2023-03-26 22:36:35

Diary

  • フレデリック・ワイズマンの『コメディ・フランセーズ 演じられた愛』を25分くらい見た。
    • 冒頭、屋外の風景。やがてカメラは屋内へ移る。胸像を捉えた固定ショットが2、3秒のリズムで何枚も切り替わっていく。音楽的な編集。カットが変わるごとに胸像も変わる。変わっていくうちに、まるで無機物にこちらを見られているような嫌な感覚が醸成される。この一連の流れはいつもの通りで(『ナショナル・ギャラリー』とか)、あーワイズマンの映画が始まったと感じられる。
    • そこから、演劇の舞台上にある胸像にカットが移り、そこに何やら俳優?たちが勢ぞろいし、順番に何かセリフのようなものを口にする。
  • 本作はフランスの国立劇団「コメディ・フランセーズ」を被写体に選んだ、フレデリック・ワイズマンの90年代の作品だ。
    • 演劇の練習風景。演技中の俳優たちにクローズアップするカメラ。俳優たちはどれも演技をしているし、カメラはその顔に寄っているので、一見フィクションの画面のようにも見える。というか、劇映画とドキュメンタリー映画を区別するものは、少なくともその瞬間、その画面には存在していない。
    • 途中で監督?の声がかかって演技が中断され、コメントがいくつかとび、また演技が再開される。演技が中断するとカメラが引くところなども含め、いかにもメタフィクションの一場面といった感じの始まり方だった。劇団のドキュメンタリーなので、自然とメタフィクションのようになってしまう。
    • そこからいつもの通り、組織の雑務をこなすスタッフワークにカメラは移っていく。掃除機をかけるスタッフ。電話をとり「コメディ・フランセーズ」と答える女性。縫製を担当するスタッフたち。小道具、大道具係。
  • 最近なんとか我慢をして『ブラック・フォン』を見ていたのがウソのように時間が過ぎていった。
  • 知人に薦められた『インディアナ州モロンヴィア』が見たいが、見る方法がどうもない。

生産性向上という名の奢侈

  • デスクツアーというものがある。自室のデスク環境を静止画や動画で撮影したもので、そこに音声や文字での解説が加えられる(YouTube動画やブログ記事であったりする)そして、しばしば使われている製品の紹介がついている。
  • デスクといっても現代社会なので実質的にはそのままPC周りの環境を指していることが多い。中央にはウルトラワイドモニターがあり(モニターアームに掴まれている)、示し合わせたように電動昇降デスクがあり、HHKBなどのメカニカルキーボードが中央に鎮座する。
  • 勘違いを避けるために付言すると、自分はこういった記事や動画が好きだ。よく見るし、参考にして商品を買うことがある。
  • 自分自身、インテリアや文房具、ガジェットの類を見るのが好きだし、そもそも本好きとして書斎を整えることについて愛着があるわけだが、こういった記事や動画(の特定ジャンル)には奇妙な共通点がある。それは「生産性向上」が謳い文句として出てくることが多いことだ。
  • なるほど確かにガジェットに投資することで生産性が向上することはある。
  • 例えば、PCについては厳然たるスペックの壁があって、そもそも一種の作業をできるか、できないかがスペックで決まる。3Dゲームをしたいなら相応のグラボを積む必要がある。
  • 3DCG制作をするなら更なるスペックが要求される。ソフトウェアエンジニアやデザイナーが使うPCなら、一定の要求スペックというものがある。
  • もちろん、そういった仕事や用途が直近の予定になくとも、(一般に)PCは頻繁に買い替えるものではないのでスペックは高いに越したことない。気が向いたときに新作のゲームがPCでできるとか、機械学習をいっちょ試してみるとか、といった予定の変更に対応できる汎用性を持たせておくことは大切だ。少なくとも後悔することが少ない。
  • モニターの大きさも致命的なほど作業効率に直結するし、デスクの奥行きや横幅は他のすべてに影響するため妥協することはできない。また毎月仕事・プライベートで数万字を書く人間にとってノートPCのキーボードをそのまま使うのは耐え難いだろう。そして単純に、マウスの親指ボタンでブラウザバックできないと耐えられない体に自分はなってしまった。
  • だがそのために数万円するキーボードや、1万円以上するマウスが必要なのか? こういったことを考え始めると際限がない。
    • 私見では、メカニカルキーボードで本当に世界が変わるのは1-2万円の世界で、ほとんどの場合は1万円と少しを出せばあとは趣味の世界になる(静電容量無接点方式、分割キーボード、いずれも単に作業効率のことを考えている人に必要だろうか)。
  • 「生産性向上」と言いつつ、商品の見た目に言及するケースがある。確かに所有感の有無や、「見た目で気分がアガる」ことを否定するものではないが、そういうことを言うなら必ずしも「生産性」をお題目に据える必要はないのでは。


  • 自分自身そういうものが好きなので、以下のように言い聞かせている。
    • 「生産性向上」の効果測定をすることは難しい。
    • 「生産性」ではなく自己満足、顕示的な目的での消費だと割り切った方がいい。
    • 奢侈だと自嘲せよ。
    • 仕事は生産性よりもアウトプット(結果)で評価すべきだ。
  • 使っているのがお金で、プライベートの話に留まるなら何も言うべきではないのかもしれない。そういう意味ではデスクツアー的な動画に言うことは何もない。
  • しかし、それが思想やノウハウ、一種のツールで、自分の仕事や考え方に影響しているなら、評価はシビアに結果で測られるべきだと言い聞かせるほうがいいだろう。

2023-01-19 23:14:46

Diary

  • 最近見た映画とか
    • スティーブン・ソダーバーグKIMI サイバー・トラップ』 という映画を見た。
    • SiriやAlexaのような音声アシスタントのソフトウェアの補正作業(ソフトウェアが上手く聞き取れなかった音声記録を聞いて補正する)を生業にしている女性が、仕事中に女性が暴行されている場面ではないかと疑われる音声データを発見してしまったことから、命を狙われるようになるというサスペンス映画だ。
    • コロナ禍とか#MeTooとか、時事的なトピックは散りばめられているんだけど、基本的にサスペンス映画一本槍なので、余計なことを何もしておらず最後までハラハラドキドキするだけで終わる。この潔さというかストイックさがとてもかっこいい。
    • 一見して明らかなのはヒッチコック『裏窓』の現代版であることで、そういう意味でも上手くできていた。ノッポとチビの組み合わせ、その身長差だけで「殺し屋」であることを示すB級的な簡素さ、胡散臭いブロンドの女がやたらと出てくるところ(ヒッチコックだ)、恐ろしい手段で主人公を追い詰めるも実家暮らしであることが明らかなスーパーハッカーの描写や、間抜けなのか恐ろしいのかわからない暗殺者組織の緩慢な振る舞いなど見どころがたくさんある。
    • 暗殺チームのリーダー格がジェームズ・スチュアートに似ている気がする。
  • デジタルノー
    • Joplinを使い始めた。Dropboxを使った同期ができるので、複数デバイスでメモを取りたい場合にはこれが有用そうだ。日記はこれで書いていいかも。
    • 内部リンクの貼り方は非常に面倒くさい。これはWiki形式でノートを取りたい場合、致命的な欠陥のように思える。
    • よって知識をまとめるのはObsidian、日記やいつでも参照したい知識はJoplin?
    • と思ったら一応、Quick linksとかAutomatic Backlinks to note というプラグインがあるので、エクスポートすることを考えなければJoplinでも似たような使い方はできるが、、、
  • 映画感想を書く

アバディーンについて

アバディーンという都市がある。スコットランドの北東、海沿いにあって冬はほとんど日が昇らない。

僕はかつてそこに住んでいた。小学生に上がるか否かという時期のこと、しかし正確にいつから住んでいて、いつ日本に戻ってきたのか覚えているわけではない、その程度のあいまいな期間そこに腰を据えていた。


いわゆるイギリスである。スコットランドである。とはいえ、そこはエディンバラグラスゴーではないので、日本人のほとんどはその名前を知らない。そもそもイギリスではなくスコットランドと呼ぶべき国があることが知られていないかもしれない。


ただし、ジェイムズ・エルロイブラック・ダリア』を読んだことがある人なら、あの小説の内側を流れている邪悪な魂のひとつがスコットランドアバディーンに由来していることを覚えているかもしれない。


作中での〈アバディーン〉という地名に対する書きぶりは、例えばこうだ。

ジョージィは映画に心を奪われていた、ニッケルオデオンの映画をこよなく愛していた。戦争が終わってアバディーンに復員すると、いまさらながらその町の死んだような活気のなさをまのあたりにして、カリフォルニアに行こうとジョージィはわたしを口説いた――サイレント映画の仕事をやりたいと言うんだ。ついては、わたしが一緒に行って舵を取ってやらんことには、彼一人では手も足も出ない、で、わたしはアバディーンの町を見渡し、そこには最低の人生しかないことを見定めて、ジョージィに言ったわけだよ。『そうだ、ジョージィ、めざすはカリフォルニアだ。おれたちは金持になれるかもしれない。それに、もしなれなくても、一年じゅう陽光さんさんたる地でくたばるのなら本望じゃないか』 ジェイムズ・エルロイ.ブラック・ダリア(文春文庫)(p.231).文藝春秋.Kindle版.

一読してわかるように、あまり好意的な評ではない。というかむしろ”最低”だと明言されている。アバディーン生まれの人間にしか許されないようなレベルの貶め方だ。あたかもアバディーンではなく、せめてエディンバラにさえ生まれていればこのような人生を送っていなかったのに、とでも言わんばかりの書きぶりである。 確かにそこは薄暗く、灰色の石でできた建物が有名で、冬は6時間しか太陽が地平線より上に出ない港湾都市だった。住民の趣味は散歩しか無いかもしれず、ひどい寒さで妹が中耳炎になった記憶さえある。


ハロウィーンには仮装をした、(当時の自分より年上の)少年たちが玄関口に現れてこう言う。「トリック・オア・トリート」。クリスマスには七面鳥をオーブンで丸焼きにし、クリスマスカードが暖炉のすぐ傍でディスプレイされている。テレビでサッカー、ワールドカップの予選を点けると、そこにはスコットランドが敗退する場面が映っている。ネス湖は海竜がいるはずもない小さな池のようなもので、半壊の古城が何か言いたげに残っているだけだ。そこで買ったネッシーのぬいぐるみを抱いて寝ながら、暗くなった部屋のどこかにいる幽霊に怯えていた。


そこはいわば記憶にかすかに残った異国の風景であり、第二の故郷、別の人生、ある一つの原風景だといえる。


スコットランドは古城が有名なので、ある古城の一室をツアーガイドに案内される様子がホームビデオの切れ端のように、脳内にこびりついている。そこがいつ、どこの記憶で、前後の脈絡がどうだったのか何も残ってはいない。


そこで自分は学校に通っており、弁当にポテトチップスを持ってくることがそれほど珍しくないということに驚いていた記憶がある。一方、給食ではぞっとするほどまずいゼリーを食べさせられた。


もはや断片的な記憶でしかないものを小説に、例えばホラーに生かせないかと思うクリスマスの夜だった。

アラン・ムーア『Providence』#3 “A Lurking Fear"

  • アラン・ムーアプロビデンス』の日本語訳が出たので、かつて原書で読んで2話までレビューしたあと放置していたことを思い出した。

  • プロビデンス』は本編の漫画パートが終わった後に主人公が心情を吐露する日記パートや、何らかの資料の断片が各話ごとにあって、その多くが筆記体の英語で書かれているという難点があった。

  • 原書で読んだときにこの筆記体のパートを読むのが辛くて、読んだはいいものの中途半端な形でしか理解できなかったので感想ブログも続かなかったわけである。

  • もともとアメコミの大文字オンリーの英文すら読みづらいと感じていたのに(読みづらくないですか?)、筆記体パートの読解まで必要になってしまいちょっと心が折れてしまった。情けない話である。

  • 今回は筆記体パートが日本語に訳されていると言うことで、当初よりも内容をよく理解することができた。

  • さらに主人公の日記では、漫画パートでは明らかにされていない本音や省略された出来事について書かれていることが分かり、漫画パートだけで読み切ろうとしていた当時なぜ苦戦したのかがよくわかったのである。
  • 実際には、各話の間には(主人公が会社を辞めるなどの)重要な事実が省略されており、漫画パートではそれらに断片的・間接的にしか触れられていなかったし、また取材パートでは相手に失礼にならないよう当たり障りのないことを口にしていた主人公が、実は内心では様々な本音を隠していたことがこの日記パートでわかるのだ。

  • 3話タイトルは「潜み棲む恐怖(原題:A LURKING FEAR)」。一話は「冷気」、2話は「レッド・フックの恐怖」がそれぞれ元ネタだけど、3話は「インスマウスの影」が元ネタになる。なのにタイトルは「潜み棲む恐怖」。確かにあれも地下室が出てくるし、人類の退化というモチーフで「インスマウスの影」と響きあっているとは言えそうだけど。

  • ただ元ネタの方は"THE LURKING FEAR"なので、『プロビデンス』では定冠詞ではなくなっている、という違いがある。

  • 「冷気」も「レッド・フックの恐怖」もラヴクラフトの中では比較的マイナーな作品なので(少なくともラヴクラフト未読の人にとって有名なタイトルではない)、著名な「インスマウスの影」を元ネタにした本作からようやくラヴクラフトっぽいと感じる人もいるのかもしれない。

  • 魚面の人々が住んでいる地域に、主人公であるロバート・ブラックが取材のためにやってくるという話。宿泊するホテルの受付で名乗る際、管理人から、実は綴りを聞き間違えてロバート・ブロックだと思っていたというセリフが出てくるんだけど、1話の感想でも触れたようにラヴクラフトにはロバート・ブロックという知り合いがいて、その名前を引っ掛けてますよというくすぐりみたいなものだろうか。

  • 前回第2話でロバート・ブラックは、サイダムの家の地下に降りたものの、そこでガス漏れが起きていたので昏倒してしまいサイダムらに発見されるという顛末を迎えた。その気絶している間に見た夢として、サイダムの家の地下には巨大な洞窟空間あって、ブラックはそこでリリスという女の悪魔に追いかけられた、という現実認識してるわけだ。(しかし読者にとっては、最後のコマで顔を獣に爪で引き裂かれたような古傷のある人物の顔が大写しになり、それがリリスによる傷ではないかという疑いを投げかけられている)

  • 今回ブラックは覚醒した状態で地下を見に行き、そこにはサイダムの家でみた悪夢に出てきたものとそっくりの地下空間があるわけで、いよいよ夢だと思っていたものが現実化していくという段階に入る。ホラー展開の階梯を上がり、理性的な誤魔化しが効きづらくなってくるのだ。

  • そしてホテルに帰ったブラックが見る夢には、本作よりも未来の時点で起きる悲劇、つまりナチスドイツによるユダヤ人虐殺を示唆するイメージが明確に書きこまれている。(鍵十字のマーク、2話のガス漏れ、ブラックがユダヤ人であること、同性愛者であることなども繋がってくる)

  • 様々な人物を順番に訪ね歩き、次第にそれらの間にある繋がりが見えてくるというあたり、基本的に本作は探偵小説の構造を取っている。ただし、その繋がり・陰謀自体が、西洋の近代的理性には統合し切れない地下水脈的な思想・文化の束であり、このあたりは『フロム・ヘル』などと同様の趣向を思わせる。

  • 一方で、(1)ブラックの見る幻視(未来の予見)、(2)ラヴクラフト世界でみられる不気味な出来事がブラックとすれ違っていく、という要素も同時並行的に語られる。

日記 『ミッドナイト・ファミリー』など

昨晩見た映画

  • 昨日はAmazon Primeで映画を見た。『ミッドナイト・ファミリー』(ルーク・ローレンツェン)。メキシコシティには公営の救急車が足りてないので、闇営業の救急車がたくさんあるという社会問題を背景に、その闇営業救急車を運営している家族にスポットが当たる。
  • で、もちろん闇営業の救急車なので当然連絡が病院から来るわけではなく、警察無線を盗聴して現場に急行し、掻っ攫った患者からお金をもらうという仕組みのビジネスのようだ。
  • ただ現場で40分待っても運ばれない患者にも運ばれないだけの理由があるのか、せっかく運んで、手当もしてあげて、命も助かったんだけれども、お金がないから報酬が得られませんでした、というのがまぁ冒頭の挿話ですね。
  • カメラポジションで多いのは、車のフロントガラスから車内にカメラを向けるというレイアウトで、助手席と運転席を真正面から映している。幾何学的にきっちりと撮られていて、左に助手席、右に運転席が配置される。狭い車内で役者の顔を写すポジションとしてはこういう風にならざるを得ないのかなと思った。(綺麗に撮る目的も感じるが、それ以上にソリッドさ、即物さに対する志向を感じる)
  • ただまぁすごいレイアウトに拘っているとか照明がすごいとかそういうものではなくて、ソリッドかつドキュメンタリー調に淡々と事実を映していくという映画なので、集中力が続かず、途中止めてしまった。
  • 見切ったら映画トンネルの方に感想を上げる予定。

音声入力によるブログ執筆

  • せっかく車通勤してるんだから音声入力で日記でも書くかと思い立ったが、話し言葉の整理されてなさと向き合うことにもなるなこれ...
  • ということで口述筆記の内容を少し整理したのが今回の記事である。

『リコリス・リコイル』が面白い

  • リコリス・リコイル』を三話まで見た。もともと二話まで見ていたのを、先日プライムビデオに三話が追加されたので見たという具合だ。

    ここのところプライムビデオで映画やドラマ、アニメを15分くらい見ては挫折するという、映画の限界効用にぶち当たったんじゃないかという砂漠状態だったんだが、リコリコは見れている。

    本作は明るい『GUNSLINGER GIRL』とでもいうようなアニメで、美少女が銃を携帯して治安維持のために人を殺しまくるというもの(もっともメイン2人のうち一人が非殺傷弾を使うのであまり血生臭くはなっていない)。

    正直一、二話は様子見という感じだったんだけど、三話はすごくよかった。

    一見してわかるのは、バディものの二人が絆を獲得する回で、シナリオ、モチーフ、コンテ上に対比が敷き詰められているということだ。

    それは例えば、二組のバディ、二組の”元バディ”、DAに戻れない(戻らない)二人のリコリスといった要素レベルの話もあるし。行きの雨天と、帰りの夕陽。ボードゲームへの不参加と、参加。拒否される飴と、受け取られる飴といった演出の話もある。

    また、噴水の前で本音をぶつけあう千束とたきなの切り返しのショット。

    そして、二人の絆を確かなものにする感情芝居は、全身でたきなを抱き上げてくるくると回り、二人の主観ショットを切り返すというものだ。それも「抱き合っているよ」という周囲の陰口に対抗するように抱き上げるのもいいし、噴水という反射物を背景に置くのも特別感がある。水、回転、重力、どれも恋に近しいモチーフで、場面に感情が強く焼きついている。

    個人的に、一~二話を見ている段階では千束のひょうきんな演技はどこか全体から浮いていて、居心地の悪さを覚えていた。いくらそれ自体が芸として面白くても、突出していておさまりが悪いのだ。

    それが今回、フキというハスキーで口の悪い、派手な芝居をする演者が入ってきてうまく収まったように見えた。フキと(たきなの後任の)新人が二人とも口が悪く、容赦なく煽ってくるし、千束も売り言葉に買い言葉の応酬を続けるので、観客としてテンションが上がってきて終盤の模擬戦がとても盛り上がるのだ。「殴れ殴れ!」という気持ちになる。

    一方で説明を必要最小限にして、少ないやりとりの中からフキが実はたきなや千束のことを気遣っていること、なんやかんや憎めないやつであることをほのめかすことができている。フキが、憎まれるためだけに作られた悪役ではないとわかる。また作品の雰囲気が陰惨になり過ぎないし、一方で湿っぽくもならない、すごくいいバランスだと思った。

    またフキと千束のキャラクターとしての特徴がほぼ真逆というのもいい。フキは表層上シンプルな芝居なんだけど、内面が複雑というキャラクターで、演技内演技ができる。一方の千束は、表層上の演技はころころと変わって複雑なんだけど(だからそれ単独で芸になる)、本人は演技できないタイプであり単純な人間であることが説明されている。この二人の演技合戦がいい具合に拮抗した三話だった。 (中盤の「これが電波塔っスか」「これって言うな」(巻き舌)、「いや、ただのアホだ」という芝居とか好きです)。

    こういった芝居合戦のなかで、楠木司令が千束の特殊能力について語ったあと「しかしそれ以外は、生意気なクソガキだ」と嬉しそうに含み笑いしながら言う芝居が挟まってくるのも、ひとつの〆としていい(彼女と千束の関係も当然、複雑なのだろう)