飛浩隆「自生の夢」について


以下、「自生の夢」に関する重大なネタバレがあります。




昨年末に出た短編集『自生の夢』を読んだ。

昨年末に出たといっても完全な新作があるわけではなく、むしろ既出の短編を集めたものなので、わたしにとっては実質的に再読ということになる。かなり広い期間にちらばった短編があつめられた......という割には一貫した関連性が見える短編群になっており(実際、ガジェットやらキャラなどが関連づけられて書かれた短編も多い)、その意味で一冊の本になった意味があったなあと思った。

この「一貫した関連性」についてもゆくゆくは考えていきたいわけだけど、その前に表題作「自生の夢」について書き残しておきたいと思い、ブログに書くことにしておいた。本作については『NOVA1』の初出時に読んでいる(もっとも出版から1、2年遅れてだが)のだが、今回あらためて読んだときに、以前とまったく異なる読書体験をしてしまったのだ。

「自生の夢」は、2009年に逝去した伊藤計劃という作家に明確なオマージュを捧げている作品であり、その死と発表時期の近さを考えても追悼の意味があったといえる。実際、その内容を読み解くうえでも伊藤計劃とその死について知っている必要がある。いや、ひょっとするとそれ以上のものが要求されるかもしれない。本作はオマージュというレベルを超えて、小説の仕掛けとしても、伊藤計劃を読み、その作品群に熱中してきた読者に向けられているといっても過言ではないのだ。

そのことは、読んでいくと明らかになる。

このお話しは――そもそもこれがお話しであるのかという問題はさておき――、著名な作家にして殺人者であった間宮潤堂との長大なインタビューの記録である。その全文を掲げることはできないが、どうかご容赦願いたい。このインタビューは、整然と文字を並べる方法では記録できない種類のものなのだ。これは通常の意味でのインタビューではなかった。インタビューイ――間宮潤堂は対話の三十年も前に逝去しており、インタビューア、つまり〈ぼく〉と〈わたし〉も常識的な意味では人間ではない。
 さらにこのインタビューは、その対話を行うことそれ自体が〈忌字禍〉との闘争そのものでもあった。この壮絶な闘争を維持するため、人類は公共的計算資源をピーク時で三パーセント消費した。その膨大な計算こそがこのインタビューの実体なのだ。

作中でもこのように説明される、奇妙な対話が「自生の夢」の形作っている。そのインタビューの目的はなにで、背景としてどんな危機が迫っていて、そしてインタビューアである〈ぼく〉や〈わたし〉は何者なのか。〈忌字禍〉とは何なのか。

そういったことは読み進めていくにつれて次第にわかってくるが、それよりも先、すぐに気がつくことがひとつある。

まず、会話するだけで相手を死に追いやるという能力、しかもその人物が「間宮」といわれれば、わたしは否が応でも黒沢清の映画『CURE』を思い出さずにはいられない。そもそも、他ならぬ伊藤計劃の長編デビュー作『虐殺器官』は本人がインタビューで答えているとおり『CURE』の世界拡大版だった。それに留まらず、冒頭で引用されている場面は明らかにビクトル・エリセミツバチのささやき』だし、間宮と対面する場面はどう考えてもジョナサン・デミ羊たちの沈黙』のレクター博士クラリスの対面そのままである。ほかにも、『フランケンシュタイン』や『白鯨』をはじめとして、本作で引用されている既存の映画・小説は数多くあるが、なぜそこまで多くの作品が参照されているのだろうか。

その理由は作中で種明かしがされている。つまり、「自生の夢」そのものが様々なテクストのパッチワークだから、というわけだった。

明らかにGoogleをモデルとした巨大検索機構と、そこに埋蔵されている膨大な量のテクスト群。そして、そこに襲い掛かる〈忌字禍〉という災厄があり、それに対抗するために何者かが〈ぼく〉や〈わたし〉を遣わして、間宮潤堂を蘇らせようとしている……読み進めていくとわかってくる事態の詳細はそのようなものである。

どうやら、〈ぼく〉や〈わたし〉は、作中でCassyと呼称されている文章作成支援システム(がめちゃくちゃ高度に発達して、自動的に文章を吐き出せるようになったもの)であって、検索=書くことによって間宮潤堂の復活を企図しているらしい。

間宮潤堂は伊藤計劃のことであると読めるように、というよりも思わず読んでしまうように造形されているので、「自生の夢」とはすなわち、伊藤計劃の死者復活の儀式だと理解できる。

しかし、この説明に対して、間宮潤堂は当然の疑問を口にする。

この私を、もしきみが書いているなら、『この私』はどう考えても、間宮潤堂にはならない。ただの『きみ』でしかないはずだ

これに対し、〈ぼく〉や〈わたし〉は長々とした説明を返す。要するに、〈ぼく〉や〈わたし〉は新しく文章を書いているわけではなく、過去に間宮潤堂が書いたテクストを寄せ集め、継ぎ接ぎをつくり、そこに他人が書いた膨大なテクストも混ぜ込み、そうやって死体の継ぎ接ぎであったフランケンシュタインのようにしてテクストの継ぎ接ぎであるところの間宮潤堂をリアルタイムで描出しているのだと。

そして、そのような作業をしている〈ぼく〉や〈わたし〉が他にも同時複数、大量に展開されていて、その気の遠くなるほど膨大な作業の総体が、どこか別の場所に仮想的な間宮潤堂を復活させつつある。

このあたりはなんとなく円城塔っぽい発想だ。検索と計算によって、死者をサルベージする。

間宮潤堂はその答えに納得するわけではないが、面白いと感想を言って、その先へと続けていく。

ここで、序盤で説明されたことを改めて確認しておくことが肝要だ。

このお話しに登場する〈ぼく〉と〈わたし〉は「一人称の語り手が自分を指す代名詞」ではない。ある種のプログラムに一時的に割り当てられた固有名詞と考えていただく方が近い。〈ぼく〉を主語としているからといって一人称であるとは限るまい。「『ぼく』というという字面の固有名詞」が主語になっているのだ、と念頭に置くことをお薦めする。当然、ついつい一人称で読んでしまうのが自然であるし、それで支障があるわけでもない。〈ぼく〉には男性の声を、〈わたし〉には女性を充てて差し支えない。それもまた想定の内である。

なんだか妙な説明だが、作品の仕掛けを理解したうえで読むとひどく性格の悪い文章であることがわかる。本作に出てくる〈ぼく〉と〈わたし〉は一人称ではない、と断ったうえで、「当然、ついつい一人称で読んでしまうのが自然であるし、それで支障があるわけでもない。」と書いているわけだが、最後まで読んだあとに改めてこの文章を読み返すと、むしろ「ついつい一人称で読んでしまう」ことを利用しているとしか思えない仕掛けが施されているのだ。

もっとも、その仕掛けはごくごく限られた読者にしか効果を発揮しないようになっている。

間宮潤堂にインタビューしているのは誰か、そして〈忌字禍〉とはなにか、それらの疑問に答えがつくとき、仕掛けは明らかになる。

〈わたし〉は一人称ではない。GEB内部には主観、内面、意識はない。ただただ文字のつらなりがあるばかりである。〈わたし〉を書いているのは〈わたし〉ではない。〈わたし〉は単なる固有名詞だと。どこかに――そう、書いてあったはずだ。

インタビューの途中から、〈ぼく〉や〈わたし〉は違和感を覚える。自分自身が書いている=支配しているはずの空間にあって、自分が寄与していない不都合が置きはじめるのだ。もちろん、どんな不都合であっても、この空間では書きさえすれば成立する。しかし、自分たちは書いていない。

だとしたら、一体それは誰が書いているのだろうか。

もちろん、死から復活した間宮潤堂=伊藤計劃である。

「きみたちにはたいへん感謝している。私がきちんと間宮潤堂になれたのは、検索先がわたしの文章だったからではない。きみたちが検索してくれたからだ」
 わたしは絶句する。――知っていたのだろうか? わたしたちのことを。
「知っていたとも。私の小説の語り手はひとつの例外もなく〈ぼく〉と〈わたし〉だけだった。きみらはおそらく私の小説を解析し、その語り手の言動を心得たCassyだ。きみらは私の分身ということだ。私じしんが私の作品群を検索した。きみがどの作品のだれだったか、見当もついているよ。お久しぶり。元気にしていたようだね」

わたしはこの場面を読んで……正確には〈ぼく〉と〈わたし〉という文字をみて、思わず伊藤計劃の作品群、『虐殺器官』や『ハーモニー』、あるいは短編の「Indifference Engine」、「From the Nothing ,With Love.」、「セカイ、蛮族、ぼく」、または未完長編の冒頭「屍者の帝国」、はたまたMGSのノベライズなどを読んでいるときの自分を思い出した。そこに書かれた〈ぼく〉や〈わたし〉を読んでいるときの自分自身がよみがえり、作中の語り手であるシェパードやトァンも蘇った。そして、それを書いている伊藤計劃が〈ぼく〉や〈わたし〉といった文字をタイピングしたときに、その内面に生起したであろう〈ぼく〉や〈わたし〉が蘇ったような気がした。

「自生の夢」を読んでいる現在の自分、そして伊藤計劃を読んでいた過去の自分、そこに書かれたテキスト、さらには作者である伊藤計劃飛浩隆。それぞれ別人だし、人でないものもいれば、死者だっている。それらがひとまとまりになり、〈ぼく〉や〈わたし〉という文字列の表面で、他人のまま共鳴したような不思議な感覚に陥った。

わたしは、また別の文章を思い出す。

伊藤計劃が最初の部分を書いて、円城塔が書き継いだ小説。奇しくも、「自生の夢」と同じ『NOVA1』に載っていたこともある、『屍者の帝国』の一文である。

わたしは、フライデーのノートに書き記された文字列と何ら変わることのない存在だ。その中にこのわたしは存在しないが、それは確固としたわたしなるものが元々存在していないからだ。わたしはフライデーの書き記してきたノートと、将来的なその読み手の間に存在することになる。

これは円城塔のパートだが、この〈わたし〉は「自生の夢」の〈わたし〉によく似ている。これを読むあなたもまた〈わたし〉でありうるような、そんな交換可能な任意の〈わたし〉だ。

そして、それは〈忌字禍〉の正体でもあるだろう。ハードウェアそれ自体には存在していない、ハードウェアの動きのなかにしか生起しない、なにかソフトなものだ。

名もなく、だから『書くこと』の外に在るもの。風の綴りでしか書けないもの






ちなみに、数々の引用作品のうち『白鯨』がなんとなくちょっと浮いていることについて、自分なりにこじつけておきたいので自説を書いてみる。

本作は、死者を蘇らせていることや、作品自体が継ぎ接ぎでできていること、あるいは「屍者の帝国」への目配せ、そして『ミツバチのささやき』が引用されていることからも、『フランケンシュタイン』が重要な参照先として設定されている。

そのように考えると、『白鯨』には実は、「これ『フランケンシュタイン』じゃね?」という文章がひとつ存在することに思い至るのだ(指摘したのは巽孝之だったよう記憶しているが)。

翌朝みんなで見にゆくと、木は不思議なやられかたをしているのがわかりました。衝撃でまっぷたつになったのではなく、全体が薄くずたずたにひき裂かれてしまっているのです。これほど徹底して破壊されたものを見るのは初めてでした。

これは、落雷があった木がどうなったのかについての、『フランケンシュタイン』(森下弓子 訳)内にある記述。

そして、次の文章が、『白鯨』(田中西二郎 訳)に書かれている、エイハブの外観についての描写(の一部)。

その灰色の頭髪のなかから糸のごとく流れ出て、渋色に日焼けした顔と頸との片側をまっすぐに這い上がり、ついに服のなかに消え去るまで、一本の鉛色に白っぽい、かぼそい棒のような傷跡。天に沖する巨木の幹に垂直に作られた裂孔に、それは似ていた――その頂から雷電が射し下って、一本の小枝も折らずその木肌を上から下まで剥ぎながら溝を掘って土中に没する、樹はそのままに青々としているが、ただ刻印だけは消えずに残っている。その刻印がこの人の生まれながらのものなのか、何かの死闘によって負うた傷が創痕になって残ったのかは、誰もはっきりと知っている者はあるまい。

要するに、間宮潤堂はエイハブでありフランケンシュタインなのである。








以下では、取りこぼしについて断片的に書いてみた。

これはなにかのプロジェクトなのだな。私はそのための素材なのだろう

伊藤計劃にあやかってか、計画という言葉も出てくる。

もちろん。本気を、そのままぶつけるのは、全然芸術ではないだろう。そこを見抜いてくれた者はいなかったが

間宮の言葉だが、飛浩隆の本音のように見えた。
まあ、本気で書いたら、制御することができずに、第三者には理解することのできないものになるだろうから……。

潤堂の著作はかなり読んでいた。回りくどい手加減と韜晦が微苦笑をさそうけども、奇怪な装飾を取り去ってみれば、リリカルで、いじらしい心象風景があきらかだ。そこにただよう孤独の感触が、まあたらしい寝床のひややかなシーツのようで、アリスは大好きだった

飛浩隆伊藤計劃の著作に対する感想だろうか。そう読めなくもない。
ところで、間宮が伊藤計劃、検索システムが円城塔だとしたら、アリス・ウォンは飛浩隆なのだろうか……? ここは飛躍があるのでなんとも確信が持てないところだが。

「自分の罪を悔いている。猶予も尽きた。わたしは外側から少しずつ切り取られ、削ぎ落され、だんだん減っていく。途中で絶命するだろうが、いつ死んだかはあなたたちには分からないようにしたい。最後の一遍がこの架台から剝がされたとき私は消える。罪がなくなることはない。だから私は最後に、罪と釣り合うほどの業苦を自分に科したい」
 嘘だ。
 即座にアリスは判断した。嘘っぱちだ。
 公開自殺が擬装であって、実は本人は生きている、という意味ではない。
 消えたい、というその言葉がそらぞらしかった。言い終えるなり「いまのは嘘です」と舌を出さないので驚いたくらいだ。

ここは、はてブに挙げられた記事「伊藤計劃虐殺器官』の“大嘘”について」に酷似している箇所。
執筆時期の正確な特定は難しいが、時系列は以下のようになっている。ただ、あのはてブの書き手は飛浩隆ではないとどこかで聞いたことがあるような。

2009/9/5 「伊藤計劃虐殺器官』の“大嘘”について」
2009/12/10 『NOVA1』発売

「蟻は蟻塚の構造を理解していますか? ぼくらもまたじぶんの機能に限定されています」

Cassyの子孫であるこの人のセリフ、これは『ミツバチのささやき』で蜂と蜂の巣についてされる説明のいただきで、「自生の夢」という作品全体の骨子であり、細部としてもいくつも連関している。単純なものから、それ自体が理解していない複雑な機構が生み出される。人間に魂が生じたり、詩に詩神が宿ったり、死者が復活したりする。

上の文章に混ぜたかったが、できなかったのでここに書いた。


「自生の夢」はモチーフの共鳴がとても美しいので、本当はそういうところも描出したかったけど、手が及ばなかった。


冒頭で述べている、短編集『自生の夢』に一貫している主題というのは、「文章を読んだり書いたりするときに内面で起きていることを記述しようとすると、必然的に意識のハードプロブレムにぶち当たる」ということなんだろうとあたりをつけているが、小説や映画についてなにかを書こうとしたときに、一番難しいのもこういったことだ。

あと、間宮が子供のころに殺した柘植雪子って女教師は、パト2の柘植行人からだろう。



自生の夢

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