ケリー・リンク「いくつかのゾンビ不測事態対応策」


最近ゾンビについて書いていたので、ふとケリー・リンクの「いくつかのゾンビ不測事態対応策」を再読してみた。

相変わらずよく分からない話だ。

ソープという刑務所帰りの男が、とあるパーティにひっそりと侵入して、カーリーという女の子と話す。カーリーはソープがどうして刑務所に入ったのかを訊きたがるけど、ソープはそれになかなか答えようとしない。基本的に、二人の会話シーンと、ソープについての話が交互にカットバックされるつくりになっている。時折、それとは別のスクリプトが差し込まれているけど、なんというか本筋であるソープの話がどのような意味を持っているのかをほんのりと指し示しているようなのである。

なんとなく読み取れるのは、登場人物が何かしらの鬱屈を抱えていて、死にたい/ここではないどこかへ行きたいと望んでいることだろうか。でもソープもカーリーもそういうことを直接語ることはあまりない。ソープはゾンビとか芸術とか氷山とか石鹸とか、そういうことについてばかり考えている。ソープは本当の名前じゃない。ソープはどうして刑務所に入ることになったのかについての話を引き延ばそうとする。カーリーは両親が自分と弟を放って旅行に出かけてしまったことを、最初は自分ではない別の子の話として語る。カーリーは合衆国大統領になりたいという夢について語る。

二人は、ゾンビについて話しつづけることによって、現実の問題を考えなくて済むようにしているのかもしれない。あるいは、一番話さなきゃならないことについて、話そうと思ってるのに、上手く切り出せなくて、全然関係がなくてどうでもいいことについて延々喋ってしまうようなことが日常にはよくある。しかも、そういう人生を賢く生きるためには不要な「全然関係がなくてどうでもいいこと」についてぼくらはとても詳しくなってしまい、それにのめり込んでしまうことがある。ひょっとすると人生そのものよりもずっと深くのめり込んでしまうことがある。これはつまりそういうことなのかもしれない。

ものすごくヘンテコで奇妙な小説が、他のどんなリアリズム小説よりもずっとずっとリアルな日常を扱っているということは少なくない。ぼくらはそれを読んで「リアルじゃない」と言いたくなるけど、実際は現実のほうがそれだけグニャグニャでヘンテコなのである。普通の小説(とは一体何なのだろう?)が理解しやすいのは、人生のハイライトだけを集めているからだ。不条理の代名詞たるカフカの小説がリアリズム小説として読めるように、ケリー・リンクの小説が一見して不条理で捉えがたいのも、それが不条理で捉えがたい我々の現実を捉えようとしていることが理由の一つだろうと思う。もちろんリンクの魅力はそれに留まらないわけだけど。


そもそも、小説の言葉というのは日常的なもので、あまり劇的なものを描写するのには向いていない。例えば、ドアを開けた瞬間に目の前にロボットがいて、そいつが機関銃を乱射してきた、といったような瞬間的、突発的、劇的なシーンを小説で書くのはとても難しい。これが映像だと楽ちんである。あるいは文学に限定するなら、劇的なものは詩や演劇の方がずっとやりやすい。

だから、理解しやすく劇的な小説というのは、多分ものすごく不自然な方法によって作られているのだろうと推測している。小説において自然に見えることが、実際的にはとても不自然な方法によって作られ、小説において奇妙に見えるようなことが、実際にはごくごく自然なやり方によって作られているのだと思う。