アラン・ムーア『Providence』#3 “A Lurking Fear"
アラン・ムーア『プロビデンス』の日本語訳が出たので、かつて原書で読んで2話までレビューしたあと放置していたことを思い出した。
『プロビデンス』は本編の漫画パートが終わった後に主人公が心情を吐露する日記パートや、何らかの資料の断片が各話ごとにあって、その多くが筆記体の英語で書かれているという難点があった。
原書で読んだときにこの筆記体のパートを読むのが辛くて、読んだはいいものの中途半端な形でしか理解できなかったので感想ブログも続かなかったわけである。
もともとアメコミの大文字オンリーの英文すら読みづらいと感じていたのに(読みづらくないですか?)、筆記体パートの読解まで必要になってしまいちょっと心が折れてしまった。情けない話である。
今回は筆記体パートが日本語に訳されていると言うことで、当初よりも内容をよく理解することができた。
- さらに主人公の日記では、漫画パートでは明らかにされていない本音や省略された出来事について書かれていることが分かり、漫画パートだけで読み切ろうとしていた当時なぜ苦戦したのかがよくわかったのである。
実際には、各話の間には(主人公が会社を辞めるなどの)重要な事実が省略されており、漫画パートではそれらに断片的・間接的にしか触れられていなかったし、また取材パートでは相手に失礼にならないよう当たり障りのないことを口にしていた主人公が、実は内心では様々な本音を隠していたことがこの日記パートでわかるのだ。
3話タイトルは「潜み棲む恐怖(原題:A LURKING FEAR)」。一話は「冷気」、2話は「レッド・フックの恐怖」がそれぞれ元ネタだけど、3話は「インスマウスの影」が元ネタになる。なのにタイトルは「潜み棲む恐怖」。確かにあれも地下室が出てくるし、人類の退化というモチーフで「インスマウスの影」と響きあっているとは言えそうだけど。
ただ元ネタの方は"THE LURKING FEAR"なので、『プロビデンス』では定冠詞ではなくなっている、という違いがある。
「冷気」も「レッド・フックの恐怖」もラヴクラフトの中では比較的マイナーな作品なので(少なくともラヴクラフト未読の人にとって有名なタイトルではない)、著名な「インスマウスの影」を元ネタにした本作からようやくラヴクラフトっぽいと感じる人もいるのかもしれない。
魚面の人々が住んでいる地域に、主人公であるロバート・ブラックが取材のためにやってくるという話。宿泊するホテルの受付で名乗る際、管理人から、実は綴りを聞き間違えてロバート・ブロックだと思っていたというセリフが出てくるんだけど、1話の感想でも触れたようにラヴクラフトにはロバート・ブロックという知り合いがいて、その名前を引っ掛けてますよというくすぐりみたいなものだろうか。
前回第2話でロバート・ブラックは、サイダムの家の地下に降りたものの、そこでガス漏れが起きていたので昏倒してしまいサイダムらに発見されるという顛末を迎えた。その気絶している間に見た夢として、サイダムの家の地下には巨大な洞窟空間あって、ブラックはそこでリリスという女の悪魔に追いかけられた、という現実認識してるわけだ。(しかし読者にとっては、最後のコマで顔を獣に爪で引き裂かれたような古傷のある人物の顔が大写しになり、それがリリスによる傷ではないかという疑いを投げかけられている)
今回ブラックは覚醒した状態で地下を見に行き、そこにはサイダムの家でみた悪夢に出てきたものとそっくりの地下空間があるわけで、いよいよ夢だと思っていたものが現実化していくという段階に入る。ホラー展開の階梯を上がり、理性的な誤魔化しが効きづらくなってくるのだ。
そしてホテルに帰ったブラックが見る夢には、本作よりも未来の時点で起きる悲劇、つまりナチスドイツによるユダヤ人虐殺を示唆するイメージが明確に書きこまれている。(鍵十字のマーク、2話のガス漏れ、ブラックがユダヤ人であること、同性愛者であることなども繋がってくる)
様々な人物を順番に訪ね歩き、次第にそれらの間にある繋がりが見えてくるというあたり、基本的に本作は探偵小説の構造を取っている。ただし、その繋がり・陰謀自体が、西洋の近代的理性には統合し切れない地下水脈的な思想・文化の束であり、このあたりは『フロム・ヘル』などと同様の趣向を思わせる。
- 一方で、(1)ブラックの見る幻視(未来の予見)、(2)ラヴクラフト世界でみられる不気味な出来事がブラックとすれ違っていく、という要素も同時並行的に語られる。