円城塔『バナナ剥きには最適の日々』

 円城塔の新刊。というか文庫落ち
 読解する能力や知識がそもそも足りない気がするけど、その上、今は時間的余裕すらないので印象だけとりあえずメモを書いておく。


「パラダイス行」Aがあるためには、反Aが必要だとか、反AがないせいでAがあることができるとか、そういう感じの話だった気がする。

「バナナ剥きには最適の日々」多分、この短編集で一番読みやすい(そのことを指摘する意義がどれくらいあるのかは知らない)。バナナ星人の話はきのこたけのこ戦争みたい。

「祖母の記録」円城塔は『NOVA10』に収録された短編で、蓮實重彦の「映画は見つめ合う瞳を同時に捉えられない」という言葉を引用していたと思うけど、ある時期から映像の形式的側面に言及することが増えたように思う。植物状態(?)の祖父だって、動かして撮影し、編集さえすれば自動車並みの速度で疾走するスーパーマンにすることも出来る。人間の機械性についての話?

「AUTOMATICA」心なしか気合が入っていて、こちらも背筋が伸びる。文章の自動生成についての考察。「安直な例」としてボルヘスの「バベルの図書館」が引用されており、ボルヘスの発展を含んでいるのだと思う。「ボルヘスは完成し鑑賞されるだけの工芸品ではなく、そこから先への発展へと開かれている入口である」と円城塔は『本の雑誌 おすすめ文庫王国2013』において書いているが、これはその実践だろう。

「equal」CDのブックレットに収録されていたらしい。また体力のある時に挑戦したい。

「捧ぐ緑」ゾウリムシに短期記憶があるとかいう実験の話を聞いた覚えがあるけど、SFではゾウリムシの魂や輪廻に関心を持つ研究者が現れる。それとも実在するのか。

「Jail Over」既読のはず。今後も繰り返し読んで咀嚼していくだろうと予想される。かもしれない。

「墓石に、と彼女は言う」キリギリス。

「エデン逆行」既読のはず。こうして短編集に並べられると「パラダイス行」に戻るようにも思える。

コルタサル・パス」“叙述設定”を中心に、「未来のお話を現在の言葉で書く」というSF小説が抱える語りの構造的な問題への配慮がなされているし、お話の体裁もあって、この短編集では一番小説の慣習に従っているように見える。そういう意味では「バナナ剥きには最適の日々」よりも読みやすいかもしれない。内容は……twitterで初心者にフォローされたかと思ったらbotだったという出来事が、そう珍しくなくなっている身からすればもう現在の話を未来に挿げ替えたSFとして読めるし、興味深い。


 円城塔は怒っていると感じることが増えた。「分からないけど面白い」とあれだけ言われ続けると怒っても仕方がないのでは、とも思う。むしろ、彼は自分がやっていること、考えていることが本を読んだり書いたりする上で、中心ではないにしろ、当たり前のレベルになって欲しいと思っているんじゃないだろうか。というか作家ならそう思うのが普通だよなあ。

 円城塔の作品のある種のエモさ、感傷的な感じというのは何なのだろうと考えることがある。自分もたまに小説を書くことがあるので、その立場から推測すれとなればひとまず、「エモくすれば、とりあえず人は作品への興味を持続してくれる」、「エモくすれば、とりあえずお話が終わる」というところだろうか。なんというか後者は自分にとって根深い問題で、「何で結末部はいつもいつもエモくしなければいけないのだろう」と思いつつ、いつもそうしている。勿論、シーンの切り方は色んなバリエーションを思いつくのだけれど、ストーリーの終わりとなると何故か感傷的な態度を要請されているような気がしてしまう。それは自分が未熟なだけなのだろうけど。

 そうだとすれば、円城塔もまたそこを己の未熟と感じているのだろうか。京フェス福永信と対談した時は、未熟かどうかはともかく、そこが自分の作品の弱点だと言っていた覚えがある。福永信はそうは思っていないという趣旨の返しをしたような気もするが、もう覚えていない。


※付記(3/23)

「祖母の記録」についての文章で、円城塔蓮實重彦の一文を引用していた短編の収録元を思い出したので、加筆しておいた。