幽霊写像

 しばらく時間はかかったものの、やがて人類は幽霊の存在に慣れてしまった。もちろんそれは特段、驚くべきことではない。これは結局のところ過去ずっと、人類が目にしてきた幽霊そのもの。心霊体験そのものだったのだから。
 ワーキンググループの報告資料にまとめられた事例のすべてに目を通したあと、わたしはそう結論づけた。
 大阪府寝屋川市の賃貸マンションの一角で首を吊った女性は、その数週間前から部屋にあらわれる人の気配に怯えており、友人に相談していたことが警察の捜査からわかっている。
 神奈川県横浜市の国道で起きた玉突き事故は、原因となった赤いホンダのシビックを運転していた男性の操作ログが調査され、事故前に大きくハンドルを右に切っていたことが確認されている。運悪く、男性は手動モードで運転しており、安全装置による補正はかかったが、それでも中央分離帯に衝突した。
 福岡県筑紫野市の一戸建て住宅で、自らの腹部を包丁で刺した男性は、室内に設置されたスマート防犯カメラの映像によって、死後数分前まで何者かと戦っていた様子が記録されている。もっとも、相手の姿は可視光にも赤外線にも映っていなかった。
 これらはすべて国内で起きた死亡事件の一部を取り上げたに過ぎない。死亡事故に限らず、また国内に限らず、開発者に寄せられたクレームをすべて数え上げるとその規模は何万件にものぼるが、それでも少ないくらいだ。BrainRigの利用者が二十億人いて、かつゾンビ・ルーチンの拡張を利用している人がざっと十億人いるとする。そして不具合が発生する確率が〇・〇〇〇一パーセントあれば(その程度だとされている)、被害者は一〇万人いる計算になる。だが、ゾンビ・ルーチンに付随する心霊体験のほとんどは夜中に見るホラー映画よりも無害で、日常生活にわずかな不安を投げかけるものでしかない。他にも、心霊体験を誘発する拡張はざっと十数種類はあったが、それらすべてを調べるのは骨だった。
 コーヒーを飲むために席を立つと、カーテンの隙間から窓の外がのぞいた。三階の高さから見えるのは、住宅街の隙間をのたうつように伸びていく路地で、わずかながら電灯に照らされている。光と影のコントラストは強く、多孔質のアスファルトが円形に切りとられる。そのスポットライトの内側を、ランニングする若い女性が通っていったあと、他の数名がつづいて走り去る。
「毎日通るんだよ、ゾンビどもが」
 背後から声をかけてきたのは、半裸姿で汗をかいている小宮だった。日課の筋トレを終えて、ペットボトル飲料を口にしている。
「きみも自動化すればいいのに」とわたしは言った。「保険料だって下がる」
 エクササイズの自動化・無人化は、多忙な現代人にとって何よりの福音だった。運動するのが苦痛ならば、ゾンビ・ルーチンに任せてしまって自分は眠りこみ、あるいは別の余暇に耽りながら、無意識のうちに済ませればいい。手続き記憶は強固で、意識の介在なしに実行することができる。もっとも、ゾンビ・ルーチンというのは商標ではない。商標であるはずがなかった。競合は数社あって、サービス名には海獣の名前を模すか、渡り鳥の名前を模するかの二パターンがあったが、俗な人々はもっぱら「ゾンビ」と呼んでいた。
「嫌だ。ゾンビに任せるとフォームが崩れる」
「そんなに違うものかな」
「違うね」
 自動化されたトレーニングは、いわば夢遊病患者が夜な夜な修練にいそしんでいるようなもので、つまりもう一人の自分なのだが、小宮のこだわりは強かった。
「コードを書けるようになればいいのに」
「面倒だろ」
 厳密な話をすれば、コードを書けなくてもBrainRigのゾンビ・ルーチンの簡単なカスタマイズは可能だったが、小宮の注文は細かすぎた。それならコードを書いた方がよっぽど早い。書ければの話だが。
 ともかく会話はそこで終わり、わたしはまた報告資料に戻った。

 〈くすぐり〉は、ゾンビ・ルーチンと並び、心霊体験を誘発して死亡事故を引き起こしたBrainRigの拡張のひとつだった。インドのバンガロールに本社を構えていた開発元は、〈くすぐり〉の不具合を直接の原因として事業を停止しており、一連の事件はいまだ継続中の十数件におよぶ訴訟と、事件後に強化された各種規制、設立された調査委員会、提出された報告書、各種報道、判例コンプライアンス研修等の中にいわば消えていった。
 事件が起きたのは数年前ではあるし、日本での利用者はそこまで多くなかったので、詳細について知っている人も多くはない。そういった事故はBrainRigの施術をするリスクのひとつではあったが、頭蓋骨に穴を開けること自体に比べれば、あってないようなものだ。
 〈くすぐり〉は当時、パーティピープルや学生、若者の間で流行っていた無害なBrainRigの拡張に過ぎず、単に自分で自分をくすぐれるようになるだけの代物だった。


「要するに、外からの感覚的なシグナルを〇・五秒だけ遅らせるんです。そうすると、脳内の予測モデルから僅かにずれてくる。くすぐっているのは自分ではなく、他人だと錯覚するんです。ただそれだけ」


 ウェブマガジンに掲載された無料のインタビュー記事に載っている開発者自身による説明だが、詳しい機序は明らかではない。


小脳はいわばベイズ的な予測器としての機能を果たしていて、その内部モデルに基づいて外界から得られる感覚を事前に予測している。有名な例として、自分で自分をくすぐっても、くすぐったく感じないことが知られているが、これは他人にくすぐられる場合に比べ、感覚フィードバックの予測誤差が少ないことを反映していると見られる。


 かといって詳しい機序を説明されたところでよくわからない。論文のほとんどは英語で書かれていて、もちろん翻訳はできるのだが、機械翻訳を読んでも意味はさっぱりで、なにより文章と文章の隙間にある数式を翻訳してくれる機械はまだない。


 夜一〇時です、明日の準備をしましょう


 目の前にあらわれたリマインダーに二回の瞬きでこたえると、意識がまどろむのを感じる。視界が暗くなり、世界が遠くなる。やがて自動的に身体が動き出す。
 夢を見ながら歩いているようなものだ、と言われることがある。
 なにもゾンビだけの特権ではない。イルカやクジラは眠りながら泳ぐことができる。呼吸するために海面に浮上しなければならないからだ。彼らは脳の半球だけをシャットダウンしつつ、残りの半分だけで泳ぐ。
 人間が拡張を用いて同じことをやる場合、意識が取りうる状態にはいくつかのグラデーションがあった。全身麻酔に近い拡張もあれば、脳の中の小人になるような拡張もある。目の前の現実が酷ければ眠り込み、そうでなければ身体動作をゾンビに任せ、自分は別のことをする。意識レベルは統合情報量φによって定量化されており、それぞれの拡張を利用した際にφがどの程度の数値になるのかはストア上で公開されている。それすなわち、ゾンビ状態時の己の意識量だ。
 ゾンビがタスクを実行した時間は、記録されている。その記録が一定時間を超えると、マイルストーンごとにトロフィーを貰える。今やあらゆる場所にマイルストーンが、そしてガントチャートが存在する。どのような作業に、どれほど人生を費やしているのかが可視化されるのだ。
 ふと作業が中断され、わずかに意識の濃度が上がった。
 声がしたのだ。定期便で届いたコーヒーをゾンビが鞄に詰めているときに、その声がした。大きな声だったはずだが、わたしには聞こえづらかった。八十五デシベル以上の音は小さく補正されるからだ。
 どちらにせよゾンビが実行中のワークフローは中断され、わたしは悲鳴のした方向へと急いだ。それは、風呂場から聞こえたからだ。
 脱衣所に入って、浴室の扉を開けると、そこには震えて身体をかかえる全裸の小宮がいた。横たわっているので、足でも滑らせたのかと思ってしまうが、実際にはそうではない。肉体は小刻みに震えて、もうもうと立ち上がる湯気のなか、血の気が引いていた。恐怖でこわばっている。
「誰かが後ろにいた」と小宮は言った。

 小宮がおかしくなったのは、冬の寒さが厳しくなっていく十二月の半ば頃、今から一ヶ月以上も前のことだ。
 最初はただ、すぐそばに人の気配がすると言って、ひとりでいることを怖がっているだけだった。居間にいることが増えて、自分の寝室も使わなくなった。シャンプーができなくなり、トイレを恐れた。旧知の友人として、わたしは電話で呼ばれ、しばらく男二人で同居することになった。
 できのいいホラー映画でも見たのだろうか。
 当初のわたしは牧歌的な推測を巡らせていた。
 だが一週間も経つと、もはや小宮は片時も部屋にひとりでいることができなくなってしまっていた。怖がり方が尋常ではなかったのだ。
 すぐそばに、自分の真似をしている「何か」がいると小宮は言う。ずっと、いつも。後ろに誰かが立っている気がすると。
 顔は見えないのか、と冗談まじりに聞いたが、小宮はそのことを想像するだけで悲鳴をあげかけた。
 とうとう職場を休みがちになって一週間、二人で精神科を訪れた。もっと小さい頃、夢遊病で連れて行かれて以来ずっと、小宮はそこに足を踏み入れたことがない。地域の基幹病院で、窓から墓地が見える。
 とにかく、医者が言ったのはこういうことだった。脳画像を観察すると、小宮の脳には異常が見つかった。側頭頭頂接合部と島皮質、それといくつかの領域の活動が抑制されている。
「何か悪意のあるファイルを開いていませんか?」と医者は言った。「特に、BrainRigと関連するような形で」
 メールに添付された実行ファイル。AR広告に偽装したウイルス。マルウェアなど、候補はいくらでもある。またストアで認可された拡張の中にも、心霊体験を誘発するものは相当数あって、その数は二十を下らない。
 あるいは、ゾンビ・ルーチンの副作用ということも。
「それがまさに、小宮さんの脳を、あの世に接続してしまったのかもしれません。彼には過去に夢遊病の既往歴がある」と医者は語る。「ゾンビ・ルーチンが利用している配線は夢遊病と同じものです。また睡眠が誘因となって心霊体験とされるものを引き起こすことは知られています。有名なものだとナルコレプシーによる金縛りなど」
ナルコレプシーとは?」
「過眠症と呼ばれるものです。日中に居眠りを繰り返す人はいませんか?」と医者は言った。「他にも心霊体験の原因とされる疾患はいくつかあります。統合失調症レビー小体型認知症、側頭葉てんかん、皮質基底核変性症など」
 医者が説明しようとしていることは明らかで、考えられる原因はいくらでもあるということだった。
 人類が幽霊を見ることなど、過去いくらでもあったことじゃないか、とでも言うように。
「その幽霊に足はありましたか? 顔は?」
 医者の質問に小宮は答えない。もっとも、これは純粋に医療的な見地から問われた質問で、視界に表示されたトークスクリプトを実行しているだけだろう。小宮が何か答えればフローチャートが進み、可能性が絞り込まれるのだ。今想像しているものを言い当てる、古式ゆかしいランプの魔人とさして変わらない。

✳︎

 病院からの帰り、阪神高速を走り抜けていると、仕事の通知がいくつか届いた。
 フロントガラスの外には、わずかに照らされる高速道路と市街地が残像のように流れ、「速度落とせ」の表示がちらつき、先行車両は血のように赤いテールランプを発光させている。
 わたしはいくつかのメッセージに返事を出す。やっていることは今も昔も政治だった。陳情受付型で、利害調整型の政治家だ。様々な業務の段取りを機械が実行できる状態までもっていくために、うんざりするほどある関係者の利害の調整を繰り返す。そのためには、文字通り何でもやるのが仕事だった。事業がプログラムに、あるいはゾンビ・ルーチンに実行可能なレベルになるまで、物事を単純化するのだ。減っていく労働者の量に対して、増え続ける仕事への要求を何とかする。
 わたしは運転席に座っていたが、もちろんハンドルに手を触れず、アクセルにもブレーキにも足を置いていない。運転などしていないし、ドライブはただの自由時間だった。今はただ、小宮の件の手がかりになる動画がないか、オンラインクエリを繰り返し、リスト化された映像を一・五倍速で再生するだけだ。


 ——ゾンビ・ルーチンの着想はとあるSF小説にあります。その小説だと軍事利用が念頭に置かれていましたが、私は常々、もっと広範囲の活用が見込まれるのではないかと思っていました。夢遊病患者は実に色んなことをします。食事や運動、あるいは料理、車の運転、複雑な電子工作、セックス、自慰、そして殺人。利用する回路は同じですが、ゾンビ・ルーチンにはもっと多様なことができる。また、イルカやアザラシなどの海洋哺乳類が眠りながら泳ぐことができる、ということも有名です。半球睡眠と呼ばれますよね。要するに、睡眠というのは世間で考えられているよりもずっと局所的な現象で——


 時々、緊急時の代理を務められるように手動でハンドル操作をすることもあるが、実用上の意味があるのかどうかわからなかった。月に一、二度しか運転しない人間が、もしもの場合のバックアップとして機能しうるのだろうか。手続き記憶は肉体が覚えているというが、交代要員になるためだけにわざわざ何万キロも運転をする人間はあまりいない。
 バックミラーには、小宮の顔がうつる。後部座席はフラットなスペースになっており、ベンチと重量可変のダンベルが置かれているが、小宮はそれらに触れていなかった。身じろぎもせず俯いているばかりだが、BrainRigで何かをしている様子もない。 
「——実は心当たりがある」と小宮が告白してきたのは、阪神高速を降りたときだった。雨が降り出して、ワイパーがひとりでに起動する。
 わたしは五秒以上両目を閉じて、動画の再生を止める。
「何の?」
「知り合った女から、ある《怖い拡張》を入れないかと言われて、ほとんど無理やりダウンロードさせられたことがある」
「なぜさっき話さなかった」
 努めて、声を荒げないようにしたつもりだったが、通知は別のことを告げていた。遅れてBrainRigがangerのパラメータを引き下げると、ひとさじの氷を心臓に投げかけるように、心拍が落ち着いていった。
「わかるだろ? 医者に話したくなかったんだ。そんな、プライベートなことを」
 プライベートとはつまり、セックスに関することだ。
 ため息をつくと、フロントガラスが曇った。ぼやけた光景は数秒で晴れて、やがてガラス越しに、宇宙ステーションのようなものが見えた。違う、点滅する信号機だ。濡れた路面に黄色が反射する。
「その拡張の名前はなんだ。BrainRigのストアに落ちているのか?」
「——技術者向けの掲示板に書かれていた拡張だった。コピペして使ったと女は言っていた」
「その掲示板の名前やURLはわかるか? 誰が書いたんだ」
「わからない。でも、女はソフトウェアエンジニアだと自称していた。何て書いてあるかわかると」
「でもきみにはわからないし、理解する気もない。自分で読めないコードを実行しない方がいい。BrainRigでは特に」
 わたしは右目を二回ウインクして、メッセージアプリを呼び出した。
「その女の連絡先を教えてくれ」
 雨は激しくなっていた。ワイパーはさらに頻度を上げて交差し、なんとか視界を明瞭に保とうとするが、わたしはそれを切った。
「何度もやった。何度も連絡を取ろうとした。でも、もう一ヵ月まったく音沙汰はない」
「住所は?」
「会っていた当時は知らなかったけど、最近わかった。でも、それももう無意味だ」
「なぜ?」
 フロントガラスは雨でゆがみ、あらゆる夜景を屈折して映していた。時速六十キロで走行しているので、嵐に突っ込んでいるかのように前が見えず、水しぶきはもはや白い。
 小宮は答えず、代わりにメッセージアプリにニュース記事のリンクが貼られる。
 兵庫県西宮市毘沙門町で転落死した女性の記事だった。マンションの七階から落下したため、即死だったと書かれている。日付は十二月。ちょうど、小宮がおかしくなった時期と一致していた。

✳︎

 その晩、わたしはこっそりと寝床を抜け出す。
 自室に入ると、シーリングライトと、ストーブが点灯する。オフィスチェアに腰かけ、杉無垢材のデスクに置かれたキーボードを叩く。それは左右に分割され、飛び散った液体を瞬間凝固させたような形状をしている。艶消しされたトラックボール。フットペダル。さらに瞬きを利用したショートカットと、目線入力が加わる。キーボードは不要だと口にする人はいるが、高級路線でしぶとく生き残っていた。万年筆が未だ愛好されているように。
 アクリルの板にはりつけたシール型のモニターが点灯し、その直線上に仮想のタッチパネルが準備される。モニターはわずかに湾曲している。
 わたしはインターネット上のあらゆる動画を検索する。
 キーボード同様、ホラー映画も生き残っていた。一説によれば、BrainRigの一人称ホラーは怖すぎるので市場が小さく、多くの人がまだ、映画というメディアを利用するのだとか。技術的には真の恐怖体験を提供することはできたが、それを望む人は僅かだった。映画という二十世紀の芸術が、人類が恐怖を娯楽として許容できた最後の一線だったのだろうか。無論、単に世代交代をするだけの時間が経過していないと口にする者もいる。
 それでも昔のホラー映画を見ると、少しずつ古典は時代遅れになりつつあるのがわかった。霊視中に失神する巫女、悪魔つきだと認定されてエクソシズムを受ける少女。フロイト流の精神分析。かび臭いウィッチドクターの戯言。どれも現代なら映画にできない。脳や精神に機能障害を抱えている人間に対する偏見を含んでいるからだ。
 幽霊は脳内にいる。あるいはBrainRigの仕様の中に。プログラムのソースコードの中に。だからといってそれを無視してしまうこともできない。レビー小体型認知症の患者が幽霊を見たとすれば、それはCGや立体映像ではなく、ただ本当に見えているのだ。
 錯視が現実であるのと同程度に、幽霊も現実だった。

 小宮から受け取ったソースコードは膨大で、自分には読むことさえできなかった。全部読んだところで理解できないだろう。だから外注することにした。
 それ以上、できることは少ない。役目があるとすれば調査と研究だったが、情報は多過ぎて手がかりにならなかった。
 例えばそうだ、BrainRig上でこの拡張を実行してみること。当事者感覚の体験。仕事と同じだ。それぐらいしか、自分にできることは残されていないのではないか。
 二分ほど考えたのちに、わたしはゆっくりと瞬きをした。
 キャプションが出てきて、イエスかノーかを選ばされる。実行ファイル、または実行可能モジュールを含んでいる可能性があると警告される。


 実行してよろしいですか?


✳︎

 聞こえてくる言葉は日本語ではない。中国語か、韓国語か、ベトナム語か。最後は新参者で、半世紀と少し前から聞くようになった。
 大阪市生野区にある「李園」という焼肉屋。ここも半世紀以上前からある。
「で、あたしにさせようとしてるのはなに」
 女が口を開いた。サムギョプサルを焼いて食べる。口紅がつきそうでつかない。壺漬けカルビをひきずり出してハサミでカットする。ぱちん、ぱちん、ぱちんと音がする。ステンレス製の箸がぶつかる音と、火鍋のぐつぐつと煮えたぎる音が混ざり合う。
ソースコードを読んでほしい。何が書いてあって、どういうことが実行されるのか教えてほしい」
「ざっと何行くらい?」
 答えるかわりにテキストファイルを送った。
 女の箸が止まって、目線が宙を泳ぐ。
「かなり長いね。最低でも二週間は欲しいけど」
「費用は?」
 店員が新しいカルビを持ってきたが、テーブルはキムチの群れで埋め尽くされて、残っているスペースはない。オイソバギ、カクテキ、コッチョリ、小皿でそれぞれ二つずつ並ぶ。チヂミもいくつかあって、食べかけで放置されている。それらを掻っ込んで、無理やりスペースを作る。
 通知とともに、料金表が送られてきた。
「金額はこれでいい。契約はどうする」とわたしは言う。
「アドインで」
 BrainRigからアドイン契約のコンソーシアムに参加している人名を検索する。女の名前がヒットしたので業務委託契約のバージョンをたぐってみる。コードの解析を依頼するのに最適な契約書式を探し出す。二〇八五年改正民法対応との表記。
「これは」とリンクを飛ばす。
「最近改悪された」と女は拒絶し、別のものを提示する。「こっちの方が合ってる」
 リーガルアドイン社の提供するコンソーシアム型の契約書式は、事前に登録しておけば相互にその契約に拘束されるため、個別の契約の作成と締結を不要とするサービスだ。民商法に対する広範なアドインであり、骨抜きにしていると言われることもある。この四半世紀、保険のように使われ、薄く広く、社会に浸透しつつあった。
「この条件で問題ない。進めてほしい」
 わたしの返事に、女はウインクで返した。
 店内は賑やかだった。生野区に残る数少ない伝統的な韓国系焼肉屋で、食品プリンタとレシピを共有したベトナム人の屋台に制圧されていないのはこのチェーンと、あとは接待に使われる今里新地くらいだ。薄い壁と、広いガラスドアのせいで寒さは堪えるが、半世紀ほど前のスタイルが徹底されていた。
「幽霊を見せる拡張というのにも、幾つか心当たりはあるけどね」
 女はカクテキを小気味よく咀嚼しながら話す。前下がりのボブカットで、ピアスがバチバチに開いているところを見ると、伝統的な企業では雇われていなさそうだった。何度か仕事を依頼しているフリーのソフトウェアエンジニアで、モジというハンドルネームで呼ばれている。
「一番単純なのは、幽霊の映像を見せるやつ。コツははっきり見せないこと。ビニールカーテンとか、ボケた写真とか、すりガラス越しとか、とにかく顔をはっきりさせない方がいい、って知り合いのデザイナーが言ってた」
 ホラー映画の理論だな、とわたしは曖昧に返すと、テールスープを手に取った。
「あたしは昔、ふっるい社宅に住んでいたことがあってね、築四十年とかそういうレベルのやつ。そこで毎日一匹は必ずゴキブリと遭遇して、よく殺してた。足を這われたりするし、一度なんか、しゃもじをつけていた水桶にゴキブリの幼虫が泳いでいたことがあったくらい」
「壮絶な環境だ」とわたしは言った。「中国の農村に出稼ぎに出ていたとか?」
「バリバリ日本の話。で、その生活をずっと続けていたら、そのうち壁の黒いシミなんかが一瞬ゴキブリに見えるようになったんだよ。きっとゴキブリを見過ぎて、脳が内部に持っている世界の統計構造が偏って、知覚にそういうバイアスが掛かっていたんだと思う。脳がベイズ推定しているってこういうこと?って思ったけどね。幽霊の映像を見せるタイプの拡張だと、これと同じことが起きる」
「幽霊の正体見たり枯れ尾花。何もないところに幽霊を見るようになると」
 わたしは箸を下ろして、麦茶を飲んだ。
 少しの沈黙。
「芸術点が高いのは、〈くすぐり〉の不具合を利用したやつかな」とモジは言う。「背中に触れられたような感触や、物音を出すの。それも不意に。これは視覚には介入しないけど、却ってそれが一番怖いらしいよ。術中にハマったら、何かがすぐ側にいる気配がするんだけど、それが見えることは決してない。もちろんさっきと同じように、存在しないものを見るようになる人はいるけど」
「小宮のケースに近いな」とわたしは言った。
「正直、今日話を聴いて最初に連想したのはそれかな。一時期有名で、よく嫌がらせに使われていた。未だにトラウマになっている人がいるくらい悪質な拡張」
 モジも箸を置いた。
 現金で勘定を済ませると、駅前で別れることになった。わたしはシメがほしい気分だったので、ベトナム屋台でプリントされたバインミーを頼んだ。具沢山のやつだ。
 一月の夜は冷えたが、火鍋の効果がつづいているのか、身体の芯はぽかぽかとしていた。周辺で車上荒らしが多発しています。という通知が飛んできたが、ここで立ち食いをするといつも同じ統計情報が告知される。剣呑だが、口コミで寄せられた反社情報も入ってくるので、それを避けた経路を探索することも可能だった。
「おっと、奇遇っすね」
 と言って横から顔を出してきたのはモジだった。電車は?と聞くと、小腹が空いて、という返事がくる。舌に開いたピアスが見える。
「こんなことだったら、シメにラーメンでも頼めばよかった」
 五分後、二人でバインミーを頬張りながら夜道を歩いていた。周辺で盗難車が炎上していることもある、という口コミをBrainRigがよこす。
「食事をゾンビ・ルーチンにやらせる人もいるみたいですよね。あたしなら信じられないな」
「世の中には恐ろしく食に興味のない人間もいる。小宮の食事もかなり悲惨だ」
「それはトレーニーだからでは?」
 ゾンビ・ルーチンを実行中の、虚ろな目をした小宮が、完全栄養食を謳う固形物を齧り、シェイクされたプロテインを飲み干しているときや、コンテスト前の水抜きで苦しんでいるときに、目の前で一人焼き肉をしてみせたエピソードを話すと、モジはひきつけを起こしたように笑った。
哲学的ゾンビを虐めても、面白くないんじゃ?」
「情緒的な反応は残っている場合があって、実はかなり面白い」
 小宮はトレーニングにゾンビ・ルーチンを使わない。使うのはそういった無味乾燥な食事を摂るときや、単調なアノテーションのバイトに発狂しそうになっている場合だけだった。
「小宮さんのお仕事はアノテーション?」
「それだけじゃない。ざっくり言うと、カオスなデータをアルゴリズムが扱えるレベルになるまで整理することだ。人間のやる仕事はもう、大体そうだろう。カオスに秩序を取り戻すような仕事。データセットから偏りをなくす仕事。長大なタスクリストを作るような仕事。これが感情・・・?とつぶやくプログラムに、タグ付けをするような仕事。モザイク状に生き残ったアナログを撲滅し、ゾンビたちに引き渡すような仕事だよ」
 酒に飲まれて終電を失ったので、それぞれオンデマンドタクシーを呼んで、自宅に帰ることとなった。五、六人は同席できるスペースがあったが無人で、フロントガラスにはスロットの広告が点滅していた。大当たりが出ると、内分泌系の報酬が出るような類の俗悪なもので、この広告を消すためには課金が必要だった。周辺で車上荒らしが多発しています。と告知が出る。
 マンション付近の大通りで降ろされたあと、オートロックを開けてひとり、エレベーター前で待機している。静かだ。そのあいだ、小宮に経緯を要約してメッセージを送る。今日から一日だけ、物を取りに自宅に帰るのだ。
 麗しき我が家。
 決して広いロビーなどではない。築二十年はあるだろう、古めのマンションだ。陶器でできた蛙の置物や、置きっぱなしになっているクリスマスツリーがその印象を強めている。壁についたモニタには、降りて来るエレベーターの内部が映っている。ほとんどの場合、誰も映っていないのだが、そのときは無人ではなかった。
 赤いドレスの女がいた。
 長髪で顔は見えなかったが、別角度のカメラから、裸足であることがわかる。タイツさえ履いていなかった。エレベーターの位置は七階で、こちらに降りてきている。
 時刻は深夜一時〇五分。真冬の気温。
 わたしは階段を上がり、不審者との遭遇を回避することにした。時々、ゾンビ・ルーチンの不具合で徘徊する人間がいるらしく、社会問題にもなっている。ゾンビならば気温を気にせず、裸足で路上をうろつくことがあるのだ。
 そう思うことにした。
 酔いが覚めて、十一階にたどり着いたとき、真横でチーンという音がしてエレベーターが開いた。
 聞き間違いではない。ドアが開く音がした。
 誰かが降りてくるような音はしなかった。足音も、呼吸音も、人がいるような気配はない。脳の原始的な部分は逃げろと言っているが、大脳新皮質はそれを否定する。わたしの足はコンクリートの地面に張りついたように動かず、靴下は冷たく湿っている。
 やがて、エレベーターのドアが閉まる音がした。
 ビル風が強く吹いて、冷気が顔を刺してくる。ゆっくり顔をあげて、呼吸を落ち着かせる。fearというパラメータを下げる方法が無いかBrainRigの設定画面を探すが、それらしいものは無い。扁桃体に関してはGBPRの規制が強いことを思い出すと、おそるおそる、エレベーター前の廊下を見た。
 誰もいない。
 いつも通り、黒い玄関ドアが無機質な光に照らされているだけだ。人感センサーが反応して、灯りがついている。
 血の痕に気がついたのは、ドアの前に近寄ったときだった。
 背後でチーンという音がして、エレベーターが開いた。
 振り返るとそこには、さっきの赤いドレスの女が。

 ゾンビ・ルーチンは自動的に作業をこなす。
 もちろん「自動的」というのは正確な表現ではない。実際には、ゾンビ・ルーチンを使用せずとも、局所睡眠は思われているよりもずっと多く起こっている。人間は脳の一部を休眠させて、日中にも活動する。我々はずっとこのように生きてきた。
 自由意志の感覚は、脳の内部モデルにつけられた重みづけに過ぎないと言われることがある。神経系は自らが操作できる範囲を外界と区別する必要があって、それが適応的だった。ゾンビ・ルーチンはただ、そこから重みづけを奪っているだけだと。
 人間はずっとこうだった。
 頭蓋骨にドリルで穴をあけて、無数の電極のついた髪の毛よりも細いケーブルを脳につっこむようになる前からずっと。
 酔っ払いがなぜか自宅に帰ることができるように、わたしは小宮のところへと帰った。大部分はオンデマンドタクシーの自動運転がやったことかもしれないが、ともかくわたしは帰ったのだ。エレベーターを使う気にはなれず、階段を上った。
 叫び出しそうなのを抑え込んで、ドアを必死に開けようとしたが、何度やっても静脈認証は拒否され、入ることができなかった。いつの間にか誰かが登録を削除したのだ。
 すぐにBrainRigで電話をかけると同時に、わたしは例の拡張をアンインストールした。すべての警告を無視して、強制的に削除する。コードのテキストデータも廃棄する。
 待てども、小宮は電話に出なかった。留守番電話に繋がり、メッセージの録音を要求される。わたしが電話を切ると、残ったのは開かない玄関ドアだけだった。
 
✳︎

 小宮と連絡が取れないまま一週間が経った。
 あの日、わたしは結局、駅前のホテルを緊急で確保して潜り込み、数時間眠っただけで翌日そのまま出勤した。
 連絡が取れないまま他にすることもなく、約束の二週間後までモジからの報告を待つことにした。その後何度か訪問してみたが、小宮のマンションは引き払われたようで、表札からは名前が消えていた。
 あの日以来、エレベーターは使っていない。朝の出勤時も、夜の帰宅時も。いつでも階段を使う。
 夜にひとりでいることに耐えられず、独身の友人に無理を言っては通話を繋ぎっぱなしにしていた。
 BrainRigではない。BrainRigの電源はオフにして、懐かしい携帯端末へと戻った。いつ以来かわからないが、ワイヤレスイヤホンをし、コールをかけ、虚空に向かってしゃべりながら町を歩く。
 通知が来るたびに携帯端末をポケットから取り出し、メッセージが来るたびに携帯端末を覗き込む。簡単なジェスチャー、視線入力、まばたきのショートカットが使えなくなって、家のインターネット回線が遅くなったときのような不快感に襲われた。やがてこの動作に慣れて背中が曲がり、首が曲がった。検索すると、それはストレートネックと呼ばれるらしい。
 小宮がいなくなってから一週間と五日後、着信があった。
「やっと出た。あたし、モジ」と携帯端末はしゃべる。「仕事終わったけど、メールを二日も無視してどうしたの?」
 わたしは手短に、小宮が失踪したことを説明した。コードを実行したこと。そして怖くなり、BrainRigを使わなくなったことを。
「電話の取り方がわからなくて、二回は着信を取り逃がしてしまったんだ」
 少し間をおいて、
「馬鹿?」と携帯端末は言った。
「実をいうとそうかもしれない」とわたしは答える。「もう二回寝坊して、三回アポイントをすっぽかした。職場からは過労だと言われて、三日の休みが与えられた」
 わたしのぼやきに、モジは付き合わなかった。ため息が聞こえたような気もするが、はっきりとしない。
 リビングには寒気がしみこんでおり、窓ガラスは結露していた。わたしは携帯端末を耳に当てたまま立ち上がり、電気ストーブの出力を上げる。
 手短に、と言い添えて、モジは仕事の結果を報告した。
「結論からいえば、よくある〈くすぐり〉の変異種だった。書き方がオーソドックスな方法から外れていたから、パッとわからなかったけど、間違いなくそう。要するに聴覚や触覚に介入して、不定期に物音を立てたり、誰かに触られたような感覚を生じさせたりするだけのもの。そういう意味では、小宮さんの症状とは一致するけど」
 少しの沈黙。
「すると、視神経には介入しない?」とわたしは言った。
「ええ、そんなことはこの拡張からはできない」
「幽霊が見えたりとか」
「この世に存在しないものを見ない限りは」
 この世に、という言葉が引っかかったが、モジが言っているのは心霊的な現象のことではなかった。彼女は唯物論者で、この世ならざるものがあるとすれば、それは神経科学的に存在するはずだった。世界の統計構造の偏りから、脳が幻視する幽霊。錯視のようなもの。
 とはいえわたしに幽霊を見るバイアスなど無いはずだった。

 誰もいない自室にじっとしていられず、梅田や難波の繁華街に繰り出すと、足の踏み場のないほどの人間が、駅ビルの連絡橋をぞろぞろと歩いていた。そのうちの何割かが歩行を自動化して、可視光には映らないものを見つめている。オートパイロットに任せ、自分たちは運転席に引っ込んで、ハンドルさえ握っていないのだ。
 通行人がBrainRigが視界に重ねがけしているオブジェクト、あるいはエフェクトは、どういったものだろうかと想像することがある。自分で歩いている人間ならば、地図アプリが提供するガイドの矢印や、目的地までの時間だろう。ゾンビ・ルーチンに任せているならば、完全なる暗闇か、動画、映画、一人称のゲーム、チャット、通話。あるいは、物理世界にリアルタイムレンダリングで描写されるオブジェクト類に没頭しているのだろう。
 小宮が実行していた、そして小宮から送られてきた拡張は、赤いドレスの女を見せるようなものではなかった。それが正しかったとすれば、わたしが目にしたものは一体何だったのか。そして、今目にしているものは。
 客観的な証拠を得るため、帰宅後にマンションの管理会社に連絡して監視カメラの映像を手に入れようとしたときにはもう、肝心の映像は保存期限を過ぎて廃棄されていた。相手の担当者からわたしは気の触れた人間にうつったらしく、対応はどことなくぞんざいだった。
 事実、わたしは誇大妄想に囚われていたのかもしれない。
 一度だけ目にした、幽霊のような何かに。
 妄想だからといって恐怖が薄れるわけではなかった。雑踏に飲まれているさなかにも、視界の端にはあの女がいたからだ。赤いドレスの女が。

✳︎

 BrainRigを取り除く勇気は出なかった。
 それが一番確実だとは思っていたものの、引き抜くときに脳の血管を傷つけるようなリスクは冒せなかったのだ。手術ロボットにも医療ミスが全くないわけではない。
 ならばなぜ、そもそも頭蓋骨に穴をあけて、そんなものを入れたのか? ラガードたちからはそう聞かれることがある。未だに神経インプラントを、障害や病気を克服する方法としてしか認識していない連中だ。
 単純に言えば、リスクをリターンが上回ったから。みんなそう答えるだろう。BrainRigやゾンビ・ルーチンは世界の最先端で、競争はそれを前提に回っている。あなたが凡人で、ベーシックインカムを貰って引退し、将来の政策変更におびえながら過ごすよりもいい人生を得たいなら、頭蓋骨に穴をあけるしかない。
 事実、携帯端末を持ち歩きはじめただけで、わたしは職場で変わり者扱いされ、少なからず人事評価にも影響が出た。フリーハンドで検索もできないので、脳が少し鈍ったような感触さえある。だがそれでも、二十四時間あの赤いドレスの女に怯えるよりはいい。

 一ヶ月経っても、二ヶ月経っても、小宮との連絡は取れなかった。電話からは「この番号は現在使われていません」という電子音声が聞こえてきて、各種チャットのアカウントはずっとオフラインだった。ここにきて自分は、小宮と共通の知人がおらず、その下の名前さえよく知らないことに気がついた。
 マンションは引き払って、東京に移ることにした。今の職場にはいられなくなって、わたしは中小企業を転々とする。仕事の内容は変わったが、やることは結局いつもの通りだ。人間関係の構築と、社内営業、ネットワークの構築。味方を点で増やしていき、あるとき面で制圧する。
 新しく入った会社のオフィスを見たときに、わたしは思わずめまいに襲われた。火を噴きそうなほど古いパソコンと、ここ二十年来の技術発展から取り残されたような職務環境。未だに残存する紙の資料。段ボールに積み込まれている伝票や契約書の束。いずれも時間旅行者の気分を味わえるような代物だった。会計はどんぶり勘定で、毎月月末に売上入金を待ってその日に買掛金の振込処理をするというありさまだ。
 それが市場から現在の自分に与えられる、適正な評価なのだと思い込もうとした。
 引越しをしてから、不思議と悪夢をみることはなくなった。赤いドレスの女も、しばらく見ていない。同僚のうち二人とはいい関係で、この前はアイリッシュパブで朝まで飲んでいた。一人は元公務員の転職組で、もう一人は社内のはぐれもの。お互いに情報交換をして、社内の部族主義への理解を深めるのだ。気づけばあの日から二年が経っていて、段々と物事はよくなっていくように思えた。
 最近はもっぱら、遠隔でBrainRigのスイッチを入れる方法がないかどうか調べるのに忙しい。頭蓋骨の内側に張り巡らされたナノチューブ神経網が、外部から電源を入れられないか不安でたまらなかった。
 メーカーが提供するチャットボットによれば、仕様上できないそうだ。すぐに答えが返ってきたことから、わたしは似たような質問をした過去の人物の存在を確信する。
 もちろん、すべてが上手くいくわけではない。
 何度か家に見知らぬ人間がやってくることがある。ある夜、夕飯を食べていると玄関ドアが開く音がして、見ればナイフを持った男がいる。目と鼻と口があるのはわかるのだが、顔がどうもよくわからない。不鮮明な写真のようにぼやけている。帰ってくれと頼んでも、男はずっと立ったままだった。
 またある日は、車に乗るたびに後部座席に知らない女の子がいた。三つ編みをしていて、どこかで見たような顔だが、誰なのかは思い出せない。名前を聞いてみるが、ひたすらだんまりで何も答えてくれなかった。
 カウンセラーとの会話のあいだ、わたしはしばしば取り乱すことがある。あの日のことを思い出し、見なかったことにしていたものを脳裏に描こうとすると、恐怖が怒りや不安となってカウンセラーに噴出する。
 記憶を消し去ることも薦められたが、脳に触られるのはもう懲り懲りだと答えた。いつの間にか、私こそがラガードになってしまっていたのだ。自然主義者や、宗教原理主義者、テクノロジーの発展についていくことをやめた人間に。
 医療AIはいくつかの診断をしてくれた。脳画像を撮影して、計算論的精神医学に基づき所見を述べる。あなたの病気はこうです。ああです。そのようです。統計的にはこういうことが言えます。
 わたしが幽霊を見るだけの理由は、そこからはわからなかった。
 あの日、エレベーターにいた女。監視カメラに映った女。わたしの背後に立った女のことだ。わたしが振り向くと、そこにいた。エレベーターの前。真冬の夜にドレス一枚、素足で立っていた。
 足はあったはずだ。汚れた爪も。視線はゆっくりと上がっていく。薄手の赤いドレス。胸元は痩せこけて、首筋からは若くない印象を受ける。表情は髪に隠れていたが、口元だけは見えている。
 剥き出しの歯。
 そして、

✳︎

 あなたにおすすめしたいものがある、とモジからの紹介を受け、わたしはとある集会に参加するようになった。
 それは同じようにBrainRigで幽霊をみた人たちが集まったグループセラピーの集会だった。毎月一度、オフラインでの会合が開催されて、一〇名ほどが参加する。大学や公共施設の一角を借りて、みながそれぞれ自分の体験を語るという。
 九州にマラリアが上陸してからここ二、三年、これほどの人数のオフラインでの会合は久しぶりだった。
 わたしはそこに三回ほど参加して、自分が特別ではないことを知ることができた。もちろん知識としては、似たような理由で苦しんでいる人々がいることは知っている。だがそれらは資料の中の存在で、今までは会ったこともなかった。
 彼らと話すうちに、心霊体験がいまや精神疾患のひとつなのだと理解することができた。わたしのように原因不明の霊障にあった人から、悪名高い一人称ホラー爆弾を食らった人まで多様で、疾患が特定できている人もいれば、できていない人もいた。自分の体験を語ると、参加者のひとりからそれが入眠時幻覚の一種ではないかと指摘があった。ゾンビが活動中にみた悪夢と、現実の体験を区別できなくなり、混同した可能性だ。医療AIの診断の候補のひとつに入っていたものだが、最近はほとんど幽霊を見ないので正確なところはわからなかった。
 ファシリテーターを務める角谷弁護士は、適法な意識状態に関するワーキンググループの一員で、BrainRigを用いて恐怖をやわらげることを、末期がんの緩和ケアなど一部の領域だけではなく、我々のように心霊体験に苦しむ人々に許可できないか、国や国際会議体に対して訴えかけてくれていた。一般脳神経倫理保護委員会のガイドラインによれば、恐怖は危機感知にかかわっていることから、承認のハードルが高いという。
 三回目の会合が終わってからわたしは改めて、モジにお礼の電話をした。彼女は礼を受け取らない。これも仕事のうちだという。
「BrainRigはまだオフにしたまま?」とモジに訊かれる。「少しずつ復帰する予定とかはないの? どのみち今の仕事を続けていたら、いつかはオンにせざるを得ないんじゃない」
「そうでもない。やりようはある。リリースノートは読んでいるし、拡張の仕様も追っている。メガネ型のデバイスというのもそれほど不便じゃない。きみに頼めば、専門家の意見も聞ける」
「でもやっぱり、生の体験がないっていうのはいつか判断を誤らせるよ。あなたの仕事はゾンビ労働者たちの業務改善でしょう?」
「ある意味では」とわたしは言った。「けれども、仕事の大半は政治的なものだよ。業務改善にはチームで取り組むから、実体験については他人に任せることもできる」
 今でも、モジには仕事を発注している。エンジニアとしての意見を聞くだけではなく、個人的な相談もしている。わたしのトラウマを解消するための強迫神経症的な依頼の数々を、きっちりこなしてくれているのだ。
「ねえ実は、あなたを恐怖に陥れた拡張が何かわかったって言ったらどうする?」
 しばらくの間、お互い何も話さなかった。ディスプレイに映るモジのアバターがわずかに点灯するのは、呼吸音を拾っているからだ。
「つまり?」
「単純なこと。小宮さんは嘘をついていた。二年前、小宮さんがあなたに渡して、あたしが解析した〈くすぐり〉ベースのものはダミーで、本命は巧妙に仕組まれていた。もっと日常的なメッセージのひとつに添付されていて、あなたはそれを知らないうちに実行してしまった。それだけのこと」さらにモジはつづける。「仕組みは既知のものと未知のものが組み合わされている。ひとつは、恐怖の刺激に反応して、脳の複数箇所にある顔認識用に特化したモジュールを過剰反応させるもの。まあ、脳にもHaar-Like特徴量を使ったカスケード分類器みたいなものがあるわけね」
 言葉は出なかった。
「どうして小宮がそんな嘘を」
「彼が踏んでしまったマルウェアがそういうものだったの。相手を恐怖に陥れて、解除する鍵が欲しければ、他人に同じものを送りつけて伝播させるしかないと要求するような」
「不可解だ。ふつうは身代金を要求するんじゃないのか? そんなことをさせて、発信者に何の得がある?」
「さあ、あたしに聞かれても」
 モジのアバターは首をかしげてみせる。
 わたしはとっさに怒りを覚えた。まるで他人事のようで、真剣みというものがなかったからだ。言葉そのものよりも、軽薄な声にこそ怒りを感じた。けれども、すぐにそれが筋違いのものだと思い直した。
「元ネタがあるのかもしれない」とわたしは言った。「呪いを他人になすりつけて難を逃れるという種類のホラー映画があったような気がする」
 意外にも、モジは笑わなかった。
ベータテストをやっているっていう線もあるよ。できる限り多くの人に感染させて、効果を観察するわけ」
「その線だと、一番怪しいのはモジだ。わたしと二年も付き合っているのは経過観察をしているためじゃないか、ああん?」
「バレたか」
 お互い笑いあった。アバターが一層強く点滅する。そのあとに、急に大したジョークではなかったような気がして、空虚な沈黙がやってくる。
「で、あなたも誰かになすりつければ、二年越しに解放される」そうモジは言ったが、おずおずといった調子だった。「そのためにはまず、BrainRigをオンにしないといけないけど」
「そうだな」とわたしは言った。
「これからどうするの」
「まずは車を運転してみるよ。ドライブをして、考えを整理する」
 すでにもう、車のキーを手にしていた。木製の平べったい器にいろんな物理キーが並んでいる。定位置管理するためだけのプレートだ。そこをまさぐると、椅子から立ち上がり、玄関に向かう。
 通話を切る直前、モジは聞いてきた。
「興味本位で悪いけど、その、なんていうか、その女の顔ってどんなだったの?」
「その女?」
「何言ってんの。決まってるじゃん。赤いドレスの女の顔だよ」

✳︎

 曇天の中で、わたしはハンドルを握っている。
 沈みかけた太陽のせいか、空は黙示録を迎えたかのような色をしており、道路は再開発中の区画に踏み込んでいく。風景は寂しくなっていき、骨組みだけの高架道路が頭上をよぎる。いつのまにか第三次世界大戦が起きたのかと勘違いする者もいるかもしれないが、ここでは単に区画整理事業が計画半ばで放棄されているだけだった。
 手動でおっかなびっくり運転していると、経路を何度も間違える。そのたびにナビゲーションが経路を再計算し、到着時刻が変わる。
 手動でドライブをしても、思ったような自己主体感はなかった。久しぶりに通る道のようなものだ。自分の脳は、自動車を身体の一部として扱うことに慣れておらず、今まさに学習中といえた。道をカーブするたびに配線が変わり、ブレーキを踏むたびに内部モデルが更新される。
 わたしはBrainRigをオンにしていた。
 まばたきをすると録音が再生され、頭蓋骨を通して音が聞こえてくる。それはグループセラピーで話した打ち明け話の録音だった。


 わたしがあの日見たのは、赤いドレスを着た女でした。真冬なのに薄手のドレスで、タイツもはかず、裸足で立っていました。エレベーターが着いた音に振り向くと、そこにはその女がいて——


 音声を聞き取ろうとすると脳のメモリが食われて、運転がおろそかになる。
 二秒間右目を閉じて、ショートカットから連絡先リストを開くと、できるだけ巧妙に、日常的なやり取りの多い相手を選んで、実行ファイルを忍ばせる。
 わたしがやっていることは今や世界中で行われている。
 モジの補足している技術者向けコミュニティでも事案がいくつも報告されはじめ、身代金を要求するタイプの新型も確認された。手口は巧妙になり、警告が出され始めている。世間でまだ騒がれていないのは、噂が技術者コミュニティの外に出ていないからだ。 
 ベータテストは終わった。
 あるいはとっくの昔にテストは終わっていて、わたしはむしろ最後列に並んでいた可能性もある。前から本番用のファイルが出回っていたのだが、最近になってキャズムを超えたのだ。
 実際に手口を考えはじめると、小宮があのときどういうことをしたのか分かってきた。おそらく、小宮はわたしがファイルを踏んだのだと気づいてもいないはずだった。それを特定できないように、小宮は多くの知り合いにそれをバラまいて、無理にその後の経過は追わなかった。爆弾で殺した相手の顔など、わからないほうがいい。


 ——その女の顔をはっきりと見ました。言葉で言い表すことさえできます。もっとも最近では少し、忘れてきました。——


 すでにマルウェアは世界中に拡散されている。
 そう考えれば、気も楽になった。自らの所業は大海の一滴に過ぎず、大勢に影響をもたらさない。数週間もすれば世界は幽霊を見てしまう人間でいっぱいになり、グループセラピーには参加申し込みが殺到することだろう。
 サイドミラーに映る風景は味気がなく、たまに山間の風力発電所がちらちらとフレームインしてくる。風車はあたかも、宇宙人がテラフォーミングするための装置として地球に埋め込んだようにも見えるが、わたしに何も語りかけてこない。
 ふとバックミラーに目を移すと、後部座席に座る影があった。


 ——瞳は一重で、細く、どちらかといえば和風の顔立ちでした。日本人の幽霊しか見ないということは、事前に脳が持っているサンプル量の問題でしょうかね?——


 後部座席に座っている女は、髪を下ろしていて、表情が見えない。薄手の赤いドレスはどことなく湿っており、ポタポタと水滴を落としていた。


 ——凡庸な顔ですよ。美人ではない。眉毛は細くて、あれは剃っているんでしょうか。目と目は離れていて、鼻はどちらかといえば大きく、歯並びは汚かったです。——


 やがてゆっくりとその女は顔を上げる。
 何度瞬きしてもその姿は消えず、ほつれた髪がぱらぱらと落ちていく。BrainRigが視界に重ね書きする出来損ないのCGではない。デザイナーが苦心し、日進月歩で現実に近づいているはずのグラフィック特有の嘘臭さはない。ホモ・サピエンスの脳は優秀で、違和感をどこかに見つけ出すのだが、これは違った。これは過去ずっと、人類が目にしてきた幽霊そのもの。心霊体験そのものなのだから。


 ——笑っていました。長い髪を振り乱して、その細い目をさらに細めて。不思議と声は聞こえませんでした。サイレント映画のように、笑う女の姿だけがあって。やがて全体がぼやけ出して。彼女の舌にあるピアスだけが目に入ってくるんです。——


 メールは発信されたが、女がいなくなる気配はなかった。バックミラーを見つめながら、一刻でも早く、誰かが添付ファイルを開くことを祈る。
 女からは目を離せなかった。ふと何年振りだろうかと考えたのと、車体が大きく揺れたのは同じだった。バックミラーから目を離して真正面に向き直す。
 そこに赤いドレスの女がいた。
 そして中央分離帯が。




 ——ええ、とてもよく顔の似た知り合いがいたんです。モジっていう、本名じゃないんですけどね。本名は確か——





聖書でなくて、に対する返答

zzz-zzzz.hatenablog.com

久しぶりにブログを開くと、「聖書でなくて;京大SF幻想研『伊藤計劃トリビュート』感想」という、私も参加した同人誌に関する記事に追記があり、その後の活動についても網羅的な言及がされていた。ワナビ冥利に尽きるような、膨大な分量による感想である。

※やりとりが終わったので臨時ページへのURLは削除しました。

210912『あずまんが大王』を読みました(「あずまんがダービー くさび杯」の答え合わせ回)

お世話になっております。呉衣悠介です。

このたびは、先輩のご厚意によって開催されました「あずまんがダービー くさび杯」に参加しておりました。え? 忘れた?

あずまんがダービー くさび杯」とは、『あずまんが大王』を初めて読む呉衣が好きなキャラクターのトップ3を予想するダービーです。元ネタはオモコロの記事。なお、同時に本企画の企画者によって「あずまんがダービー ペンギン杯」も開催されており、ちなみに一か月以上前に答えが発表されていました(偉いね)。

現在、仕事以外のありとあらゆる締め切りをブッチしそうな感じの生活になっているので、先に謝っておきます。

無事に『あずまんが大王』を読了しましたので、感想と答え合わせ。
(なお前回の記事で予想にあたっての事前情報を提供していました)

目次


1. 感想

なんか難しかった・・・。自分が四コマ読むのが苦手なのがよく自覚されたし、あまりいい読者ではなかったと思う。

元ネタのオモコロの人の中だと、「みくのしん」さんの感想に一番近いと思う。
よつばと!』は好きだし、めちゃくちゃ上手いのは分かるけど、まったく自分に刺さらなかった。

あと、今見るとスタンダードになっていてかえって反応しづらい要素が多かった。
インターネットでよく見るこの画像、『あずまんが大王』だったんだ・・・と思ったやつもあったけど。
f:id:clementiae:20210912223732p:plain

あずまんが大王に苦戦することあります?
結局どの子が好きなんだ!あずまんが大王ダービー2021 | オモコロ

あります。

2. 結果発表


3位 黒沢みなも


貴重な常識人枠。もう一人の担任の先生の傍若無人ぶりの犠牲になっていて可哀そうだった。
でも、休日に一緒にラーメンを食べに行くような仲、いいですよね。社会人になってから、そういう関係の維持し難さを痛感します。

キャラデザも好きだけど、最初の方はゆかり先生との区別があまりついていなかった。
ゆかり先生は運転が荒いのでダメです。

正直、3位は選ぶのが難しかった。

2位 神楽


あまり『あずまんが大王』を読んでいて萌えることはなかったんだけど、この子はちょっと琴線に触れた。

みんなが挙げるテントを壊す回もそうだけど、ともちゃんと同じようないたずらキャラでありつつ、人の心というか良心というか、そういうものがある存在として全体的に描かれていましたよね。人の心や恥じらいがあることは大事。

ガサツな体育会系なんだけど、繊細なところがあるというギャップが王道でいい。あと、ちょっと中性的な雰囲気があるのもよかった。


1位 大阪(春日歩


すべてのキャラに若干の既視感を覚えるなか、この「穏やかな関西人」には今もなお新鮮さを感じたし、大阪がメインを張る四コマはどれも面白かった。起きたばかりの先生のところに包丁を持っていくところが好き。

最初の方は、頬を染めていたり、まつげがあったり、目にハイライトがあったり、内面のようなものがあったりしたけど、途中からは何を考えているのかわからないボケモンスターみたいになっていた(画風が変わったのはあるだろうけど、一番影響を受けていそう)。面白いキャラだけど、萌えるのか大阪に?

和歌山生まれの神戸育ちなんだけど、そういう関西の細かい事情は分からないから「大阪」と呼ばれるというのもよかった。大阪にこんな穏やかな人いないよ。
あと多分、自分自身がおっとりしたマイペース人間のせいか、おっとりした人が現実でも好きなので大阪というところがある。チャキチャキした人や、騒がしい人は苦手なので。


追伸:4巻を読んでいて、なぜこのダービーが「くさび杯」だったのか分かりました。


3. 選外一言

よみちゃん(水原暦):意外と大学受験で苦労した人。ともちゃんのよき女房役。

ともちゃん(滝野智):悪童。ここまで擁護なく悪童なのはすごい。たぶんジャンプ漫画に出てきたら、この子のメイン回だけアンケート結果が悪いと思う。

榊:クールキャラ+善良、にあまりピンとこないせいか、どう反応していいか分からなかった。

ちよちゃん(美浜ちよ):天才少女にして完璧少女。年相応なところもありつつ、全体的に欠点が無さ過ぎて興味を持てなかった。欠陥と善良さのあわいに人間の魅力があると思うので。

ゆかりちゃん(谷崎ゆかり):数学ができなくても人を殺すことは多分ないけど、運転ができないと人を殺しかねないのでダメです。ダメ教師+髪型でミサトさんを連想した。

木村先生:ゼロ年代にはこれが存在を許されたという歴史資料的な価値があるキャラ。現代ではキャンセルされると思う。

ちよ父:このキャラ、『あずまんが大王』のキャラだったんだ。

4. まとめ

結果的に『あずまんが大王』のよき読者ではなかったのではないかと反省する次第ですが、こういう機会でもなければ、この古典を読むことはなかったと思います。
企画・投票いただいた皆様、ありがとうございました。

210801 【身内向】「あずまんがダービー くさび杯」に向けての前情報

お世話になっております。呉衣です。

このたびは、先輩が開催される「あずまんがダービー くさび杯」に出走することになりましたので(出走というか俺が競馬場)、自己紹介のエントリを書きます。

大学時代、目にはしていた『あずまんが大王』に、これまで一ミリも触れることなく過ごしてきたので、読める機会があってよかったです。

主催いただいた先輩、そして予想に参加していただける皆さんに感謝です。ちなみに、この記事を書いている時点では1巻をちょろっと読んだところです(大阪が神戸育ちだと分かったあたり)。

あずまんがダービー くさび杯」には↓のリンクから参加可能です。どうぞご参加ください!

docs.google.com

なお、同時開催されるペンギン杯も併せてどうぞ。 210801 【身内向】「あずまんがダービー ペンギン杯」に向けての前情報 - 箱庭療法記

現在進行形で購読してる漫画雑誌は「週刊少年ジャンプ」です。最初に読むのは『呪術廻戦』(丁度明日より連載再開ですね!)、次に読むのはまちまちですが『Dr.STONE』、『アンデッドアンラック』、『ONE PIECE』、『僕とロボコ』、『僕のヒーローアカデミア』。その次が『逃げ上手の若君』、『SAKAMOTO DAYS』、『ウィッチウォッチ』、『あやかしトライアングル』などでしょうか。

終わる前は『チェンソーマン』と『呪術廻戦』が2強でした。基本的にあまり連載を追わないタイプで、ジャンプの連載を追い始めたのは『チェンソーマン』を読むためです(サムライソードに襲撃されたあたりから追いかけたかな?)。大学時代も読んでたけど、社会人になって再開したのは上記のタイミング。

藤本タツキの影響元が自分と似過ぎていて怖いというか、同世代なんだなと思う(弐瓶勉五十嵐大介沙村広明タランティーノなどなど)。

ペンギン杯の方とは違って、基本的にはジャンプっ子でした。世代的に読んでいたのは『ONE PIECE』、『NARUTO -ナルト-』、『BLEACH』、『鋼の錬金術師』とかでしょうか?(この中だとハガレンが一番好き) 『HUNTER×HUNTER』は休載を繰り返していたイメージですね。

ブコメは、リバースエンジニアリングというか、完成品を見て作り方を考えるのは好きですが、ジャンルとして好きとまでは言えない感じ。疑似恋愛ってのがうまくできない。キャラクター中心で読まないとも言える(企画の趣旨的にいいのだろうか)。分析は本当に好きで、実作にだけでなく、実恋愛にも応用していました。

ペンギン杯の方同様、四コマ漫画を真剣に追ったことはあまりありません。読みづらいと感じてしまう。ただし、サークルに所属していた時に周囲の人がめちゃくちゃ四コマ漫画を読んでいたので勧められてか、勝手にか読むようになり、自分でも『キタランド・ゴシック』とか『ゆゆ式』はコミックスを買って読んでいました。特に『キタランド・ゴシック』今だに紙で持っている数少ないコミックです。

久正人とか、道満晴明とか、志村貴子とか、都留泰作とかも好き。

以降、好きな漫画とかアニメとか小説とかの好きな登場人物を雑多に挙げていくので、よろしくデス。

漫画『げんしけん

好きな登場人物:荻上 千佳

好きな理由:わからないけど、キャラ萌えを初めて理解したキャラとして記憶している。

漫画『シュトヘル

好きな登場人物:シュトヘル

好きな理由:中性的な女性でTS要素もあって、戦闘狂なので

漫画『ファイアパンチ

好きな登場人物:トガタ

好きな理由:イカれてて、中性的なキャラなので。

漫画『断裁分離のクライムエッジ

好きな登場人物:武者小路 祝

好きな理由:かわいいので

漫画『ドロヘドロ

好きな登場人物:能井

好きな理由:怪力女なので

小説『楽聖少女

好きな登場人物:ベートーヴェン(ルゥ)

好きな理由:ぼくっ子なので

漫画『アキタランド・ゴシック』

好きな登場人物:アキタちゃん

好きな理由:つのと口調がかわいいので

小説『ブラインドサイト』

好きな登場人物:シリ・キートン

好きな理由:これは自分のことだ、と思えるので

まとめ

なんか表層的な理由が多くて情けない気がしてくる。

あと中性的な女性キャラに異様に偏っている。宇多田ヒカル由来なのかもしれない。

シン・ゴジラ追加覚書

d.hatena.ne.jp

シン・ゴジラ』には「行政」は描かれているが、「政治」は描かれていない、という話が上記のブログ記事でされている。この記事自体は書かれた当時に読み、そのとおりだと思った。

かつて『シン・ゴジラ』について少しだけ書いたことがあるが、そのときは「行政」と「政治」ではなく「縦」と「横」という言葉で内容を捉えていた(正確には「垂直」と「水平」と書くべきだっただろうか)。

シン・ゴジラ』において前半部の「行政」パートのモンタージュはきわめて秩序立って構成されており、基本的には首相の顔とそれ以外の政治家・官僚の顔とが切り返されていく。すべての意思決定は首相に切り返されていくのである。しかしながら、後半部の「政治」パートにおいては、モンタージュにそのような秩序だった構成が見当たらない。移動撮影を多用していることがそのスタイルなのかもしれないが、どちらかといえば、場面を順番につないでいくという通常の説話スタイルであって、前半部にあったように、行政機構そのものをカットの蓄積によって示すといったような、特殊なことは行なわれない。

前回の記事では、「前半部の意思決定は縦に伸びていく」、「後半部の意思決定は横に発散していく」と書いたものの、「横に発散していく」ということは実際どういうことなのか。普通の説話とどう違うのか。そのあたりは説明していなかったし、改めて考えても、前半部に相当するような例外的な処理が形式面において行なわれているとは言えない、少なくとも自分のブログ記事でそれを示すことはできていないと考え直した。移動撮影の多用こそがそのスタイルなのだとしたら、それは安易ではないだろうか。

ではどうして後半部には際立ったスタイルが確立されていないのか。それは、前半部では「行政」が意識的にかつリアルに取り込まれているのに対して、後半部では「政治」が本来のあり方からは遠いかたちで、つまりリアルじゃないかたちで取り込まれているからであり、そのことは『シン・ゴジラ』という作品の瑕疵ないしは限界に当たるのではないかと今では考えている。

上記のブログ記事で指摘されているとおり、『シン・ゴジラ』という作品にはリアルな「政治」があらかじめ排除されている。つまり、折衝・交渉・多彩な価値観の対立・矛盾といったものがあらかじめコントロールしやすい程度に排除されている。

脚本を担当した庵野秀明がそのことを自覚していたかどうかを調べることはしていないが、推測するに、多少不自然になったとしても、「政治」は捨てる判断をしたということだろう。折衝・交渉・対立・矛盾を作品に組み込むこと、すなわち本格的に「政治」を『シン・ゴジラ』に導入すれば、スムーズなストーリー展開は阻害されるに決まっているからだ。

したがって、アメリカからのドローン提供や、ドイツの科学者の協力、フランス政府の協力といった交渉パートは軽く流して、あくまで本題は土木工事さながらのヤシオリ作戦ということになる。

繰り返しになるが、仮に、交渉パートを前半部分の会議シーンでやったように泥臭く積み重ねた場合、それは前半部ほど整理されたものにはならずドラマとして停滞することは必至だ。前半部が秩序だったものになるのは、国家があたかも一つのシステムとして内的に完結しているかのように描かれていたからであり(これ自体がまずリアルではない)、意思決定のためのルールも整理されているからである。

それが一旦、国際政治という場面に移ってしまえば、上位決定機関は存在しなくなる。したがって、意思決定のルールは曖昧になり、利害やルールをほとんど共有できないからこそ、問題解決にはむしろ邪魔になるだけの、感情的で不毛な、そもそも議論とさえ呼べないようなものが現出してくる。そういうものが「政治」だろう。それに比べれば、かったるいとはいえ規則どおりに蓄積されていく一連の会議シーンのほうが、説話のスピーディーさを失わないで済む。

この「行政」と「政治」の中間地帯として用意された、理想的なコミュニケーション空間が「巨災対」の面々ということになるのかもしれない。「行政」パートの秩序だった説話やモンタージュとの形式的な対比はここにこそあるのかもしれない。なるほどそこには、「行政」パートにあるような垂直的な関係は存在しない。場を仕切る人はいるものの、発話者は思い思いに発言し、間違いは素直に認め、ゴジラ打倒という一つの目的にしたがって協力していく。愛想がなくても、口が悪くても、身なりが汚くてもそこでは問題にならない。そして、そこにいる人たちはみな頭がよく、優秀で、ほとんどが「理系」の人々である。SFにありがちな科学的ユートピア、なのかもしれない。


以上ぐだぐだと並べてきたのは、この問題が政治や行政をフィクションで描くときの問題に留まらず、ナラトロジーと会話の問題に拡大できるんじゃないかと思っていたからだった。

『シン・ゴジラ』は、震災の記憶を素材にして、ゴジラをアップデートさせたが、そこからは政治性が相当程度、脱臭されている。

とはいえ、既成の娯楽映画にありがちな「もめごと」や「すれ違い」を、つまりは「政治」を中途半端に導入すると、『シン・ゴジラ』にある美点は失われてしまう。

もっとも、ゴジラは54年のオリジナル版からすでに思いっきり政治的な映画だったので、「政治」に関する瑕疵を厳しく見て、まったく評価しない、、、という立場もあるだろう。

自分自身でも最近Twitterで、ドラマ「逃げ恥」の正月特別版である、ドラマ『逃げるは恥だが役に立つ ガンバレ人類!新春スペシャル!!』を見て、それに近い批判をした。

要するに、短時間でスムーズなストーリー展開をするために、題材の持っている政治性を脱臭し、議論パートを非常に恣意的にコントロールしていると非難したわけだ(論敵を雑魚に設定すれば、簡単に主人公たちに勝たせることができる、と)

ただこれって批判するのは簡単だけど、造形するのは相当難しい。

ポリティカル・フィクションは難しい。そして議論パートを作りこむことも難しい。どのように造形すべきか悩まされる。SF小説のように「世界観」で勝負する作品には、しばしば「思想」を持ち込むことが重要だが、それをどのようにするのかも非常に難しい。ストーリーテリング(ナラトロジー)と会話・議論のバランスも難しい。芸術娯楽の創作というのは難しいことばかりである。

翻訳:ピーター・ワッツ「ゼロズ」

ゼロズ
著:ピーター・ワッツ
訳:呉衣悠介


(訳文の見直し中です)
最終更新日:2021年5月6日(「死者の世界」周りに手を入れました)


Peter Watts の中編小説 ZeroS (2017) の日本語全訳。
原文は CC BY-NC-SA(表示 - 非営利 - 継承 )2.5の下に提供されており、翻訳はライセンスを継承している。

なお、本作品のCCについてはピーター・ワッツのホームページに記載がある。




 アサンテは叫びながら死に向かう。地獄はエコー・チェンバーで、叫び声と海水と金属がぶつかりあう音にあふれている。隔壁に沿って怪しげな影が動き、緑色の光の網目があらゆる表面に蠢いている。サヒリートたちは、輝くラグーンにいる生き物のように、船の 開口部 ( ムーンプール ) から浮かび上がってくる、と同時に発砲する。暗い霧の中、ラシダの胴体が爆発して、上半身がデッキの上にくずれ落ちる。キトは、物干しラックの上にある槍銃に向かって、まだ自分を引きずっている。まるでアンティークの魚の突き具が、この怪物たちを撃退してくれるとでもいわんばかりだった。やつらが手にしているのは、空気銃と小さな実包で、500気圧の圧縮空気が放たれるや否や、肉に弾丸が突き刺さる。
 アサンテの得物より優れていた。自分には徒手空拳しかない。
 その拳を使って、一番近いサヒリートに身を投じる。その女はキトを狙っていた。デッキがうめき声を上げて落ち、斜めになるのに合わせて、乱暴に拳を振るった。海水が船の 開口部 ( ムーンプール ) の唇を破り、メッキの上を滝のように流れ落ちる。 アサンテは向かってくる侵入者に拳を振りかざす。 相手は発砲するが、大きく外れ、蜘蛛の巣が窓に咲いた。ガラスが縁から内にかけて自己修復しようとしていても、中央から薄い水のしみがこぼれ出る。
 吹き飛ばされる前、アサンテが最後に見たのは、サヒリートの潜水服にある砂漠色のハンマーのアイコンだった。

***



 5年間


 流水。金属と金属。金属がぶつかりあう音と、水がごぼごぼいう音。低い声。狭く、息が詰まりそうな機械の反響音が、中ほどの距離からしている。
 アサンテは目を開ける。
 濡れた部屋の中にまだいる。ぼやけた天井にピントが合い、鋼板や支柱が見え、キトの馬鹿げた落書き(あらゆるトートロジーはすべてトートロジー)が塗料を削って描かれているのがわかる。緑色の光がバイオスチールの上でまだぼんやりと蠢いているが、殺気はそこから外に滲み出つつあった。
 首を回そうとしても、無駄だった。自分の身体をほとんどまったく感じられないのだ。まるで身体が 霊体 ( エクトプラズム ) でできているみたいで、腰のあたりのどこかに、肉体のわずかな残響が消えつつあった。
 昆虫の頭部を乗せた人間がこちらを見下ろして、二種類の声で話している。英語と、それに重なって聞こえるトゥイ語。「落ち着いて、軍人さん。リラックスして」と。
 女の声と、集積回路の声。
 サヒリートではない。だが武装している。危険だ。
 軍人じゃない、と言いたかった。叫びたかった。西海岸沿いの戦闘員と間違われるのは決して良いことではない。だが、囁くことすらできなかった。舌の感覚もない。
 アサンテは、自分が息をしていないことに気がついた。
 昆虫の女は(潜水服だ、今見ると、大顎は電気分解装置で、複眼は一対の屈折補正ゴーグルだった)、視界の向こうから戦術スクロールを取り出し、顔から半メートルほど離れたところで広げた。彼女が呪文を呟くと、それは柔らかく命を吹き込まれ、重なった一組のキーボードが表示される。上に英語、下にトゥイ語。
「話そうとしないで」と彼女は両方の言語で言う「文字を見るだけでいいから」
 Nに焦点を合わせると、文字が点灯する。O。T。その膜は予測変換したスペルをよこす。サッカードから文字への変換を加速しているのだ。

    軍人じゃない 養魚家だ


  「ごめんなさいね」彼女が翻訳機をしまうと、トゥイ語のキーが点滅して消える。「言葉のあやなの。あなたの名前は?」

 コジョ・アサンテ


 彼女は屈折補正ゴーグルを額に押し上げ、下顎を外した。その下顎は落ちると、一方にぶら下がる。その下は白かった。

    キトは


「ごめんなさい、ダメだった。みんな死んだの」
 みんなが、と考えた。そして最後に、衒学趣味が癪にさわるといって嘲ってきたキトのことを脳裏に描いた。
「見つけた」向こうの区画から、男の声がした。「コジョ・アサンテ、タコラディ出身。28歳、標準的な内水面漁業……待て、戦闘経験がある。 ガーナ空軍 ( G A F ) に2年いた」
 アサンテの瞳は、キーボードの上を必死で駆け巡った。ただの養魚家だ。違う。
「心配しないで」彼女はなだめるように手のひらを置いた。アサンテはその手が身体のどこかに置かれているのだと推測することしかできなかった。「誰だってこの辺りでは戦いを目の当たりにしてきた。でしょう? あなたは自分の住む3000メートル以内で唯一信頼できるタンパク質源に陣取ってきた。当然、たまにはそれを守るために戦わなくちゃいけない」
「待って」 彼女が別の声にふり返った拍子に、肩章が目に入った。西半球連合。「彼をリストに載せることもできた」
「やるなら、早くしろ。約2000メートル先、海面に反応あり。近づいてくる」
 彼女はアサンテに向き直った。「こういうこと。わたしたちは間に合わなかった。そうすべきじゃなかったのに、うちの士官がサリーの計画を聞きつけて、ちょっと人道的な手段を取ろうとしたってところ。言うなればね。わたしたちは奴らを追い払って射撃を始めたけど、その時にはもうあなたたち全員が死んでいた」

 おれは死んでない


「ええ、コジョ、あなたもだけど、全員死んだの」

    生き返らせてく


「そうじゃない」

    だが


「わたしたちは、あなたの脳を急発進させた。それがすべて。電流を流すと勝手に足が痙攣するのを知っている? ガルヴァーニ電気がどういう意味か知っている、コジョ?」
「彼は海洋分子生態学の博士号を取っている」とこちらからは見えない彼女の同僚がいう。「知っていると思うね」
「あなたはほとんど何も感じない。そうでしょ? 幽霊みたいな身体じゃない? 残りの部分を再起動できなかったの。死んだことに気づいていない神経から感覚のなごりを受け取っているだけ。あなたは箱に入れられた脳ってこと、コジョ。ガス欠で走っている。
 でもね、ここで重要なのは、あなたは死なずにすむってこと」
「急げ。最長でも、10分しかない」
 彼女は肩越しにチラッと見て、またこちらに向き直った。「リヴァイ・モーガンに装置がある。それであなたを繋ぎ合わせ、氷に漬けておく。家に着くまでね。そこには奇跡を起こす装置があって、あなたを元通りにできる。けど安くはないわ、コジョ。これをやるといつも破産しちゃう」

 金は持ってない


お金が欲しいわけじゃない。わたしたちのために働いてほしいの。5年間、技術の成果によってはもっと短いかもしれない。その後は自分の道を歩めばいい、銀行の残高が増えて、第二の人生のチャンスよ。簡単な仕事だから、信じて。あなたは自分の体に乗ってるだけ。新兵訓練でさえほとんど自律的にやる。本当に高速化されたプログラムだから」

 西半球連合はダメだ


「あなただって覇権勢力じゃない。もう何者でもない。ジャンパー線につながれた腐りかけの肉でしかない。わたしは、あなたに救いを与えようとしているの。あなたは生まれ変われる」
「さっさとしろ。敵が迫っている」
「もちろん興味がなければ、わたしはプラグを引き抜くだけのこと。拾った命を捨てればいい」

 ダメだ お願いだ わかった


「なんて、コジョ? プラグを引き抜いていいってこと? 置き去りにしていい? もっと具体的に言って。ここでは契約交渉をしているんだから」

 イエス 生まれ変わる イエス 5年間勤務。


 この逡巡の震えを不審に思った、死んだ方がいいのではないかと囁く声を。もしかすると、それはまさに死んでいるせいかもしれない。たぶん、内分泌腺が全部窒息していて、恐怖で自棄になって何としてでも生き延びようとしている脳を、正しい霊薬で満たすことができなくなっているのだろう。死んでいるということは、つまり全部どうでもよくなるということなんだろう。
 だがそうはならなかった。おそらく、自分は死んでいたが、内分泌腺はそうではなかったのだ、まだ。ノーとは言わなかった。
 これまでノーと言えた奴はいるのだろうかと、訝しんだ。
「栄光あれ、ハレルヤ!」女は宣言した、それはステージ外にある不可視の制御盤に届く。そして、すべてが暗転する直前。
「ようこそ、 屍者 ( ゾンビ ) 兵団 ( コープス ) へ」


***



 救世の機械


 呼称通りのものではないが。
「ひとつだけはっきりさせておく。どんな作戦も、戦場に兵士を送る理由にはならない」
 それは ゼロズ ( ZeroS ) と呼ばれている。不思議なことに、Zはゾンビの略ではない。
「どんなに優れた作戦でも、いきなり戦場を必要とする理由にはならない。そのために経済工学とクラウドコントロールがある」
 Sは 分隊 ( スクアッド ) の略ですらない。
「それが失敗したら、 無人 ( ドローン ) とボットと 戦術人工知能 ( T A I ) の出番だ」
 ゼロサム。シラノ下士官が言うには、駄洒落だろ? コギト・エルゴ。キチガイ部隊よりはマシだ、というのがガリンの言だ。
 アサンテは戦術オリエンテーションで人工教官の話を聞いている。ほとんど人間同然だが、聞いていても死ぬほど退屈にならないところは違う。
「お前たちがデッキに呼ばれる理由はひとつだけ、だれもかれもが紛争解決を完全に失敗したときだ。紛争地帯には何も残っておらず、混沌が猛威を振るうばかりだ」
 アサンテは山の脇を走っている。美しい道だった。岩と松と苔むした倒木が20キロもつづく。アフリカ北部の砂漠地帯すべてを合わせたよりも多くの緑が、この斜面には生い茂っているかもしれない。それを目にしたい。
「お前の存在は、作戦がすでに失敗したことを意味する。お前の仕事は、残骸の中からできる限りのものを救い出すことだ」
  だが、見ることはできない。何も見えないんだ。アサンテは起床ラッパの時から目が見えなくなった。
「お前たちにとっては幸運なことに、経済学とクラウドコントロールと戦術人工知能は手酷く失敗している」
 盲目は完全ではない。まだ光を、一定の動きをした、ぼんやりとした形を見ている。蝋紙を通して世界を見ているようなものだ。乗客になると目が動く。もちろん、目は常にピクピクしていて、ある瞬間の焦点から次の瞬間の焦点へと果てしなく飛び回っている——サッカードだ。しかし、脳は通常、それらの動きを編集して、連続性という錯覚を与えるために、明確な断片をひとつにつなぎ合わせる。
 だが、ここでは違う。ここでは、サッカードの比率が限度を超えて、何も失われない。すべてのデータが取得されるのだ。アサンテにとってはすべてが大吹雪の中で霞んでいるようなものだが、問題はなかった。一緒にいる何かが物をよく見ていて、手足は動いている。結局のところ、コジョ・アサンテが身体を動かしてるわけではない。
 他の感覚は正常に働いている。壁を登っているとき、手のひらにロープのざらつきを感じ、道に敷かれた土と松葉の匂いを嗅ぐ。数キロ前に、頬の内側を噛んだときの銅の味がまだかすかに残っている。聴覚リンクの声がはっきりと聞こえている。内なるゾンビはその声を聞いているが、鼓膜にサッカードはない。触覚神経は肉の下で飛び跳ねたりしない。ただ目を見れば分かるはずだ。全身がエイリアンハンド症候群に憑依されているということを。
 アサンテはそれを〈 邪悪な双子 ( Evil Twin ) 〉と呼んでいる。週に三回、8歳のコジョが夢遊病で歩いているところを捕まったあと、父親がつけた名前だった。そのことを朝食の時に一度だけ、部隊の連中に話したのは間違いだった。まだその失敗から立ち直れていない。
 今は面白半分で、一瞬でもいいから自分自身を止めようとしている 。E.Tはこの2時間ほど、不安になるほど自律的に、走ったり、跳ねたり、這ったりしている。それは一ヶ月前に大脳皮質に焼きつけられた脳梁大後部皮質のバイパス装置で、自己と心を切り離すための小さなゲートだった。ニューラルレースと、ナノチューブメッシュと、古き良き電気ショックで刻み込まれたモジュールの一つだ。中脳を微調整して、古代の獲物追跡ルーチンをカスタマイズしている。前頭眼窩のダンパーが行動規範の遵守を確かなものにするのだ(マドックスが言うように、伴侶にキーを渡しっぱなしにして、返して貰えないようではいけない)。
 頭皮は新しい傷でかゆくなっている。頭は不穏な惰性で動いていた。まるで1キログラムの鉛と、かなりのヒ化物と炭素が重くのしかかっているかのように。自分はその脳に詰め込まれたものの10分の1も理解していない。死後の生活を理解していないのだ。しかし神よ、強くなるということは、何と素晴らしいことなのだろう。この体であれば、片手で一個小隊を倒せると感じている。
 時には、取引に参加しなかった他の死体の名前を思い出すまでの5分、10分もの間ずっと、そう感じることがある。
 何の前触れもなく、E.Tは踊って片側にうつり、腕を上げる。そして突然、アサンテの目は見えるようになった。
 霧の海に小さな切れ目が生じたのは、ほんの一瞬のことだ。ロッキード・ピットブルがアサンテの左にある剥き出しの花崗岩のてっぺんに登り、脚を広げ、マズルを回転させて狙いをつけている。次の瞬間、アサンテはふたたび盲目になり、小さな地震のような反動が腕に沿って伝わった。肉体はまだ、歩くペースを崩してさえいない。
「ああ、目標捕捉だ」と教官が言う。「景色を楽しめ」この機会に——視線のネットワーク形成についての長口上に移る前に——基本を要約しよう。狙いを定める瞬間にだけ、乗客はものを見ることができる、それほど長く、眼球が一点を見つめるのだ。
 アサンテは他人が何を聞いているのかわからない。ティワナは、他にいる唯一の新兵だから、同じ入門編のモノローグに耐えているのかもしれない。カルムスはそろそろ野外治療まで進んだかもしれなかった。ガリンは工学の道に進んだ。アサンテは生物兵器の分野に進む、とマドックスは言っていた。
 現場での仕事に耐えうる専門家になるまでは、19ヶ月の訓練が必要になると言われている。ゼロズはそれを7ヶ月でやる。
 アサンテの足が動きをとめた。四方八方から激しい呼吸音が聞こえて来る。メッツィンガー中尉の声が、耳の間をくすぐる。「乗客らは、コックピットに入ってもよろしい」
 スイッチは視覚野に埋め込まれていて、想像力と結びついている。それはマンダラと呼ばれていた。どんな新兵も自身のものを選び、秘密にする。熱い戦いの最中、看板に落としたマスターキーを狡猾な敵に拾われる可能性はなかった。技術者ですらパターンを知らない。インプラント二重盲検法の試行錯誤のなかで条件付けされていた。何か個人的なものを、と言われた。ユニークで、目に浮かべやすいものを
 アサンテのマンダラは、サンセリフフォントで書かれた四つの単語の連なりだ。今それを呼び出す——


    あらゆるトートロジー
    すべてトートロジー


 ——世界がカチリと音を立て、不快なほど唐突に、ピントが元通り合うようになる。身動きしていないのにつまずいた。
 思ったとおり、左手がぴくぴく痙攣しだす。
 アサンテたちは、山の中腹ほど、陽当たりがよく、傾斜した牧草地にさしかかっていた。そこには花もある。虫も。すべてが生きた匂いを放っていた。シラノは震える腕を空にむかって上げた。カルムスは草の上に腰を落とし、回復に努めた。伴侶たちが主導権を握っていたときにはほとんど感じられなかった数多の消耗、通常の2倍のミトコンドリア量と、AMPKアゴニスト、そしてそれ以外に、自分たちを統計分布の 右端 ( テール ) 中の 右端 ( テール ) にするために一ダースはある微調整、そういったものを使い尽くしてもなお衰弱状態から戻らないような消耗からの回復だ。アコスタはその横に腰を下ろし、陽光にニヤニヤしている。ガリンが枯れた丸太を蹴ると、驚いたことに生きた蛇が芝生に滑りこむ。黄色と黒がリボン状の体色で、舌をちらつかせている。
 ティワナはアサンテの肩にいた、同じように傷だらけで頭を剃っている。「綺麗ね、そうじゃない?」彼女の右目はすこし歪んでいた。それを凝視したいという衝動に抵抗するため、彼女の鼻梁に焦点を当てる。
「この2時間、頭にフードをかぶっていたことを埋め合わせるほどじゃないね」サックスは、無意味な愚痴にふけっている。「俺らに視覚映像を寄越すのが死ぬほど難しいのか?」
「ただ眠らせておくのすら死ぬほど難しいみたいね」カルムスがぶつくさ言った。二人とも、そこまで事が単純じゃないということはわかっていた。脳は、地下室から屋根裏部屋までループしたり戻ったりを繰り返す、もつれたケーブルだ。リビングの明かりを消せば、ボイラーが作動しなくなるかもしれない。 番組ごとの課金 ( ペイ・パー・ビュー ) だって見込みが薄い。理論的にいえば、ピクピク動く目を完全に迂回できない理由はない。パイプを通じて、大脳皮質に直接カメラの映像を送るのだ。しかし、自分たちの脳はすでにインプラントで埋め尽くされているので、必需品ではないもののために残された土地は少ない。
 とにかく、マドックスが言ったのはそういうことだった。
「ぼくは気にしない」とアコスタが言う。口角のチックのせいでその笑顔はひきつり、こちらを不安にさせる。「いつもこんな景色があるなら、オフラインの時間をあと2倍は我慢できるのに」アコスタは自然を見つけてスクラップするために生きている。彼の生まれ故郷グアテマラは42年に、回転木馬のごとき炎の嵐にあって、林冠の大半を失ったのだ。
「あなたにも何か得るものがあるの?」とティワナは聞いた。
 アサンテは、その質問が自分に向けられているということに気づくまで、時間がかかった。「というと?」
「アコスタは野生児でしょ。カルムスは、この技術が発表されたら大金持ちになれると思っている」これはアサンテには初耳だった。「あなたはどうして契約にサインしたの?」
 どう答えればいいかよくわからなかった。自分自身の経験から判断すれば、ゼロズは契約してなるようなものではない。むしろゼロズがこちらを見出すのだ。おかしな、そして立ち入った質問だった。深く考えたくないことを思い出させる。
 もう十分過ぎるほど深く考えたことを思い出させるのだ。
「えーっと——」
 ありがたいことに、マドックスがタイミングよくコート基地から通信を寄越してくれた。「オーケー、みんな。症状をチェックするぞ。シラノ」
 伍長は自分の前腕に視線を向けた。「とてもいい。ぴくぴく動くけど、普段よりマシだ」
「カルムス」
「あたしは、あ、あ...」彼女はどもりながら奮闘したが、結局のところ、いらついて唾を吐いた。「クソ」
「いつもの失語症と記録しておこう」とマドックスは言った。「ガリン」
「視覚がちかちかする。5分毎に、いや10分毎にだ」
「進歩したな」
「運動をしたときは調子が良くなる。血行が良くなるからじゃないか、多分」
「興味深い」とマドックスは言った。「ティワ——」
「見える、神よ、あなたが見える!」
 サックスは地面に倒れ、もがき苦しんでいた。目は眼窩で回転している。指は土を摑もうと引っ掻いていた。「わかったぞ!」彼は叫ぶと、わけのわからないことを口走りだした。頭が激しく動き。口から唾液が飛び散る。ティワナとシラノが近寄ったが、聴覚リンクには神の声が鳴り響いた、「近寄るな! 全員いますぐ離れろ!」みんなが従ったのは、神がデヴィッド・メッツィンガー中尉の声で話しているからで、彼を怒らせたくなかったからだ。神の息吹が天国より吹き下ろされる。全員が目の当たりにしてもまだ信じられないほど静かに、医療用ヘリが空気を叩いている。ステルスモードは必要はなかった。ずっとそこにいたのに、決して存在しなかった。もしもの場合に備えて、ただ視界の外にいたのだ。
 サックスはわけのわからないことを話すのをやめていた。顔はひきつった笑顔になり、背骨は弓なりに曲がっている。 ヘリは着陸した、そのバタバタバタという音は、10メートルの近さにあってもかろうじて聴こえる程の静かさだった。ヘリは衛生兵と担架を、そして腹に昆虫の脚を折り畳んだ、光沢のある黒いイースターエッグのようなドローンを吐き出す。ゼロズは後ずさりし、衛生兵は近づくと視界を遮った。
 再びメッツィンガー。「よし、肉塊ども。全員、後部座席に。コートに戻れ」
 シラノはその場を離れた、目はすでにピクピクさせながら。ティワナとカルムスはしばらくして向かう。ガリンは途中でアサンテの背中を叩いた、——「おい、もう行くぞ。よくあることだろ?」——そして頭の中へ消えていった。
 ヘリはサックスを天国へと連れていく。
「アサンテ二等兵! 今すぐにだ!」
 開けた土地にひとりだけで立ちすくみ、マンダラを呼び出すと、無明の世界へと落ちていった。身体が向きを変える。足が動く。何かが自分を坂道へ走らせる。人工教官は、常に文脈に敏感で、戦場での損失への対処方法についての講義をはじめる。
 すべて最善なのだと、わかっている。このような時には乗客でいることが一番安全なのだ。どんな不具合も、副作用も、ゾンビモードでは現れない。
 完璧に理解できる。これにありったけの金をつぎ込んでいるのだ。



 今でも時々、夜中に起きることがある。自分自身がまだ存在するという事実を再認識してショックを受けるのだ——死まであと一歩だったのだと、何日も何週間も後になってようやく実感したかのようで、膝から力が抜け、息が切れる。 気がつくとマンダラを呼び出していた。とっくの昔になくなった脅威の刺激に対して闘争/逃走反応が働いたのだ。天井を見つめて、パニックを抑え、同僚の新兵たちの寝息から慰めを得る。キトとラシダのことは考えないようにする。まったく何も考えないように。
 時々、気がつくとひとりでコモンズにいることがある。だが近くには不可視のドローンがホバリングしており、最近施された百もの改造に対する暴力的な反応が遅れて生じた場合に備えて、いつでも警告を発して薬を注入できるよう待ち構えている。 カナダ軍基地 ( C  F  B ) コート支部のできそこないの端末(ネットサーフィンはできるが、送信はできない)のひとつを通じて世界を見ていた。ケーブルと光ファイバーをすり抜けて、いくつもの静止軌道を中継して跳ね回り、はるばるガーナまで戻ってくる。ケープ・ウニベルシタスのハブにある、眩暈がするほど巨大なエッシャー 環境建築 ( アーコロジー ) を衛星カメラで見下ろしたり、マコラの東を通り過ぎるドローンに便乗したり、6歳のときに生物学への情熱に火をつけることになった巨大な遺伝子組み換えカタツムリ(遠心分離機ほどの大きさのものもある)を見て改めて驚嘆したりするのだ。よく知っている通りを訪れる、そこの中国人がプリントしてくれるケンキーと魚はいつも美味しかった。たとえそのレシピが地元のコピーに違いなくても。アダエ祭の間ずっと、ドラムを叩いているストリートドラマーたちの壮麗なカオス。
 友人や家族を探そうとはしなかった。心の準備ができていなかったせいなのか、それとも彼らが過去のものになったせいなのかはわからない。わかるのは、やっと眠ってくれた物事の目を覚ましてはいけないということだけだ。
 ゼロサム。新しい生。または、しばしば武力紛争を正当化するために使われる、古くからあるゲームだ。
 またはヌル・イグジスタンスラテン語がお好みなら。

***


 ガルベストン湾の上昇する水位に晒され、長く放置された沈みかけの分譲地に、プラントの施設群がぼうっと現れた。大聖堂のように巨大だが、錆びて崩壊しつつある貯蔵タンク、12階建ての濾過塔、歩けるほど大きな捻れたパイプの塊。
 ガリンが傍ににじり寄ってきた。「カニがタコをヤってるみてえだな」
「君の小僧どもはピクピク動いているように見えるが」と保安官が言った(アサンテは身震いを抑えるために拳を握りしめていた)。「何かに興奮しているのかね?」
 メッツィンガーはその質問を無視した。「やつらの要求は?」
「いつものやつだ。配給をやめろ、でないと爆破する」保安官は頭を揺らし、額の汗をふくために身動きする。もう少しで自分の顔を殴るところだったのは、ガタのきたボンバルディア製外骨格が誤作動して、動きを過剰に補正したからだ。「エドワーズが干上がってから、何もかもダメになった」
「やつらは淡水化施設を爆破することで、水不足に応じようとしていると?」
 保安官は鼻を鳴らした。「あんたのいたところじゃ、人々はいつも理にかなったことを言うのかい、中尉?」
 ここにくる途中に、プラントのスペックについてはリベットひとつに至るまで調査していた。あるいは、少なくともゾンビたちは調査していた、まったく静かに、動画と背景説明に借り物の目を細かく震わせる。たとえ目が見えていたとしても、アサンテには理解できなかっただろう。アサンテが知っているのは——メッツィンガーがエコノミー・クラス向けに配り直してくれた粗末なブリーフィングによると——その施設はカタールから買い戻されたということだ。まだ塗装が剥がれ、金属が錆びていた時代、大地から粘性の化石を掘れば惑星を買えるほどリッチになれた時代に。しかも施設は荒廃しつつあり、今やそういったことはもはや何ひとつとして真実ではない。
 テグジットの経験のほとんど完全な縮図を、彼は示していた。
「やつらは綿密に計画している」と保安官は認めた。「爆弾をクソ大量のコンデンサと一緒に詰め込んで、それをクレーンに繋いで、正しい場所に積み上げてやがる。 四翼無人 ( クアッド ) を送り込んでも、EMPで落とされるだけだ」彼は肩越しにちらっと振り返った——目を凝らせば——アスファルトから立ち昇る陽炎から、駐機中のチヌーク輸送機の輪郭がわかりそうだ。
「EMP耐性でもない限り、外骨格を使うのは多分リスキーだ」
「我々は外骨格は使わない」
「俺らが知る限り、奴らはコンデンサのそばにもいれば、熱交換器のすぐ隣にもいる。マイクロ波で奴らを追い出そうとしたら、パイプが全部爆発しちまう。こっちから吹き飛ばすようなもんだ」
「火力は?」
「なんでもある。シグ・ザウエル、ヘッケラー&コッホ、メイスシス。ひとりはスコーピオンを持っていると思う。わかる限りでは、全部質量弾だ。お前さんを焼くような武器はないよ」
「足は?」
「ウルフハウンドを持ち込んでいる。46ーG」
「あなたのことを言っているんだ」とメッツィンガーは言った。
 保安官はたじろぐ。「一番近くにでも3時間かかる距離だ。足が不自由なんだ」そしてメッツィンガーを見た。「ボストン・ダイナミクスは2、3年前に引き揚げた。うちは交換部品の調達に苦労している」
「地域の法執行官はどうしているんだ。あなたひとりってわけじゃ——」
「あいつらの半分は当の法執行官だ。やつらがどうやってウルフハウンドを手に入れたと思う?」と保安官は声を低くした。愛国者に聞こえるわけでもないのに。「なあ、他に選択肢があったら、あんたらを招いたと思うか? クソ、だからな、法と秩序を現状維持するのにもう、これ以上のトラブルは御免なんだよ。クソ忌々しい内輪揉めのために外部に助けを求めたなんて噂が立たれちゃ…」
「ビクビクするな。我々はネームタグを付けない」メッツィンガーはシラノに向き直った。「さあ始めろ、曹長
 メッツィンガーが覆い隠されていたチヌークに消えると、シラノは部隊に話しかけた。「自分にさよならを言うんだ、全員。30秒以内に自動操縦に切り替えろ」
 アサンテはため息をついた。哀れな奴らにチャンスはない。連中を責める気にすらならない。絶望と飢えに駆られて、他の選択肢がない奴らのことを。過去、別の人生の終わりに、自分を殺したサヒリートたちのように、結局のところ、もう食べるものがない荒れ地に生まれた罪で地獄に落とされた連中なのだ。
 シラノが片手をあげる。「位置に」
 アサンテはマンダラを表に呼び出す。世界は灰色になる。調子の悪い手が落ち着くと、武器の前軸に定まる。
 こいつは酷いことになるだろう。
 喜ばしいことに、それを目にすることはない。


***


 英雄夢語り


 当然、あとで見ることになった。コート基地に帰るとすぐに、全員がその映像を見た。自分たちはまだ学習中で。世界は教室だ。
新生代には反射が重要だった」オリバー・マドックス少尉(神経工学の聖職者であり、滅多に見かけないエマ・ロシター少佐に仕える、魔法使いの弟子だ)は自分の誕生日パーティに浮かれる9歳の子供のように興奮して喋っている。「ダブルタップ、ダッシュ、ダウン、腹這い、観測射撃。こういうのは全部、誰かが戦闘中に突然会敵と叫んだときでも、身体が覚えていて考えずにできることだ。プログラム全体がそもそも、単にこのマクロを高速化するものに過ぎなかったんだ。潜在意識は、反応することと同じくらい思考することが得意だっていうことを、奴らはちっとも理解しちゃいない。潜在意識は分析するんだ。何年も前から奴らにそう言ってるのに、今だに全然理解してくれないんだよ」
 アサンテはその奴らに会ったことがなかった。呼ばれないからだ。間違いなく、ここに訪れたこともないはずだ。おそらく奴らはたくさんの小切手にサインをしているのだろう。
「でも、ここには、ゾンビ・マインドが戦闘の天才であることを示す完璧な見本がある」
 BUDはあらゆることを記録する。マドックスはその記録をまとめて事後分析にかけ、ベスト盤を作ってきた。リモート温度センサとPEAを使い、外挿アルゴリズムをちょっとかじってそのギャップを埋めたのだ。そして彼はゲーム盤をセットアップした——壁、床、産業的内蔵、すべてが魔術的に透明化されている——そして、その内部にいる人間たちを初期化した。
「で、18人の重武装の敵が難所を死守している」重要地点の 小人 ( ホムンクルス ) たちが赤く光る。「戦場はジャミングされていて、視線の先にいなければ、テレメトリ信号は共有できない。ちょっとでも音を立てたものはすべて攻撃するようプログラムされた、抗EMPロボットが配置されている。全帯域に対して耳を塞いでいるから、仮にバックドア用のコードがあってもロボットは聞き入れない」ウルフハウンドを示すアイコンはひときわつやつやと光沢を放っていた。おそらくボストン・ダイナミクスの販促物をくすねたのだろう。「デッドマン装置を手にした、イカれたクソ野郎もいる。そいつの心臓が止まった瞬間——あるいは単に諸君らが ( フラッグ ) に近づきすぎていると奴が考えでもしたら、すべての場所が空高く吹き飛ばされる。こちらは、それを知ることさえできない。
 とはいえ」
 マドックスは時計を進めた。迷宮の内部で、アイコンたちが早送りで踊りはじめる。
「まずガリンが動いて、すべてを台無しにする。目標を掠める——たぶん、血も出てない——だけじゃ飽き足らず、消音装置を外したままだった。やっちまったな、ガリン。目標を無力化するのに失敗して、今や建物内の全員がお前の位置を知った」
 アサンテはその銃声が施設内を通り過ぎていったことを思い出す。胃袋が落っこちるほど、ぞっとしたことを思い出した。
「そして南部野郎のひとりが、すぐ近くにやってきている——ガリンはまたミスをしたわけだ! このときも肩に傷を負わせただけ。そこへ連中の中でも最低最悪なウルフハウンドがやってきて、ガリンの射撃を追跡し、しかもそのクソ野郎は武装していて、興奮していて、そのうえ…」
 46-Gは角を曲がる。ガリンを狙っているわけじゃない。そいつらは謀反者どもを照らしている。南部野郎とその相棒は、小さな赤いピクセルの塵の山と化した。
「奴らはこうなるのが見えていなかった」マドックスは大喜びする。「自軍のロボットに殺されたんだ。が起きたと思う?」
 アサンテは顔をしかめる。
「連中は二人斃れた。ガリンは梯子を上ってキャットウォークに立ったところでロボットに狙いを定められるが、このとき建物のはるか反対側にいたティワナが、ガリンとおよそ半秒の見通し線通信を交わす」それぞれのアイコンの間に一筋の明るい光が点滅する。「ティワナは一階に下りて、向流装置のそばで南部野郎どもを仕留めはじめる。結局わかったのは、ティワナもガリン並みに下手くそで、サイレンサーの扱いが雑だったってことだ」
 いたるところで、誰もかれもが撃っている。アサンテは目が見えず、クソを漏らすほどビビってたのを覚えている。いったいどんな畜生があんな馬鹿げた間違いをしでかしたのか、と。ラン・セチが右手に上がってくるまではそう思っていた。 反動を感じ、自分の発砲音がまるで130デシベルの弾丸のように自らの背中のど真ん中を撃ち抜くまでは。不思議に思ったのは、あの時、どうやって、そしてなぜ、部隊全員のサイレンサーがあんな風にダメにされてしまったのか、ということだった。
 マドックスはまだゲームに夢中だ。「悪党どもは騒動を聞きつけて再配置をはじめた。ここにきてアサンテとシラノにも下手くそな射撃が伝染するが、ボストン・ダイナミクスのロボットはまだ味方を引き裂いて回っていた。これらすべてが突破口となり、カルムスが容易く仕事をこなすことができた——誰か、彼女が完璧な位置取りをしていたのが偶然だった確率がどれくらいあるか推測したい奴はいるか?—— デッドマン装置を持った男にクリーンショットを当てたんだ。そいつは頸部を完璧に撃ち抜かれて倒れる。哀れな野郎は完全に無力化されたが、その心臓の鼓動は強く、安定したままだ。ここで、カルムスが男をよく調べて、もう役立たずになった最後の審判マシーンを無力化するところを見てみよう。
 諸君らは、これ全部をやるのに5分もかからなかったんだ。つまり、突入から脱出まで18分かかったが、5分から先はおおむね掃討戦だったってことだ。エンドクレジットが流れる直前に、 カルムスはウルフハウンドまで我が物顔で静かに歩いてゆき、その獣を撫でて、眠らせてやった。ガルベストン警察は、ロボットをひっかき傷なしで取り戻した。これで5分。魔法のようだ」
「それで、その」ガリンは周囲を見た。「俺らはどうやってこれをやったんだ?」
「見せてやれ、カリー」
 カルムスはカフスボタンを掲げた。「どうやらあたしはこれをデッドマン装置の男から奪ったらしい」
「犬笛だよ、r戦略者K戦略者のみなさん」マドックスがニヤリと笑う。「50キロヘルツで、乗客にもパイロットにも聞こえない。敵味方を区別する方法なしにロボットを狂犬モードにはしないよな? このピンをつけておけば、オオカミくんにじろじろ見られない。ピンを失えば、秒で喉を切り裂かれる。
 君たちの伴侶らは静かに殺すことだってできた。そうすれば残りの戦力は潜伏したままで、まだ防御を固めていて、どこにも行かなかっただろう。だが奴らの防御を固めていたもののひとつは、ボストン・ダイナミクスの最強の戦闘ロボットだった。だから君たちの伴侶たちは静かに殺すことを目的にしなかった。騒音と混乱を狙った。犬笛を撃ち、犬を引きずり込んで、主人を攻撃させたんだ。君らはロボットを追い込み、ロボットは謀反人を照準の十字線に正確に追い込んだ。それはカオスの中の精密さだった。それ以上に印象的だったのは、君たちが通信をしていなかったことだ。ときおり直線状に位置したときにレーザーで同期していたのを除けば。想像できるなかで最悪にめちゃくちゃで、まばらなネットワークになるはずだった。この目で見てなきゃ、不可能だと言っていたところだよ。でもどうやってか、ゾンビたちはお互いの状況報告を更新し続けていた。他人も同じようにやることを想定し、それぞれが最適な結果を得るためになすべきことを知っていた。そして集団戦略のようなものが——生じた。誰も命令しない。誰も一言だって喋りやしない」
 今、アサンテはそれを目撃している。リプレイが繰り返され、もう一度始まるのを見ている。そこには一種の美しさがあった。ノードの動き、それらの間でちらつく散発的なレーザー光の網、ノイズから生じた信号が滑らかに結合する。それはダンス以上のもの、チームワークを超えたものだ。なんというか——分散型の生物のようなものだった。ひとつの手にそなわった指のように、一緒に動いている。
「注意しろ。このことは他人に訊かれても話してはならない」マドックスは付け加える。「我々が口にするのはこうだ。ガルベストンのプラントが落ちた場合、それがポスト・テグジットの風景全体をひっくり返すきっかけになるだろうと、全てのシナリオが予測していた。95パーセントの確率で、西半球連合の目と鼻の先の広範囲に、反乱と社会不安が起きていたはずだったが、ゼロズがその運命を、鮮やかにそして静かに回避した、そう指摘する。諸君らの初陣としては悪くない」
 ティワナが手を挙げる。「誰が訊いてくるんですか?」
 いい質問だった。アサンテがゼロサムに参加してからの13ヶ月間というものの、 カナダ軍基地 ( C  F  B ) コート支部の敷地内に部外者が現れたことはなかった。特別驚くべきことでもなかったが、ここ2、3週間ほど公的な記録を調べたところによれば、ともかく、 カナダ軍基地 ( C  F  B ) コート支部はかれこれ20年以上閉鎖されていたのだ。
 マドックスはほのかに微笑む。「伝統的な指揮系統の内に既得権を持つ者だ」


***

 僕らは今どこにいるのか


 アサンテが医務室で目覚めると、カルロス・アコスタのベッドの足下に直立していた。右側にある半開きのドアから漏れる薄暗い光で楔形に照らされた使い古しのリノリウムの床が、戸口の先にあるに闇へと薄れてゆく。小さな赤い「非常出口」の標識が階段の吹き抜けの空間にあって燃えるように輝いている。左側には、ガラス越しに神経外科の手術室が覗く。その天井に吊り下げられ連結された遠隔手術具は、カマキリの腕のような関節にありえないほど華奢な指をくっつけたようだった。それと幾つものレーザーを。幾つもの針とナノチューブを。原子間力マニピュレーターはひとつひとつの原子をバラバラに取り出せるほど繊細だ。ゼロズはみんなこのナイフに数え切れないほど施術されてきた。大抵の場合、手術はソフトウェアによって行われるが。 たまに非公開の場所にいる人間の医者が電話を使い、 アサンテを切るまでは使われたことのないような旧式のカッターで手術をする。
 アコスタは仰向けに寝ており、目を閉じていた。死んで、安らかに眠っているように見えると言ってもいい。顔のチックさえ穏やかだった。 イラクリオンでスマートフレシェット弾の群れにやられ、右腕を失ってからというものの、彼はもう3日間はここにいた。大したことじゃない。持ち込まれた有尾類のDNAと、ステロイド注入されたアミノグルコースの点滴の助けを借りて、元通りになりつつあったのだ。彼は3週間後には新品同様の状態になるだろう——ゼロズが彼を手に入れてからずっとそうだったように——とにかく、その半分の時間でもあれば自分の寝床に戻れるはずだ。その間、バランスを取るのは難しい。新陳代謝ジェット気流の如くブーストされているかもしれないが、それはすべて組織を再生するために使われる。かろうじて風呂場に行く程度の力が残るか、というところだった。
 コジョ・アサンテは、どうして深夜3時にここに立っているのかを不思議に思った。
 マドックスが言うには、時々ちょっと夢中歩行する程度のことは、とりわけすでにその傾向がある場合には、あまり心配することではないらしい。ガルベストンの件までは、数ヶ月もの間、誰も大きな発作に苦しんだことはなかった。最近の調整は、主に微調整のようだった。もしもの場合に備えて 無人 ( ボット ) を用意させるのをロシターがやめさせてから長い。かつては、台本にないことをするたび、そいつらに嗅ぎ回られていた。時折、調子のいいときは基地を離れることさえできた。
 とはいえ、たまには副作用が長引くこともあるだろうから、それも想定しておく必要がある。アサンテは自分の手の内にあって、隠しようもない震えを見下ろすと、もう一方の手でそれを優しく掴み、神経が静かになるまでしっかりと固定した。友人を振り返る。
 アコスタの眼が開いていた。
 その眼はこちらを見ていない。 おそらく、何かを見るほどには一点に定まっていなかった。アコスタの顔で跳び跳ねては、痙攣するように、前後上下に動き回っている。
「カール」とアサンテは優しく言った。「よう、調子はどうだ?」
 眼以外の部分はぴくりとも動かない。アコスタの呼吸は変わらないままだ。彼は話さない。
 ゾンビどもは話すのが得意じゃない。やつらは賢いが非言語的で、分離脳の患者のように、言葉を理解しているものの、それを発することができないでいる。意識を伴った何かが発話能力を統合しているのだ。むしろ書き言葉の方が簡単だった。ゾンビ脳は従来の文法や統語論を受け入れないが、視覚的なピジン言語と言えるようなものを発達させた。マドックスは英語よりも効率的だと主張している。どうも、あいつらはそれをどのブリーフィングでも使っているらしい。
 マドックスはこうも主張する。やつらはある種のタイムシェアリングの割り当てに取り組んでいると。何らかの方法でブローカ野の保護管理権を前頭葉脳梁膨大後部皮質の間で分配しているのだ。多分、そのうちすぐに、文字通り自分自身と話せるようになるはずだ、とマドックスは言う。だが、今のところはまだそこまでには至っていなかった。
 ベッドサイドのテーブルにある戦術パッド上では、ジジン言語の記号マトリックスが鈍く光っている。アサンテはそれをアコスタの右手に置いてみた。
「カール?」
 反応はない。
「どうしてるか見に来ようって、考えただけなんだ。お大事に」
 爪先立ちでドアに向かい、震える指をドアノブに添えた。廊下の暗闇に足を踏み入れ、感覚と記憶だけで寝床に舵を切った。
 あの眼だ。
 前にそれを全然まったく見たことがないってわけじゃない。でもこれまで部隊の仲間たちの眼がぼやけて踊るときは、いつも身体が起きていて、強固に自律したものとして動いている。静寂に埋め込まれたその動きを見ることは——まるで筋肉と骨の中に捕らえられた眼がもがいている様を見るようで。あるいは、はっきりと生きたまま埋められたわけではないが、幾分浅い墓に埋められた死体に見上げられているようで——
 怖かった。それがどんな風に見えたか。怖かったんだ。


***

 死者の世界


 タラ・カルムス特技官がいなくなった。ロシターはマドックスにその速報を今朝伝えたばかりで、その会話の最中、年中間抜けな笑顔を浮かべているマドックスが不思議なくらい副官らしい無表情へと変わったらしい。どの兵士とも、そのことについて話すことを拒むのだ。ヘリポートへの帰り道、シラノはロシターに詰め寄ったが、引き出せたのは、ただカルムスが「配置転換された」という告白だけだった。
 質問をやめるよう、メッツィンガーは言った。そう命令したのだ。
 だがティワナが指摘するように、疑問符を一切使わなくても、あらゆる種類のオンラインクエリが実行可能だ。その晩アサンテは、荷物積み下ろし場所にある、機械部品でできた間に合わせの寝床に、ティワナが背中を預けて座っているところに出くわした。
「よう、死体仲間」
「ええ、死体仲間」
 お互いの共通点がいかに多いか気づいて以来、こうやって私的な挨拶を交わすようになったのだ(ティワナはハバナで現実主義者の攻撃を受けて死んだ。人生最悪のバケーションだった、と彼女は言う)。ゼロズの中で死から蘇ったのは、少なくとも今のところ、この二人だけだった。そのため、他の連中は少なからず二人に畏れを抱いている。
 同時に、いくらか距離を置かれてもいた。
「メモリーホールで、彼女を最後に見たのはガリンだった」ティワナのスマート眼鏡が公共ネットにつながる。
 お偉方から肩越しに見られるのを止めることはできないが、少なくとも彼女の活動がデフォルトで記録されているわけではない。「そこで彼女は、ジャケットにハンソン地熱のロゴマークをつけた、赤毛の女性と長話していた」
 二晩前。G8Gの一団に対する現実主義者の攻撃をぺしゃんこに潰した褒美として、メッツィンガーは我々につけたリードを外した。肉体世界でゆっくり休むために、みなバンフまで降りていったのだ。「それで?」
 眼鏡の光が、ティワナの頬に小さく揺らめくオーロラを描いている。
バンフ警察 ( B P D ) 無人機が、そこから2ブロック南の公営売春宿の外で、似たような女性の死体を発見した。同じ夜にね」
「えええ」アサンテが隣にしゃがみ込むと、ティワナは眼鏡を額に押し上げた。よろよろの眼が、揺れ動きつつこちらを見ている。
「そう」彼女は息を吸って、吐き出す。「DNA鑑定ではニッチ・ステックマン」
「じゃあ、どうやって…」
「彼らは何も言わない。ただ目撃者に進み出るよう求めるだけ」
「目撃者がいるのか?」
「二人は一緒に立ち去って。路地に入った。それ以上の監視記録がないのは、奇妙」
「それ本当なのか」アサンテは呟いた。
「ううん。多分違う」
 しばらく二人は黙ったまま座っていた。
「どう思う?」ようやく彼女は聞いた。
「多分、ステックマンは荒っぽいのが好きじゃなかったんだ。手に負えなくなったんだろう。ほら、カリーは、必ずしもノーと言われて引き下がるやつじゃないし」
「何に対して? わたしたちはみんなリビドーに耐性がある。どうして彼女は…」
「彼女は人殺しなんかしない…」
彼女はしないかもね」とティワナは言った。
 目をぱちくりさせる。「正気を失ったっていうのか?」
「彼女のせいじゃなかったかもしれない。 どうにかして 拡張機能 ( オーグ ) がひとりでに作動したのかもしれない。そう、反射するみたいに。カリーは差し迫った脅威に直面していたのか、あるいは彼女の伴侶がそういう風に解釈する何かがあったのか。ちゃんとキーを握っておいて、気をつけた方がいいよ」
「そんな風にはならないだろ」
「サックスの中枢神経系を焼いたりもしないだろうね」
「おいおい。それは大昔の話だろ。そういう問題を治してもいないのに俺らが配備されるわけがないだろ」
「本当ね」不調を抱えた方の目が、アサンテの調子の悪い方の手を注視する。
「蓄積した不具合は数のうちに入らない」手術中、はぐれたミリアンペアの電流が、神経の切れ目から紡錘状回に漏れることがある。みんな一回は経験しているはずだ。「マドックスが言うには——」
「ええもちろん、マドックスはいつも物事を整理してくれる。来週も、来月も。最新の微調整が落ち着くようなことがあれば、あのカムチャッカ半島でも火事がまったく起こらなくなるでしょうね。ゾンビモードでは不具合が起きないのに、どうして彼は気にするの?」
インプラントに欠陥があると思っているなら、俺らを任務には出さないだろ」
「えっ」ティワナは両手を広げた。「あなたは任務と言うけど、わたしに言わせればあれは実地試験。つまりね、もちろん、仲間意識は素晴らしいし......わたしたちは最先端で、ゼロズでいられる! でも自分たち自身に目を向けて、ねえ。シラノはリオの反乱分子だった。カルムスは命令拒否で告発されたことを知られていた。あなたとわたしは、ひき殺された動物みたいに地面に転がってたところを拾われた。みんな 最優等生徒 ( スンマ・クム・ラウデ ) とは到底呼べない」
「それが重要なんじゃないか? 誰でも超人的な兵士になれるってところが?」少なくとも、どんな死体でも
「わたしたちはラボの実験用ラットなの、でしょ。自分たちの 陸軍士官学校 ( ウェストポイント ) の卒業生をベータ版で焼き殺すリスクを取りたくないから、わたしたちでまずバグを修正しているってこと。プログラムを広範囲に展開する準備ができたら、わたしたちはもうそこにはいない。これが意味するところは...」彼女はため息をついた。「あれは拡張がやったこと。少なくとも、わたしはそう望んでいる」
「君の望み?」
「カリーがただ逆上して、何の理由もなく市民を殺したと信じる方がいいとでも?」アサンテは、精神的なものからくるのであろう後頭部のちりちりした痛みを無視しようとする。「カルムスがやったんなら、ロシターは配置転換じゃなくて軍法会議と言ったはずだ」
軍法会議の話なんてしないでしょうね。わたしたちに関係のあるところでは」
「まったくだな」
「考えてみて。税金が有効利用されているかどうか確認しにやってくる政治家を、一人でも見たことがある? メッツィンガーかマドックスかロシター以外の士官が事務所を歩いているのを見たことがある?」
「それで、俺たちは公式記録には書かれていないと」それは新発見とは言えそうになかった。
記録がなさすぎて、洞窟壁画みたいなものね。自軍の第一線・後方比率さえ知らないし、支援インフラの95パーセントが離れた場所にあって、全部ロボットと遠隔操作手術具。自分の頭を切っているのが誰なのかさえわからない」深まりゆく闇の中、ティワナが身を寄せてくる。具合のいい方の目でアサンテをじっと見ていた。
「ねえ、これはブードゥなんだよ。計画の始まりはちょっとした反射行動だったんでしょうけど、でも今は? わたしたちは蘇った死体で、糸に操られて踊ってるわけだけど、平均的な復活者がそれでよしとすると思ってるんなら、あなたのペルセポネに対する信頼はわたしよりよっぽど厚いんでしょうね。米国連邦議会がわたしたちのことを知っているとは思わないし、カナダ議会が知っているとも思わない。賭けてもいいけど、 米国特殊作戦軍 ( S O C O M ) は過去に何らかの方針で、心理学的研究という名目でここに予算がついたこと以上のことは知らないでしょうね。知りたがるとも思わない。そして物事がそんな暗闇にあるとき、司法プロセスみたいに些細なことを、日のあたる場所に引っ張り出そうとする?」
 アサンテは頭を振った。「それでも説明責任があるはずだ。何らかの内部のプロセスで」
「説明はあるわ。あなたは姿を消して、配置転換されたとみんなに告げられる」
 アサンテは少し考える。「じゃあどうすべきなんだ?」
「まず食堂で無茶苦茶に暴動を起こす。それで次は、オタワで死体の権利を要求しながらデモ行進をする」ティワナは目玉をぐるりと回す。「わたしたちは何もすべきじゃない。忘れてるのかもしれないけど、わたしたちは死んでるの。もはや法的には存在していないし、あなたがわたしよりも有利な契約を結んでいるなら別だけど、状況を変える唯一の方法は、名誉除隊のときまで頭を低くしている他にない。死んだままでいるのは好きじゃないし、わたしはいつか必ず、公的に生きた状態に戻りたいの。それまでは...」
 ティワナが頭にかけた眼鏡を外すと、電源が落ちる。
「自分たちの歩みをよく見ていましょう」



 コジョ・アサンテ軍曹は、自らの躍進を目にする。
 人工知能権利活動家や現実主義者と衝突したときも目にした。十分な資金に支えられ、利益とイデオロギーのために活動する私兵と戦ったときも。渇きと絶望に駆られ、その場しのぎでやってきたぼろぼろの軍隊と戦ったときも。悪党たるダーウィン銀行や、暗黒の10年間の終わりから四半世紀近く経った今もなお「見えざる友」の名の下に人を傷つけ、殺すことをやめないお決まりの宗教的過激派と戦ったときも、 アサンテは自らの歩みを目にしていた。勤務の21ヶ月目にして、ホンジュラス沖で非武装の子供たち三人を殺害するまでは、その歩みは本当に止まらなかった。
 ゼロズは大西洋の深部から浮上し、世界中の主要な海流に乗った無数の 遊人工島 ( ガイランド ) のひとつを強襲しにやってきた。数千もの住民を抱えた難民キャンプもあれば、硬直した司法の制約を避けようと必死な詐欺師や脱税者の安息地として機能しているところもある。軍用のものもあって、色素胞とレーダー減衰ナノチューブにぴったりと覆われている。空港よりも巨大で、人の目にも機械の目にも見えない。
 〈 賞金稼ぎ ( カサドール・ヂ・レコンペサ ) 〉はブラジルで登録された家族経営の養魚場だ。ドーナツ型の船体の上に、ニヘクタールほどのつつましい上部構造を持っており、中央には網の囲いが群れをなしている。現在は、センデロ・ルミノソの後継組織に忠誠を誓う勢力に占拠されていた。センデロは住所不定の補給線によって肥え太っているのだ。道中メッツィンガーが思い出させてくれたように、戦いを避けることは、いつだって戦いに勝つことよりも優れている。もし食わせてやれないのなら、センデロも兵隊を配備はしないだろう。
 これはほとんど慈悲の任務だ。
 アサンテは戦闘音を盗み聞きし、油と、潮風と、腐った魚が混じり合った悪臭を嗅いでいる。〈邪悪な双子〉の見ている世界がアサンテの眼を洗い流して、ぼやけた光と、ミリ秒毎に読み出された理解不能な人生の明滅へと変わる。もちろん、目標を補足するときは別だ。E.Tが狙いを定める瞬間のストロボ写真を別にすれば、代わる代わる顔が凍りつき、視界がぼやける。ヘッケラー &コッホを握った、作業服姿の南アジア系の男が二、三人。二脚半の足でもがいている、壊れた年代物の 湛盧 ( ツァンルー ) 。MAD銃ががたつきながら目標を探して照準レーザーを放っている。ライフジャケットを着た子供たち。二人の少年と、一人の少女。7歳から10歳くらいだとアサンテは推測する。手の中で武器が跳ねるたびにすぐ、E.T は次の殺戮にむけて針路を変える。
 乗客モードだと感情はのろまになる。その瞬間には何も感じず、あとになってショックを受けるのだ。ランダムで起きた跳弾にひっぱたかれて、アサンテが運転席に戻った時、恐怖はまだ地平線の半ばに差し掛かったばかりだった。
 弾丸は貫通しなかったが(肌をぴったり包むウロコフネタマガイのアーマーに穴も開けなかった)、ベクトルは作用した。小さくて速い物体から、大きくて遅い物体に運動量が通り抜けたのだ。アサンテの脳が揺れ、肉が骨を打って跳ね返る。
 ストレスに晒された灰白質の奥深くで、なにか重要な回路がショートしている。
 痛みはもちろんあった。ナパーム弾のように側頭部で炸裂した痛みを、内分泌ポンプが数秒で和らげる。BUD内部で発火している。静電気の炎が、Zモードの故障を警告する真紅のアイコンが点灯している。だがそこには小さな奇跡も起きていた。
 コジョ・アサンテの目は再び見えている。くっきりとした青空。日は高い。はるか遠くの水平線。壊れた機械から立ち上る油煙の柱。
 複数の死体。
 アサンテの2、3センチ右で、空気が鳴った。思わず、血と銀鱗で滑りやすくなっていたデッキに落下すると、膨れ上がった死体がすぐ目の前にある囲いの表面まで押し寄せてきた。唐突に糞尿から悪臭が漂い、吐きそうになる。(ギンザケとタイヘイヨウサケの交配種だと不意に気づく。 新しいショーウェル遺伝子さえ有しているかもしれなかった。) 踏板の上の砲塔が火花を散らし、反対側ではジュージューと音を立てている。甲殻に穴が開いているのだ。
 アサンテの前腕をぼやけた影が横切る。ティワナが空を駆けている。屈折補正ゴーグルを額まで上げて、眼球は狂ったように踊っていた。囲いを突破すると、一歩でトンボのごとく優美に止まり、間抜けな砲塔を反対に向けて蹴る。砲塔は最後に火花を散らすと、囲いの中に倒れた。ティワナは一番近い階段へ消える。
 アサンテは立ち上がり、周囲を警戒するが、何も見えず、ただ敵が蹂躙されているだけだった。境界線上の自動砲塔は煙を上げる切り株と化し、斃れた男の死体は腕が吹き飛び、女がひとり届かない場所にある槍銃を求めて手探りしている。デッキとほとんど一体化した、小さくてもろい人影。黒い棒切れになった手足、 焦げた頭蓋骨の中でにやつく白い歯。全体を支えているのは、オレンジの生地とポリ塩化ビニルが半融解した鮮やかな液だまりだ。 アサンテはすべてを目にしている。霧の向こうに垣間見えるスナップ写真ではない。ゼロズお手製の、360度全方位没入の映像がはじめて提供されていた。
 自分たちが殺しているのは子供だ...。
 大人の死体でさえ戦闘員には見えない。難民だろう。武力に訴える以外の方法がなかったのだ。それも、どこか安全な場所を確保したかっただけかもしれない。子供を食わせてやりたかっただけなのかも。
 砲塔が倒れるのにつづいて、足元には悪臭芬々たる鮭の死骸でできた絨毯がぐったりと集まりつつあった。ヌタウナギや蛆の餌にしかならない。
 自分はサヒリートになってしまった、とアサンテは茫然として考える。BUDを呼び出すと、 視野の端でチラチラと点滅する読解不能なオーラは無視して、GPSを選択した。
 ホンジュラス沖じゃない。ここはメキシコ湾だ。
 まともな精神を保っているなら、ここで養魚場を経営するような奴はいない。湾内の一番いい場所は無酸素水塊で、最悪の場所ではまったくの可燃性だ。カサドールはユカタン海峡を越えて漂流し、渦巻に捕まったに違いない。この魚たちは 貧酸素水塊水域 ( デッドゾーン ) にぶち当たってすぐに窒息死したことだろう。
 だが 遊人工島 ( ガイランド ) は潮の流れにあって完全になすがままだったわけではない。発着を可能とする原始的な推進システムを備えていて、海流を切り替え、コースを変えることができるのだ。カサドールがこんな湾奥にいるということは、すなわち設備に壊滅的な故障があったのか、それとも救いようのないほど無知だったのかのどちらかだ。
 とにかく、一つ目の可能性を確認することができる。最寄りの階段までよろよろと歩いていくと——
 ——ティワナとアコスタが下からデッキに飛び出してきた。アコスタには右腕を、ティワナには左腕を掴まれる。どちらも減速しない。両足が跳ねて引きずられ、加速の振動のせいで、こめかみの痛みが復活する。
 アサンテは叫んだ。「エンジンが...」
 新しい痛みがあった。体の向こう側で鋭い痛みが繰り返される。アコスタの胴体を横切って前後に揺れる ( いにしえ ) のウェイト用ベルト。擦り切れたひときれのナイロンに、鉛玉の詰め合わせが通り抜けたものだ。小さな鉄球に叩かれているのに近い。アサンテのある部分は、アコスタがそれをどこで見つけたのか不思議に思っている。別の部分は、ガリンが小さな血まみれの死体を肩に担いで視界に駆け込んでくるのを見ている。ガリンはバラバラになった砲台の一つを通り過ぎ、空いている方の手でその一部を掴んで走り続ける。
 全員、手すりに向かって突進していた。
 ティワナはマウスピースをはめると、屈折補正ゴーグルを下げる。彼女が水際のデッキに向かって発砲すると、プラスチックと白く塗られたガラス繊維はズタズタに引き裂かれ、古びた鉄の係船クリートがガタガタになった。そのついでに屈んでアサンテを掴むと、その手を決して緩めずに胸のあたりに引き寄せた。アサンテは、二人が横を通り過ぎる一瞬前に、自分の骨が関節から外れるポンという軽い音を聞いた。
 重量100キログラムの即席バラストに引っ張られて、三人とも頭から真っ逆さまに落ちていく。アサンテは窒息し、マウスピースが所定の位置に押し込まれる。 排気装置から海水を吐き出し、新鮮で生気に満ちた呼吸ガスを肺一杯吸い込んだ。鼓膜に圧力がかかる。アサンテはつばを飲み込み、また飲み込み、鼓膜が完全に破れる前に、数ミリバールをなんとか維持するため何度でもつばを飲み込んだ。 顔をかきむしって、目を覆っている屈折補正ゴーグルをズラすだけの余裕は十分にあった。 海にピントが合う。酸のように澄んでいて、緑色のガラスのように空っぽだ。
 緑が白に変わる。
 瞬く間に見えたのは、四つの細い泡の流れが上昇していき、突如として水面が白熱した様子だ。黒っぽい肉体が四つ、光のなかから降りてくる。深く、速度を落とした雷鳴のようなものが水中を通り抜け、聞こえたような気がした。どこからともなく、そして至るところから。
 海の屋根が燃えている。目に見えない力が泡の筋を上へ下へと千切り、渦巻く銀色の紙吹雪へと引き裂く。波面はアサンテらを執拗に追いかけている。海は膨らんで、跳ね返った。拳のようにアサンテを握りしめ、ゴムのように引き伸ばす。ティワナとアコスタは逆流する水の中でもみくちゃにされる。アサンテは、ぎざぎざとした物体がはじめて頭上に現れた際、じたばたともがいて身体を安定させた。ブービートラップに引っかかった 遊人工島 ( ガイランド ) の破片の塊が、深部へとゆっくりと厳かに落ちていくところだった。デッキの壊れた残骸と、階段が、モノフィラメントに絡まり、数メートル先を通り過ぎる。残骸が暗がりに消えていく中、網の隙間から生気のない1000個の目がこちらを見つめ返してきた。
 五つ目の気泡の痕跡を、すなわち最後の黒い影を求めて、アサンテは海を探した。出撃者数と帰還者数の帳尻を合わせるためだ。頭上には誰もいなかった。下には、ぼんやりとした人影(ガリンに違いない)が、 ぐったりとした小柄な相手を腕に抱き、マウスピースを共有している。 その向こうには、奥深い奈落の暗闇があらわれつつある。ゆるやかな瓦礫の雨の中で、持ち場を守るサメらしきシルエット。放蕩息子たちを連れ帰るために待っているのだ。
 岸に近過ぎた。目撃者がいるかもしれない。隠密作戦はここまでだった。目立たずにいられるのも、何も問われることがないのもここまでだ。メッツィンガーは怒るだろう。
 とはいえ、ここはメキシコ湾。
 目撃者が誰であれ、単にまた火災が起きただけだと考えるだろう。


***

 薄笑いソウルの淑女


「自分の言葉でいい、軍曹。焦るな」
 我々は子供を殺しました。子供を殺して、シラノを失い、それが何故なのかわかりません。あなたにも理由がわからないのか、それともわかるのか。それさえ知りません。
 だがもちろん、彼女から聞けば、それはエマ・ロシター少佐の言葉を鵜呑みにすることになる。
「子供を...?」アサンテが潜水艦に再搭乗したときには既に、メッツィンガーはガリンの戦利品を管に繋いでいた。もちろん、ガリンは自分の身体が何をしていたかなんて知らない。メッツィンガーは議論を促さなかった。
 それはそれでいい。どのみち誰もそんな気分ではなかった。
「すまない。彼女は助からなかった」ロシターは、哀悼の意でも捧げているのか、少しの間を置いた。「目の前の問題に集中できていれば...」
「混乱した状況でした」とアサンテは言った。「 上官殿 ( サー )
「そのようだな」少佐は同情的な笑みを、振り絞るように浮かべる。
「君がもっと詳細な状況を伝えてくれるのではないかと期待している」
「記録は残っているはずでしょう」
「それらは数字だよ、軍曹。ピクセルなんだ。君は比類ないことに——偶然にも——それ以上のもの我々にもたらしてくれる立ち位置にある」
「デッキ下にさえたどり着けませんでしたよ」
 ロシターは少しリラックスしている様子だ。「それでも、君らのうち誰かがゲーム中盤に停止するのはこれが初めてだし、繰り返されるリスクを負いたくない類の出来事なのは明らかだ。マドックスは既にトグルをより強固なものにする方法を研究している。それが出来上がるまでの間、今回の件を再発させないようにするのに君の見解は役立つかもしれない」
「わたしの見解ですが、 上官殿 ( サー ) 、あんな連中に我々の特殊技能は必要ありませんでした」
「我々の関心はむしろ、停止に関する君の経験にあるのだよ、軍曹。例えば、失見当識の感覚はなかったか? BUDに何か視覚的な影響は?」
 アサンテは両手を背中に回して立ち——具合のいい方で悪い方を握っている——黙っていた。
「よろしい」ロシターの笑顔が険悪になった。「では、君の見解について話をしよう。正規軍で十分だったと思うか? なあ、西半球連合の海兵隊員を送れば、どれほどの損失が出たと思う?」
「彼らは難民のように見えました。彼らは——」
「100パーセントだ、軍曹。全員を失っていただろう」
 アサンテは何も言わない。
「拡張のない兵士なら、 遊人工島 ( ガイランド ) が炎上する前に脱出することさえできなかっただろう。たとえできたとしても、降下速度を極端に上げられなければ、衝撃波が致命的になっただろう。正規軍がそのような指示を出せたと思うか? 予測を立てて、試算をし、命令を発するよりも早くキルゾーンの下に降りる戦略を即興で練ることができたとでも?」
「我々は子供を殺しました」ほとんどささやき声だった。
「付帯的被害は不幸なことだが、避けられない」
「子供を目標に入れていました」
「ああ」
 ロシターは戦術パッドをいじる。タップ、タップ、タップ、スワイプ。
「この子供らだ」最後に彼女はそう言った。「武装していたか?」
「そうは思えません」
「裸だったか?」
上官殿 ( サー ) ?」
「彼らが隠し武器を持っていないと確信できたか? 1000キログラムの̪CLー20を遠隔操作できるかもしれないとは?」
「彼らは、せいぜい7歳か8歳ですよ」
「少年兵については講義するまでもなかろう、軍曹。彼らはもう何世紀もずっと厳然たる現実なんだよ、特に君らのような特殊——ともかくだ。興味本位で聞くが、潜在的な脅威から外すには、どれくらい若ければいい?」
「わかりません」
「いいや、わかっているさ。君はよくわかっていたんだ。だから子供を標的にした」
「それはわたしじゃありません」
「もちろんだ。それは君の——〈邪悪な双子〉だ。そう呼んでいるんだろ?」ロシターは前のめりになる。「よく聞くんだ、軍曹。君はここでの仕事について重大な誤解をしているようだが、君の〈双子〉は邪悪ではないし、正当な根拠もなく行動しない。あれは君だよ。いまわたしの目の前に立っている泣き虫よりもずっと大きな部分を占めている」
 アサンテを歯を食いしばって、口を閉じる。
「直観が君を悩ませるんだ。正邪を見分ける感覚が。これはどこから来ると思う、軍曹?」
「経験です、 上官殿 ( サー )
「計算の結果だよ。一連の計算全体は、意識的思考にはとても収まらないほど複雑だ。だから潜在意識が君に送るのは、役員向けの要約だ。平たく言えばね。君の〈邪悪な双子〉は、君の道徳的な怒りの感覚についてすべてを知っている。自分がその源なのだ。君よりも多くの情報を持っていて、もっと効果的に処理をする。〈双子〉が何をしているのか知るために、君もそいつを信用すべきかもしれない」
 アサンテは〈双子〉を信用していない。ロシターのことも信用していない。
 だが驚くべきことに、アサンテは唐突にロシターを理解した。
 彼女はただ何かを主張をしているわけではないのだ。これは単なるレトリックではない。
 心の中で洞察が完全な形になり、思いがけないほど明晰な断片として輝いている。ロシターは簡単なことだろうと考えていた。本当に何が起きたのか知らないのだ。
 ロシターが喋りながらパッドの上で指を動かすのを観察する。口角で神経質に舌を震わせていることに注意すべきだ。アサンテの目をちらりと見上げると、すぐにそらす。
 彼女は怯えていた。

***

 怒りをこめてふり返れ


 アサンテが目を覚ますと、山の上の草原に立っている。空は雲一つなく満点の星空だ。アサンテの軍服は、汗か露かで湿っている。月は出ていない。黒い針葉樹が四方を覆っており、東の方角には、枝越しに夜明け前のオレンジ色がしみ出す兆しがあった。
 かつてはこれが夜明けのコーラスの時間帯だったとなにかで読んだことがあった。歌鳥たちが、一日のはじまりを告げるちぐはぐなシンフォニーを奏でるのだ。アサンテは聞いたことがなかった。いまも聞こえない。森の中には自分の呼吸音しか聞こえなかった——
 ——そして何者かの足の下で枝が折れる音しか。
 ふり向くと、灰色の影が暗闇から出てくる。
「やあ死体仲間」とティワナは言う。
「よう死体仲間」とアサンテは答える。
「あなたはぐれたのよ。わたしが付き添おうと思って。脱走したわけじゃないって確かめるために」
「E.Tがまた動いたんだと思う」
夢遊病なんじゃないの。人はたまに夢遊病になる」ティワナは肩をすくめる。「どのみち配線は同じだろうけど」
夢遊病者は人を殺さない」
「実はね、夢遊病者が人を殺した事例はよく知られている」
 アサンテは咳払いをした。「言ったのか、ええと...」
「あなたがここにいることは誰も知らない」
「E.Tがピックアップを無効にしたのか?」
「わたしがやった」
「助かる」
「どういたしまして」
 アサンテは周囲を見渡した。「はじめてこの場所を見たときのことを覚えている。あれは——魔法のようだった」
「わたしはもっと皮肉なことを考えていた」 アサンテの視線を受けて、言い添える。「ほら。 このクソみたいなショーの中にあって手付かずの場所がわずかに存在していられるのは、西半球連合がわたしたちにどこかを吹っ飛ばす方法を教えるために、私的な場所を必要としているからってわけ」
「期待してるよ」とアサンテは言った。
 星々が消えつつあったが、金星はそこにぶら下がっている。
「あなた最近変じゃない」ティワナは言った。「カサドールでの一件以来ずっと」
「あれは変な案件だった」
「らしいね」肩をすくめる。「あなたはそこに居あわせたんだと思う」
 アサンテは精一杯笑みを浮かべた。「で、君は覚えていない...」
「脚が走って行って、走って戻ってきた。わたしのゾンビは何も狙わなかったから、何を見たのかはわからない」
「メッツィンガーは知っている。ロシターもだ」アサンテは手ごろな岩に尻を落ち着ける。「気にならないか? 自分の目が何を見て、何をしているのかを全く知らないのに」
「あんまり。そういうものでしょ」
「自分たちがそこで何をしているのか、俺たちは知らない。マドックスにハイライトシーンを見せてもらったことさえ、最後にあったのはいつのことだ?」アサンテは顎の筋肉がこわばるのを感じる。「俺たちは戦争犯罪者かもしれない」
「それが問題になるとき、わたしたちはいない」ティワナが横に座る。「おまけに、わたしたちのゾンビどもは意識こそないかもしれないけど、馬鹿じゃない。違法な命令には従わない義務があるってことを、奴らは知っている」
知っているのかもしれないが、その点について、マドックスのコンプライアンス回路が奴らに何を許しているのかはわからない」
 近くのどこかで歌鳥がのどを鳴らしている。
 ティワナは一息入れた。「あなたが正しいとしましょう——正しいとは言わないけど、無害な難民でいっぱいの 遊人工島 ( ガイランド ) を打ち倒すためにわたしたちが派遣されたと仮定しましょう。カサドールがひとつの村落を吹き飛ばせるほどの爆弾を積んでいたことも忘れる。それがシラノを殺したことも、ああくそ、わたしたちを皆殺しにするところだったことも忘れる。もしメッツィンガーが誰か無実の人間の頭蓋骨を叩き割ろうとしても、彼が使ったハンマーを責めるのはやめて」
「それでも、まだ誰かの頭蓋骨がかち割られたままだ」
 空き地の向こう側、別の鳥が答える。夜明けのデュエット。
「理由があるはず」ティワナは言う。試しに言ってみるかのように。
 別の人生、別の大陸での理由をアサンテは思い出す。報復。見せしめ。衝動の制御不足。時には、ただ楽しいからという理由もあった。
「例えば?」
「わたしは知らない、いい? 大きな絵を描くのはわたしたちよりも上の階級のやること。でも、20ギガ程度の背景情報もなしに命令されるからといって、そのたびに指揮系統を投げ出していいってことじゃない。わたしたちが嬰児殺しのファシスト集団に囚われているって信じて欲しいなら、あなたが 遊人工島 ( ガイランド ) でちょっと垣間見たっていう程度のことじゃ足りない」
「俺は知らないが、人類史のすべてを踏まえればどうだ?」
 とうとう金星が消えた。朝日が上り、空き地に黄金色の筋が走る。
「わたしたちは取引をしたでしょう。確かに、それは酷いこと。もっと酷いのは死ぬこと。でも今更、違う選択肢を選ぶ? 魚の餌に戻るの?」
 正直わからない。
「わたしたちは死ぬはずだった。このあらゆる瞬間がギフトなんだよ」
 アサンテは驚嘆して彼女を見る。「どうしてそうしていられるのかわからない」
「何を?」
「ショウペンハウエルとポリアンナを同時に頭に宿して、頭を爆発させないでいられるなんて」
 ティワナはすこしの間、アサンテの手をとり、そっと握る。
「わたしたちならできる。ただ波風を立てさえしなければいいの。栄えある解放のときまで」ティワナが光の方へふり向くと、朝日でその顔が輝く。「そのときまでに、あなたが迷うときがあっても、わたしがついてる」
「問題が起きるとき」アサンテは思い出させる。「君はいない」
「あなたの後ろについてる」とティワナは言った。

***

 あの男を注意しろ


 シラノのポジションは外注され、誰も見たことのない人物が連れてこられた。厳密に言えば我々の一員だが、ゼロズにされたときの負傷からようやく治ったばかりといった様子で、何かが奇妙だった。動き方や、記章に何かがある。特技官でも、伍長でも、軍曹でもない。
「ジム・ムーア中尉を紹介したい」とロシターは告げる。
 ゼロズにとうとう士官の隊長が加わった。彼は明らかにこの部屋で一番若い。
 ムーアはすぐに取り掛かる。「これはナニシビク鉱山だ」壁に投影された衛星カメラの映像が、世界の屋根にズームする。「バフィン島、北極圏からさらに750キロメートル北、スラッシュベルトの心臓部」 赤と黄土色の広がる、不毛でひび割れた風景だ。氷堆丘、小山、そして二股に別れた河床。
「鉱物は世紀の変わり目に採りつくされた」 起伏に富んだ褐色の道が、擦り切れた谷底に沿って伸びている。建築群。大地の裂け口。「辺鄙な土地で、近年、大抵の住人はここを離れている。地層処分するためにカナダ政府が8000トンの高レベル放射性廃棄物をインドから持ち込んだせいでもあるが、どうやら北部経済を多様化させるための戦略の一環らしい」今度は戦術的見取り図だ。処理施設と、取り入れ口。線路はカナダ楯状地の内を縫って進んでおり、貯蔵トンネルは地下分譲地の道路のごとく枝分かれしている。「38年に緑の党が政権を失ったあと計画は廃棄された」
「ここの物資を使えば、大量の都市を汚染可能だろう。誰かさんがここを今いじくっているのは、そういう理由かもしれない」
 ガリンの手が上がる。「誰かとは?」
「今までのところ、未承認の活動の痕跡があったことと、 北部統合任務部隊 ( J T F N ) 四翼無人 ( クアッド ) が行ったっきり戻ってこないこと以外の情報はない。最優先事項は犯人の特定だ。発見したものによっては、我々自身で処理することになるかもしれないし、さもなくば爆撃を要請することになるかもしれない。現地に行くまでは事実はわからないだろう」
 そしてその後でさえ、自分たちが事実を知ることはない。そう考えこんだ瞬間、アサンテは気がついた。ムーアのどこがそんなにも奇妙に映るのか。
「道中で伴侶たちに作戦の詳細を伝え、準備させる」
 おかしな点があるわけじゃない。おかしな点が何もないことこそ奇妙だったのだ。ムーアには目元のチックも、手の震えもない。スピーチは滑らかで完璧だった。アサンテと目があっても、その瞳は落ち着いている。ムーア中尉には不具合がない。
「今より、作戦開始までは7時間足らずも見込めない——」
 アサンテがティワナを見ると、彼女はこちらを振り返る。
 ゼロズはベータテストを終えた。

***

 サブテラニアンズ


 ロッキードが部隊を降ろしたのは、崩れかけた埠頭のたもとだった。長らく放棄された無人の商店と傾いたトレーラーが、氷雨を前に身を寄せ合っている。ここはかつて港だった。それから西半球の燃料補給所になったころは西半球連合という言葉もなく、やがて北極圏の黙示録的な気候のせいで、何もかもが容易く水の下に沈むようになった。町が鉱山の付属品である企業城下町としての短い生涯を終えると、間もなくナニシビクの資源は空になり、そしてまた満たされることとなった
 BUDは15時05分だと告げている。日没までに目標に到達したいなら、あと一時間の猶予もない。ムーアの先導で、陸路を越える。風化した石や扇状地、そしてギラギラ光るあばた面の火星的地形を。貯蔵庫の入口から1500メートル離れた場所で、ムーアは全員に後部座席に移るよう指示した。
 アサンテの両足は、管理者が変わって、速度を上げる。視界がぼやける。いずれにせよ、この風とみぞれでは何も見えないのだから、大した違いはない。
 音は過ぎ去っていく。何か遠くにいる動物の唸り声だろうか。近くでは、間違いなくε-40の発射音がしている。E.Tじゃない。アサンテの目は清らかに曇ったままだ。
 十数歩進んだところで風は消えた。もう半分を進んだところで、顔に吹きつけていた氷の針の奔流が小雨になり、やがて霧雨のように落ち着く。アサンテは、大きなボルトが外れる音と、重金属が上げる甲高い音を聞く。何らかの入口を通り抜けて、アサンテの視界は明るい曇天だったのが、半分ほど薄暗くなった。バックルとブーツの足音が岩壁にかすかに響く。
 下り坂。左に緩やかなカーブ。 砂利は、壊れたアスファルトの断片だ。足取りは、目に見えない障害物を越えていく。
 そして止まる。
 部隊全員が凍りついているに違いなかった。聞こえるのは呼吸音だけだ。一面の霧に瞬く超高速なサッカードの紙吹雪が、速まったように見えるが、ただの想像かもしれない。どこか地下の遠くの静かな水面に、ぴちゃん、ぽちゃん、と水が滴り落ちている。
 ゼロズは静かに散らばる。アサンテはただの乗客だが、その歩行を読み取り、膝をついて横に移動しているのを感じている。詰め物がしてあるので細かい感触を感じることはできないが、肘をついている表面は平たく、ざらざらとしていた。紙やすりで覆われたテーブルのように。
 空気中には 麝香 ( じゃこう ) のような獣臭がする。どこかそう遠くない距離から、静かに鼻を鳴らす音がする。なにか活発で巨大なものが動いている。ゆっくりと、眠たげに。
 誰かがドアを開けたままにして、なにかが入ってきたのかもしれない...
 思いつくのはピズリー熊くらいだ。緊張した生態系の境界線で衝突して生まれた、怪物的雑種。生きたピズリー熊に出会ったことはない。
 唸り声。低い呻き声。
 音が速度を増す。
 銃声。咆哮、耳をつんざくほど近い。金属同士がぶつかり合う音。ちらついていた戦術的ハローが突然暗くなる。ネットワークトラフィックがノード単位で落ちたのだ。
 今やネットワーク全体がクラッシュしている。ポーン同士の交換だ。 ゼロズは敵のネットワークをジャミングする代償に、自分たちのLANを犠牲にしているのだ。 ムーアのMAD銃が右に火を吹く。瞬間、アサンテの腕が灼熱のビームに焼かれる。ムーアは狙いを外している、当たっていない。 E.Tが飛び出す。跳躍し、狙いを定める。ミリ秒単位の刹那、粗いアイボリーブラウンの毛皮が壁のごとく目の前にあった。触れられるほど近く、毛包のひとつひとつを覗けるほど完璧に焦点が合っている。
 視界が雲に覆われ、E.Tが引き金を引く。
 咆哮。大きな爪が石をひっかく。 悪臭に圧倒されるが、E.Tはすでに爪先立ちで旋回し、次の獲物を狙っている。カチッと音がして、熊らしく怪物じみた顎がコマ送りで映る。何かの入口のように大きい。カチッ。小さな茶色い手が、迫りくる敵に振り上げられる。カチッ。赤みがかった金髪で、そばかすだらけの少年。また盲目になるが、E.Tが引き金を引くのを感じる。パン。パン。パン。
 マジかよ。子供だ。くそ。くそ。
 ——E.Tはまた進路を変える。カチッ。 銃口 ( マズルフラッシュ ) に照らされ、黒髪と、毛皮のコートを着たちいさな背中が宙を飛んでいる。
 二度目はダメだ。二度目はダメだ。
 子供兵。自爆兵。何世紀も前からいる。
 だが誰も撃ち返してこない。
 部隊で使われることのある武器なら、どれであろうと、どんなに小さな音であってもわかる。MAD銃がものを焼く音。イプシロンの発射音。アコスタのお気に入りのオリンピックの音。アサンテはいまそれらの音を聞いている。他にはない。撃っているものが何であろうと、反撃がないのだ。
 自分たちが撃っているものが何であろうと。お前はまあああああた盲目の人殺しだ。8歳の子供を撃っている。
 まただ。
 追加の銃撃。まだ人の声はしない。動物に断末魔の叫びを上げさせるためだ。ごぼごぼと湿った音がして、重たい肉が石に叩きつけられる。
 ここは北極にある核廃棄物処分場だ。こんなところで子供が何をしているんだ?
 自分は?
 自分は何をしている?
 突然、アサンテはあの言葉を目にした。あらゆるトートロジーはすべてトートロジーだ。するとE.Tは階下に戻り、地下のドアに鍵が掛けられる。コジョ・アサンテは必死に手綱をつかみ、自らの人生を取り戻すと、両目をひらいた。
 ボロボロの毛皮を着たそばかすだらけの少年が、ライリー・ガリンの肩に腰かけて、ギザギザのガラスの破片でその喉をちょうど搔っ切るところだった。少年はガリンの死体から銃を奪って飛び出すと、この薄暗い洞窟のなかで難なく銃を受け渡した。受け取ったのは、汚れた腰巻き以外は裸のアジア人少女で、血まみれのジム・ムーアに向かって宙を飛ぶ。ちらりと振り返ることもなく、中空、後ろ手で銃を掴む。
 それはダンス以上のものだった。チームワークを超えたもの。同じ手にある指が一緒に動くように。
 ピズリー熊は廃車になったフォークリフトの上に積み上げられ、脇腹の穴から血を流しながらも、巨大な爪で空を切っている。左の手首から先を吹き飛ばされた(多分やったのは自分だ)南アジア人の少年は身をかがめ、死んだベヒモスのまわりを塗って進む。 少年は熊を、その爪と牙の一閃を、ある種の立入禁止区域として利用しているのだ。3メートル以内に近づけば誰であっても酷い目に合うこと請け合いだ。どういうわけか、爪と牙が少年に振われることは決してないようだ。
 だが、アコスタには振われていた。カルロス・アコスタ。太陽光と大自然を愛する男は、体を両断されて横たわり、どこでもない場所を見ている。
 ガリンはとうとう地面に倒れ、喉から血が噴き出している。
 彼らはただの子供だ。ぼろを着た、丸腰の。
 少女は切り立ったトンネルの壁と石灰化した機械の間で跳ね返り、ガリンの武器で狙いを定める。少女の裸足は一度も地面に触れていないようだ。
 彼らは子供だ。ただの——
 ティワナに突き飛ばされ、ビームの射線の外に出た。空気が揺らめき、蒸気を上げる。歯車や導管、うねの立った金属に頭をぶつけて、石の上に跳ね返ると、ティワナがその上に倒れこんできた。瞳は痙攣したように動き、小さな弧を必死に描こうとしている。
 そして止まる。
 こちらを凝視したまま凍りついた瞳を見て、一瞬パニックになった——こちらをわかっているわけじゃない目標を捕捉している目標を捕捉している——だが、 瞳の奥で何かが光っている。アサンテには、その目がまったく何も目標に入れていないということがわかる。ただ見ているだけだ。
「...ソフィコ?」
 何があっても、わたしがついてる。
 けれどもソフィコはいなくなった。たとえ、今まではそこにいたのだとしても。


 ブラックアウト


 ムーアは、アサンテをメッツィンガーに引き渡す。メッツィンガーは何も言わずにアサンテを見るが、その目線が多くを語っていた。スイッチを入れられて、乗客モードになる。アサンテ自身は、その場にいるようには言われなかった。その必要はない。
 手元に、戦術パッドのガラス板の感触がある。その手は数秒ごとに死んだように静かになるが、急に人外じみた速さであわただしくタップとスワイプをすると、再び静止する。明るくかすんだ視界の向こうでは、 時折、咳やかすかな人の声がして、ロッキードの静音設計のエンジンをさえぎっている。
 E.Tは尋問を受けている。アサンテの一部は、そいつが自分について何を話しているか知りたいと感じていたが、本当の意味での関心はなかった。
 仲間がいなくなったことが信じられなかったのだ。


***

 ノー・コントロール


「アサンテ軍曹」ロシター少佐は頭を揺らす。「君には期待していたのだが」
 アコスタ。ガリン。ティワナ。
「何か言うことはないのか?」
 たくさんある。だが出てくる言葉はどれも古臭い嘘だ。「彼らはただの...子供でした...」
「部隊の仲間たちの墓石に、その言葉を彫ることになるかもしれんな」
「でも——」
「我々にはわからない。本来なら現実主義者を疑っているところだ。科学技術それ自体が、奴らの主義と水と油の関係でなければ。そして、やり口が奴らの能力を完全に超えている事実がなければな」
「ほとんど裸同然でした。まるで巣のようで...」
「もっといえば蜂の巣に似ている」
 同じ手にある指...。
「諸君らには似ていない」心を読んだかのように、ロシターは言う。「考えてみれば、ゼロズネットワークはとても——非効率だ。複数の頭の中にある複数の知性が、同じ情報に基づいて独立して行動し、同じ結論に至る。無駄な労力の重複だ」
「それで彼らは...」
「複数の頭に、ひとつの知性」
「我々は通信を妨害しました。たとえ彼らがネットワークで繋がれていようと——」
機械的なネットワークだとは考えていない。最もありそうな推測としては——そう呼んでいいかどうかわからないが、バイオラジオだろう。脳梁量子もつれ状態にあるようなもので」ロシターは鼻を鳴らす。「もちろん、現時点ではエルフの仕業だと言われても仕方がないところだが」
 カサドールのことを、アサンテは思い出す。あの盗んだ小さな死体から多くを学んだのだ。
「なぜ子供を使うのですか?」とアサンテはささやく。
「ああ、コジョ」アサンテは瞬きをしているが、ロシターは気づいていないようだ。「子供たちを使うのは、 奴らが一番したくないことだ。なぜ海の真ん中や北極の坑道に隠されていると思う? インプラントの話はしていない。これは遺伝的なものだ。彼らは生まれるんだ。そして保護されなければならない。成長して...熟すまで、隠されなければならない」
「保護? 核廃棄物処分場に放置しておいて?」
「そう、放置した。見ての通り、完璧に無防備だ」アサンテが黙っているので、ロシターは続ける。「実際、あそこは完璧な場所だ。隣人はいないが、身体を温めたり、ビニールハウスを運営したり、熱の痕跡を隠すための廃熱は大量にある。おせっかいな衛星に気どられるような補給線もない。おしゃべりな電磁気もない。我々に言えるのは、敷地には一人の大人さえいなかったということだ。彼らはいわば——大地に育てられた。武器さえ持っていなかった。少なくともそれを使っていなかった。あろうことか、熊を利用して、敵に同士討ちをさせていたのだ。多分、即興性を重んじるミニマリストなのだろう」ロシターはパッド上の何かにサッカードする。「ただ思わせぶりなだけかもしれない」
「子供たち」アサンテは、そう言わずにはいられないかのようだ。
「やつらが思春期を迎えたらどうなることやら」ロシターはため息をつく。「もちろん、あの場所を爆撃して、入り口を粉砕した。もし我々があの下に閉じ込められれば、誰も出られやしない。とはいえ、今は我々の話をしているわけではないだろう? 今話しているのは、普通の人間の脳の計算量を超越した(その数は神のみぞ知る)単一の分散型生物のことだ。こちらの企みが何であれ、それを予測して反撃できないとすれば驚きだ。それでも、我々はできることをやる」
 しばらくお互い話さなかったが、ロシターが沈黙を破った。
「すまない、軍曹。このような結果になってしまって、本当に申し訳ないと思っている。やり方は変えていない。情報を漏らすことのないように、君には十分な情報を与えていない。だから君が何者かに捕らえられて、扁桃体をつつきまわされたとしても、我々の情報が漏れることはない。だが、スイッチは君を守るためにあるんだ。敵が誰なのかはわからない。巣がどれだけあるのかも、妊娠できる段階に達した個体がいくついるのかも、すでに——成熟した個体がどれだけいるのかもわからない。わかっているのは、一握りの非武装の子供たちが、我々の精鋭部隊を意のままに虐殺できるということだ。そして、それを世界に知られる準備はまだできていない。
 なのに、軍曹。君はゲームから抜けて——当然、作戦の失敗と引き換えになっただろう——今となっては許可された以上のことを知ってしまっている。
 教えてくれ。もし逆の立場なら、君はどうする?」
 アサンテは目を閉じる。わたしたちは死ぬはずだった。このあらゆる瞬間がギフトなんだよ。再び目を開けると、ロシターがいつものように無感動にこちらを見つめている。
「わたしはあそこで死ぬべきでした。タコラディで、2年前に」
 少佐は鼻を鳴らす。「芝居はやめてくれ、軍曹。君を処刑するつもりはない」
「わたしは——何です?」
軍法会議にかけるつもりさえないのだ」
「一体全体どうしてですか?」ロシターの眉が上がる。「 上官殿 ( サー ) 。許可されていない戦闘中の離脱だと、あなたが言ったんじゃないですか」
「それが完全に君の決断であるとは思っていない」
「自分の決断だと感じました」
「だがいつもそうだろう。違うか?」ロシターは椅子を後ろに押す。「我々は、君の〈邪悪な双子〉を作ってはいないのだよ、軍曹。制御さえしていない。我々がやっているのはただ、君が邪魔しないようにどかしているだけのことだ。だから〈双子〉はいつもやっていることを干渉なしでできた。
 今だけは、——明らかに君に戻ってもらいたがっているのだ」
 ピンとくるのに時間がかかる。「何?」
「前頭頭頂の記録によれば、ゾンビは確かに——主導権を握っていた。役割を放棄したわけだ」
「戦闘中に? そんなの自殺行為です!」
「それこそ君が望んでいたことでは?」
 アサンテは目をそらす。
「違うか? その仮説は気に入らないか? いいだろう、もう一つの仮説は、ゾンビが降参したというものだ。統計的にはありそうにないことだが、ムーアは結局、君を逃した。脱落は白旗を意味していたのかもしれない。巣はそれを気の毒に思ってか、君を見逃したのは——よくわからないが、噂を広めさせるためかもな。おれたちになめたことをするな、と。
 もしくはゾンビは、巣の勝利を当然のものだと判断し、君と交代したのかもしれない。良心的兵役拒否をしたのかもしれないし、そもそも一度も入隊すると決めたことはなかったのかもしれない」
 ロシターの笑い声が嫌いだ、とアサンテは決めた。
「あなたはそれを訊くべきだった」とアサンテは言う。
「手を替え品を替え訊いたさ。おそらくゾンビは分析力に優れてはいても、内省が下手なのだろう。何をしたのかは伝えられても、その理由を言えるとは限らない」
「あなたがゾンビの動機を気にしたことがありますか?」アサンテの口調は反抗的なものになりかけている。喪失感のせいで、他人に配慮する余裕がないのだ。「ただ——ゾンビに主導権を握るよう伝えればいいだけでしょう。あなたの指示に従うはずでは? 前頭眼窩には、コンプライアンス・モジュールがある」
「まさしく。だが戦闘から脱落したのは君の〈双子〉ではない。マンダラが解放されたとき、いたのは君だった」
「ならわたしにマンダラを見せないようゾンビに命令して下さい」
「そうしたかったさ。マンダラがどういう見た目をしているのか、君が教えてくれるとは思わないが」
 今度はアサンテが笑う番だが、上手く笑えない。
「教えてくれるとは思わなかったが、それは問題ではない。今の時点では君も信用できない——またしても完全に君のせいというわけではないが。意識と無意識のプロセスが相互に関連している度合いを考えると、直ちに完全に分離しようとするのは早計だったかもしれない」同情するかのように、ロシターは顔を顰める。「何もせず頭蓋骨の中に閉じ込められているのは、君にとっても楽しいことだとは思えない」
「マドックスは、方法がないと言っていました」
「それは正しかった。その時点ではね」ロシターは俯き、パッドの至るところにサッカードしている。「 新しいモッドの実地試験を我々は計画していなかったが、カルムスに続いて君までこうなってしまったからには——数ヶ月以内に実装を進めるしか選択肢はない」
 これほど生きた心地がしなかったことはない。実際に死んだときでさえここまでではなかった。
「まだわたしに十分なピンを刺していなかったんですか?」もちろん、ロシターが言っているのは自分のことだ。消去法でわかる。
 一瞬、少佐がほとんど同情を浮かべたように見えた。
「そうだ、コジョ。あとひとつだけ、最後の改修があるが、君が気にするとは思っていない。というのも、次に目覚めたとき、君は自由の身だからだ。勤務期間は終わった」
「そうですか」
「ああ」
 アサンテは下を向き、顔をしかめる。
「どうした、軍曹?」
「何でもありません」アサンテはそう言うと、ふらつかず安定した左手をじっと見つめる。かすかに驚きながら。


***



 ラザルス


 レナータ・ベールマンは叫びながら目覚める。天井を見つめて、何かの下に挟まれていた——冷蔵庫だ。巨大な業務用のもの。爆弾が落ちてきたとき、ベールマンはキッチンにいた。そのとき冷蔵庫が倒れてきたに違いない。
 多分、足が潰されている。
 戦闘は終わったようだ。小火器の発砲音も聞こえなければ、その次に来る砲撃の風切り音もない。空気中はまだ金切声でいっぱいだが、それはただ戦闘後の死肉を喰らいに来たカモメどもの鳴き声に過ぎない。ベールマンが屋内にいたのは幸運だった。でなければ今頃、その物騒な、小さな空飛ぶネズミに両目をつつかれていただろう——
 ——暗闇——
  最悪 ( ホデール ) ! ここはどこ? ああ、そうだ。アメリカ大陸のどん底で血を流していて、それで...。
 わからない。これはおそらくティエラ・デル・フエゴを併合したことに対する仕返しだろう。あるいは、世界を泥と糞に踏みにじって街を出て行った連中に恨みを晴らそうとしているライフガードの仕業かもしれない。ここは軍の中継点なのだ、結局は。圧力がもう一度高まって、塊がミルクと蜂蜜と融けた氷河の国にひり出されるまで、人間は集まらない場所だ。アメリカ大陸の括約筋。
 いつからそんなに冷笑的になったのだろうかと訝しむ。人道主義者とは思えない。
 咳きこむと、血の味がする。
 屋外で砂利を踏む音がする。素早く、大胆だった。黙示録を経験したばかりの人間にありがちな、シェルショックによろめく様子はない。ベールマンは銃を手探りしている。安物の電子レンジのようなもので、かろうじて水を沸かすことくらいはできる程度のものだが、体重50キロの女が2倍の質量と10倍の権利問題を手にした男に命令するのに、対等な条件を整える助けにはなる。何もないよりはマシだ。
 まだホルスターに入っていたら、そうなっていたかもしれない。どういうわけか滑って、1・5メートル先のテーブルの脚にぶつかっていなければそうなっていただろう。銃に手を伸ばし、再び叫ぶ。身体を半分に引き裂いているように思えた瞬間、キッチンのドアが勢いよく開き——
 ——ブラックアウト——
 ——不思議なことに彼女の手には銃が戻って来ており、指は狂ったように引き金を引いている。蚊の鳴くような発射音で耳がいっぱいになり——
 ——ベールマンはズタボロで、血を吐いていたので、西半球連合の制服を着た男がその銃を奪わなくても、撃ち続けることはできなかった。
 男ははるか高い場所から彼女を見下ろしている。その声は井戸の底から響いてくるが、ベールマンに話しかけているわけでないようだ。「食堂の裏手に——
 ——英語——
「——致命傷だ、彼女に残された時間はおそらく15分。まだ戦っている——」
 再び目覚めると、痛みはなくなって、視界がかすんでいた。男は白から黒に変わっていた。もしくは違う男なのかもしれない。視界に浮かんでいるもののせいで見分けるのが難しい。
「レナータ・ベールマン」男の声は奇妙だ——どういうわけか、使われたことがないように聞こえる。はじめて試しているかのように。
 その男には他にも何かがある。焦点を合わせようとして、ベールマンは目を細める。記章はない。顔に視線を移す。
「くそ」やっとのことで声を振り絞る。ほとんどささやき声で、まるで幽霊のようだ。「その目、どうしたの?」
「レナータ・ベールマン」彼はもう一度言う。「君に取引がある」





(Jordan Blanch、Jason Knowlton、Leona Ludderodt、そしてSteve Perryに心からの御礼を申し上げる。彼らの忍耐と専門知識に対して——PW)

トミー・リー・ジョーンズ『ミッション・ワイルド』

 


以下、ネタバレを含みます。

 

 十九世紀のアメリカ。荒野で暮らしている独身女のメアリーは、精神を病んだ三人の女性をアイオワの教会まで連れていく役目に選ばれる。しかし、目的地まで約400マイルもある過酷な旅路で、女一人では困難な道のりであることは想像に難くない。

 

 そこで、都合よく首を吊られかけていた男がいたので、命を助ける代わりに同行を約束させるが、信心深いメアリーにとってその男はどうにも粗野に過ぎるところがある。このジョージ・ブリッグスと名乗る年老いた男はどうやら元軍属で、インディアンと交渉ができ、また野営の知識があり、銃や馬が扱える。能力的にはうってつけの人材だが、どんな社会にも所属していない風来坊で、信心はなく、情に薄い合理主義者である。たまに過去の話はするが、どうにも要領を得ない。

 

 メアリーをヒラリー・スワンクが、老いた風来坊をトミー・リー・ジョーンズが演じている。

 

 女だけで荒野を馬で旅するといえば、『女群西部へ!』(1952年)という映画もあるが、運ばれる女たちが花嫁ではなく、荒野の生活で精神を病んだ女なので、観客として受ける印象はもっと陰惨なものだ。

 

 女たちが病んだ理由は、とぎれとぎれの回想という形でしか示されないので詳細がはっきりしない部分もあるが、息子を欲しがる夫が娘を犯したり、ジフテリアで子供三人が死んだりと、それぞれ十九世紀アメリカ西部の過酷な環境を反映している。病んだ女たちの情けない夫どもの描写などを見るに、家父長制批判と受け取れるところもあるが、二十一世紀の日本に住む人間としては、同時に当時のアメリカ西部の資源不足ぶりに原因を求めたくなるところもあるだろう。

 

 全体のシナリオは、信心深い独身女と無法者のバディものになっており、段々とその無法者が"善良"になっていくところ含めて一応、定型的と言える。とはいえ、あまりにも結婚に執着するメアリーのキャラクター描写と、中盤のショッキングな展開(実はバディものではなかったとさえ言える)、そして"善良"になっていくものの結局はどこにも行けない男として描かれるジョージなど、定型からは外れるところや苦い印象を残す場面も少なくない。

 

 特に、通常であれば"自立した女性"としてヒロイックに描かれてもおかしくない、独身女メアリーが実のところ結婚に固執していることが序盤から描かれ、積極的に求婚しては振られるという場面がいくつか出てくるのは印象的だったし、痛々しいものがある。

 

 なんというか、身も蓋もないのだ。

 

 また、やや唐突な挿話として、三日飲まず食わずの一行がホテルに着くものの、当日開催される投資家のパーティのために入れて貰えないという場面がある。このシーンはそれだけで終わらず、その晩、「飯を取ってくる」と言ったジョージが向かうのはそのホテルで、放火・銃撃のうえ食糧を強奪し、建物は全焼する。

 

 いくら相手が施しをしない資本家連中とはいえ、"善行"としては天秤が釣り合っていないので(やり過ぎ)、これは根が軍人であることを払拭できていないジョージの歪さを表現しているのかとも思ったが、あるいはひょっとして資本主義批判なのだろうか(だとすれば取ってつけたような感が否めないが)。ゆったりとしたロードムービーという色の強い本作では、数少ない暴力シーンでもある。

 

 終盤、無事アイオワに女たちを送り届けたジョージだが、報酬の300ドルは発行した銀行が倒産したせいで紙切れ同然と化し、再び一文無しになってしまう。裸足で給仕をしている十四歳の少女に靴を買ってやったあと、「西部で一攫千金を夢見る男と結婚するな。この地に留まれ」と助言をしてやったかと思うと、どこにも行く場所がなくなったのでまた西部へと向かうのだった。

 

 といったように、身も蓋もない脚本ではあるが、撮影面では古典的に処理されていて、監督トミー・リー・ジョーンズの西部劇好きが伺えるものになっている。冒頭は、地平線を画面の真ん中ほどに据えた草原のフィックスのショットがいくつも並ぶというもの。それ以外の普通の場面も、基本的にフィックスで撮影し、カメラは揺らさない。背景を入れるために被写体とカメラの距離は遠く、ほどよく陰影をつけている。夜の場面はそれほど多くはなく、たまに降る雪が、土地の厳しさを演出していた。編集もせかせかしておらず、抑制的だ。

 

 美しいといえば美しい撮影だが、傑出したものは感じない。脚本を含めとても渋い内容なので、少しつまらないと言えばつまらない。ただ、ごく普通の西部劇という見た目をしていて、ちょうどそういうものを見たい気分だったのだ。