読書

先のことを気にしなくてもいい休日に小説を読んでいると、そもそも小説とはこういう状況で、暇をつぶすために読むものなのだということを強く実感する。

 

2~3時間は拘束されることが確定している新幹線の中以上に読書がはかどる場所があるだろうか?

 

土地もタダではないので、電子書籍への傾倒はこれから個人的にもどんどん強まって来るだろうけど、電子で読んでると理解度や記憶への定着が薄くなることを肌で感じる。全体の構造をアナログに、直感的に把握できないまま読書をすることでそうなるのだという記事をどこかで読んだ。

 

通勤時間や隙間時間に細かく読んでいく電子書籍と、10連休に読む文庫本からもたらされるものは違うだろう。神経学的事実として。

 

前者のような中断・雑音にさらされる芸術の姿は、ギャディスの『JR』で描かれているもののひとつで、とても身につまされる。

チャールズ・ストロス『シンギュラリティ・スカイ』

 

シンギュラリティ・スカイ (ハヤカワ文庫SF)

シンギュラリティ・スカイ (ハヤカワ文庫SF)

 

 チャールズ・ストロス『シンギュラリティ・スカイ』を読んだ。すっごい面白い。そして『アッチェレランド』のときはそういう印象はなかったけど、なんか基盤はルネサンス文学っぽいな…と思ってしまいました。

 
Wikipediaによれば元々のタイトルは"Festival of Fools"だったとか。
 
大きな枠組みでは領域国家による通信遮断と、それに対する情報の自由化というテーマがありつつ、具体的にはわざと文明が発展しないように人民を支配する新共和国という封建制と、そこにやってきたフェスティバル(という人間を超越した文明)との戦争が描かれるんだけど、それを戦争だと思っているのは実は新共和国だけで、フェスティバルはただの電話修理工でしたという『銀河ヒッチハイク・ガイド』並みのバカSFが繰り広げられる。
 
で、そういう背景がありつつ、主人公のマーティンは、謎めいた女性スパイであるレイチェルと仕事に恋愛に大忙しで、スペース・オペラやら、時間SFやら、ミリタリーSFやら、スパイアクションやらが上手くからまったプロットをただ走ることになるわけですが、このあたりはそれほどシンギュラリティというわけでもないので、あまり興味が湧きませんでした。
 
冴えないオタクであるマーティンが、才女であり美女でもあるレイチェルを射止めるのは、ひとえに保守的な新共和国にあって彼がただひとり女性にアプローチできないオタクだったから(≒紳士)ということですが、現実にはただ単に無害であることが女性に対する魅力になるかというと……必ずしもそうではないので(売り気のない営業マンがいい営業マンかといわれればそうでないように)、ここはフェミニズム的な言い訳を用意しておいて、内実としてはオタク向けに都合のいい恋愛シーンを書こうということなんでしょうか。いや、マーティンは知的な話ができるという美点もあるので、別それだけじゃないわけですが。
 
ストロスの手にかかると、時間旅行は致命的な大量破壊兵器で、それは人間なんか遥かに超越した、超ド級に高度な知性体にとっても、同じ宇宙に生きている以上、同様に致命的である。だから、エシャトンはあたまのわるい知性体が下手なことをしないように常に見張っているのだという説明がありました。
 
ストロスの小説の好きなところは、テクノロジーの変化によって、人間だけでなく、法律とか経済とかをぐにゃぐにゃと変形させてしまうところですね。
 
作中ではコルヌトピアマシンと呼ばれる、何でも作り出してしまう機械のせいで、新共和国の貨幣経済は崩壊します。これは『アッチェレランド』の恵与経済と同様のロジックで、つまり資本主義社会における価値はその希少性によって決まるのだから、じゃあ希少性というものをなくしちゃおうよというあれです。まあ、何でも生み出せるマシンが手元にあったら、お金使ってなにかを買おうとは思わないよな。
 
フェスティバルにお話しする代わりに、コルヌトピアマシンを手に入れた革命家たちは、新共和国を打倒せんとしてあれこれ画策するんですが、こちらが自分にとっては面白かった。マーティンやレイチェルが活躍する宇宙の話ではなくて、シンギュラリティによってグロテスクな変形を遂げさせられた保守的な社会のありさ
 
シンギュラリった革命闘士たちが、自分の個性に惹かれることを個人崇拝ではないかと詰問したり、ルイス・キャロルか?という人間兎と一緒にルイセンコ主義的に進化する森林に分け入ったり、まるで童話のような世界が現実そのものになってしまいます。
 
その裏で修道士がブチ殺されてアップロードされ、空から落ちてきた携帯電話が民話を収集しており、批評家(と名乗るポスト・ヒューマン的知性体)は、フェスティバルによって情報の流れが開通したのに、物質ばかり求めて情報を求めないその国民たちが哲学的ゾンビではないかと怪しんだりします。
 
フェスティバルを歓迎した革命家には確かに階級と国家の解体がもたらされたのですが、同時にそこでは革命家も不要となってしまった様子が滑稽に、グロテスクに描かれます。ストロスはグロテスクなものはちゃんとグロテスクに描くような気がしますね。
 
そういえば『アッチェレランド』を再読していて、実はあの世界の地球も、ピーター・ワッツ『ブラインドサイト』みたいにポスト・ヒューマンによる現生人類の大量虐殺が起きていることがきちんと記述されているのに気づきました(すごくさらっとした描写だけど)。
 
シンギュラリティ後の新共和国の有様はグロテスクですが、ここで説話文学が引用されているのは、フェスティバルによって強制的に情報が自由化されていき、人々が空から落ちてきた携帯電話にむかって身の上話をしたりしているから、ということなのかもしれませんし、あるいはもっと単純に非リアリズムという観点から、童話や民話の世界観が採用されたということなのかもしれません。
 
『シンギュラリティ・スカイ』を読んでルネサンス文学っぽいと思ったのは、社会風刺を備えたコメディ路線(『ガルガンチュアとパンタグリュエル』、痴愚神礼讃)と、説話文学(『デカメロン』、カンタベリー物語』)が両方あるよね、というだけのことなんですが、キリスト教支配からの脱却という最も単純なルネサンス観が、新共和国の情報封鎖からの脱却に重なるというのはこじつけとまでは言えないかなと思っています。
 
あと、レイ・カーツワイルによって語られるシンギュラリティは人間否定的なものではなく、むしろ人間性の増強に貢献するということなので、その小説版ともいえるストロスに人文主義的なところがあっても当然ではあります。
 
これがピーター・ワッツの場合、ヒューマニズムや既知の人間性なるものは徹底的に批判され、切り刻まれます(ワッツ曰く、最初から人間性を貶める目的をもって書くわけではなく、あくまでデータと統計に基づいて書くとあのようになるということですが)。
 
ワッツがしばしば聖書からの引用を行い、作中人物の関係などにもその聖書的な構造を埋め込んでいるのは(例えば、量子AI=神、吸血鬼=キリスト、シリ=パウロ)、比喩によってその非常に情報量の多い世界観をなんとかわかりやすくするという意図があるのかもしれませんが、同時にそれが比喩として機能するのは、そもそもキリスト教ヒューマニズムの否定が相性のいいものとも言えるかもしれません。
(とはいえワッツによる聖書の引用は、皮肉と悪意に満ちています)
  
シンギュラリティの展開方法として、一方に人間否定が、一方に人間肯定があり、各々参照すべき過去の作品が異なる、というなんとなくわかりやすい見取り図ができました。
 
そういうわけでストロスの影響下にあるであろう『トランスヒューマンガンマ線バースト童話集』が童話を引用しているのは、思考の流れとして自然なことであり、現代ネットミームを利用していることも自然なことなのかもしれません。

最近読んだアメコミの話

先日遅ればせながら『DCユニバース:リバース』を読んで、はじめて『ウォッチメン』とDCユニバースがクロスオーバーすることを知った。

 

何かそういう情報を過去に聞いたことはあったんだけど、ビフォアウォッチメンだけだと思いこんでいて、しかもその後は情報をシャットアウトしていたので、本格的なクロスオーバーのことは知らなかったんですよね。(知ってからはすごく興奮して眠れなかった)

 

しかも、ライターはジェフ・ジョンズ。名実共にDCのトップクリエイターが、どうあがいてもアラン・ムーアと比較されることを避けられない仕事に着手するということで、そういう部分にも非常に興奮しつつ、DCコミックスのアプリを利用して『ドゥームズデイ・クロック』を刊行分(~♯9)まで一気に読んだ。

 

ちゃんと画面9分割で進行して、絵柄も見た感じ『ウォッチメン』に寄せており、内容も続きが気になって次々と読んでしまったので、少なくともビフォアウォッチメンダーウィン・クックの担当作は除く)を読んだときのようながっかり感はなかった。さすがジェフ・ジョンズというところだろうか(といいつつ彼の仕事の半分も追えてないんですけど)。

 

でも、最新話でジャスティス・リーグの面々が集合してくると、やっぱりリバース以降の各連載を追っていないと楽しめていないのかな~という思いが強まっており、そもそも『フラッシュポイント』と『DCユニバース:リバース』は読んでるから大まかな流れは知ってるけど、『バットマン/フラッシュ:ザ・ボタン』は読んでないし、NEW52もリバースも、各コミックを真剣に追っているわけではなく、色々欠けながら読んでるのがもったいなく感じられてもきた。

 

さらに、話の展開としては佳境になってきたけど、あと3話しかない(らしい)のに本当にこれ終わるのだろうか? 終わったとしてウォッチメンの決算がこれで終わりっていうのは寂しいなというところなので、また他の大きなプロジェクトに繋がっていくんでしょうか。

 

ドゥームズデイ・クロック』では、ある意味当然というか、クロスオーバーするにあたって各世界の似たキャラクター同士が対置されるんですが、Dr.マンハッタンに対してはスーパーマンロールシャッハに対してはバットマンというところまでは誰にとっても予想の難しくないところで(ロールシャッハ、死んだはずでは?と思った方は本編をお読み下さい)、オジマンディアスは誰と対置されるんだろう?と思っていたらあの人だったんですよね。いざ言われてみると納得。

 

というわけで現状ものすごく佳境に入っている『ドゥームズデイ・クロック』、今後の展開も楽しみです。

 

 

www.dccomics.com

DCユニバース:リバース (ShoPro Books)

DCユニバース:リバース (ShoPro Books)

 

 

アラン・ムーア『Providence』#2 “The Hook”

 

Providence #2 (English Edition)

Providence #2 (English Edition)

 

 今回ベースになっているのは、ラヴクラフトの短編「レッドフックの恐怖」。

 前回の元ネタである「冷気」同様、ニューヨークを舞台にした作品である。

 

引き続き、書籍執筆のための取材を続けるロバート・ブラック。今回の協力者は「レッドフックの恐怖」 の主人公、刑事マウロンである。しかし、この人にもアラン・ムーア流の解釈が施されていて、どうやら同性愛者っぽく描かれている。

もしかして原作にそういう要素がほのめかされていたのか?と思って再読するも、特にそういうことを示唆する記述はない。そういえば前回の“The Yellow Sign”のオチを読んだときも、『「冷気」にそういう関係をにおわせる記述あったっけ?』と思って再読したのに、特に何もそれらしいものは出てこなかった。こういった箇所、かなりアラン・ムーアが自由にオリジナルテキストに要素を追加していると思ったほうがいいのかもしれない。

まあ元々、どぎつい性愛ネタを入れるのは過去のアラン・ムーアの諸作でも頻繁に行われていたことだけど、ラヴクラフトが性愛を嫌っていたせいもあって、ちょっと深読みを誘われてしまうのである。

例えば「ラヴクラフトは性愛を忌み嫌っていたが、実際の作品にはむしろ性愛に強くこだわった痕跡が残っている」といった趣旨の発言を、高橋洋が、確か『ユリイカ』のクトゥルー神話特集で言っていたような気がするんだけど、、、

確かに、自分の血縁に異常な存在が交わっていたという事実が明らかになる話であるとか、人間と非人間的存在が交わっていたことが明らかになる話だとかが、ラヴクラフトには多いように思える(ウエルベックは『H・P・ラヴクラフト:世界と人生に抗って』で、それを移民への恐怖にむすびつけていた)。

そういう意味では、ラヴクラフトを元ネタにして性愛ネタを盛り込んでいくことにはムーアの意図がありそうで、こういった要素が今後の展開で結実するのかもしれない(1話ずつ読みながらこの記事を書いているので、当然まだ最後まで『Providence』を読めていない)。

ちなみに前回の取材相手はムニョス先生だったけど、今回の取材相手は、原作では黒幕的な位置にあったサイダムが配されている。セイレム魔女裁判の話題なども出て、ムーアによる異端や黒魔術の講義といった趣。

#1 “The Yellow Sign”は本当にただロバート・ブラックが取材相手と喋るだけで、元ネタを知らないと何が面白いのかわからない話だったが、今回は後半にアクションシーンがあるので、その分、まったく元ネタを知らない人でも一応読みどころがあるといえますね(いえるのか?

オチは、いわば漫画版叙述トリックみたいなショックシーン。こうやって毎回ショックシーンを最後に持ってくるんですかね。


ベースになっている「レッドフックの恐怖」について触れておくと、クトゥルー神話ネタの出てこない短編のせいかあまり言及されないものの、刑事マロウンが移民で溢れる貧民街レッドフック地区の悪魔崇拝について調査するという筋書きで、その親玉がサイダムではないかというアレです。クトゥルーもののフォーマットとしては使いやすそう。刑事が視点人物ということもあり、街を舞台にしているということもあり、そして不法移民といった社会問題ネタもあり、ラヴクラフトとしてはどこか探偵小説的な短編になっている(とはいえラヴクラフトなので後半は幻惑的な光景が展開されるのだが)

ここで自分がつい連想してしまうのが同時代に活躍したダシール・ハメットの『デイン家の呪い』。ハードボイルドの始祖として記憶されるハメットとしては珍しく、オカルトが題材になっている。特に第二部「神殿」では、コンティネンタル・オプが超自然的なできごとに遭遇するさまが幻惑的に描写されるシーンがあって、すわ怪奇小説か?と思わなくもない。もちろんハメットの書きぶりがいつもリアルなのかと言われればそうでもなく、『血の収穫』でも、講和会議のあと、珍しくオプが内面を吐露したり、夢の場面があったりするし、そもそもスト破りとして雇われた末に街に居座った悪党どもを一掃するというストーリー自体が夢想的なのではないか、ということは言える。そして『デイン家の呪い』も全体としては別に心霊主義的な作品として終わるわけではない。

『デイン家の呪い』でオカルトが出てくるのは、もちろんラヴクラフトとハメットに共通点があるというよりかは、むしろ当時のアメリカ社会でどれほどオカルトが流行っていたを示すものだろう。19世紀の心霊ブームの残滓というべきか、なんというべきか、そういった非主流の思想がいかに西洋で連綿と続いてきたのかは、アラン・ムーアの諸作が一貫して語ってくれていることだった。

パルプマガジンでは当初SF、ホラー、探偵小説、そういったものが今ほど明確なジャンルの形式を持っていたわけではなく、ある程度未分化のまま発達してきた。それと同様に、今では別れたものがある程度互いに影響されあっていたということは思想についても言えるだろう。心霊主義、神智学、神秘主義、心理学、社会改良主義フェミニズム共産主義、文学、などなど。こういったものの影響関係をもう少し調べていけば、もっとアラン・ムーアの漫画がよく読めるんだろうけど、わたしは怠惰なので識者による解説を望みます。

 

 

ラヴクラフト全集〈5〉 (創元推理文庫)

ラヴクラフト全集〈5〉 (創元推理文庫)

 

  

デイン家の呪い(新訳版)

デイン家の呪い(新訳版)

 

 

石川博品の小説『メロディ・リリック・アイドル・マジック』、通称メロリリを回顧する

この間、引越し準備のために本棚を整理していて、石川博品の小説『メロディ・リリック・アイドル・マジック』、通称メロリリを発見し、ついページをめくっていると、2年半ほど前に発売されたときに読んだ記憶がよみがえってきた。


当時、読んでいる途中に連想したのが同じ著者のネルリ2巻で(最も好きな作品だ)、歌えや踊れやのお祭り騒ぎがまどろっこしい現実をかき消すところがいかにもだった。
なによりも小説のなかに詩が埋め込まれている。これがネルリ2巻でなくてなんなのか。


実際、石川博品も言っている。

 

一見して、作品構造がハレムリーグやネルリシリーズに似ている。要するに、石川博品の得意とする王道の青春小説である。

 

  • 現実⇔夢

ただ現実を模倣するのではなく、むしろ社会に流通しているものから反転した価値観を示すことができるのがフィクションのいいところだと思う。フィクションの中では、反転された価値が、厳しい現実を魔法のように解決してしまう様が描かれることがある。


しかし、特に予算も俳優も必要とせず、ただ書いてしまえばそのとおりになる小説において、その反転に説得力を持たせるためには、まどろっこしくて醜悪な現実を作品の構成要素として取り込むことが欠かせない。


石川博品はその点に自覚的な小説家のように思える。

 

耳刈ネルリ〉シリーズでは、レイチやネルリの幸福な学校生活に常に暗い影を落とし続ける厄介な政治状況が造形されていたし、〈後宮楽園球場 ハレムリーグ・ベースボール〉シリーズでも、切磋琢磨する後宮の野球少女たちの裏にあるのは政治であり、主人公が後宮にやってきたそもそもの動機は皇帝暗殺である。


そのあたりに転がっていそうな醜悪な現実がまずあって、そこから切り離されたフレームとして学園であるとか後宮野球リーグであるといった箱庭が存在している。それは一時的であり、局所的な空間だけど、そんなところでしかフィクションは成立しないということなのだろう。


今回、その切り離されたフレームになるのは沖津区である。

 

なぜかこの作品の舞台となる沖津区ではアンダーグラウンド的なアイドル市場が成立している*1のであり、それに入れ込む人々はLEDと呼ばれる国民的アイドルグループを嫌っている。LEDを見たら殺せ、というセリフさえ出てくるこのLEDはあからさまにAKB48のことなのだが、ビジネスとして成功し、理性化され、社会的に認められたアイドルが果たして信仰に値するのか。いやしない、というところからこの物語ははじまっていくのである。


このように沖津区では、全国区で支持されているアイドルグループを「殺せ」と口走るような、一般社会とは反転した価値観がはびこっている。

 

  • 反発する主人公たち

フィクションのお約束として、ある世界に足を踏み入れる主人公という紋切型がある。いきなり異常な世界に入っていくと読者も混乱するし、フィクションを通じて、それも俗な物語を通じて礼賛される価値観があるとすれば、主人公はむしろそこから遠いとこから歩きはじめることで、徐々にその価値観に近づいていき、変化しなければならないのだろう。変化がなければ時間的経過も生じないので、物語が動かせないからであるし、なにより小説は様々な社会的文脈を帯びた言葉によって構成されるからだ。


だから、下火は元LEDであり、沖津区では偽物呼ばわりされるLEDアイドルがいかに努力し、厳しい競争に晒され、その地位に立てているのかを知っている。

 

そして、ナズマは特殊な体質から、音楽そのものが苦手で、よって根本的にアイドルへの熱狂が理解できないでいる。

 

このような連中を沖津区の価値観で染め上げるためには、なにかしらの天啓を受けて貰う必要がある。

 

  • ナズマにとっての天啓

それは、アーシャの家で行われるメロリリの最初のライブだ。ここでは主にナズマの視点から、宗教体験のようなシーンが描写される。音楽を聴くと現れる謎のパターンも、この場面以降はむしろ肯定的なものとして描かれるようになる。


客観的には他の登場人物といっしょに集まっているのにもかかわらず、意味付けとしては下火とナズマの二人だけのシーンとして演出される。恋愛というものは公的な空間と私的な空間を分けることによって成立する、ということだ。『ヴァンパイア・サマータイム』にもあったようなロマンチックなシーンである。


既に序盤の世界°のライブで、ナズマと下火が群衆の中で二人きりになる場面はあったけど、その反復でありつつ、よりロマンチックに強化されていることがわかる。舞台と客席で分断されつつも、視線と涙でつながれた天啓が降りてくるのだ。

 

  • トラウマ。彼岸⇔此岸。歌詞。

主要キャラクターには、過去のトラウマが埋め込まれている。


下火にとっては死んだ父親。

 

国速にとっては、LEDのトップアイドルを務める元同級生のなちゅん。

 

ナズマのトラウマは中学時代だが、本作ではあまり語られない。

 

面白いのは、この作品でLEDに行ってしまうことに彼岸の色がついているところである。序盤で、「血祭り」というグループが歌う曲の歌詞には、元メンバーがLEDに行ってしまった悲しみが歌われる。

 

 僕のかわいいあの人を
 LEDが連れていった
 僕の心のセンターに
 ぽっかり大きな穴があいた

 

終盤、『ワールドフェイマス』の歌詞に込められた国速の気持ちを読み取った下火が、「好きな人がアイドルになるのは死別よりもつらい」と考える。


父親の死も、好きな人がアイドルになったことも、等しく「いま・ここ」から切り離された彼岸についての話だが、ここでは微妙に差異がつけられている。

 

  • まるで魔法のようだった

価値観の反転は、終盤のメロリリのライブシーンで頂点を迎える。


いくら沖津区が現実から切り離されたフレームだろうと、小説で使われる言葉は日常的に使われている言葉をひろってきたもので(下火のネットスラングがまさにそうだけど)、魔法や天啓というものには向いていない。


だから詩的言語が使われることになる。


メロディ・リリック・アンド・チューンの歌う曲が紙面に並び、そこには前述した国速の過去のトラウマや、下火の過去のトラウマが埋め込まれ、スパークしている。ここがよくあるトラウマの解消シーンとして抜群に感動的で、政治的な問題を演劇の流れで解決してしまい、ストレートに愛を歌い上げたネルリ2巻を思い出したのだ。


フィクションだからこそ、何の社会的価値もない路上での素人アイドルのライブパフォーマンスが、どこか崇高なものへと転じるのである。


このようなことを実行する石川博品の小説作法は、ある意味、教科書的なものだと思う。実際、読了当時に知人と「この文章に傍線をつけると国語の問題が作れる」という話題で盛り上がったものだ。石川博品の方法論は非常に理論的で、それゆえにどんな題材にもある程度応用可能な抽象性があるが(石川博品の言語感覚がしばしば独特だと言われるのも、そういった操作を可能とする文学的教養の分厚さにあるだろう)一方でそれが職業作家としての彼を追い詰めている節もある。また抽象度が高いがゆえに、ここでいうアイドルは、ロックバンドなどのショー・ビジネスいずれにも代替可能だという批判も聞いた。それらの点について今思うことはあまりない。


ただ、ネルリ2巻の愛読者だった自分にとっては、『メロディ・リリック・アイドル・マジック』は嬉しい贈り物だった。この記事を書いた動機はただ、その感謝の気持ちを伝えたいということ以外にはない。

 

 

 

 

 

*1:作中の沖津区アイドルは地下アイドルと呼ばれることを嫌うのだが、ではなんと呼ぶべきなのか。私はそもそもアイドルに疎いのでよくわからない。作中論理からいえば単にアイドルと呼べばいいのだろうが、アニメを見る感じでは「スクールアイドル」という言葉が相応しそうだった。ストリートという言葉も思い浮かんだが、実際のところ日本でストリートがどれほど現実味のある言葉なのかはわからない。

アニメ『SSSS.GRIDMAN』ネタバレ感想

 

このアニメは最初、あたかも新条アカネと、その被造物であるこの世界の間に支配的な関係があるかのようにはじまる。それは事実としてそうだし、アカネに不快感を与えた人物は怪獣に殺されてしまうのだけど、話数が進むにつれてそのトーンは薄くなっていき、むしろアカネはグリッドマンとの戦いに勝つことができず、神なのに、まったく目の前の現実をコントロールできなくなっている、というトーンのほうが強調されるようになる。

 

アカネが神として振舞うことができないのは、ひとえにグリッドマンという外部からの侵入者がいるせいだが、ではアカネとグリッドマンはこの世界に対して同じレベルに立っているのかといえば、そうでもない。むしろグリッドマンと並立関係にあるのはアカネを影で支援するアレクシス・ケリブという宇宙人であり、ここにねじれが生じている。

 

また、アレクシス・ケリブは黒幕的に、アカネ本人には間接的な影響しか及ぼさず、言葉や行動で自分の目的にアカネをうまく誘導しているのだが、一方でグリッドマンは憑依対象である響裕太と不完全ながらも入れ替わっており、記憶喪失に陥っている。ここにもまた大きなねじれがある。

 

どこかで見たような図式があって、それが終盤に向かって整理されていくのだけど、何だか当初思っていたような感覚に至らない。わざと上手く折り畳めないようにしてあって、どこかに横滑りしていくような感じがあって面白かった。

 

「現実>箱庭」という図式があることに箱庭の中の住人が気づいてしまう、という「世界5分前仮説」みたいなやつかな~と思っていたら、そういうヒエラルキーが現実と箱庭の間に生じなくて、むしろいくつかの並行世界がある時点で交錯するという奇跡?についての話に終わっているというのがなんとも不思議だった。なんというか『電脳コイル』とか『君の名は』みたいな?

 

ところでこのアニメを面白いと思ったのは、自分が毎週追っていたというタイムスパンにかなり影響されていて、それをブログ記事ひとつに簡単に図式化してしまうと経験が上手く伝わらない予感がありありとするのだが、それでもある程度記録に残しておきたいので書くこととする。


このアニメでは基本的に、一話につき一頭の怪獣があらわれて町を破壊し、それをグリッドマンが食い止めるという紋切り型が反復される。これは元となっている特撮怪獣ものの基本が踏襲されているということだろう。

 

つまり、これは何度もやり直すことのできる遊びの世界であり、そのことは2つあるプレイヤー陣営のどちらもある程度自覚している。

 

特撮ファンでもあるアカネにとっては紛れもなく、少なくともはじめは、グリッドマンとの怪獣プロレスごっこは楽しい遊びだった。

 

そして、グリッドマン同盟の裕太や六花や内海にとっては、自分たちが生きている現実の世界が戦場になっているという抜き差しならない事情があるものの、遊びの側面がないわけではない。ドラマとしては、六花が戦いを血生臭い現実として、そして内海(特撮ファン)がそこに遊びとしての喜びを見出してもいる。大雑把にいえば、そのような役割の分担が行われていた。

 

しかし、高校生の現実からはかけ離れた、グリッドマン同盟としての活動は、今・こことは異なるもうひとつの現実であり、つまり遊戯の側面がある。同盟としての活動をするかぎりにおいて、裕太・六花・内海全員がみんな平等に遊びにふけっていたと言えなくもない。

 

遊びだから何度もやり直すことができるし、怪獣が町を破壊するという取り返しのつかないできごとにもやり直しがきく。それは現実につきまとってくる重さを失わせ、ひとつの行為、ひとつの場面を軽くして、怪獣との戦いをごっこ遊びに変えてしまう。

 

しかしこのごっこ遊びには、ひとつ元通りにならないものがある。

 

そう死んだ人間である。

 

怪獣を倒したあと、町は元通りに復元され、人々の記憶も消されて元通りになるが、死んだ人間は戻ってこない。殺す相手は、アカネにとって不愉快な人物だ。

 

死んだ人間だけが、元通りにできない影響を与える。グリッドマンがやってくる前まで、それはこの反復される世界にもたらされる唯一の変化といえるものだった。変化は自由を生むものだと思うかもしれない。しかし、その変化はこの世界に自由さをもたらすものではなかった。

 

むしろアカネにとって、不愉快な人物の殺害は、この世界をより完全な理想世界に近づけ、これ以上何かを変化させたり、動かすことのできない、飽和状態に接近させてしまう。そこは居心地のいい世界だが、自分にとって予想外のことや、都合の悪いことが起きない息苦しいものになる。まるでやりつくしたゲームのように。

 

アカネも完全な神ではないことが示唆されている。そもそも、この世界に住む人間を創造し、自分のことを好きになるように設定できるのにもかかわらず、わざわざ怪獣を使って不快な人物を殺していることがそのひとつの証拠だ(アカネの沸点が低すぎるというのが一番の問題ではあるものの、偶然や、些細なことで生じた不快感まで事前に予測してコントロールすることはできない)。また、彼女は終盤にグリッドマンが変身する際にジャンクを使っていることを知るが、そのこともまた目にするまでわからなかった。

 

話を戻そう。上述したように、変化のない理想世界に囚われているという意味で、第1話からすでにアカネは追い詰められた状態にあるともいえるけど、作中で話数が重ねられるにつれて(つまり我々観客がよく実感するものとして)アカネを追い詰める大きな要因は、グリッドマンが来てからというもの、この遊びにまったく勝てなくなるということだろう。

 

いくら遊びであり、何度もやり直すことが可能だとしても、ゲームにまったく勝てないプレイヤーは精神的に追い詰められていく。そこでアカネがとる方法はどんどん番外戦術的なものになっていき、最終的にはみずから裕太を刺しにくる始末。ここでも神様はおよそ神様らしくない方法を選んでいる。

 

途中から観客は、新条アカネに同情するようになる。そういう風に作ってあるし、彼女に同情するように誘導されていること自体にも気づくようになっているだろう。これは彼女を救うシナリオなのだと。

 

しかし、彼女を救う過程においても、図式が巧妙に横ずれしていく。グリッドマンも裕太も新条アカネを直接は救わない。いや、ビームで直接的に救ってたじゃん、とは言われたらそうなんだけど、アカネを心理的に救うのは六花だし、アンチくんだし、でつまり彼女の被造物だ。

 

アンチくんは当初グリッドマンのライバルとして生み出され、アカネやキャリバーさんとそれぞれ特殊な関係を築いていく。後半ではグリッドマンの半ば味方のようになり、最後の最後ではアレクシスにやられて包帯が巻かれていた部分が取れ、オッドアイになっている。彼はこの世界でまたグリッドナイトになるのだろうか。

 

アンチくんは模倣をする怪獣だった。その彼が何度も何度もグリッドマンと戦うのは、いわば空手や柔道の型を習うようなものなのかもしれない。キャリバーさんと戦うのも、どことなく稽古のように思えなくもない。

 

少年が空手の型を習い、まったく同じ反復のなかから突如、変化する。彼の物語はまだ終わっていない。

ジョセフ・H・ルイス『私の名前はジュリア・ロス』

私の名前はジュリア・ロス

MY NAME IS JULIA ROSS

1945年 アメリカ 65分

監督:ジョセフ・H・ルイス

 

 

賃を滞納する下宿人ジュリア・ロスは、あるとき職業紹介所で待遇のいい秘書の求人が出ていることを発見する。面接を受けると話はとんとん拍子に進み、その日のうちに荷物を持って家に来るように言われそのとおりにする。目を覚ましたジュリア・ロスが気づいたのは、自分が昨晩とはまったく違う場所にいること。そしてイニシャルの違う道具の数々に囲まれていること。自分をまったく知らない名前で呼んでくる看護婦が朝食を運んできたこと。そしてなにより、自分が療養という名目で監禁されていることに気づいたが、「私はジュリア・ロス」と真実を口にする彼女の言葉は誰にも信じて貰えない。

 

ッチコック的なあらすじだが、主観的な悪夢という趣向にはならない。ここはDVDの解説に書かれている通りである。実際、現実が変容する感覚を演出したいのなら、ジュリア・ロスが眠った次の場面では、起きて監禁されたことに気づくシーンを入れる必要があるんじゃないだろうか。彼女がいなくなったことに気づいて、捜索を始める恋人の視点を挟む感覚からして理性的だと思った。そのあとも映画は、脱出しようとするジュリア・ロスと、逃がさないように画策する母子の攻防をサスペンスとして、スタティックに描いていく。視点がジュリア・ロスに固定されているわけではないため、主観的な悪夢にはなりようがない。といっても、視覚的に現実が歪んでいるような感覚がないかといわれれば、そうでもなく、手前と奥に人物を配置したレイアウトが頻出して、そのたびに目が強制的に掴まれるような面白さがある。冒頭オープニングクレジットが終わったあとの最初のショットでは、雨の中を歩く女性の後ろ姿が映される。画面の縁は曇っているが、これも普通は失敗扱いするようなカットのようで、ちょっとびっくりする。画面手前にいた彼女が、奥にある家のドアまで進むところがノーカットで撮られている。そのあともドアを開いた彼女が室内に入り、廊下を進んでいき、下宿の世話人にあれこれ愚痴を言われながら手紙を受け取るあたりまでノーカット長回し。『拳銃魔』のジョセフ・H・ルイスらしい過激さのあるオープニングだ。しかも、このカットの終わりでようやくジュリア・ロスの顔がわかる。ドアを開いた瞬間、縦に長い廊下の奥に世話人がかがんでいる姿が入って来るが、ここもサプライズになっている(こういう、一見普通に人の顔やら背中やらを撮っていると思わせておいて、後出しで奥に人を出すことでレイアウトを作るショットが後にもある)。また、画面の手前に視界をさえぎるような物を置いたカットが多くて、これもジョセフ・H・ルイスのトレードマークらしい。不本意なキスを迫られるジュリア・ロスの顔と、その下半分をさえぎるようにぼかされた男の背中が覆うショットなんかがいかにもそうだ。監禁されるジュリア・ロスを、外から窓越しに撮るカットが何度もあって、これも画面をさえぎるもののひとつでしょう。上手いなーと思ったのは、村の人が館を訪問しにきたとき、これで助けを呼べると考えたジュリア・ロスの言葉が全然信じて貰えなかった場面。開きっぱなしになったドアが画面の3分の2くらいを占めていて、残り3分の1にジュリア・ロスがぴったりはめこまれるように構図に収まるカットがある。疎外された彼女をワンカットで説明する見事なショットだった。ちなみに、本作は興業的にも評価的にもいい結果を残し、会社からの覚えもいい幸福な映画だったようだ。DVDの解説によれば、本作をもってA級映画の監督への昇進を打診されたらしいが、ルイスはこれを断ったとか。

 

 

私の名前はジュリア・ロス [DVD]

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