クリント・イーストウッド『アメリカン・スナイパー』(2014)/主観の向こう側へいく英雄

8か月前に書いた感想を今更ここに。
日陰で書いたものを日向に移していこうキャンペーン、その2。


◆総じて
ショットに目を見張るものはない映画である。まあ最近のイーストウッドはそういうとこで勝負する映画を撮らないけど。画面だけを見ても、他のイラク戦争映画とこれとを区別する印はない。ファーストショットからして既にショボい。嫌な予感がする。視覚的な設計として「おお!」と思わせられるのは、クライマックスの砂嵐に包まれた銃撃戦・撤退くらいだろうか。

だがまあ、素直な英雄譚というわけではない。


◆主題関係
ありきたりな発想だけど、この映画には「見ることの主観性」という主題があるように思った。

冒頭で少年を射殺するかどうかを悩むブラッドリー・クーパーが、判断を頼った本部から「君が判断しろ」と返されたことを思い出そう。少年がテロに加担しているのか、それとも無害な市民なのかを判断するのはブラッドリー・クーパーただ一人しかいないのだ。この時点でもうスナイパーが目にするものは基本的には主観であることが示されている。

ただ、この時点ではまだ、ブラッドリー・クーパーの見るものと、観客の見るものは共有されているように思う。そのおかげでこの冒頭のシーンは本作で最もスリリングで感情移入できる、普通のエンタメにおける「いいシーン」になっているように思える。

それが危うくなりはじめるのが、訓練のシーンで、ブラッドリー・クーパーが蛇を撃ち殺すところである。彼を指導する指揮官がそうであったように、蛇の存在を観客は目にすることができなかったはずだ。

そしてとうとう、ラストの敵スナイパーとの対決においては、観客においてさえ、向こう側にいる敵スナイパーの姿が豆粒のようにしか見えないのである。あれだけの超長距離の狙撃というのはカメラで演出できる距離を超えているために、どこか抽象的なシーンになってしまうのだなとも思った。

ただそう考えると、ブラッドリー・クーパーが射殺したのが本当にあの敵スナイパーであるということを証拠づけるための、あの射殺した瞬間のカットを入れるべきではなかったんじゃないだろうか。それまでの演出をすべてふいにしてしまうような悪手のように思えるのだが、一体イーストウッドは何を思ってあのカットを入れたんだろうか。それとも誰かに「入れろ」と言われたのかなー、などと色々と考えてしまうカットだった。あのCGで描写される弾道もなんなのだろうか。ショボ過ぎてなにか裏があるのではないかと思ってしまうくらいにショボかった。

それと、この射撃の直後にブラッドリー・クーパーが妻に電話して、「おれ辞めるよ」「うちに帰る」とか報告しているシーンはなんかヤバイよね。もう画面には砂嵐が立ち込めているし、なんか全然感動的じゃないし。ブラッドリー・クーパーめっちゃ虚ろだし。

それでまあ、敵スナイパー射殺のあとは、例の砂嵐下での撤退シーンである。ここにきて観客はとうとう、何も目にすることができなくなる。厳密に言うと、何も見えないわけではないが(あんなに視界不良なのに、アクションがきちんと繋がっているのは驚きだ)、まあ普通の映画の画面ではないことは確かだ。ともかく観客には何も見えなくなる。いわば映画の自殺とでも言いうる演出を見せつけられるわけだし、その砂嵐の中に狙撃銃とか、聖書とか、そういうブラッドリー・クーパーにとって大切だったものが置き去りにされるので、「ああ、とうとうこの英雄は画面の向こう側に行ってしまったのだなあ」と思うわけですよ。

都度4回イラクアメリカを往復する映画なので、扱ってる内容は違うけど『捜索者』みたいな帰郷の西部劇という感じがある(ていうか絶対にイーストウッドは意識している)。『捜索者』のリメイクとしてはスピルバーグの『宇宙戦争』のラストが割とそのまんまなんだけど、やっぱこの『アメリカン・スナイパー』も「家に帰れない」映画になっているもんなあ。

傷痍軍人と交流し、彼らの心を救うことでなんとか安らぎを得たかのように見えるスナイパーは妻から「元通りになってくれてよかった」と言われるまでに回復する(が、観客はあの砂嵐のシーンを見てしまっているために、まったくそのようには見えない)。

台所でカウボーイの真似事をして妻に拳銃を向けるシーン、めっちゃ怖いよね。


◆まとめ
こういう風に全体を解釈することができるので、分かりやすい作品だとは思う。映画として面白いのかと言われると、どうなんだろうという気もする。

ただまあ体験としては、あの砂嵐と、最後の葬式みたいなエンドロールに活力を奪い去られてしまったので、一応これを見る観客にそれなりの影響や効果を与える映画ではあるよなーと思うのであった。