読書日記:フリッツ・ライバー『妻という名の魔女たち』
フリッツ・ライバーを読みたい気分なので、『妻という名の魔女たち』を読んでいる。
まだ半分ほどだが、内容としては保守的な土地柄にあるヘンプネル大学で教えているノーマンという教員が、妻の魔術道具を見つけてしまったことをきっかけに、実は教員たちの妻がそれぞれ魔術を使って夫を守っている(そして競争相手を蹴落とすために相手の夫を呪っている)のではないかという疑心に囚われるというもの。
いわば内助の功を、オカルティックに解釈した小説なんだけど、最初の章のシーン作りがほとんど完璧なホラー映画になっていて驚いた。
もっともライバーの視覚的シークエンスの描写力、演出力はすでに故殊能将之氏の記事などで広く知られているところだが、今回はまるまる一章分が見事なシークエンスになっていてすごく感じ入った。非常にさりげないが、本当に上手い。
全体としては、ノーマンが妻の魔術道具を発見してしまうまでのシークエンスなのだが、まず冒頭で妻の秘密を発見することについて無気味なイメージをちらつかせる。ホラー映画の冒頭で、不安な夢を見てしまうような場面に当たるのだと思う。
このあと、自らの家を視覚的に描写しつつ、そこにあるインテリアや家具から想起して、自分と妻の関係や、職業生活、過去にあったできごとを説明していく導入のパートがつづく。
この間ずっと室内にいるわけだが、時折、外の風景がザッピング的に挿入される。
寝室の窓の外では、近所の子供が新聞を積みあげたコースター・ワゴンをひっぱっていた。通りの向こうでは、老人が新しい芝生の上を用心深く歩きながら、踏鋤をつかって灌木のまわりを掘っている。クリーニング屋のトラックが大学のほうに向かって走っていった。ノーマンはつかのま眉間に皺を寄せた。そして反対側に目を向け、ズボンをはいた二人の女子学生が、シャツの裾を出したままという、教室では禁じられている恰好で、のんびり歩いてくるのを見た。
同時間に、同じ場所にあるが、ひとつひとつは関連しない異なる視覚的イメージを描写することで、単線的な小説の描写が、映像に近づいていく。もっとも映画でいえば、これは周囲の状況を説明するために一定のリズムで編集される、風景や雑踏を捉えたショットの連なりだろう。
このザッピング的な外の風景の挿入は、室内でみずからの内面に入り込んでいるノーマンからカメラが外れることで、彼が部屋でただ一人ぽつんといる状況を読者に意識させている。
これに加えて、飼い猫の視点をくりかえし登場させ、シークエンスを中断させることで、カメラがノーマンから引くような効果を出しており、また「誰かに見られている」という不安を読者に意識させている。
(猫の視点とホラー映画といえば、ジャック・ターナー『キャット・ピープル』の一番有名なプールサイドのシーンを思い出す。あのシーンはただ猫がいるだけではなく、かなり珍しい「猫の主観ショット」さえ登場するのだが、かなり自然に挿入されているので、多分意識しないとわからない)
ノーマンは部屋を見ていくなかで、ためらいながらもゆっくりと妻の秘密に手を伸ばしていき、そのヴェールを段階的に剥がしていく。
ここのためらいと前進のくりかえしがまた上手い。じわじわと対象に迫るような間の取り方が不安を煽るのだ。とはいえ、引用するには長すぎるのでこのあたりは実際に読んでもらったほうがいいだろう。