幽霊写像

 しばらく時間はかかったものの、やがて人類は幽霊の存在に慣れてしまった。もちろんそれは特段、驚くべきことではない。これは結局のところ過去ずっと、人類が目にしてきた幽霊そのもの。心霊体験そのものだったのだから。
 ワーキンググループの報告資料にまとめられた事例のすべてに目を通したあと、わたしはそう結論づけた。
 大阪府寝屋川市の賃貸マンションの一角で首を吊った女性は、その数週間前から部屋にあらわれる人の気配に怯えており、友人に相談していたことが警察の捜査からわかっている。
 神奈川県横浜市の国道で起きた玉突き事故は、原因となった赤いホンダのシビックを運転していた男性の操作ログが調査され、事故前に大きくハンドルを右に切っていたことが確認されている。運悪く、男性は手動モードで運転しており、安全装置による補正はかかったが、それでも中央分離帯に衝突した。
 福岡県筑紫野市の一戸建て住宅で、自らの腹部を包丁で刺した男性は、室内に設置されたスマート防犯カメラの映像によって、死後数分前まで何者かと戦っていた様子が記録されている。もっとも、相手の姿は可視光にも赤外線にも映っていなかった。
 これらはすべて国内で起きた死亡事件の一部を取り上げたに過ぎない。死亡事故に限らず、また国内に限らず、開発者に寄せられたクレームをすべて数え上げるとその規模は何万件にものぼるが、それでも少ないくらいだ。BrainRigの利用者が二十億人いて、かつゾンビ・ルーチンの拡張を利用している人がざっと十億人いるとする。そして不具合が発生する確率が〇・〇〇〇一パーセントあれば(その程度だとされている)、被害者は一〇万人いる計算になる。だが、ゾンビ・ルーチンに付随する心霊体験のほとんどは夜中に見るホラー映画よりも無害で、日常生活にわずかな不安を投げかけるものでしかない。他にも、心霊体験を誘発する拡張はざっと十数種類はあったが、それらすべてを調べるのは骨だった。
 コーヒーを飲むために席を立つと、カーテンの隙間から窓の外がのぞいた。三階の高さから見えるのは、住宅街の隙間をのたうつように伸びていく路地で、わずかながら電灯に照らされている。光と影のコントラストは強く、多孔質のアスファルトが円形に切りとられる。そのスポットライトの内側を、ランニングする若い女性が通っていったあと、他の数名がつづいて走り去る。
「毎日通るんだよ、ゾンビどもが」
 背後から声をかけてきたのは、半裸姿で汗をかいている小宮だった。日課の筋トレを終えて、ペットボトル飲料を口にしている。
「きみも自動化すればいいのに」とわたしは言った。「保険料だって下がる」
 エクササイズの自動化・無人化は、多忙な現代人にとって何よりの福音だった。運動するのが苦痛ならば、ゾンビ・ルーチンに任せてしまって自分は眠りこみ、あるいは別の余暇に耽りながら、無意識のうちに済ませればいい。手続き記憶は強固で、意識の介在なしに実行することができる。もっとも、ゾンビ・ルーチンというのは商標ではない。商標であるはずがなかった。競合は数社あって、サービス名には海獣の名前を模すか、渡り鳥の名前を模するかの二パターンがあったが、俗な人々はもっぱら「ゾンビ」と呼んでいた。
「嫌だ。ゾンビに任せるとフォームが崩れる」
「そんなに違うものかな」
「違うね」
 自動化されたトレーニングは、いわば夢遊病患者が夜な夜な修練にいそしんでいるようなもので、つまりもう一人の自分なのだが、小宮のこだわりは強かった。
「コードを書けるようになればいいのに」
「面倒だろ」
 厳密な話をすれば、コードを書けなくてもBrainRigのゾンビ・ルーチンの簡単なカスタマイズは可能だったが、小宮の注文は細かすぎた。それならコードを書いた方がよっぽど早い。書ければの話だが。
 ともかく会話はそこで終わり、わたしはまた報告資料に戻った。

 〈くすぐり〉は、ゾンビ・ルーチンと並び、心霊体験を誘発して死亡事故を引き起こしたBrainRigの拡張のひとつだった。インドのバンガロールに本社を構えていた開発元は、〈くすぐり〉の不具合を直接の原因として事業を停止しており、一連の事件はいまだ継続中の十数件におよぶ訴訟と、事件後に強化された各種規制、設立された調査委員会、提出された報告書、各種報道、判例コンプライアンス研修等の中にいわば消えていった。
 事件が起きたのは数年前ではあるし、日本での利用者はそこまで多くなかったので、詳細について知っている人も多くはない。そういった事故はBrainRigの施術をするリスクのひとつではあったが、頭蓋骨に穴を開けること自体に比べれば、あってないようなものだ。
 〈くすぐり〉は当時、パーティピープルや学生、若者の間で流行っていた無害なBrainRigの拡張に過ぎず、単に自分で自分をくすぐれるようになるだけの代物だった。


「要するに、外からの感覚的なシグナルを〇・五秒だけ遅らせるんです。そうすると、脳内の予測モデルから僅かにずれてくる。くすぐっているのは自分ではなく、他人だと錯覚するんです。ただそれだけ」


 ウェブマガジンに掲載された無料のインタビュー記事に載っている開発者自身による説明だが、詳しい機序は明らかではない。


小脳はいわばベイズ的な予測器としての機能を果たしていて、その内部モデルに基づいて外界から得られる感覚を事前に予測している。有名な例として、自分で自分をくすぐっても、くすぐったく感じないことが知られているが、これは他人にくすぐられる場合に比べ、感覚フィードバックの予測誤差が少ないことを反映していると見られる。


 かといって詳しい機序を説明されたところでよくわからない。論文のほとんどは英語で書かれていて、もちろん翻訳はできるのだが、機械翻訳を読んでも意味はさっぱりで、なにより文章と文章の隙間にある数式を翻訳してくれる機械はまだない。


 夜一〇時です、明日の準備をしましょう


 目の前にあらわれたリマインダーに二回の瞬きでこたえると、意識がまどろむのを感じる。視界が暗くなり、世界が遠くなる。やがて自動的に身体が動き出す。
 夢を見ながら歩いているようなものだ、と言われることがある。
 なにもゾンビだけの特権ではない。イルカやクジラは眠りながら泳ぐことができる。呼吸するために海面に浮上しなければならないからだ。彼らは脳の半球だけをシャットダウンしつつ、残りの半分だけで泳ぐ。
 人間が拡張を用いて同じことをやる場合、意識が取りうる状態にはいくつかのグラデーションがあった。全身麻酔に近い拡張もあれば、脳の中の小人になるような拡張もある。目の前の現実が酷ければ眠り込み、そうでなければ身体動作をゾンビに任せ、自分は別のことをする。意識レベルは統合情報量φによって定量化されており、それぞれの拡張を利用した際にφがどの程度の数値になるのかはストア上で公開されている。それすなわち、ゾンビ状態時の己の意識量だ。
 ゾンビがタスクを実行した時間は、記録されている。その記録が一定時間を超えると、マイルストーンごとにトロフィーを貰える。今やあらゆる場所にマイルストーンが、そしてガントチャートが存在する。どのような作業に、どれほど人生を費やしているのかが可視化されるのだ。
 ふと作業が中断され、わずかに意識の濃度が上がった。
 声がしたのだ。定期便で届いたコーヒーをゾンビが鞄に詰めているときに、その声がした。大きな声だったはずだが、わたしには聞こえづらかった。八十五デシベル以上の音は小さく補正されるからだ。
 どちらにせよゾンビが実行中のワークフローは中断され、わたしは悲鳴のした方向へと急いだ。それは、風呂場から聞こえたからだ。
 脱衣所に入って、浴室の扉を開けると、そこには震えて身体をかかえる全裸の小宮がいた。横たわっているので、足でも滑らせたのかと思ってしまうが、実際にはそうではない。肉体は小刻みに震えて、もうもうと立ち上がる湯気のなか、血の気が引いていた。恐怖でこわばっている。
「誰かが後ろにいた」と小宮は言った。

 小宮がおかしくなったのは、冬の寒さが厳しくなっていく十二月の半ば頃、今から一ヶ月以上も前のことだ。
 最初はただ、すぐそばに人の気配がすると言って、ひとりでいることを怖がっているだけだった。居間にいることが増えて、自分の寝室も使わなくなった。シャンプーができなくなり、トイレを恐れた。旧知の友人として、わたしは電話で呼ばれ、しばらく男二人で同居することになった。
 できのいいホラー映画でも見たのだろうか。
 当初のわたしは牧歌的な推測を巡らせていた。
 だが一週間も経つと、もはや小宮は片時も部屋にひとりでいることができなくなってしまっていた。怖がり方が尋常ではなかったのだ。
 すぐそばに、自分の真似をしている「何か」がいると小宮は言う。ずっと、いつも。後ろに誰かが立っている気がすると。
 顔は見えないのか、と冗談まじりに聞いたが、小宮はそのことを想像するだけで悲鳴をあげかけた。
 とうとう職場を休みがちになって一週間、二人で精神科を訪れた。もっと小さい頃、夢遊病で連れて行かれて以来ずっと、小宮はそこに足を踏み入れたことがない。地域の基幹病院で、窓から墓地が見える。
 とにかく、医者が言ったのはこういうことだった。脳画像を観察すると、小宮の脳には異常が見つかった。側頭頭頂接合部と島皮質、それといくつかの領域の活動が抑制されている。
「何か悪意のあるファイルを開いていませんか?」と医者は言った。「特に、BrainRigと関連するような形で」
 メールに添付された実行ファイル。AR広告に偽装したウイルス。マルウェアなど、候補はいくらでもある。またストアで認可された拡張の中にも、心霊体験を誘発するものは相当数あって、その数は二十を下らない。
 あるいは、ゾンビ・ルーチンの副作用ということも。
「それがまさに、小宮さんの脳を、あの世に接続してしまったのかもしれません。彼には過去に夢遊病の既往歴がある」と医者は語る。「ゾンビ・ルーチンが利用している配線は夢遊病と同じものです。また睡眠が誘因となって心霊体験とされるものを引き起こすことは知られています。有名なものだとナルコレプシーによる金縛りなど」
ナルコレプシーとは?」
「過眠症と呼ばれるものです。日中に居眠りを繰り返す人はいませんか?」と医者は言った。「他にも心霊体験の原因とされる疾患はいくつかあります。統合失調症レビー小体型認知症、側頭葉てんかん、皮質基底核変性症など」
 医者が説明しようとしていることは明らかで、考えられる原因はいくらでもあるということだった。
 人類が幽霊を見ることなど、過去いくらでもあったことじゃないか、とでも言うように。
「その幽霊に足はありましたか? 顔は?」
 医者の質問に小宮は答えない。もっとも、これは純粋に医療的な見地から問われた質問で、視界に表示されたトークスクリプトを実行しているだけだろう。小宮が何か答えればフローチャートが進み、可能性が絞り込まれるのだ。今想像しているものを言い当てる、古式ゆかしいランプの魔人とさして変わらない。

✳︎

 病院からの帰り、阪神高速を走り抜けていると、仕事の通知がいくつか届いた。
 フロントガラスの外には、わずかに照らされる高速道路と市街地が残像のように流れ、「速度落とせ」の表示がちらつき、先行車両は血のように赤いテールランプを発光させている。
 わたしはいくつかのメッセージに返事を出す。やっていることは今も昔も政治だった。陳情受付型で、利害調整型の政治家だ。様々な業務の段取りを機械が実行できる状態までもっていくために、うんざりするほどある関係者の利害の調整を繰り返す。そのためには、文字通り何でもやるのが仕事だった。事業がプログラムに、あるいはゾンビ・ルーチンに実行可能なレベルになるまで、物事を単純化するのだ。減っていく労働者の量に対して、増え続ける仕事への要求を何とかする。
 わたしは運転席に座っていたが、もちろんハンドルに手を触れず、アクセルにもブレーキにも足を置いていない。運転などしていないし、ドライブはただの自由時間だった。今はただ、小宮の件の手がかりになる動画がないか、オンラインクエリを繰り返し、リスト化された映像を一・五倍速で再生するだけだ。


 ——ゾンビ・ルーチンの着想はとあるSF小説にあります。その小説だと軍事利用が念頭に置かれていましたが、私は常々、もっと広範囲の活用が見込まれるのではないかと思っていました。夢遊病患者は実に色んなことをします。食事や運動、あるいは料理、車の運転、複雑な電子工作、セックス、自慰、そして殺人。利用する回路は同じですが、ゾンビ・ルーチンにはもっと多様なことができる。また、イルカやアザラシなどの海洋哺乳類が眠りながら泳ぐことができる、ということも有名です。半球睡眠と呼ばれますよね。要するに、睡眠というのは世間で考えられているよりもずっと局所的な現象で——


 時々、緊急時の代理を務められるように手動でハンドル操作をすることもあるが、実用上の意味があるのかどうかわからなかった。月に一、二度しか運転しない人間が、もしもの場合のバックアップとして機能しうるのだろうか。手続き記憶は肉体が覚えているというが、交代要員になるためだけにわざわざ何万キロも運転をする人間はあまりいない。
 バックミラーには、小宮の顔がうつる。後部座席はフラットなスペースになっており、ベンチと重量可変のダンベルが置かれているが、小宮はそれらに触れていなかった。身じろぎもせず俯いているばかりだが、BrainRigで何かをしている様子もない。 
「——実は心当たりがある」と小宮が告白してきたのは、阪神高速を降りたときだった。雨が降り出して、ワイパーがひとりでに起動する。
 わたしは五秒以上両目を閉じて、動画の再生を止める。
「何の?」
「知り合った女から、ある《怖い拡張》を入れないかと言われて、ほとんど無理やりダウンロードさせられたことがある」
「なぜさっき話さなかった」
 努めて、声を荒げないようにしたつもりだったが、通知は別のことを告げていた。遅れてBrainRigがangerのパラメータを引き下げると、ひとさじの氷を心臓に投げかけるように、心拍が落ち着いていった。
「わかるだろ? 医者に話したくなかったんだ。そんな、プライベートなことを」
 プライベートとはつまり、セックスに関することだ。
 ため息をつくと、フロントガラスが曇った。ぼやけた光景は数秒で晴れて、やがてガラス越しに、宇宙ステーションのようなものが見えた。違う、点滅する信号機だ。濡れた路面に黄色が反射する。
「その拡張の名前はなんだ。BrainRigのストアに落ちているのか?」
「——技術者向けの掲示板に書かれていた拡張だった。コピペして使ったと女は言っていた」
「その掲示板の名前やURLはわかるか? 誰が書いたんだ」
「わからない。でも、女はソフトウェアエンジニアだと自称していた。何て書いてあるかわかると」
「でもきみにはわからないし、理解する気もない。自分で読めないコードを実行しない方がいい。BrainRigでは特に」
 わたしは右目を二回ウインクして、メッセージアプリを呼び出した。
「その女の連絡先を教えてくれ」
 雨は激しくなっていた。ワイパーはさらに頻度を上げて交差し、なんとか視界を明瞭に保とうとするが、わたしはそれを切った。
「何度もやった。何度も連絡を取ろうとした。でも、もう一ヵ月まったく音沙汰はない」
「住所は?」
「会っていた当時は知らなかったけど、最近わかった。でも、それももう無意味だ」
「なぜ?」
 フロントガラスは雨でゆがみ、あらゆる夜景を屈折して映していた。時速六十キロで走行しているので、嵐に突っ込んでいるかのように前が見えず、水しぶきはもはや白い。
 小宮は答えず、代わりにメッセージアプリにニュース記事のリンクが貼られる。
 兵庫県西宮市毘沙門町で転落死した女性の記事だった。マンションの七階から落下したため、即死だったと書かれている。日付は十二月。ちょうど、小宮がおかしくなった時期と一致していた。

✳︎

 その晩、わたしはこっそりと寝床を抜け出す。
 自室に入ると、シーリングライトと、ストーブが点灯する。オフィスチェアに腰かけ、杉無垢材のデスクに置かれたキーボードを叩く。それは左右に分割され、飛び散った液体を瞬間凝固させたような形状をしている。艶消しされたトラックボール。フットペダル。さらに瞬きを利用したショートカットと、目線入力が加わる。キーボードは不要だと口にする人はいるが、高級路線でしぶとく生き残っていた。万年筆が未だ愛好されているように。
 アクリルの板にはりつけたシール型のモニターが点灯し、その直線上に仮想のタッチパネルが準備される。モニターはわずかに湾曲している。
 わたしはインターネット上のあらゆる動画を検索する。
 キーボード同様、ホラー映画も生き残っていた。一説によれば、BrainRigの一人称ホラーは怖すぎるので市場が小さく、多くの人がまだ、映画というメディアを利用するのだとか。技術的には真の恐怖体験を提供することはできたが、それを望む人は僅かだった。映画という二十世紀の芸術が、人類が恐怖を娯楽として許容できた最後の一線だったのだろうか。無論、単に世代交代をするだけの時間が経過していないと口にする者もいる。
 それでも昔のホラー映画を見ると、少しずつ古典は時代遅れになりつつあるのがわかった。霊視中に失神する巫女、悪魔つきだと認定されてエクソシズムを受ける少女。フロイト流の精神分析。かび臭いウィッチドクターの戯言。どれも現代なら映画にできない。脳や精神に機能障害を抱えている人間に対する偏見を含んでいるからだ。
 幽霊は脳内にいる。あるいはBrainRigの仕様の中に。プログラムのソースコードの中に。だからといってそれを無視してしまうこともできない。レビー小体型認知症の患者が幽霊を見たとすれば、それはCGや立体映像ではなく、ただ本当に見えているのだ。
 錯視が現実であるのと同程度に、幽霊も現実だった。

 小宮から受け取ったソースコードは膨大で、自分には読むことさえできなかった。全部読んだところで理解できないだろう。だから外注することにした。
 それ以上、できることは少ない。役目があるとすれば調査と研究だったが、情報は多過ぎて手がかりにならなかった。
 例えばそうだ、BrainRig上でこの拡張を実行してみること。当事者感覚の体験。仕事と同じだ。それぐらいしか、自分にできることは残されていないのではないか。
 二分ほど考えたのちに、わたしはゆっくりと瞬きをした。
 キャプションが出てきて、イエスかノーかを選ばされる。実行ファイル、または実行可能モジュールを含んでいる可能性があると警告される。


 実行してよろしいですか?


✳︎

 聞こえてくる言葉は日本語ではない。中国語か、韓国語か、ベトナム語か。最後は新参者で、半世紀と少し前から聞くようになった。
 大阪市生野区にある「李園」という焼肉屋。ここも半世紀以上前からある。
「で、あたしにさせようとしてるのはなに」
 女が口を開いた。サムギョプサルを焼いて食べる。口紅がつきそうでつかない。壺漬けカルビをひきずり出してハサミでカットする。ぱちん、ぱちん、ぱちんと音がする。ステンレス製の箸がぶつかる音と、火鍋のぐつぐつと煮えたぎる音が混ざり合う。
ソースコードを読んでほしい。何が書いてあって、どういうことが実行されるのか教えてほしい」
「ざっと何行くらい?」
 答えるかわりにテキストファイルを送った。
 女の箸が止まって、目線が宙を泳ぐ。
「かなり長いね。最低でも二週間は欲しいけど」
「費用は?」
 店員が新しいカルビを持ってきたが、テーブルはキムチの群れで埋め尽くされて、残っているスペースはない。オイソバギ、カクテキ、コッチョリ、小皿でそれぞれ二つずつ並ぶ。チヂミもいくつかあって、食べかけで放置されている。それらを掻っ込んで、無理やりスペースを作る。
 通知とともに、料金表が送られてきた。
「金額はこれでいい。契約はどうする」とわたしは言う。
「アドインで」
 BrainRigからアドイン契約のコンソーシアムに参加している人名を検索する。女の名前がヒットしたので業務委託契約のバージョンをたぐってみる。コードの解析を依頼するのに最適な契約書式を探し出す。二〇八五年改正民法対応との表記。
「これは」とリンクを飛ばす。
「最近改悪された」と女は拒絶し、別のものを提示する。「こっちの方が合ってる」
 リーガルアドイン社の提供するコンソーシアム型の契約書式は、事前に登録しておけば相互にその契約に拘束されるため、個別の契約の作成と締結を不要とするサービスだ。民商法に対する広範なアドインであり、骨抜きにしていると言われることもある。この四半世紀、保険のように使われ、薄く広く、社会に浸透しつつあった。
「この条件で問題ない。進めてほしい」
 わたしの返事に、女はウインクで返した。
 店内は賑やかだった。生野区に残る数少ない伝統的な韓国系焼肉屋で、食品プリンタとレシピを共有したベトナム人の屋台に制圧されていないのはこのチェーンと、あとは接待に使われる今里新地くらいだ。薄い壁と、広いガラスドアのせいで寒さは堪えるが、半世紀ほど前のスタイルが徹底されていた。
「幽霊を見せる拡張というのにも、幾つか心当たりはあるけどね」
 女はカクテキを小気味よく咀嚼しながら話す。前下がりのボブカットで、ピアスがバチバチに開いているところを見ると、伝統的な企業では雇われていなさそうだった。何度か仕事を依頼しているフリーのソフトウェアエンジニアで、モジというハンドルネームで呼ばれている。
「一番単純なのは、幽霊の映像を見せるやつ。コツははっきり見せないこと。ビニールカーテンとか、ボケた写真とか、すりガラス越しとか、とにかく顔をはっきりさせない方がいい、って知り合いのデザイナーが言ってた」
 ホラー映画の理論だな、とわたしは曖昧に返すと、テールスープを手に取った。
「あたしは昔、ふっるい社宅に住んでいたことがあってね、築四十年とかそういうレベルのやつ。そこで毎日一匹は必ずゴキブリと遭遇して、よく殺してた。足を這われたりするし、一度なんか、しゃもじをつけていた水桶にゴキブリの幼虫が泳いでいたことがあったくらい」
「壮絶な環境だ」とわたしは言った。「中国の農村に出稼ぎに出ていたとか?」
「バリバリ日本の話。で、その生活をずっと続けていたら、そのうち壁の黒いシミなんかが一瞬ゴキブリに見えるようになったんだよ。きっとゴキブリを見過ぎて、脳が内部に持っている世界の統計構造が偏って、知覚にそういうバイアスが掛かっていたんだと思う。脳がベイズ推定しているってこういうこと?って思ったけどね。幽霊の映像を見せるタイプの拡張だと、これと同じことが起きる」
「幽霊の正体見たり枯れ尾花。何もないところに幽霊を見るようになると」
 わたしは箸を下ろして、麦茶を飲んだ。
 少しの沈黙。
「芸術点が高いのは、〈くすぐり〉の不具合を利用したやつかな」とモジは言う。「背中に触れられたような感触や、物音を出すの。それも不意に。これは視覚には介入しないけど、却ってそれが一番怖いらしいよ。術中にハマったら、何かがすぐ側にいる気配がするんだけど、それが見えることは決してない。もちろんさっきと同じように、存在しないものを見るようになる人はいるけど」
「小宮のケースに近いな」とわたしは言った。
「正直、今日話を聴いて最初に連想したのはそれかな。一時期有名で、よく嫌がらせに使われていた。未だにトラウマになっている人がいるくらい悪質な拡張」
 モジも箸を置いた。
 現金で勘定を済ませると、駅前で別れることになった。わたしはシメがほしい気分だったので、ベトナム屋台でプリントされたバインミーを頼んだ。具沢山のやつだ。
 一月の夜は冷えたが、火鍋の効果がつづいているのか、身体の芯はぽかぽかとしていた。周辺で車上荒らしが多発しています。という通知が飛んできたが、ここで立ち食いをするといつも同じ統計情報が告知される。剣呑だが、口コミで寄せられた反社情報も入ってくるので、それを避けた経路を探索することも可能だった。
「おっと、奇遇っすね」
 と言って横から顔を出してきたのはモジだった。電車は?と聞くと、小腹が空いて、という返事がくる。舌に開いたピアスが見える。
「こんなことだったら、シメにラーメンでも頼めばよかった」
 五分後、二人でバインミーを頬張りながら夜道を歩いていた。周辺で盗難車が炎上していることもある、という口コミをBrainRigがよこす。
「食事をゾンビ・ルーチンにやらせる人もいるみたいですよね。あたしなら信じられないな」
「世の中には恐ろしく食に興味のない人間もいる。小宮の食事もかなり悲惨だ」
「それはトレーニーだからでは?」
 ゾンビ・ルーチンを実行中の、虚ろな目をした小宮が、完全栄養食を謳う固形物を齧り、シェイクされたプロテインを飲み干しているときや、コンテスト前の水抜きで苦しんでいるときに、目の前で一人焼き肉をしてみせたエピソードを話すと、モジはひきつけを起こしたように笑った。
哲学的ゾンビを虐めても、面白くないんじゃ?」
「情緒的な反応は残っている場合があって、実はかなり面白い」
 小宮はトレーニングにゾンビ・ルーチンを使わない。使うのはそういった無味乾燥な食事を摂るときや、単調なアノテーションのバイトに発狂しそうになっている場合だけだった。
「小宮さんのお仕事はアノテーション?」
「それだけじゃない。ざっくり言うと、カオスなデータをアルゴリズムが扱えるレベルになるまで整理することだ。人間のやる仕事はもう、大体そうだろう。カオスに秩序を取り戻すような仕事。データセットから偏りをなくす仕事。長大なタスクリストを作るような仕事。これが感情・・・?とつぶやくプログラムに、タグ付けをするような仕事。モザイク状に生き残ったアナログを撲滅し、ゾンビたちに引き渡すような仕事だよ」
 酒に飲まれて終電を失ったので、それぞれオンデマンドタクシーを呼んで、自宅に帰ることとなった。五、六人は同席できるスペースがあったが無人で、フロントガラスにはスロットの広告が点滅していた。大当たりが出ると、内分泌系の報酬が出るような類の俗悪なもので、この広告を消すためには課金が必要だった。周辺で車上荒らしが多発しています。と告知が出る。
 マンション付近の大通りで降ろされたあと、オートロックを開けてひとり、エレベーター前で待機している。静かだ。そのあいだ、小宮に経緯を要約してメッセージを送る。今日から一日だけ、物を取りに自宅に帰るのだ。
 麗しき我が家。
 決して広いロビーなどではない。築二十年はあるだろう、古めのマンションだ。陶器でできた蛙の置物や、置きっぱなしになっているクリスマスツリーがその印象を強めている。壁についたモニタには、降りて来るエレベーターの内部が映っている。ほとんどの場合、誰も映っていないのだが、そのときは無人ではなかった。
 赤いドレスの女がいた。
 長髪で顔は見えなかったが、別角度のカメラから、裸足であることがわかる。タイツさえ履いていなかった。エレベーターの位置は七階で、こちらに降りてきている。
 時刻は深夜一時〇五分。真冬の気温。
 わたしは階段を上がり、不審者との遭遇を回避することにした。時々、ゾンビ・ルーチンの不具合で徘徊する人間がいるらしく、社会問題にもなっている。ゾンビならば気温を気にせず、裸足で路上をうろつくことがあるのだ。
 そう思うことにした。
 酔いが覚めて、十一階にたどり着いたとき、真横でチーンという音がしてエレベーターが開いた。
 聞き間違いではない。ドアが開く音がした。
 誰かが降りてくるような音はしなかった。足音も、呼吸音も、人がいるような気配はない。脳の原始的な部分は逃げろと言っているが、大脳新皮質はそれを否定する。わたしの足はコンクリートの地面に張りついたように動かず、靴下は冷たく湿っている。
 やがて、エレベーターのドアが閉まる音がした。
 ビル風が強く吹いて、冷気が顔を刺してくる。ゆっくり顔をあげて、呼吸を落ち着かせる。fearというパラメータを下げる方法が無いかBrainRigの設定画面を探すが、それらしいものは無い。扁桃体に関してはGBPRの規制が強いことを思い出すと、おそるおそる、エレベーター前の廊下を見た。
 誰もいない。
 いつも通り、黒い玄関ドアが無機質な光に照らされているだけだ。人感センサーが反応して、灯りがついている。
 血の痕に気がついたのは、ドアの前に近寄ったときだった。
 背後でチーンという音がして、エレベーターが開いた。
 振り返るとそこには、さっきの赤いドレスの女が。

 ゾンビ・ルーチンは自動的に作業をこなす。
 もちろん「自動的」というのは正確な表現ではない。実際には、ゾンビ・ルーチンを使用せずとも、局所睡眠は思われているよりもずっと多く起こっている。人間は脳の一部を休眠させて、日中にも活動する。我々はずっとこのように生きてきた。
 自由意志の感覚は、脳の内部モデルにつけられた重みづけに過ぎないと言われることがある。神経系は自らが操作できる範囲を外界と区別する必要があって、それが適応的だった。ゾンビ・ルーチンはただ、そこから重みづけを奪っているだけだと。
 人間はずっとこうだった。
 頭蓋骨にドリルで穴をあけて、無数の電極のついた髪の毛よりも細いケーブルを脳につっこむようになる前からずっと。
 酔っ払いがなぜか自宅に帰ることができるように、わたしは小宮のところへと帰った。大部分はオンデマンドタクシーの自動運転がやったことかもしれないが、ともかくわたしは帰ったのだ。エレベーターを使う気にはなれず、階段を上った。
 叫び出しそうなのを抑え込んで、ドアを必死に開けようとしたが、何度やっても静脈認証は拒否され、入ることができなかった。いつの間にか誰かが登録を削除したのだ。
 すぐにBrainRigで電話をかけると同時に、わたしは例の拡張をアンインストールした。すべての警告を無視して、強制的に削除する。コードのテキストデータも廃棄する。
 待てども、小宮は電話に出なかった。留守番電話に繋がり、メッセージの録音を要求される。わたしが電話を切ると、残ったのは開かない玄関ドアだけだった。
 
✳︎

 小宮と連絡が取れないまま一週間が経った。
 あの日、わたしは結局、駅前のホテルを緊急で確保して潜り込み、数時間眠っただけで翌日そのまま出勤した。
 連絡が取れないまま他にすることもなく、約束の二週間後までモジからの報告を待つことにした。その後何度か訪問してみたが、小宮のマンションは引き払われたようで、表札からは名前が消えていた。
 あの日以来、エレベーターは使っていない。朝の出勤時も、夜の帰宅時も。いつでも階段を使う。
 夜にひとりでいることに耐えられず、独身の友人に無理を言っては通話を繋ぎっぱなしにしていた。
 BrainRigではない。BrainRigの電源はオフにして、懐かしい携帯端末へと戻った。いつ以来かわからないが、ワイヤレスイヤホンをし、コールをかけ、虚空に向かってしゃべりながら町を歩く。
 通知が来るたびに携帯端末をポケットから取り出し、メッセージが来るたびに携帯端末を覗き込む。簡単なジェスチャー、視線入力、まばたきのショートカットが使えなくなって、家のインターネット回線が遅くなったときのような不快感に襲われた。やがてこの動作に慣れて背中が曲がり、首が曲がった。検索すると、それはストレートネックと呼ばれるらしい。
 小宮がいなくなってから一週間と五日後、着信があった。
「やっと出た。あたし、モジ」と携帯端末はしゃべる。「仕事終わったけど、メールを二日も無視してどうしたの?」
 わたしは手短に、小宮が失踪したことを説明した。コードを実行したこと。そして怖くなり、BrainRigを使わなくなったことを。
「電話の取り方がわからなくて、二回は着信を取り逃がしてしまったんだ」
 少し間をおいて、
「馬鹿?」と携帯端末は言った。
「実をいうとそうかもしれない」とわたしは答える。「もう二回寝坊して、三回アポイントをすっぽかした。職場からは過労だと言われて、三日の休みが与えられた」
 わたしのぼやきに、モジは付き合わなかった。ため息が聞こえたような気もするが、はっきりとしない。
 リビングには寒気がしみこんでおり、窓ガラスは結露していた。わたしは携帯端末を耳に当てたまま立ち上がり、電気ストーブの出力を上げる。
 手短に、と言い添えて、モジは仕事の結果を報告した。
「結論からいえば、よくある〈くすぐり〉の変異種だった。書き方がオーソドックスな方法から外れていたから、パッとわからなかったけど、間違いなくそう。要するに聴覚や触覚に介入して、不定期に物音を立てたり、誰かに触られたような感覚を生じさせたりするだけのもの。そういう意味では、小宮さんの症状とは一致するけど」
 少しの沈黙。
「すると、視神経には介入しない?」とわたしは言った。
「ええ、そんなことはこの拡張からはできない」
「幽霊が見えたりとか」
「この世に存在しないものを見ない限りは」
 この世に、という言葉が引っかかったが、モジが言っているのは心霊的な現象のことではなかった。彼女は唯物論者で、この世ならざるものがあるとすれば、それは神経科学的に存在するはずだった。世界の統計構造の偏りから、脳が幻視する幽霊。錯視のようなもの。
 とはいえわたしに幽霊を見るバイアスなど無いはずだった。

 誰もいない自室にじっとしていられず、梅田や難波の繁華街に繰り出すと、足の踏み場のないほどの人間が、駅ビルの連絡橋をぞろぞろと歩いていた。そのうちの何割かが歩行を自動化して、可視光には映らないものを見つめている。オートパイロットに任せ、自分たちは運転席に引っ込んで、ハンドルさえ握っていないのだ。
 通行人がBrainRigが視界に重ねがけしているオブジェクト、あるいはエフェクトは、どういったものだろうかと想像することがある。自分で歩いている人間ならば、地図アプリが提供するガイドの矢印や、目的地までの時間だろう。ゾンビ・ルーチンに任せているならば、完全なる暗闇か、動画、映画、一人称のゲーム、チャット、通話。あるいは、物理世界にリアルタイムレンダリングで描写されるオブジェクト類に没頭しているのだろう。
 小宮が実行していた、そして小宮から送られてきた拡張は、赤いドレスの女を見せるようなものではなかった。それが正しかったとすれば、わたしが目にしたものは一体何だったのか。そして、今目にしているものは。
 客観的な証拠を得るため、帰宅後にマンションの管理会社に連絡して監視カメラの映像を手に入れようとしたときにはもう、肝心の映像は保存期限を過ぎて廃棄されていた。相手の担当者からわたしは気の触れた人間にうつったらしく、対応はどことなくぞんざいだった。
 事実、わたしは誇大妄想に囚われていたのかもしれない。
 一度だけ目にした、幽霊のような何かに。
 妄想だからといって恐怖が薄れるわけではなかった。雑踏に飲まれているさなかにも、視界の端にはあの女がいたからだ。赤いドレスの女が。

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 BrainRigを取り除く勇気は出なかった。
 それが一番確実だとは思っていたものの、引き抜くときに脳の血管を傷つけるようなリスクは冒せなかったのだ。手術ロボットにも医療ミスが全くないわけではない。
 ならばなぜ、そもそも頭蓋骨に穴をあけて、そんなものを入れたのか? ラガードたちからはそう聞かれることがある。未だに神経インプラントを、障害や病気を克服する方法としてしか認識していない連中だ。
 単純に言えば、リスクをリターンが上回ったから。みんなそう答えるだろう。BrainRigやゾンビ・ルーチンは世界の最先端で、競争はそれを前提に回っている。あなたが凡人で、ベーシックインカムを貰って引退し、将来の政策変更におびえながら過ごすよりもいい人生を得たいなら、頭蓋骨に穴をあけるしかない。
 事実、携帯端末を持ち歩きはじめただけで、わたしは職場で変わり者扱いされ、少なからず人事評価にも影響が出た。フリーハンドで検索もできないので、脳が少し鈍ったような感触さえある。だがそれでも、二十四時間あの赤いドレスの女に怯えるよりはいい。

 一ヶ月経っても、二ヶ月経っても、小宮との連絡は取れなかった。電話からは「この番号は現在使われていません」という電子音声が聞こえてきて、各種チャットのアカウントはずっとオフラインだった。ここにきて自分は、小宮と共通の知人がおらず、その下の名前さえよく知らないことに気がついた。
 マンションは引き払って、東京に移ることにした。今の職場にはいられなくなって、わたしは中小企業を転々とする。仕事の内容は変わったが、やることは結局いつもの通りだ。人間関係の構築と、社内営業、ネットワークの構築。味方を点で増やしていき、あるとき面で制圧する。
 新しく入った会社のオフィスを見たときに、わたしは思わずめまいに襲われた。火を噴きそうなほど古いパソコンと、ここ二十年来の技術発展から取り残されたような職務環境。未だに残存する紙の資料。段ボールに積み込まれている伝票や契約書の束。いずれも時間旅行者の気分を味わえるような代物だった。会計はどんぶり勘定で、毎月月末に売上入金を待ってその日に買掛金の振込処理をするというありさまだ。
 それが市場から現在の自分に与えられる、適正な評価なのだと思い込もうとした。
 引越しをしてから、不思議と悪夢をみることはなくなった。赤いドレスの女も、しばらく見ていない。同僚のうち二人とはいい関係で、この前はアイリッシュパブで朝まで飲んでいた。一人は元公務員の転職組で、もう一人は社内のはぐれもの。お互いに情報交換をして、社内の部族主義への理解を深めるのだ。気づけばあの日から二年が経っていて、段々と物事はよくなっていくように思えた。
 最近はもっぱら、遠隔でBrainRigのスイッチを入れる方法がないかどうか調べるのに忙しい。頭蓋骨の内側に張り巡らされたナノチューブ神経網が、外部から電源を入れられないか不安でたまらなかった。
 メーカーが提供するチャットボットによれば、仕様上できないそうだ。すぐに答えが返ってきたことから、わたしは似たような質問をした過去の人物の存在を確信する。
 もちろん、すべてが上手くいくわけではない。
 何度か家に見知らぬ人間がやってくることがある。ある夜、夕飯を食べていると玄関ドアが開く音がして、見ればナイフを持った男がいる。目と鼻と口があるのはわかるのだが、顔がどうもよくわからない。不鮮明な写真のようにぼやけている。帰ってくれと頼んでも、男はずっと立ったままだった。
 またある日は、車に乗るたびに後部座席に知らない女の子がいた。三つ編みをしていて、どこかで見たような顔だが、誰なのかは思い出せない。名前を聞いてみるが、ひたすらだんまりで何も答えてくれなかった。
 カウンセラーとの会話のあいだ、わたしはしばしば取り乱すことがある。あの日のことを思い出し、見なかったことにしていたものを脳裏に描こうとすると、恐怖が怒りや不安となってカウンセラーに噴出する。
 記憶を消し去ることも薦められたが、脳に触られるのはもう懲り懲りだと答えた。いつの間にか、私こそがラガードになってしまっていたのだ。自然主義者や、宗教原理主義者、テクノロジーの発展についていくことをやめた人間に。
 医療AIはいくつかの診断をしてくれた。脳画像を撮影して、計算論的精神医学に基づき所見を述べる。あなたの病気はこうです。ああです。そのようです。統計的にはこういうことが言えます。
 わたしが幽霊を見るだけの理由は、そこからはわからなかった。
 あの日、エレベーターにいた女。監視カメラに映った女。わたしの背後に立った女のことだ。わたしが振り向くと、そこにいた。エレベーターの前。真冬の夜にドレス一枚、素足で立っていた。
 足はあったはずだ。汚れた爪も。視線はゆっくりと上がっていく。薄手の赤いドレス。胸元は痩せこけて、首筋からは若くない印象を受ける。表情は髪に隠れていたが、口元だけは見えている。
 剥き出しの歯。
 そして、

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 あなたにおすすめしたいものがある、とモジからの紹介を受け、わたしはとある集会に参加するようになった。
 それは同じようにBrainRigで幽霊をみた人たちが集まったグループセラピーの集会だった。毎月一度、オフラインでの会合が開催されて、一〇名ほどが参加する。大学や公共施設の一角を借りて、みながそれぞれ自分の体験を語るという。
 九州にマラリアが上陸してからここ二、三年、これほどの人数のオフラインでの会合は久しぶりだった。
 わたしはそこに三回ほど参加して、自分が特別ではないことを知ることができた。もちろん知識としては、似たような理由で苦しんでいる人々がいることは知っている。だがそれらは資料の中の存在で、今までは会ったこともなかった。
 彼らと話すうちに、心霊体験がいまや精神疾患のひとつなのだと理解することができた。わたしのように原因不明の霊障にあった人から、悪名高い一人称ホラー爆弾を食らった人まで多様で、疾患が特定できている人もいれば、できていない人もいた。自分の体験を語ると、参加者のひとりからそれが入眠時幻覚の一種ではないかと指摘があった。ゾンビが活動中にみた悪夢と、現実の体験を区別できなくなり、混同した可能性だ。医療AIの診断の候補のひとつに入っていたものだが、最近はほとんど幽霊を見ないので正確なところはわからなかった。
 ファシリテーターを務める角谷弁護士は、適法な意識状態に関するワーキンググループの一員で、BrainRigを用いて恐怖をやわらげることを、末期がんの緩和ケアなど一部の領域だけではなく、我々のように心霊体験に苦しむ人々に許可できないか、国や国際会議体に対して訴えかけてくれていた。一般脳神経倫理保護委員会のガイドラインによれば、恐怖は危機感知にかかわっていることから、承認のハードルが高いという。
 三回目の会合が終わってからわたしは改めて、モジにお礼の電話をした。彼女は礼を受け取らない。これも仕事のうちだという。
「BrainRigはまだオフにしたまま?」とモジに訊かれる。「少しずつ復帰する予定とかはないの? どのみち今の仕事を続けていたら、いつかはオンにせざるを得ないんじゃない」
「そうでもない。やりようはある。リリースノートは読んでいるし、拡張の仕様も追っている。メガネ型のデバイスというのもそれほど不便じゃない。きみに頼めば、専門家の意見も聞ける」
「でもやっぱり、生の体験がないっていうのはいつか判断を誤らせるよ。あなたの仕事はゾンビ労働者たちの業務改善でしょう?」
「ある意味では」とわたしは言った。「けれども、仕事の大半は政治的なものだよ。業務改善にはチームで取り組むから、実体験については他人に任せることもできる」
 今でも、モジには仕事を発注している。エンジニアとしての意見を聞くだけではなく、個人的な相談もしている。わたしのトラウマを解消するための強迫神経症的な依頼の数々を、きっちりこなしてくれているのだ。
「ねえ実は、あなたを恐怖に陥れた拡張が何かわかったって言ったらどうする?」
 しばらくの間、お互い何も話さなかった。ディスプレイに映るモジのアバターがわずかに点灯するのは、呼吸音を拾っているからだ。
「つまり?」
「単純なこと。小宮さんは嘘をついていた。二年前、小宮さんがあなたに渡して、あたしが解析した〈くすぐり〉ベースのものはダミーで、本命は巧妙に仕組まれていた。もっと日常的なメッセージのひとつに添付されていて、あなたはそれを知らないうちに実行してしまった。それだけのこと」さらにモジはつづける。「仕組みは既知のものと未知のものが組み合わされている。ひとつは、恐怖の刺激に反応して、脳の複数箇所にある顔認識用に特化したモジュールを過剰反応させるもの。まあ、脳にもHaar-Like特徴量を使ったカスケード分類器みたいなものがあるわけね」
 言葉は出なかった。
「どうして小宮がそんな嘘を」
「彼が踏んでしまったマルウェアがそういうものだったの。相手を恐怖に陥れて、解除する鍵が欲しければ、他人に同じものを送りつけて伝播させるしかないと要求するような」
「不可解だ。ふつうは身代金を要求するんじゃないのか? そんなことをさせて、発信者に何の得がある?」
「さあ、あたしに聞かれても」
 モジのアバターは首をかしげてみせる。
 わたしはとっさに怒りを覚えた。まるで他人事のようで、真剣みというものがなかったからだ。言葉そのものよりも、軽薄な声にこそ怒りを感じた。けれども、すぐにそれが筋違いのものだと思い直した。
「元ネタがあるのかもしれない」とわたしは言った。「呪いを他人になすりつけて難を逃れるという種類のホラー映画があったような気がする」
 意外にも、モジは笑わなかった。
ベータテストをやっているっていう線もあるよ。できる限り多くの人に感染させて、効果を観察するわけ」
「その線だと、一番怪しいのはモジだ。わたしと二年も付き合っているのは経過観察をしているためじゃないか、ああん?」
「バレたか」
 お互い笑いあった。アバターが一層強く点滅する。そのあとに、急に大したジョークではなかったような気がして、空虚な沈黙がやってくる。
「で、あなたも誰かになすりつければ、二年越しに解放される」そうモジは言ったが、おずおずといった調子だった。「そのためにはまず、BrainRigをオンにしないといけないけど」
「そうだな」とわたしは言った。
「これからどうするの」
「まずは車を運転してみるよ。ドライブをして、考えを整理する」
 すでにもう、車のキーを手にしていた。木製の平べったい器にいろんな物理キーが並んでいる。定位置管理するためだけのプレートだ。そこをまさぐると、椅子から立ち上がり、玄関に向かう。
 通話を切る直前、モジは聞いてきた。
「興味本位で悪いけど、その、なんていうか、その女の顔ってどんなだったの?」
「その女?」
「何言ってんの。決まってるじゃん。赤いドレスの女の顔だよ」

✳︎

 曇天の中で、わたしはハンドルを握っている。
 沈みかけた太陽のせいか、空は黙示録を迎えたかのような色をしており、道路は再開発中の区画に踏み込んでいく。風景は寂しくなっていき、骨組みだけの高架道路が頭上をよぎる。いつのまにか第三次世界大戦が起きたのかと勘違いする者もいるかもしれないが、ここでは単に区画整理事業が計画半ばで放棄されているだけだった。
 手動でおっかなびっくり運転していると、経路を何度も間違える。そのたびにナビゲーションが経路を再計算し、到着時刻が変わる。
 手動でドライブをしても、思ったような自己主体感はなかった。久しぶりに通る道のようなものだ。自分の脳は、自動車を身体の一部として扱うことに慣れておらず、今まさに学習中といえた。道をカーブするたびに配線が変わり、ブレーキを踏むたびに内部モデルが更新される。
 わたしはBrainRigをオンにしていた。
 まばたきをすると録音が再生され、頭蓋骨を通して音が聞こえてくる。それはグループセラピーで話した打ち明け話の録音だった。


 わたしがあの日見たのは、赤いドレスを着た女でした。真冬なのに薄手のドレスで、タイツもはかず、裸足で立っていました。エレベーターが着いた音に振り向くと、そこにはその女がいて——


 音声を聞き取ろうとすると脳のメモリが食われて、運転がおろそかになる。
 二秒間右目を閉じて、ショートカットから連絡先リストを開くと、できるだけ巧妙に、日常的なやり取りの多い相手を選んで、実行ファイルを忍ばせる。
 わたしがやっていることは今や世界中で行われている。
 モジの補足している技術者向けコミュニティでも事案がいくつも報告されはじめ、身代金を要求するタイプの新型も確認された。手口は巧妙になり、警告が出され始めている。世間でまだ騒がれていないのは、噂が技術者コミュニティの外に出ていないからだ。 
 ベータテストは終わった。
 あるいはとっくの昔にテストは終わっていて、わたしはむしろ最後列に並んでいた可能性もある。前から本番用のファイルが出回っていたのだが、最近になってキャズムを超えたのだ。
 実際に手口を考えはじめると、小宮があのときどういうことをしたのか分かってきた。おそらく、小宮はわたしがファイルを踏んだのだと気づいてもいないはずだった。それを特定できないように、小宮は多くの知り合いにそれをバラまいて、無理にその後の経過は追わなかった。爆弾で殺した相手の顔など、わからないほうがいい。


 ——その女の顔をはっきりと見ました。言葉で言い表すことさえできます。もっとも最近では少し、忘れてきました。——


 すでにマルウェアは世界中に拡散されている。
 そう考えれば、気も楽になった。自らの所業は大海の一滴に過ぎず、大勢に影響をもたらさない。数週間もすれば世界は幽霊を見てしまう人間でいっぱいになり、グループセラピーには参加申し込みが殺到することだろう。
 サイドミラーに映る風景は味気がなく、たまに山間の風力発電所がちらちらとフレームインしてくる。風車はあたかも、宇宙人がテラフォーミングするための装置として地球に埋め込んだようにも見えるが、わたしに何も語りかけてこない。
 ふとバックミラーに目を移すと、後部座席に座る影があった。


 ——瞳は一重で、細く、どちらかといえば和風の顔立ちでした。日本人の幽霊しか見ないということは、事前に脳が持っているサンプル量の問題でしょうかね?——


 後部座席に座っている女は、髪を下ろしていて、表情が見えない。薄手の赤いドレスはどことなく湿っており、ポタポタと水滴を落としていた。


 ——凡庸な顔ですよ。美人ではない。眉毛は細くて、あれは剃っているんでしょうか。目と目は離れていて、鼻はどちらかといえば大きく、歯並びは汚かったです。——


 やがてゆっくりとその女は顔を上げる。
 何度瞬きしてもその姿は消えず、ほつれた髪がぱらぱらと落ちていく。BrainRigが視界に重ね書きする出来損ないのCGではない。デザイナーが苦心し、日進月歩で現実に近づいているはずのグラフィック特有の嘘臭さはない。ホモ・サピエンスの脳は優秀で、違和感をどこかに見つけ出すのだが、これは違った。これは過去ずっと、人類が目にしてきた幽霊そのもの。心霊体験そのものなのだから。


 ——笑っていました。長い髪を振り乱して、その細い目をさらに細めて。不思議と声は聞こえませんでした。サイレント映画のように、笑う女の姿だけがあって。やがて全体がぼやけ出して。彼女の舌にあるピアスだけが目に入ってくるんです。——


 メールは発信されたが、女がいなくなる気配はなかった。バックミラーを見つめながら、一刻でも早く、誰かが添付ファイルを開くことを祈る。
 女からは目を離せなかった。ふと何年振りだろうかと考えたのと、車体が大きく揺れたのは同じだった。バックミラーから目を離して真正面に向き直す。
 そこに赤いドレスの女がいた。
 そして中央分離帯が。




 ——ええ、とてもよく顔の似た知り合いがいたんです。モジっていう、本名じゃないんですけどね。本名は確か——