アバディーンについて

アバディーンという都市がある。スコットランドの北東、海沿いにあって冬はほとんど日が昇らない。

僕はかつてそこに住んでいた。小学生に上がるか否かという時期のこと、しかし正確にいつから住んでいて、いつ日本に戻ってきたのか覚えているわけではない、その程度のあいまいな期間そこに腰を据えていた。


いわゆるイギリスである。スコットランドである。とはいえ、そこはエディンバラグラスゴーではないので、日本人のほとんどはその名前を知らない。そもそもイギリスではなくスコットランドと呼ぶべき国があることが知られていないかもしれない。


ただし、ジェイムズ・エルロイブラック・ダリア』を読んだことがある人なら、あの小説の内側を流れている邪悪な魂のひとつがスコットランドアバディーンに由来していることを覚えているかもしれない。


作中での〈アバディーン〉という地名に対する書きぶりは、例えばこうだ。

ジョージィは映画に心を奪われていた、ニッケルオデオンの映画をこよなく愛していた。戦争が終わってアバディーンに復員すると、いまさらながらその町の死んだような活気のなさをまのあたりにして、カリフォルニアに行こうとジョージィはわたしを口説いた――サイレント映画の仕事をやりたいと言うんだ。ついては、わたしが一緒に行って舵を取ってやらんことには、彼一人では手も足も出ない、で、わたしはアバディーンの町を見渡し、そこには最低の人生しかないことを見定めて、ジョージィに言ったわけだよ。『そうだ、ジョージィ、めざすはカリフォルニアだ。おれたちは金持になれるかもしれない。それに、もしなれなくても、一年じゅう陽光さんさんたる地でくたばるのなら本望じゃないか』 ジェイムズ・エルロイ.ブラック・ダリア(文春文庫)(p.231).文藝春秋.Kindle版.

一読してわかるように、あまり好意的な評ではない。というかむしろ”最低”だと明言されている。アバディーン生まれの人間にしか許されないようなレベルの貶め方だ。あたかもアバディーンではなく、せめてエディンバラにさえ生まれていればこのような人生を送っていなかったのに、とでも言わんばかりの書きぶりである。 確かにそこは薄暗く、灰色の石でできた建物が有名で、冬は6時間しか太陽が地平線より上に出ない港湾都市だった。住民の趣味は散歩しか無いかもしれず、ひどい寒さで妹が中耳炎になった記憶さえある。


ハロウィーンには仮装をした、(当時の自分より年上の)少年たちが玄関口に現れてこう言う。「トリック・オア・トリート」。クリスマスには七面鳥をオーブンで丸焼きにし、クリスマスカードが暖炉のすぐ傍でディスプレイされている。テレビでサッカー、ワールドカップの予選を点けると、そこにはスコットランドが敗退する場面が映っている。ネス湖は海竜がいるはずもない小さな池のようなもので、半壊の古城が何か言いたげに残っているだけだ。そこで買ったネッシーのぬいぐるみを抱いて寝ながら、暗くなった部屋のどこかにいる幽霊に怯えていた。


そこはいわば記憶にかすかに残った異国の風景であり、第二の故郷、別の人生、ある一つの原風景だといえる。


スコットランドは古城が有名なので、ある古城の一室をツアーガイドに案内される様子がホームビデオの切れ端のように、脳内にこびりついている。そこがいつ、どこの記憶で、前後の脈絡がどうだったのか何も残ってはいない。


そこで自分は学校に通っており、弁当にポテトチップスを持ってくることがそれほど珍しくないということに驚いていた記憶がある。一方、給食ではぞっとするほどまずいゼリーを食べさせられた。


もはや断片的な記憶でしかないものを小説に、例えばホラーに生かせないかと思うクリスマスの夜だった。