと白人の自称保安官が、嘘吐きの女囚を吊るしながら、仲間意識と遵法精神を獲得する。
『イングロリアス・バスターズ』と『ジャンゴ』の暴力は、マイノリティの復讐といえど、いささかやり過ぎている。
タランティーノの描く暴力や、復讐や、人種差別、そしてクソ野郎の非道ぶりは、娯楽の素材としてポップに扱われているものの、政治的な題材を選択しているがために、単純な素材としては収まらないところがある(ヒトラーなら、あるいは距離を持って眺められるかもしれないが)。わたしはそこが美点だとは思うけど。
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ところで、シャロン・テート殺害事件は50年前のできごとで、もう映画の題材として距離をもって扱えるレベルにあるのかもしれないが、やはり『イングロリアス・バスターズ』のヒトラーとはだいぶ距離感が異なるし、また『ヘイトフル・エイト』ほど問題が一般化されているわけでもないため、これまで以上に生々しいものになっている。
こういうことをやってもいいのか、と感じる人は出てくるだろう。自分もすこし引っかかった。
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