長谷敏司『My Humanity』

※ネタバレしまくりなので読了後に読むことをオススメします。というか読んでいることを前提にして書いています。


My Humanity (ハヤカワ文庫JA)

My Humanity (ハヤカワ文庫JA)

長谷敏司という作家の志の高さに頭が下がる短編集。
それにしても、自身の技術を常に練磨するだけの動機を持っている作家を追いかけるのは楽しいことだ。
それぞれ一読しかしていないので、粗い読みであることをどうかお許しください。

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・「地には豊穣」ITPというガジェットが『あなたのための物語』と同じ。ちなみに、僕を含め『伊藤計劃トリビュート』の執筆者の一部はこのITPというガジェットの便利さにかなり苦しめられていた。乱暴にまとめると、ITPの基準言語が英語なので、ITPが流通することによって英語圏以外の文化が磨り潰されて消えてしまうという危機感を題材にしたもの。なんとなく、就活に適した個性を皆が獲得しようとして本来の自分を押し潰し、アイデンティティの危機に合う状況を連想した。何を読んでも就活のことを思い出す……就活生の性なのか……。ただ、個人の意識の変容というのはイーガンの短編で散々見られた構造なのでイマイチ目新しさは感じない。だからダメというわけでもないが、後半の、SFガジェットを挿入した結果が社会規模で返ってくる作品の方が複雑で楽しかった。ちなみに京大SF研の会誌、長谷敏司特集号にて伴名練さんが少しだけレビューしているので気になっていた作品。

・「allo,toi,toi」既読のため今回はスルー。

・「Hollow Vison」液体コンピューターを盗んだ海賊とエージェントの追いかけっこ。『BEATLESS』と共通したガジェットが出て来る。先端ガジェットと、それを利用して作られるシチュエーションが楽しい。自由の功罪にも触れている。自由を追求する者の利己心によって抑圧される人間の存在。富裕層の不死者がのさばる未来というのは、高齢化社会のメタファーにも見える。社会を回す現役世代よりも、一抜けした世代が多くなり、社会の在り方がおかしくなっていくというのは現在進行形の恐怖なので、素直にゾッとした。液体ドレスが素敵。それを剥がれて裸になった美女が、広大な宇宙空間を漂う光景が美しい。デブリが散乱する光景も、皆が『ゼロ・グラビティ』を見た現在だとその記憶を利用可能なので、画作りとしては使いやすくなったのかなと思う。AIが発達し過ぎて人類に残された余地がないという点では伊藤計劃の小説群や『ブラインドサイト』を思い出す。


・「父たちの時間」傑作だと思う。放射能を遮断するナノロボット《クラウズ》の暴走と、元妻との家庭問題に悩まされ続ける孤独な科学者の戦い。以下、少し長文になるので切り離す。


・特撮怪獣映画
 平成ガメラシリーズは「実際に怪獣が出たら人類はどうするか」というリアリティを特撮怪獣映画に持ち込んだことで、初代『ゴジラ』が本質的には戦争映画であったことを思い出させる作品群だったが、本作はその方向性を保ちつつ、ぐっとハードSFに寄せた、リアルな特撮怪獣映画の面白さを持っているように見える。実際に最後は怪獣も出てくるし、そもそも「原子力を契機に誕生した生物」、「海面から突き出した珊瑚のようなもの」とくればもう、ゴジラを意識していないわけはない。長谷さんは『BEATLESS』のスノウドロップ戦でも特撮怪獣映画的なシチュエーションを書いていたが、あの時も「制御不能になった科学技術」と「怪獣」を重ねあわせていたのだろうか。ただ、先述した通りハードSF寄りのアプローチなので当然、怪獣が単純に襲ってくるわけでもなく、したがって矢面に立たされるのは自衛隊ではなく、一介の科学者である。それでも初代『ゴジラ』が芹沢博士の孤独な戦いだったことを考えると、やっぱり怪獣ものの最先端を切り開きつつも、初代『ゴジラ』への目配せを忘れていないことが分かる。古典への目配せなどどうでもいいという人は多いだろうが、作者がちゃんと仕込んでいる以上、ちゃんと拾いたい。

・群れの論理に振り落とされた個体
 生物学方面の掘り下げが多く、《クラウズ》とヒトの生物としての在り方を両方書いている。ここは上手く整理出来ていないのであまり筆が進まないのだが、とりあえず書いてみよう。まず本作において、《クラウズ》もヒトも機械であるという体で書かれている。生物という機械。そこには群れの論理というものがあり、主人公はそこに参加することが出来ていない。「恐怖する大衆」という群れの論理にも科学者として迎合出来ず、元妻とはディスコミュニケーションばかりで「家族」という群れの論理にも参加出来ず、唯一の心のよりどころである仕事は生物の繁栄という観点からすれば、「無駄な時間」なのである。仕事自体は先述した通り、地球の危機に立ち向かうということで群れの論理にかなった立派な職務のように見えるが、極めて合理的に、着実に進化し続ける《クラウズ》に対して有効な手を打てているという実感はゼロである。さらに言えば、彼は仕事においても、政治という群れの論理に足を引っ張られ、思うような舵取りが出来ないし、理不尽な大衆の批判にも晒される。むしろ、そんな苦労もなく己の役目を機械的にこなしている《クラウズ》を羨んでいるような箇所もある。その時の《クラウズ》にはまだ性差も無いわけだし、ヒトほど個体差も無いからこそ、そのように単純に機能していられるわけだが、一見機械とは真反対に見えるヒトの行動も結局、個体差が大きくなったせいで群れから振り落とされた個体にとってはそう見えるだけという話だという相対化はもちろん作品の範疇である。また、作品には書かれていないものの、テレビ報道で答弁に答える科学者をよってたかって断罪する光景というのは、かつての処刑が民衆の娯楽であったことを思わせて何とも言えない。自然に立ち向かう科学者が巫女の末裔なら、あれは人柱の末裔だよねえ……。
 まあ、つまるところ、彼は群れから落っこちた個体で、それゆえに、生物としての、生物機械としての存在意義を得られず、孤独を味わっている。
 自分が全体の一部になれなくて苦悩するなんて、ロマン主義から随分遠いところにまで来たのだなあと思ってしまう。

・そして再び群れの論理へ
 そんな彼が群れの論理を取り戻していく過程が描かれ、そこに今まで抑えられていた感傷がせきを切ったように溢れ出すのがこの小説のクライマックスに当たる。先述した三つの群れの論理……つまり「恐怖する大衆」であること、「家族」であること、そして無駄でしかない「父たちの時間」の回復。主人公は子供と会うことで「家族」という群れの論理を取り戻し、その子供の余命を冷酷にも突きつけられることで、理不尽な恐怖を科学者にぶつけざるを得ない「恐怖する大衆」という群れの論理を取り戻し、そして最後、オスとして性愛行動の一つであるアピールを行う《多重クラウズ構造体》を見ることで、あんなにも完璧な機械に見えた《クラウズ》の中にも己と同じ様に無駄な「父たちの時間」を過ごすしかない個体がいて、大宇宙の前に平等であるということに涙する。

・オスの存在意義。
 存在する必要がなくなったオスの焦りと孤独という点では、庄司創の「三文未来の家庭訪問」も思い出す。本作の主人公は最後、群れに取り込まれる安心感を少し得ることに成功したのだが、しかしなんて哀れなんだろう。生物として生きる意味を与えられる個体とそうでない個体のばらつきが大きいという意味で、オスはメスよりも悲しい生き物だね、ということを再確認し、一人のオスであり、群れの論理からどうも爪弾きにされたらしい自分としては暗澹たる思いである。そうしているとどうも最後に、「元妻」という表記と「曜子」という表記にちゃんと意味があったことを思い出して、ここに大事なものがあると自分に言い聞かせてみる。
 さあ個人を尊重しつつ、群れに参加しよう。