シン・ゴジラ追加覚書

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シン・ゴジラ』には「行政」は描かれているが、「政治」は描かれていない、という話が上記のブログ記事でされている。この記事自体は書かれた当時に読み、そのとおりだと思った。

かつて『シン・ゴジラ』について少しだけ書いたことがあるが、そのときは「行政」と「政治」ではなく「縦」と「横」という言葉で内容を捉えていた(正確には「垂直」と「水平」と書くべきだっただろうか)。

シン・ゴジラ』において前半部の「行政」パートのモンタージュはきわめて秩序立って構成されており、基本的には首相の顔とそれ以外の政治家・官僚の顔とが切り返されていく。すべての意思決定は首相に切り返されていくのである。しかしながら、後半部の「政治」パートにおいては、モンタージュにそのような秩序だった構成が見当たらない。移動撮影を多用していることがそのスタイルなのかもしれないが、どちらかといえば、場面を順番につないでいくという通常の説話スタイルであって、前半部にあったように、行政機構そのものをカットの蓄積によって示すといったような、特殊なことは行なわれない。

前回の記事では、「前半部の意思決定は縦に伸びていく」、「後半部の意思決定は横に発散していく」と書いたものの、「横に発散していく」ということは実際どういうことなのか。普通の説話とどう違うのか。そのあたりは説明していなかったし、改めて考えても、前半部に相当するような例外的な処理が形式面において行なわれているとは言えない、少なくとも自分のブログ記事でそれを示すことはできていないと考え直した。移動撮影の多用こそがそのスタイルなのだとしたら、それは安易ではないだろうか。

ではどうして後半部には際立ったスタイルが確立されていないのか。それは、前半部では「行政」が意識的にかつリアルに取り込まれているのに対して、後半部では「政治」が本来のあり方からは遠いかたちで、つまりリアルじゃないかたちで取り込まれているからであり、そのことは『シン・ゴジラ』という作品の瑕疵ないしは限界に当たるのではないかと今では考えている。

上記のブログ記事で指摘されているとおり、『シン・ゴジラ』という作品にはリアルな「政治」があらかじめ排除されている。つまり、折衝・交渉・多彩な価値観の対立・矛盾といったものがあらかじめコントロールしやすい程度に排除されている。

脚本を担当した庵野秀明がそのことを自覚していたかどうかを調べることはしていないが、推測するに、多少不自然になったとしても、「政治」は捨てる判断をしたということだろう。折衝・交渉・対立・矛盾を作品に組み込むこと、すなわち本格的に「政治」を『シン・ゴジラ』に導入すれば、スムーズなストーリー展開は阻害されるに決まっているからだ。

したがって、アメリカからのドローン提供や、ドイツの科学者の協力、フランス政府の協力といった交渉パートは軽く流して、あくまで本題は土木工事さながらのヤシオリ作戦ということになる。

繰り返しになるが、仮に、交渉パートを前半部分の会議シーンでやったように泥臭く積み重ねた場合、それは前半部ほど整理されたものにはならずドラマとして停滞することは必至だ。前半部が秩序だったものになるのは、国家があたかも一つのシステムとして内的に完結しているかのように描かれていたからであり(これ自体がまずリアルではない)、意思決定のためのルールも整理されているからである。

それが一旦、国際政治という場面に移ってしまえば、上位決定機関は存在しなくなる。したがって、意思決定のルールは曖昧になり、利害やルールをほとんど共有できないからこそ、問題解決にはむしろ邪魔になるだけの、感情的で不毛な、そもそも議論とさえ呼べないようなものが現出してくる。そういうものが「政治」だろう。それに比べれば、かったるいとはいえ規則どおりに蓄積されていく一連の会議シーンのほうが、説話のスピーディーさを失わないで済む。

この「行政」と「政治」の中間地帯として用意された、理想的なコミュニケーション空間が「巨災対」の面々ということになるのかもしれない。「行政」パートの秩序だった説話やモンタージュとの形式的な対比はここにこそあるのかもしれない。なるほどそこには、「行政」パートにあるような垂直的な関係は存在しない。場を仕切る人はいるものの、発話者は思い思いに発言し、間違いは素直に認め、ゴジラ打倒という一つの目的にしたがって協力していく。愛想がなくても、口が悪くても、身なりが汚くてもそこでは問題にならない。そして、そこにいる人たちはみな頭がよく、優秀で、ほとんどが「理系」の人々である。SFにありがちな科学的ユートピア、なのかもしれない。


以上ぐだぐだと並べてきたのは、この問題が政治や行政をフィクションで描くときの問題に留まらず、ナラトロジーと会話の問題に拡大できるんじゃないかと思っていたからだった。

『シン・ゴジラ』は、震災の記憶を素材にして、ゴジラをアップデートさせたが、そこからは政治性が相当程度、脱臭されている。

とはいえ、既成の娯楽映画にありがちな「もめごと」や「すれ違い」を、つまりは「政治」を中途半端に導入すると、『シン・ゴジラ』にある美点は失われてしまう。

もっとも、ゴジラは54年のオリジナル版からすでに思いっきり政治的な映画だったので、「政治」に関する瑕疵を厳しく見て、まったく評価しない、、、という立場もあるだろう。

自分自身でも最近Twitterで、ドラマ「逃げ恥」の正月特別版である、ドラマ『逃げるは恥だが役に立つ ガンバレ人類!新春スペシャル!!』を見て、それに近い批判をした。

要するに、短時間でスムーズなストーリー展開をするために、題材の持っている政治性を脱臭し、議論パートを非常に恣意的にコントロールしていると非難したわけだ(論敵を雑魚に設定すれば、簡単に主人公たちに勝たせることができる、と)

ただこれって批判するのは簡単だけど、造形するのは相当難しい。

ポリティカル・フィクションは難しい。そして議論パートを作りこむことも難しい。どのように造形すべきか悩まされる。SF小説のように「世界観」で勝負する作品には、しばしば「思想」を持ち込むことが重要だが、それをどのようにするのかも非常に難しい。ストーリーテリング(ナラトロジー)と会話・議論のバランスも難しい。芸術娯楽の創作というのは難しいことばかりである。