ピーター・バーグ『パトリオット・デイ』/映画という交霊術


ピーター・バーグパトリオット・デイ』を見た。


前半が編集についての映画、後半がボストンを舞台にした事実上の軍事作戦、ということでコンセプトの面白い映画だった。

それにしても、ボストンというのは本当にこれほどにもアメリカらしいリバタリアン精神にあふれた街なのだろうかと思ってしまう。ベン・アフレックの諸作しかり、『スポットライト 世紀のスクープ』しかり、『ブラック・スキャンダル』しかり、最近になってボストンを舞台にした土着的な映画が多くつくられていて、そういったものと並べて考えてしまうところがある(そういえば『ミスティック・リバー』もボストンだ)。

愛国者の日」というタイトルだけあって、愛国的だという批判がされそうだし、また実際にされているのを見た。とはいえ、そのときに想像されている国家とは何なのだろうかと思ってしまう。『パトリオット・デイ』で展開されるのは、アメリカという国への愛というよりは、ボストンという都市への愛であるし、そもそもアメリカ自体がそういう大きな政府を嫌うリバタリアン的な国だ。善きリバタリアンたることは、近年であればイーストウッドベン・アフレックなどが継承してきたアメリカ映画的なテーマである。

国家というものを思い浮かべるとき、小さな共同体の集まったものとして想起するのか、それともそういった小さな共同体をおさえこむ一つの巨大な政府を思い浮かべるのか。一体どちらなのだろうか。『パトリオット・デイ』では、それは分離したものとして扱われているだけに、批判するときにもその点の分解が必要である。

(小さな共同体による抑圧と、近代国家による抑圧は、その相互関係をあまり分析されないままどっちもまとめて批判されがちである)

とはいっても、自分の関心は別のところにある。ところで「映画は召喚の儀式」といったのは『映画の生体解剖』の高橋洋稲生平太郎だったが、この映画はまさにそういう話だった。

交霊術としての映画

この映画で面白いと思ったのは、前半のボストンマラソン爆弾テロ事件が起きるまでの経過、そして起きた後の捜査、この二つである。

パトリオット・デイ』の序盤は、それ自体はとても散文的な、ボストンに住む人々の日常生活をスケッチしたものになっている。もちろん、それらはボストンマラソン爆弾テロ事件になんらかの形でかかわる人々の、なんということのない日常の描写であって、あとから本筋に組み込まれていくことはわかったうえで撮られている。こちらとしても、劇映画の常套手段として、「なるほど、この人たちが事件にかかわってくるんだな」と身構えながら見ることになる。

停職を言い渡された警察官が、慣れない下っ端仕事をしてドアを蹴破り、足を負傷するところ。若いカップルが「レッドソックス」と「レッドソークス」の発音の違いについて微笑ましく口論するところ。MITの女学生を自分の音楽ライブに誘おうとする若い警察官。ネットで爆弾の作り方動画をじっと見つめる中東系の若者。エトセトラ。

こういったものが積み上がっていくと、次第にボストンマラソンの本番が近づいてくる。こちらとしては事件のことをあらかじめ知っているので、印象的な26秒間の黙禱は、まるで爆弾テロのカウントダウンのように聞こえてくる。

いよいよマラソンがはじまって、それまで散文的に配置されていた登場人物たちが、ボストンマラソンの現場に集まってくる。実際の映像も交えながら、禍々しい予感だけがいやにも増してくる。

ここにあるのは、普通の群像劇としてのサスペンスの緊張感だけではないと思う。「くるぞ、くるぞ」と予感をさせておいて、いよいよショックシーンを差し込んでくる古典的なサスペンスと、『トゥモロー・ワールド』冒頭の爆弾テロの場面のような、何の前触れもないショックシーンの挿入というモダンな感覚が融合しているのがこの映画の前半だ。

実際に起きた事件だから、わたしたちはこれから何が起きているのかを知っている。だから、「観客は何が起こるのかを知っている」けれども、「作中の人物はそれを知らない」という古典的なサスペンスがここでは生じている。

一方で、実際に挿入される映像があったり、雑味が多くてフレーミングもかなり自由な、ラフなカットも数多く使われていたりするので、ショックシーンがいきなり前触れもなくやってくるというモダンな感覚も入り混じっている。

これがもし完全にPOVで撮られていたりしたら、カメラがあることを被写体が意識していることから、むしろ画面には胡散臭さが充満するだろう。

とても禍々しい予感があるのは、これが実際に起きた事件の劇映画による再現であると同時に、そこに亀裂のように差し挟まれてくる実際の映像があるからではないか。劇映画の部分はただの再現に過ぎないが、そこに挿入される実際の映像は、当初はそのように(まさかテロ事件の映像として扱われるとは)思ってもいなかった映像であって、テロ事件のせいで呪いのようなものを刻印されてしまった。それが、このたびテロ事件を再現した劇映画にあたって、再びこの世に呼び出されて、編集されていく。

純粋に映画としての出来からいえば比べるようなものではないかもしれないが、フリッツ・ラング『激怒』で上演されるリンチシーンの映像や、スピルバーグマイノリティ・リポート』で上演される黒幕による犯行シーンの映像のような、どこか心霊的な恐怖を呼び覚ます仕掛けだ。

もちろん、実際にあった事件をこういった、ドキュメンタリーを完全に装うわけではないが、ドキュメンタリー風の劇映画として撮るような企画は、21世紀に入ってから大量にあるわけで、それそのものが新鮮な感覚だというわけではないのだが。実際にあったテロ事件の関係者を、散文的に提示してから、それをテロ事件に向かって結び付けていくような構成とあいまってひどく呪わしいものにしている。

そのうえで、FBIが主導して設置された捜査本部で、マーク・ウォルバーグ扮する主人公格の巡査部長が事件当時のことを思い出し、またボストンの人間として街の記憶を呼び起こしながら、犯人が事件現場までやってきた経路を想像するところなどをぶちこんでくるのだから興奮しないわけにはいかない。

そうやってマーク・ウォルバーグが再現する犯人の痕跡を、ケヴィン・ベーコン扮するFBI特別捜査官の指示のもと、スタッフたちは監視カメラの映像から探し出していく。ウォルバーグが「何時何分どこどこの場所」といえば、それをしっかり撮影している監視カメラの映像からそのとおり犯人が歩いてくるところを発見するのである。まるでトニー・スコット『デジャヴ』のようだ。

本作は散文的な挿話をたびたび入れることで、そして異なる立場の人々を独立して、時にユニットで登場させることによって、ボストンという街自体を立体的に浮かび上がらせていく作品だが、そういう意味でこの場面は象徴的であり、まるでボストンという街そのものが丸ごと記録媒体によって保存されているかのようだ。しかも記憶媒体は、監視カメラというデジタルなものと、人間の記憶というアナログなもののタッグによって形作られている。そのどちらが欠けても犯人は見つからなかった。

そのようにしてデジタルとアナログの双方から保存されているボストンの街は、そのまま実際の映像をまじえた劇映画としてボストンマラソン爆弾テロ事件を再構成するこの映画自体のモックのようであり、このことがポジティブに表出されれば終盤のような「我々はテロに屈しない」映像になるのだろうし、ネガティブに表出されれば前半のような禍々しい「テロ事件の再現」になる。部外者であるわたしとしては、どちらもすごく宗教的で、ひどく不安な気分になってしまった。よその地域の祭りにまちがって居合わせてしまったような、知らない人の結婚式や葬式に出てきてしまったような感覚になったのだ。

記憶というひどく曖昧なものが引き起こすトラウマのフラッシュバックと、それを即物的に保存してしまっているカメラによる映像と、その中間にあたるドキュメンタリー風の劇映画のカット。これらが合わさることの効果はなかなかに面白く、もっと先へと進めばさらに凄いことができるんじゃないかという気がしてくる。

そして、この映画で、あの監視カメラの映像に保存されたボストンマラソン爆弾テロ事件の総体は、なんというかとても不気味な存在だ。この映画ではたまたま映らなかったけど、そこにあったはずの膨大な映像が記憶が蓄積されていて、事件には直接関係なかったはずの散文的なできごとがすべてまるごと「ボストンマラソン爆弾テロ事件」というラベルによって結びつけられて封印されている。本来は無意味な断片でしかなかったものが爆弾テロによって、ひとつの文脈のなかで意味づけされてしまった。そういうイメージがまざまざと思い浮かんでくる。今でも適切な検索ワードさえあれば、そこから「ボストンマラソン爆弾テロ事件」という時間・空間をここに呼び覚ますことができるというイメージはとても心霊的でこわい。

携帯電話が没収されていくところも、より立体的に街が保存されていっている感じだ。

監視カメラの映像は通常そこまで長く保存されないけど(自分の知る例ではせいぜい2週間程度)、この事件の場合は、歴史的な史料として全部保存されているのだろうか。流石に全部というわけにはいかないんだろうけど。

市街地で行われる事実上の軍事作戦

ところで、後半も後半で、ボストン市街地を舞台にした、事実上の軍事作戦が行われるわけでこちらも盛り上がる。

戒厳令同然の命令が下されて無人になった市街地を、重武装の警察組織がぞろぞろと練り歩き、逃げ伸びた犯人を捕えようとして捜査をおこなう様子はとても物々しく造形されている。

中盤の銃撃戦は、テロ事件の犯人が爆弾を投げまくるせいで、ほとんど戦争さながら。しかも複数の組織が、即席で共同作戦を実行するので大変混乱している。そもそも射線が通っていない場面が多いけど、至近距離の撃ち合いでも全然当たらずに格闘になだれこんでいく。

この作戦でテロ事件を捜査する主体は、複数に分裂している。FBI、ボストン警察、さらに地元ウォータータウン警察がそれぞれ出張って、とりわけ前半はFBIと地元警察の対立がクローズアップされる。そもそも、マーク・ウォルバーグ扮する主人公(創作上の人物)からして、停職のために本来とは違う現場(ボストンマラソンゴール付近)の警備にあてられたという設定になっていて、「日常的な連携」というものができなくなっている。そのなかで、それぞれ立場の異なるものが、自分の身体に染みついた行動方針を露呈させていくような作劇だ。

マーク・ウォルバーグは、このように散文的な事態をひとまとまりのある劇映画として統括するために導入された視点であり、都合よく重要な場面に立ち会うことになる。そういった、つまりは ほとんどカメラそのもののような存在なので、人間としての身体性を与えるべきだと考えたのかもしれない。哀れマーク・ウォルバーグは、冒頭で足を負傷させられることになり、終始その足をひきずって走らせられるはめになった。

犯人の妻を見かけ次第警告せずに射殺していいという命令が出たりもするが、それがどこから出た命令なのかがわからない、もしかしたら大統領から出たのかもしれないと警察官が口にする場面もある。実際には、彼女は拘束されたあと、ボストン警察主導で、被疑者としての権利を認められないまま謎の中東人女性によって尋問される。この謎の中東人女性について説明がほとんどなされないため、アメリカ合衆国の得体のしれないところとして見終わったあとももんもんと心に残る。

最後になって、ボートの中に逃げ込んだ犯人を追い詰めるところでは、混乱はちょっと行き過ぎて喜劇的にさえなっているが(特殊部隊の脇には地元一筋の女性警察官がしっかり銃を握っていて、軍人じみた武装の隊員に「あんた誰」と聞くのだ)、犯人がちょっと動いただけでボートをハチの巣にするところなんて完全に殺る気マンマンであって、とてもこわい。訓練された軍隊のこわさだ。

実際には、誤認逮捕などもあって、捜査状況はこの映画に出てくる以上にきな臭いものだったらしいが、本作でもそのあたりは仄めかされている。一方で、終盤はひたすらに耳に心地のいいハッピーエンドとしてまとめていくし、マーク・ウォルバーグになにやら演説めいたこともさせるのだが、その過程でいろいろと喉に刺さるような不安な描写を残していっているので、全体としてはハッピーエンドという気分にはなれないところがある。というより、そういう風に意図して作っているのだろう。

それにしても市街戦ってやっぱいいですね。

その他

撮影にはあまり納得できないところが多かった。ファーストカットからすでに、中途半端に暗くて見づらい画面だったし、そのあとしばらくその微妙な光量の撮影がつづく。ピーター・バーグらしいと言えるかどうかはともかく、『ローン・サバイバー』でも散見されたレンズフレアはたくさんあった。

とはいえ、雑味が多くてもあまり問題にならないタイプの映画ではあるので、途中から、画面に対する関心はほとんどなくなった。

空撮カットは美しかったが、空撮が美しいのはむしろごく普通のことではないかと思える。

人間を引き離したり、再会させたりするだけで、喪失や再生を演出していく即物的な手腕には頼もしさを感じた。流石は『バトルシップ』の監督。