書いたもの一覧

1. 寄稿したもの

1.1. 小説

  • 「感情の楽譜」
      :clementia名義『伊藤計劃トリビュート』京大SF・幻想文学研究会(2011年)   
  • 「21センチュリー・ニュー・プロジェクト・フィラデルフィア」
      :『艦隊これくしょんトリビュート』京大SF・幻想文学研究会(2014年)

  • 「九百兆の孫娘」
      :R・A・ラファティトリビュート同人誌『つぎの岩』(2014年)

  • 「イルカと老人」
      :『カモガワGブックスVol.3 〈未来の文学〉完結記念号』カモガワ編集室(2023年)

  • 「格闘狂時代」
      :『Neverland, Neighborhood』大戸又編(2024年)

  • 「菌糸生物とダーラムの禁止制限告知」
      :『FUN-GUS』クラゲノキ(2025年)

  • 「認知症の吸血鬼」
      :『FUN-GUS Vol.2』クラゲノキ(2026年)


2. Webで公開したもの

2.1. 小説

2.2. 翻訳

  • ピーター・ワッツ「ゼロズ」(原題:”Zeros”)

後日談_短編「認知症の吸血鬼」について

エルフは長命種だ。 では長命種が認知症になったらどうなるのか。

ファンタジーにおけるエルフは数百年から数千年を生きるが、その長命さは基本的にポジティブな属性として扱われる。知恵、技術の蓄積、達観。しかし現実に何百年も生きる存在がいたとして、脳という器官が寿命に耐えられる保証はない。むしろ長命であるほど認知症のリスクは高くなる。そしてファンタジーの長命種は往々にして常人を超える戦闘能力を持っているので、その存在がボケて暴走したら手がつけられない。

つまり処理する制度と人員が必要になる。同族を狩る専門部隊が召集されるだろう。

このアイデアを『シグルイ』の虎眼先生になぞらえて「虎眼エルフ」と呼称していたネタツイートを、Twitterで見かけた気がするが、出元がどこだったのかが思い出せない。

今回、クラゲノキさんにお誘いただいて、『FUN-GUS vol.2』に寄稿する際になったとき、「吸血鬼テーマです」と言われて最初に連想したのがこの虎眼エルフだった。

吸血鬼でも同じことができる、と自分で思いついたときにはそれなりに面白いと思ったが、おそらく二番煎じではあるだろうと思った。

ただ、吸血鬼であることによる恩恵は少なくない。

日光で焼ける、再生する、不老である、という身体的な制約が最初からセットで付いてくるからだ。認知症の吸血鬼を殺すなら、どうやって殺すのか。再生能力があるから銃で撃っても死なない。日光に弱いなら、引きずり出して太陽光に晒せばいい。引きずり出すには銛を打ち込んで、ワイヤーで巻き上げればいい。捕鯨砲を積んだトラックで。(これもクリシェだとは思う)

ジャンルの制約が、アクションのセットピースを設計してくれる。こういうときに、設定は便利だ。

しかし認知症の同族を殺す吸血鬼の部隊、というところまではまだ真面目なSFやダークファンタジーとして処理できてしまう。それが嫌だった。

真面目に処理すると、アメリカっぽい馬鹿な活劇にするか、哲学的な話になる。不死の意味、意識の連続性、アイデンティティの崩壊。そういう方向に進むと、テーマが作品より偉くなる。そういうものが嫌いではないのだが、書く側としては得意ではないし、あまり日本の話らしくならないので、今回は違う方向性にした。

吸血鬼たちをしょぼいギャングスタにした。金ピカのロレックスと十八金のチェーンを身につけて、スコーピオンを肩から下げて、ショッピングモールの立体駐車場でカチコミの準備をしている四人組。元請けと下請けの関係を気にして、ビジネス用チャットツールの招待を受けて、エビデンスの融通を約束する。

このしょぼさが語りの声を決定づけた。元請け、下請け、発注書、エビデンス、バリュー。こうしたビジネス用語が口語の中に混ざることで、語り手のトーンが自動的に生成された。粗野なヤクザの口調と、やたら事務的な業界用語と、ときどき挿入される飛躍。この振幅が一人の声の中にあること。それがこの短編のスタイルになった。 (つまりそれが、わたしの好きなノワールの方法論なのだ)

合同誌の短編なので、分量は限られている。複雑なプロットを組む余裕はない。

だから語りのスタイルだけで押し切ろうと決めた。文体とビジュアルイメージの密度で最後まで読ませる、ということを最近やっていないので、やりたかったという動機もある。小賢しいテクニックを弄する余裕もないし、その必要もない。語りの声が確立されていれば、その声で最後まで読めてしまうものを書こうとした。(同時にこの短編の限界点もそこだ)

技術的に意識したのは、感情を説明しないことだった。キャラクターが何を感じているかを地の文で書かない。代わりに小道具を置き、行為を書くことにした。

もう一つ意識的に作りこんだのは、二人称への呼びかけの反復だ。「あんたたちは知りようもないことだが、ハイブから出る方法はない」を何度も繰り返す。これは呪文であり、リフレインであり、そして認知症の症状の模倣でもある。同じ話を何度もする。語り手自身がいずれそうなるかもしれないという恐怖が、語りの形式の中に埋め込まれている。これは計算して入れたというより、書いているうちに全体のデザインがそのようになった。 (ちなみに、二人称の呼びかけが読者への突き放しと同時に、その世界への帰属意識への現れで、読者にとって別世界への誘引であるというのはジャン・ジュネから得た発想だ)

しかし『FUN-GUS vol.1』で書いた話も、こういう閉塞感が強い短編で、二人組の関係の変節だったので、なんか同じ合同誌に載るやつって自分の中でも似通ったものになるんだなという学びがあった。手癖というか。

おそらく、悪い意味でも同人誌らしい作品になっているのだが、自分は結構好きだ。

↓なおこちらは一冊目。

booth.pm

マイケル・マン『フェラーリ』/死者と、署名と、現金と

以下ではマイケル・マンによる映画『フェラーリ』終盤の展開について触れています。同作は史実に基づく伝記映画であるため広く知られた史実であり、ネタバレとまでは言えないかもしれませんが、気になる方はブラウザバックをお願いします。

序文

マイケル・マンの映画『フェラーリ』(二〇二三年)に出演する二人の俳優、アダム・ドライバーと、ペネロペ・クルスはともに亡霊や死神を髣髴とさせる風貌でカメラに収まっている。白髪でサングラスをかけたアダム・ドライバーは、非人間的なほどにその長身を誇張されており、横長のフレームを忙しなく動き回っている。また、こけた頬と皺、目の隈を誇張されたペネロペ・クルスは魔女や幽鬼のようだ。

この二人は劇中で夫婦であり、高名な自動車メーカーであるフェラーリの共同経営者でもあり、フェラーリという家名を分け合う。

本作が題材にとったのは、エンツォ・フェラーリがその妻ラウラ・フェラーリと会社を興してから一〇年後の一年間、一九五七年の出来事である。

赤字経営が続いているフェラーリ社は、ル・マンでライバル企業のマセラティに惨敗したため、次なるレース、ミッレミリアに社運を賭けていた。一方、経営者のエンツォ・フェラーリは愛人との二重生活が妻に露見して、ビジネスと家庭生活の両方を危うくしていた。

そんな中で待ち受けるミッレミリア本番が、映画のクライマックスを形作ると、とりあえずは要約することができる。

対等な二人

マイケル・マンの映画ではよく、次のようなことが起きる。二人の人物の顔のクロースアップが対比されるように配置され、後頭部や肩越しにカメラが切り返され、やがてお互いの視線がぶつかりあう。

この二人の力量は釣り合っていなければならない。『ヒート』のロバート・デ・ニーロアル・パチーノのように。

そうではない場合。つまり釣り合いの取れない人物は、物語の脇へと追いやられる。『パブリック・エネミーズ』終盤のクリスチャン・ベールや、『コラテラル』のマーク・ラファロのように。

上映時期やタイトル、題材の類似から、あるいはどちらにもマイケル・マンが関与していることから『フォードvsフェラーリ』のような映画を期待して見始めた観客は、始まってしばらく、異様に暗いムードに気がつく。

朝帰りから帰宅したアダム・ドライバー扮するエンツォ・フェラーリを迎えるのは、鳴り響く電話と、拳銃を持った妻、ペネロペ・クルス扮するラウラ・フェラーリである。彼らの会話内容から、あるいは妻が夫に発砲してもなお、周囲の人間がさほど慌てていない様子からも、すでにこの二人の関係が破綻していることは明らかだ。

また、亡き息子の墓参りに行く二人が、それぞれ一人ずつ、墓を訪れては涙を流す様子に、そしてお互いにすれ違い、目も合わせない様子にうろたえるかもしれない。この映画はあまりに陰鬱過ぎないかと。

マイケル・マンの映画が概ねそうであるように、この映画にも病的なプロフェッショナルが出てくる。教会でミサに参加しながらも、まるでそれを意に介していないかのように、フェラーリ社の人間たちはストップウォッチを一斉に取り出し、離れた場所で計測されているマセラティ社のテスト走行のタイムを計測し始める。全員がそろって同じ行動をするのは、彼らが訓練されたチームであることを示している。それと同時に、その場所が職場ですらない教会であることが、彼らが病的な職業集団であることを誇張している。演出とは誇張することだからだ。

アダム・ドライバーは赤字に追われる経営者らしく常に動き回り、様々な人物に後ろから声をかけられる。あるときは「ミスター・フェラーリ」と。あるいは単に「社長(コメンダトーレ)」と呼ばれたりして、相手に振り返る。

ライバル社のマセラティに強化人材が入ったところで、フェラーリ社の現役ドライバーの一人が目の前で吹っ飛び、放物線を描いて画面外に消える。そこで自分を雇うよう営業に来ていたデ・ポルターゴという若いドライバーに、「月曜日に電話しろ」とだけ伝えるアダム・ドライバーの姿がある。

上映時間約三〇分が過ぎようとするところで、やがて観客も事態を把握し始める。レーサーも経営者も全力でリスクテイクし、ミッレミリアというイタリア全土を巡るレースに命を賭けていることが、飲み込めてくるのだ。

マイケル・マンも製作総指揮に署名している『フォードvsフェラーリ』は、タイトルに反し、実態としてはフォードの現場と経営の戦いを描いた映画だったが、この『フェラーリ』において争われているもの、争っているもの、ライバルとして等価に置かれているものは何なのか。

レーサーや、従業員たちではない。 彼らはレース場でアダム・ドライバーと横並びになって同じものを見ているか、社長に提案したりお伺いを立てるために背後や横から追いかけるように歩いてやってくる。

ライバルのマセラティですらない。 彼らはフェラーリと同じものを見ているがため横並びにカメラに収まり、そのまま会話を交わす。オペラ劇場で、ミッレミリアで。レースでは同じカラーの車体で観客にはあまりその区別がつかず、そもそもマセラティのドライバーは早期に棄権して運転席でフェラーリのドライバーと横並びになる。

そして愛人でもない。 彼女とアダム・ドライバーは横並びになり、あるいは共にベッドに寝ころび、実に多様な位置関係で配置されて芝居をする。そして、妻に二重生活が露見した後、真正面から対面するような場面でも、カメラは二人を同じ画角では切り返さない。

この映画で対等に扱われているのは、他ならないペネロペ・クルスアダム・ドライバーであり、フェラーリの名前を共有する夫婦である。本作のペネロペ・クルスアダム・ドライバーは常に、文字通りの意味で正面から相対する。

朝帰りの夫を脅迫の意味で撃つ場面から始まり、アダム・ドライバーが初めて株や工場の所有権を引き渡すよう取引を持ちかける場面においても、あるいは不倫関係が露見したあとの会話の場面でも、そしてミッレミリアの悲惨な事故の後の二度目の取引の場面でも、常に二人は正面から対面し、肩越しに切り返される(交互に現れるショットがそれぞれ等価であることから、二人が対等だと視覚的に示される)。あるいは、真正面から向き合っているところを真横から撮影される。

アダム・ドライバーは白髪で、ペネロペ・クルスは黒髪。二人の取引が始まる前には、ドアを閉められ、それが個室で行われていることが強調される。

ペネロペ・クルスが対面する相手はもう一人、銀行員だが、二人を収めるカメラの距離はやや遠く、バストショット気味で、明らかに対等ではない。銀行員は滑稽なほど間抜けで、ペネロペ・クルスに怯えていることが芝居として強調される。

フェラーリの署名

題名の通り、この映画のクライマックスは「フェラーリ」という名前そのものにある。

エンツォ・フェラーリの二重生活。二人の妻。ラルディとフェラーリ。愛人の息子に、どちらの姓を選ぶのか? 死んだ息子と、生きている息子。愛人との間にできたピエロという子供を認知するかどうかに、映画の焦点がかかっていく。

かなり意図的に、署名行為をカメラに映す映画でもある。最も印象的なのは、銀行でのペネロペ・クルスの攻撃的な署名行為だ。単にインクの出が悪いのか、あるいは虫の居所が悪いのか、ペンをデスクに叩きつける音が響き渡り、銀行員が怯える。

あるいは、愛人との二重生活が露見したあと、ペネロペ・クルスとの取引に合意し、小切手にサインするアダム・ドライバーだ。「これに命が掛かっている」という言葉が添えられる。

そしてミッレミリアの本番レース前夜、ホテルの室内で地図を読み返し、家族や恋人への手紙を描くレーサーたちだ。

この映画では字義通り、署名行為に命が掛かっている。命を懸けるという感情・覚悟をどのように視覚化するかを検討した上で、この映画は署名するという行為を選んだようだ。

命を惜しんでブレーキを踏んだデ・ポルターゴを叱責し、エンツォ・フェラーリはこう言う。「同じ物体が同時に、一つの空間を占めることはない」、「死ぬことを恐れるな」と。

夜、ミッレミリアの出走直前、息子のピエロからねだられたサインを、新入りのデ・ポルターゴに頼むアダム・ドライバーの姿がある。デ・ポルターゴはその綴りを尋ね、ドライバーは一文字ずつスペルアウトして声に出す。P・I・E・R・Oと。そのとき不自然なほどカメラはアダム・ドライバーに近づき、そのサングラスをかけた顔を大写しにする。

そういえば、デ・ポルターゴの名前も呼ばれていたことを思い出す。銀行で新入りドライバーに振り込むため、ペネロペ・クルスは銀行員にその姓の綴りを一文字ずつ区切って口に出していた。スペルアウトして、D・E・P・O・R・T・A・G・Oと。

二回繰り返される自動車事故、二回あるフェラーリ夫妻のディール、二回繰り返される、名前の綴りをスペルアウトして口に出す行為。同じものが同時に一つの場所を占めることはできない、という説教。それは決してレースの行く末のことだけを暗示したものではない。デ・ポルターゴが、相手を抜き去れるかどうかだけを示したものではない。そうではなくむしろ、「FERRARI」という家名を冠することのできる息子は、同時に一人しかありえない、ということを示している。ここにも命は掛かっているのだ。

そして、スペルアウトこそしないが、この映画の中で一番重要なファミリーネーム「FERRARI」をペネロペ・クルスが口にして映画はクライマックスを迎える。

出来損ないのCGのようにも見える自動車事故の場面は、単に、巨大な金属が高速で吹っ飛べば、あるいは吹っ飛んでくれば、巻き込まれた人体がどのようになるのかを表現しているだけだ、と私は思う。その運動エネルギーの大きさを即物的に示しているだけのように見える。

なにせこの映画のレースを再現するカメラは、スポーツ競争というよりも、ふとした拍子に金属の物体がコースアウトしていく瞬間を目撃しようとしているだけに見えるからだ。

そしてクライマックスのフェラーリ夫妻のディールで示されているように、この映画では、事故の責任を回避できるかどうかは現金で買える。また「FERRARI」という名前が占めるスペースも現金で買えるのだ。それもまた即物的な話ではないだろうか。

久々にこんなに酷薄な映画を見たが、傑作だと思った。

2025年25週0623_モチベーション無く過ごす日々

Impression

  • ジークアクスが最終回を迎える。
  • ゆったりとした1週間

ジークアクス最終回

  • 全12話しかないことの無理が出た回で、情報過密の大混雑回だった。
  • とにかく決着をつけることが多すぎて、すべてのキャラクターがプロットに奉仕しないといけない。そういう息苦しさはあったものの、この世界のララァが報われたり、シャリア・ブルの本意が明らかになったりと、色々と収穫もあった。
  • アメコミのマルチバースコラボに慣れている身なのと、そもそもガンダムのファンではない(最近『水星の魔女』と『閃光のハサウェイ』を見たレベル)ので、毎週のお祭り感をあまり真剣にならずに楽しめたのかなと思った。あまり『フリクリ』の幻影を投じなかったのも、よかったのか、悪かったのか。
  • それでもやはり、魅力的な企画だと思うので2クールが欲しい。

最近の活動

  • モチベーション
    • ありとあらゆる分野のモチベーションが不足していて、淡々とタスクをこなしている日々が続いている。ストイックになることがない。
    • ただそれがネガティブなわけではなく、自分を追い込むこともないので心穏やかだ。別にやらなくてもいい、と考えておくことでバランスをとっている。
  • 山ビル
    • 知人が山ビルにかまれたという話を聞いて、つい山に生息する建造物(ビル)を連想してしまった。血を吸うヒルではなく。
    • きっと川には川ビルが、海には海ビルがいるだろう。
  • MTG一般
    • FFコラボが始まっていたので、MTGアリーナを起動してジャンプインを楽しんだりしていた。月末だけどランク戦にも、FFのリミテッドにもあまりモチベーションが湧かず、スタンダードでグルール昂揚やゴルガリ切削を回していた。
    • (ジャンプインとは、スターターパックを2つ開けて、組み合わせてデッキを作り、それで対戦するイベントのこと。どうしても弱い色ができてしまう)
  • ゴルガリ切削
    • 墓地のパーマネント(多くの場合はクリーチャー)の数を参照して、その分だけコストが軽くなる大型生物を連打することを勝ち筋にした墓地利用デッキである。コスト軽減生物と《豆の木をのぼれ》の相性がよいので、十分に墓地が肥えたあとは、1マナ6/6接死・威迫、1マナ4/2飛行ETB1ハンデス(条件付1ドロー)といった破格の性能のクリーチャーを連打しながら、カードも引きまくって勝つ。豆の木のドローで手札がパンパンになって、ディスカードする場面も多い。
    • その性質上、フェアデッキとのメイン戦については異常に強く、アグロに轢かれない限りは、中盤から大きなリソース差をつけて勝利できる。サイド後は置物対策ができるクリーチャーたちを投入して、相手の墓地対策を咎めようというプランに移行する。
    • FFコラボからは、《ダイヤウェポン》と《町の歓迎者》という強化パーツを貰ったが、そもそも一定の強さのあるデッキなのでそれらを引かなくても十分勝てる。トップTierの赤単やイゼット果敢に比べれば、プレイングも簡単な部類だと思う。安いし、強いし、使いやすいので初心者にも薦めやすい。(ただし紙だと《ベイルマークの大主》が高額なので、そこが悩みどころか)

2024年12月20日のMTGアリーナ対戦ログ

 

## BO1スタンダード(シルバー帯Tier1)
- 赤白アグロ ○(先攻)
初手が良かった。白含む土地2枚、バウンス、リア二呪文、航路の作成、第三の道の創設、眼魔という完璧な7枚キープ。

1T目、諜報ランドをタップインしてエンド。相手は《山》から《多様な鼠》。明らかに赤系アグロである。

2T目、《第三の道の創設》から《航路の作成》をプレイし、手から眼魔を捨てる。相手は《平地》セットから二段攻撃で殴られる。覚悟していた熊パンチが無くてよかった。

3T目、《再稼働》で眼魔をリアニメイトしたが、相手のアップキープに《望まれぬ改作》を撃たれる。1マナ除去とはいえアド損する、珍しいカードに驚きながらも、《送還》は唱えずにスルー。手札にリアニ呪文があったので、相手のクリーチャーに撃った方が強いと判断した。実際、相手はメインで《巨怪な怒り》を使ってくれた。非常に強いカードだが、メインで唱えるなら怖くない。温存した《送還》で《多様な鼠》をバウンスして危なげなく対処。

4 - 5T目、記憶はあいまいだが、2枚目の《第三の道の創設》から2枚目の《再稼働》を唱えて、先程除去された眼魔が再び戦場に復帰。確か相手は出し直した鼠に飛行エンチャントをつけたりしていたような記憶。こちらはアップキープに《第三の道の創設》の3章誘発で墓地の《送還》を使いまわしてオーラつき《多様な鼠》を手札に戻す。この時点でお相手、打つ手なしになったのか投了。

とにかく欲しいカードがすべて揃った完璧に近い初手で、テンポとアドを取り切って勝利。正直、2T目に《航路の作成》から眼魔を捨てたら、その時点で投了する相手がいるくらいなので今回はオーバーキル気味。BO1だと墓地対策をメインに取っていない限り、対処不能なブン回りが実現する。

また、テンポ面では《第三の道の創設》の強力さも実感する試合だった。このカードのおかげで、ナチュラルに序盤から2アクションを取れる。

こっちがブン回っていて恐縮だが、相手は第1メインでパンプ呪文を唱えたり、こっちの島が立っているのにバウンスを警戒せずに平気でフルタップで動いてくるので対処がしやすかった印象。単に眼魔が見えたからリスクを取って攻めてきただけかもしれないが、だとしてもせめてパンプ呪文はコンバット中に使うようにするだけで、こちらが《送還》を撃ちづらくなるので。

強い人の使うボロスオーラは基本的にフルタップで動かずに土地を立てておいて、こちらに《破片魔導師の救出》などをケアさせてくるので、今回のように安心して《送還》を切ることができない。

隙間時間にしかできないのでBO3は手が出しにくいし、回数がこなせなくてランクも遅々として進まないが、シルバー帯は普通に一定の強度のデッキを握って淡々とこなしていれば抜けれそうな印象だ。

自分のアゾリウス眼魔は妨害札を多く取らないリストで(《送還》4枚と《失せろ》2枚だけ)、追放除去には弱い上に、もたもたしている間に赤単に殴り殺されることもあるので、安定はしない。2色土地を妥協しているので、白マナが一生出なくて終わることもある。黒系コントロールに《死人に口無し》でジンと眼魔を全部抜かれて投了することもある。実際、ゴルガリミッドレンジを使う方が勝率は高い。

とはいえ、BO1では対処されづらく、格上を粉砕することもできる。カラー的に小テクを使って細かく戦うのも得意で、2体目のフィニッシャーは《傲慢なジン》なので突然リーサルを出せるときもある。かなり独特な動き方をする上に、ブン回ると理不尽なテンポで勝ち切れるので気晴らしに回すのが楽しい。

最近やってるMTGアリーナの話

  • 10月くらいからMTGアリーナで遊んでいる。世界最古のTCGとして有名な、マジック・ザ・ギャザリング(以下、MTGと表記)のデジタルゲーム版である。紙では主に社交的な側面の強いカジュアルEDHをやっているので、MTGの競技的な側面はアリーナで楽しむことにしている。
  • 基本的にはBO1(一本先取)のスタンダードのランク戦ラダーか、楽しそうな環境ならドラフトと呼ばれるパックを剥いて出てきたカードで戦う限定構築で遊んでいる(ドラフトは遊ぶのにゲーム内資産か課金が必要なので勝ち続けないと破産する)。BO3は長丁場になるので、家庭・仕事の環境的に非常に遊びづらい。よってBO1が主戦場になる。
  • メインデッキは紙でも所有しているゴルガリミッドレンジだが、ゲーム内のカード資産が無いためかなり妥協したリストになっている。
    • 例えば、《鞘破りの群れ》を《最深の裏切り、アクロゾズ》枠で採用しているし、2色土地は大したメリットも与えてくれないのにタップインする土地ばかりだ。
    • ミッドレンジの背骨になる3マナ域も、《グリッサ・サンスレイヤー》など採用率の高い面子を最初は2枚ずつしか持っていないという低予算デッキだった。(もっとも最近は少しずつ増量して、採用数の調整ができるようになってきた)
    • MTGアリーナはワイルドカードというゲーム内資産を、それに相当するレアリティのどんなカードとも交換できる仕組みになっている。つまりゲーム内の価値の差はレアリティ以外に無いので、紙では1万円以上の価格差がある同一レアリティのカードが、アリーナでは同一価値で扱われる。
    • よって《黙示録、シェオルドレッド》のような紙だと1万円紙幣同然のカードも少数採用ならデッキに組み込みやすい一方で、安い神話レアや、数百円のレアカードを集めて作ったデッキがむしろ作りづらくなっている。
    • レア土地を集めるのが一番大変なのは紙と同じ。
  • 妥協した上に旧型のリストであっても、(BO3では)Tier1に位置するデッキだけあって、ブロンズ帯やシルバー帯などの低ランク帯では、8~9割近い勝率が叩き出せる。あとは数がこなせるかどうかだけ。牧歌的なオリジナルデッキに無言でマジレスして、粉砕する強さがある。
  • 1割の負けは、版図ランプや白単コントロールのようなゴルガリが苦手とするデッキがフルスペックで向かってきたパターンや、明確なプレイミス、手札・土地事故によるものである)。もちろん赤単が最適解でぶん回った場合も負ける。当たり前の話。
  • 気分転換に最近は「アゾリウス眼魔」も回しているが、不慣れなのと、コンボっぽい動きに慣れなくて勝率が安定しない。BO1ではかなり理不尽寄りのデッキのはずだが、使い手である自分が《傲慢なジン》のリーサルを見逃して負けたりする。性格的に丸いデッキ(ミッドレンジとか)が好きなんだと思う。
  • コンボデッキを握っている人に、「ミッドレンジって必殺技が無いけど、どうやって勝つの?」と尋ねられたことがある。もちろん中には必殺技(コンボ)を搭載したミッドレンジも存在するが、そうではない場合、相手に得意なことをさせない&相手の得意なゲームレンジで戦わないことによって勝つことになる(と自分は理解している)。そもそもサイドボーディング含めたBO3で強いアーキタイプなので、BO1で回すなよという意見もあるかも。
  • ロングゲームが得意なランプやコントロールに対しては、自分がアグロだと思ってプレイするし、最短勝利を狙ってくるアグロに対しては自分がコントロールやランプだと思ってプレイする。BO3ならサイドボーディングで相手に合わせてデッキ自体を修正し、よりゲームレンジをシフトしやすくなる。
  • こういった基本的なミッドレンジの特性、および自分の性格を踏まえると、最近流行っている《不浄な別室+祭儀室》&《ドロスの魔神》採用型の黒系ミッドレンジが自分好みではないのが何となくわかってくる。
  • 《不浄な別室+祭儀室》は確かに強力なアドバンテージ源だが、デッキ全体に重いカードが増えてくるため上述したアグロ戦略へシフトしづらくなる。というか事実上できなくなる。ゲームレンジを後ろ倒しにはできるが、前倒しはできないデブ・ミッドレンジになるのである。
  • おまけにミラーだと先に《不浄な別室+祭儀室》を引いたほうが有利になる。そういうゲーム展開になりやすいのだが、それは自分のしたいゲームではない。
  • 自分がミッドレンジを使う理由には、単に無難なデッキを握りたいという性格的な側面とは別に、相手との対話をしたいという欲望も含んでいる(と分析している)。
  • 当然、オリジナルデッキに対して、デッキパワーを押し付けて勝つことも多いが、基本的には相手の出方を見てから自分の戦略を柔軟に変えて動きたいし、毎回異なる体験をしたいわけだ。アグロを綺麗に捌いて蓋をするのも愉快だし、ミッドレンジにリソース勝負や刺し合いで競り勝つのも刺激的だし、コントロールが動き出す前に殴り殺すのも楽しい。不利対面のランプも、たまに相手がドローソースを置きすぎてLOしたり(豆の木を3枚置くと結構LOする)シェオルを除去できなくて殺されたりする様子も拝めるし、ヴェリアナで手札を締め上げて殴り倒すこともできるので悪くはない。負ける場合も、(必ずしも楽しくないかもしれないが)同様である。
  • 新カードだとむしろ《止められぬ斬鬼》は気に入っている。こいつは3マナながら、「ダメージが通ると相手のライフを半減させる」というダメージレースを一気にこちらに傾ける能力を持っている。そのため、ゲームレンジを飛躍的に前に倒すことが可能で、アグロ戦略への適性があるのだ。これは他のゴルガリの3マナ域にはできない仕事である。そのうえ、追放されない限りは墓地から一度戻ってくるので、対戦相手からすればアド損せずに対処するのが難しい。
    • もっとも、環境に追放除去が増えてきたから、普通に1:1交換されることも少なくない。現在のスタンダードは追放したいクリーチャーが多すぎるため、追放除去が日夜飛び交う殺意の高い環境だ。時の流れは残酷で、いくら破壊されても戻ってくるとはいえ、もはや5マナの《最深の裏切り、アクロゾズ》が存在できないほどクリーチャーが気軽に追放される環境なのである。
    • わたしは今日、妥協の1枚である《鞘破りの群れ》を抜いて、代わりに《分派の説教者》を1枚だけ足してデッキを微修正した。神話ワイルドカードをアクロゾズと交換することは、当面無いと思う。

2024年19週0506_ラウンドロビン読書法


Impression

目標の進捗管理

  • 22冊の本を読む(その半分は技術書)
    • 9冊読了。40.9%
    • 新規読了
      • 『ゾンビ最強完全ガイド』
        • この見た目でカルスタ本なのが意外過ぎる。初期のヴードゥーゾンビや、ハイチの植民地化、アメリカのパルプ雑誌におけるゾンビの扱いといった、前ロメロ・ゾンビにも言及しつつ、現代ゾンビまでの歴史を総なめする。
        • 関心に近いところにあったので面白く読めたけど、フーコーアドルノを引用するタイプのカルスタ本の、牽強付会や、大げさすぎる社会批評が少し気になった。
      • 『ギャンブラーが多すぎる』 ドナルド・ウェストレイク
        • 新潮文庫からウエストレイクが出ていたので思わず買ってしまったもの。いい意味で読んだあとに何も残らない、二時間のハリウッド娯楽映画のような小説。事態が一切把握できないまま、二つの犯罪組織の双方から疑われて騒動に巻き込まれていく様が楽しい。素人探偵の巻き込まれもの。ヒロインが可愛い。
  • 22本の映画を見る
    • 7本見た。31.8%
  • 禁酒100日
    • 休肝日を43日作りました。ハイペースで達成できている。

最近の活動

  • 島田荘司占星術殺人事件 を電子版で、 『斜め屋敷の犯罪』 を物理書籍でそれぞれ購入した。いまさら読むのかよ、というラインナップだが、何か買うものが無いかと物欲しげに書店を徘徊して、唯一興味をそそられたので買った。ミステリは苦手なので、こういう有名な作品を当然のように読んでいない。
  • そのほかにハイスミス 太陽がいっぱい や、ミルハウザー エドウィン・マルハウス』、トマス・オルディ・フーヴェルト 『魔女の棲む町』 など読み止しの本に事欠かない。 どうするつもりなんだよ。
  • とよ田みのる 『これ描いて死ね』 の既刊を全部読んだ。
    • 学生たちがのびのびと漫画を描く幸福な世界を活写する一方で、実際の作品のコアはどす黒いものでできている。つまり、連載漫画家として一度商業に載せて、地獄を見ることになった学校の先生が核になっていて、それを反射するように学生たちのきらきらした日常があるという構成。
    • 多分、先生の話が無ければ学生たちの話はどこか嘘くさいものになったのかもしれない。