雑多に見るということ


 dビデオというスマホ向けの定額動画配信サービスをここのところ利用している。見慣れたハリウッドの大ヒット映画や代わり映えのしない名作棚ばかりで退屈かもしれないと怖れていたのだが、どういう訳かエリック・ロメールの遺作『アストレとセラドン 我が至上の愛』がぬけぬけと並んでいたり、ヒッチコックのサイレント作品がやたらと充実していたりして、油断ならない。

 ここのところ時間とお金の限界で、偶然になにかを見るといった行為から遠のいていた身としては結構これがありがたいサービスのようにも思えるのだ。ただ時間を潰すために映画館に立ち寄ってみたり、偶然テレビをつけたところで放送されていた映画を途中から見るといったことをせずに、入念に選んだ映画のみを厳選して劇場に駆けつけ、あるいはレンタルショップで長時間悩んだ末にえいやと2、3本選んだソフトを家でこそこそ見る、といったルーチンと先入観に支配された映画鑑賞にどっぷり浸かっていたことの愚かさを思い知らされた。映画史や作家への知識が増すことで確かに時間当たりの効率は良くなっているのだが、映画体験そのものがまるごと退屈になってしまっているような倦怠感がここしばらく離れなかった。それがdビデオによって僅かながら、豊かさと自由を取り戻したような気がする。気がするだけかもしれないが。

 思えば自分にとって原初的な映画体験は、週に二度訪れる隣町の祖母宅で見るWOWOWだった。その映画体験はもちろん映画史や作家への知識とは無縁な行為であり、ただそこに暇な時間が横たわっており、目前にはとりあえず何か面白そうなものが映っているWOWOWという放送枠があり、それゆえに映画を見るといった贅沢なものだった。その過程でわたしはスピルバーグを発見し、ゼメキスを発見し、ジョー・ジョンストンに興奮し、黒沢清に出会い、ゴジラを見て、ウルトラマンを見て、いつの間にか20歳を超えた。劇場で見たことのある映画タイトルを挙げれば自分は間違いなくゼロ年代の申し子に他ならないのだが、WOWOWを通じて80年代も90年代も知ることができた。もしかするとそれは大層贅沢なことかもしれず、そのことによってわたしは自分の倍以上の年齢のオタク第一世代の人々と会話できるのかもしれないが、絶えず己が偽物であるという自覚がついてまわるのだ。

 わたしの偽物ぶりはそれなりに堂に入っている。まるで小さい頃からホークスやらジョン・フォードやらヒッチコックやらを嗜んでいたようなフリをしているが、全くの大嘘である。わたしは30年代や50年代のアメリカ映画は愚か、80年代のアメリカ映画にすら間に合っていないからだ。
 ターミネーターに劇場で出会ったのは『ターミネーター3』にまで遅れ、ジュラシック・パークは『ジュラシック・パークⅢ』しか劇場で見たことがない。
 往年のファンからしてみれば、『ターミネーター3』や『ジュラシック・パークⅢ』といった代物はただ前作や前々作が大ヒットしたから作られただけのニセモノに他ならないのだろう。それを示すかのように、監督だって違うのだし。
 しかしわたしはこの両作が大好きであり、わたしにとってターミネータージュラシック・パークと言えばこの両作のことだ。
 にも関わらず、あたかも『ターミネーター2』や『ジュラシック・パーク』に間に合ったかのように振る舞うことで何か「映画ファン」や「シネフィル」といったサークルの仲間入りを果たしたかのような嘘を自分にさえ錯覚させていた。
 だがそろそろ、そういう虚しい振る舞いはやめよう。自分が何か劇的な歴史に立ち会った生き証人であるかのような振る舞いはやめよう。そもそも、ウォシャウスキー兄弟にすら『マトリックス リローデッド』にようやく間に合ったところであり、初めて劇場で見たクリント・イーストウッドが『インビクタクス』であるという徹底した遅れっぷり、間に合ってないという事実がはっきり残ってしまっている。唯一誇れるのは、スピルバーグの『宇宙戦争』を劇場で見て、そのあまりの恐怖に、まるで作中のダコタ・ファニングのように瞳を覆おうかと思ったところでこれがウェルズの『宇宙戦争』の映画化だと思い出すことでようやく安心して画面を見つめることが出来た、という体験をしたということくらいだろうか。

 偽物であるがゆえに、わたしの祖母のような人間に嫉妬せざるを得ない。

 わたしの祖母は間違いなくある種の映画狂いである。確かに映画史的教養からも、映画に対する明晰な知性からも無縁だが、起きている時間のほとんどを映画やドラマに投資しているというだけあって、ジョン・フォードの話も、ヒッチコックの話も、パッと振ってパッと反応が返ってくる。「ジョン・フォードはどうだ」と言えば「オスカーを最も沢山受賞した人だ」と返ってきて(それが正確な事実だったかどうかは知らないが)、さらに「そういえば『駅馬車』は面白かった」と付け加えてくるし、『知りすぎた男』を一緒にだらだらと眺めながら、「ここが好きなんだ」とか「この人があとで酷い目にあってね」等という風に喋ることが出来る。そうして祖母と喋っている瞬間というのは自分にとって物凄く幸福な時間である。幸福と断ずるにいささかの躊躇もいらない。物量が必ずしも面白い人間を生むわけでないことは確かだが、しかし物量を享受できる環境自体は面白いのだし、貴重だ。

 そうして話を戻すと、わたしにとって緩やかに流れる無駄な時間というものを享受することがどんどん難しくなっている。訳もなく放送されている映画を見ることもなく、事前に監督やタイトルを厳選し、「見るべきリスト」の消化に忙しくてままならない。かといって趣向を変えて未公開映画の山や大作映画の群れを見ることにしても、そこには結局なんの驚きもない。プログラムピクチャーを延々見ていると気が狂いそうになる。実生活でもTODOリストに時間を裁断され、効率的に時間を使えという貧乏性に追い立てられ、わたしの時間はどんどん貧しくなっている。人はわたしを見て「なんと悠然とした自由人か」と驚くことがあるが、そのように見えるわたしでさえ、時間の効率化から逃れられていないことをどうか知って欲しい。時間と金と命は無駄遣いする瞬間にもっとも輝くと信じて他ならないこのわたしが、訳もない焦燥感に駆り立てられていて、大いなる時間の無駄遣いに躊躇うようになっているのだ。

 だからこそ映画体験からも驚きが乏しくなり、いつの間にか何だか決まりきった計画の一部として映画を見ているような倦怠感に呪われて久しい。これはよくある教養主義的身振りとして、「義務として映画を見る」という行為にまとわりつく倦怠感ではない。わたしは楽しいから、面白そうだから映画を見る。だのに映画鑑賞に憑りついて離れないこの倦怠感は何なのだ?
 この程度だろうと思っている映画が、概ねその程度であるということを細々と確認していく虚しさ。他人に気を遣って、映画の面白さには色々あるという常識を踏まえてから自分が楽しめたわけではない映画の構造を抜き出して言葉にすることの虚しさ。

 「これは傑作だ」そんなこと書いてどうなるというのか。

 「○○は××のマクガフィンである」そんなこと書いて何になる。

 「本作のマリリン・モンローは映画的狂人である」そんなこと書いて面白いか?

 モダンな映画の知的な戦略をいちいち指摘して、どう面白いのか。映画の無意識について見抜くために仕入れた知識と経験と観察眼が、今や映画を分類し分節することにしか役立っていないことに軽い絶望を覚える。

 映画の知性を褒めることが耐えがたい。設計を、構造を、戦略を、褒めることが耐え難い。そんな誰にでも言語化できるものを言葉にする作業の耐え難い苦痛を耐えるのにも飽きた。
 映画とは、ぼんやりとテレビを眺めているところに予想できないタイミングで出現し、わたしたちの瞳を襲撃し、あっという間に過去へと消えてしまうような、そんな得体のしれないものではなかったのか。
 あるいはこういう文体や問題意識さえ80年代に終わったもので、自分がまたしても偽物なのに本物のフリをしてうだうだ悩んでいるだけかもしれないが、自分としては出来ればそうであって欲しいものだ。社会人になればなお一層この傾向は強まるのだろうと考えると憂鬱になるしかない。

 未熟なわたしには映画の無意識を言語に出来るような能力がない。攻撃的なパンチラインを並べるだけの精神的防御力もない。こうして散文に身をゆだねることで何かしらが生まれることを祈っては、ブログを更新するだけだ。

 それに比べると小説を書くことはなんて面白いのだろうか。小説を書くという行為の中には、まだまだわたしの理性が制御できないようなカオスが満ちており、わたしはそれに驚き、楽しむことができる。そうであるとすれば案外、この映画についての倦怠感というのは、他ならぬわたしが一度映画を撮ることでしか突破できないような何かなのかもしれない、とまで考えて思い直す。

 小説を書くことが面白くとも小説を読むことまで面白いかと問われれば少し疑問があり、とすれば映画を撮ることを面白がれたとしても映画を見ることまで面白くなるのだと期待するのは間違っているんじゃないのか。